枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

いみじう暑きころ

 めちゃくちゃ暑い時季、夕涼み!っていう時間帯には物の様子なんかもはっきりわからないんだけど、男車が先払いをするのは言うまでもなく、フツーの人でも後ろの簾(すだれ)を上げて、二人でも一人でも乗って走らせて行くのは涼しそうだわ。ましてや琵琶をかき鳴らし、笛の音なんかが聴こえてきたのが、通り過ぎて行ってしまうのは悔しいの。そんな時に、牛の鞦(しりがい)の香りがやっぱ変で、嗅いだことのない匂いだったんだけど、いい感じに思えたのって、頭おかしいよね。
 すごく暗い闇夜に、前に灯した松明(たいまつ)の煙の香りが、車の中に漂ってるのもいい感じ。


----------訳者の戯言---------

男車というのは、男性仕様車のことと思われます。レディス・エディションではないということですね。だったら普通の車です。ただ、先払いのスタッフを付けて車を行かせること自体そこそこの身分の男性ですから、まあそういうことを言いたいだけなのでしょうね、例によって。

鞦(しりがい/尻繋)というのは、牛の胸から尻にかけて取り付け、車の轅 (ながえ)を固定させる紐というか、皮革製のものだと思います。革の匂いですか、どんな匂いがしたのでしょうか。

めちゃ暑い季節の牛車。もちろんエアコンの無い時代ですから、いろいろあります。今の車は開きませんが、リアウインドが開いてたんですね。当たり前か。で、車で琵琶弾いたり笛吹いたりしてたんですね。優雅というか、まあ、今これやったら近所迷惑で通報されます。
笛、特に横笛という楽器は携行できる楽器として認められてたようです。モバイルですね。詳しくは「笛は」をご参照ください。車では琵琶まで弾いたんですね。琵琶については「弾くものは」にも書きましたが、やはり弾くものの筆頭が琵琶でした。

松明には文字どおり松脂(まつやに)とか、松の木の樹脂の多いところとかが使われたんですね。松脂は燃えやすいですから。
松脂は滑り止めにすることでも知られていますね。ピッチャーがマウンドでポンポンするやつとか、器械体操とか。バレエのシューズにもつけるらしいですね。こうした滑り止め用のの松脂は純度が低いのであまり匂いはなさそうですが。バイオリンとかチェロとかの擦弦楽器の弓に塗るのが松脂だということもよく知られていますが、あの固形のやつは純度も高そうです。それでも匂いの強いのとあまり無いのがありますね。どういうことなのでしょう??

松明を燃やした煙の匂いは知りませんが、たしかに匂いのあるものは結構強い匂いです。私はそれほど気にはなりませんけど。でも香料にもするらしいですから、それほど悪いものでははないように思います。

相変わらず身分が高いとか低いとか、いちいち鼻につくんですよね、清少納言って。


【原文】

 いみじう暑きころ、夕涼みといふほど、物のさまなどもおぼめかしきに、男車の前駆(さき)追ふはいふべきにもあらず、ただの人も後(しり)の簾(すだれ)あげて、二人も、一人も、乗りて走らせ行くこそ涼しげなれ。まして、琵琶掻い調べ、笛の音など聞こえたるは、過ぎて往ぬるも口惜し。さやうなるは、牛の鞦(しりがい)の香の、なほあやしう、嗅ぎ知らぬものなれど、をかしきこそもの狂ほしけれ。

 いと暗う、闇なるに、前(さき)にともしたる松の煙の香の、車のうちにかかへたるもをかし。

 

 

五月ばかりなどに山里にありく

 五月の頃なんかに山里を歩くのはすごくおもしろいの。草の葉も水もすごく青く、あたり一面に見えてて、上の方はさりげなく草が生い茂ってる、長く続いてる道をまっすぐに行ったら、下は何とも言えない水が、深くはないんだけど、お供の人が歩いて行ったら水しぶきがはね上がるのって、すごくおもしろいの。

 左右にある垣根の枝なんかが、車の屋形とかに入ってくるのを急いで捕まえて折ろうとするんだけど、すっと過ぎて逃しちゃうのがすごく悔しいのよね。蓬の車に押しつぶされたのが、車輪が回ったら近くにきてひっかかるのもいい感じだわ。


----------訳者の戯言---------

旧暦5月というと、おおよそ梅雨時です。山里の野原に出ていったら、みたいな話です。垣があると書いてますから、人家か寺社などはあったのでしょうか。

何とも言えない水。何やねんそれ!とツッコミたくなる水です。まじ、どんな水なのでしょうか。何も言えねーと言ったのは北島康介ですが、あの感じでしょうか。金メダル的な。
草の下のほうに水が溜まっているのは、水はけが悪いのか、それとも雨が降りすぎたのか、それでもイヤな湿地の感じではないですね。さわやかな良い感じです。
山里というと、どちらかといえば都の北部、北東部のようなイメージ。前の段で出てきた紫野や平野などをはじめとする洛北の風景なのかもしれません。

この段は、梅雨の合間のちょっとしたお出かけ、という感じでしょうか。
5月のお出かけといえば、以前、「五月の御精進のほど①」という大作がありました。みなさまご記憶にありますでしょうか。雨模様でヒマなのでほととぎすを聴きに行って、知り合いの伯父さんのとこに行って御馳走になったり、卯の花の枝を車に挿しまくって走ってたら…みたいな、なんか30過ぎの女子がそんなにはしゃいでいいの?という段でしたね。もしよろしければ、読み返してごらんください。


【原文】

 五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし。草葉も水もいと青く見えわたりたるに、上はつれなくて草生ひ茂りたるを、ながながとたたざまに行けば、下はえならざりける水の、深くはあらねど、人などのあゆむに走りあがりたる、いとをかし。

 左右(ひだりみぎ)にある垣にあるものの枝などの、車の屋形などにさし入るを、急ぎてとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いと口惜しけれ。蓬の、車に押しひしがれたりけるが、輪の回りたるに、近ううちかかりたるもをかし。

 

 

祭のかへさ、いとをかし③ ~わたり果てぬる~

 斎院へのお帰りの一行が通り過ぎた後すぐは気持ちも乱れちゃって、我も我もと、危なくって怖ろしいくらい先に行こうって急いでるの、それを(お供の者たちは)「そんなに急がないで」って扇を差し出してガードするんだけど、聞き入れないもんだから、どうしようもなくって、ちょっと広いところで無理に止めさせて停車したのを、じれったくて憎ったらしい、と彼らは思ってるようだけどね、後ろに並んでる車をチェックする分にはおもしろいの!

 男車で誰のものかは知らないけど、後ろに続いてくるのも、全然何もないよりはおもしろくって、分かれ道に来て、「峰にわかるる」って言ったのもいかしてるわよね。

 それでもやっぱり興味が収まらなくって、斎院の鳥居のところまで行って行列を見る時もあったのよ。

 内侍の車なんかが通ったらすごく騒がしいから、別の道から帰ってたら、本物の山里っぽくなってきてしみじみ風情があって。卯木(うつぎ)の垣根、っていうのが、すごく荒々しくて大げさに突き出してる枝なんかもいっぱいあるんだけど、花はまだちゃんとは開いてなくて、蕾が多めに見える枝を折らせて車のあちこちに挿したのも、蔓なんかがしぼんじゃったのが悔しかったから、よかった!って思ったの。
 とても狭くて、通れなさそうに見える行き先なんだけど、ずんずん近づいて行ったら、そうでもなかったのはおもしろいものだわ。


----------訳者の戯言---------

男車って何ぞ?と一瞬思いましたが、当時も仕様が違ってたんでしょう。外装とかでわかったのだと思います。階級とかもだいたいわかったみたいですし、しかも特に女性は一部の上流階級しか使わないですからね。おそらく女性仕様車のほうが珍しかったのではないかという気がします。今で言うと、女性仕様車的なクルマ、パッソとかラパンの感じかもしれません。


引き別るる所。分かれ道です。そこに差しかかったところで、「峰にわかるる」と、後ろの車の男性が言ったらしいです。元ネタは万葉集にもある壬生忠岑の和歌の一部分だったようですね。

風吹けば峰にわかるる白雲の たえてつれなき君が心か
(風が吹いたら峰のところで分かれていく白い雲みたいに、すっかり途絶えてしまって、つれないあなたの心なんだよね)

清少納言ですから、それがなかなかいかしてるじゃない、ということなのでしょうね。いつものパターンです。
ちなみに後の時代ですが、かの藤原定家がこのような↓歌を詠んでいます。

春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空
(春の夜の夢、そう、浮橋のようなはかない夢から目が覚めたら、峰のところで横雲が左右に別れて流れていく空が見えたんだよね)

これ、まさに壬生忠岑へのオマージュ、本歌取りというやつでしょう。

分かれ道というと、英語ではcrossroadsでしょうか。となると、クリームのかっこいい曲ですね、エリック・クラプトンで有名です。元々はロバート・ジョンソンというブルースシンガーのカバーでした。で、ミスチルにもCROSS ROADという曲がありましたけど、全然別の歌ですが、これなどは壬生忠岑と定家っていう感じですか。ちょっと違いますね。
と、こんなことを書いている今日、エディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなりました。ヴァン・ヘイレンが影響された唯一のギタリストはクリーム時代のクラプトンらしいです。で、エクストリームのヌーノベッテンコートはそのヴァン・ヘイレンを敬愛してたらしいです。すごい、ネ申レベルの繋がりですね。

逸れました。
内侍の車と出てきます。内侍司の女性スタッフで、内侍とだけ書く場合は、概ね掌侍(ないしのじょう/内侍典)のことを指すようですね。
内侍については、よろしければ「女は」をお読みいただくと、詳しく書いてます。
人気があったのか、混雑するんですね、内侍の車のあたりは。


卯木(うつぎ)の垣根。空木ととも書くらしいですが、卯の花です。ちょうど卯の花の咲く頃なんでしょう。
すぐ前の記事②で「卯の花の垣根近うおぼえて、ほととぎすもかげに隠れぬべくぞ見ゆるかし(まるで卯の花の垣根みたいに思えて、郭公(ほととぎす)もその陰に隠れてしまいそうにも見えちゃうの)」と出てきました。

卯の花の垣根には「ほととぎす」が似合っているようで、というか、季節、棲息場所がマッチしているんですね。
「夏は来ぬ」という、これは近代、明治時代の唱歌ですが、「卯の花のにおう垣根に ほととぎす早もき鳴きて 忍び音もらす 夏は来ぬ」というのがあることからもわかります。


さて「祭のかへさ」です。つまり、祭のあった上賀茂神社から斎院への斎王の帰路、その行列の見物なんですね。
Googleマップで確認すると、斎院のあったとされる紫野は北区だと思っていたのですが、跡地と言われている櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)は今の上京区にあります。昔は区なんか関係ないですからね。北区からちょっと上京区に入ったところです。
で、上賀茂神社を出て、現在の御薗橋あたりから知足院(現・常徳寺)~雲林院を経て斎院(現・櫟谷七野神社)というルートは、まさに紫野を縦断するような行程であったことがわかります。地図で見る限り、おそらく歩くと1時間ぐらい。車だと20分ほどかかるのでは、というところらしいです。今は住宅街ですからね。自転車がいちばん早いかもしれません。
ちょっと道を外れると当時は山里の雰囲気もある野原だったのでしょう。

ま、賀茂祭葵祭の翌日、オーセンティックな祭礼に対して、ちょっとアンチなパレードと、周辺で経験するハプニングを描く、という段でしたね。
特にオチはありません。


【原文】

 わたり果てぬる、すなはちは心地も惑ふらむ、我も我もと危ふく恐ろしきまで前(さき)に立たむと急ぐを、「かくな急ぎそ」と扇をさし出でて制するに、聞きも入れねば、わりなきに、少しひろき所にて強ひてとどめさせて立てる、心もとなく憎しとぞ思ひたるべきに、ひかへたる車どもを見やりたるこそをかしけれ。

 男車の誰(たれ)とも知らぬが後(しり)に引きつづきて来るも、ただなるよりはをかしきに、引き別るる所にて、「峰にわかるる」と言ひたるもをかし。なほあかずをかしければ、斎院の鳥居のもとまで行きて見るをりもあり。

 内侍の車などのいとさわがしければ、異方(ことかた)の道より帰れば、まことの山里めきてあはれなるに、卯つ木垣根といふものの、いとあらあらしくおどろおどろしげに、さし出でたる枝どもなどおほかるに、花はまだよくも開けはてず、つぼみたるがちに見ゆるを折らせて、車のこなたかなたにさしたるも、蔓などのしぼみたるが口惜しきに、をかしうおぼゆ。いとせばう、えも通るまじう見ゆる行く先を、近う行きもて行けば、さしもあらざりけることをかしけれ。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

 

 

祭のかへさ、いとをかし② ~いつしかと待つに~

 いつなんだろう?って待ってたら、御社の方から赤衣(あかぎぬ)を着た者たちが連れ立ってやって来たから、「どうなってるの? 準備はOKなの?」って言ったら、「まだっすよ、いつのことだかなぁ」なんて答えて、御輿なんかを持ってくの。斎王があの御輿にお乗りになるのかな?って想像したら、すばらしく高貴で気高く思えて、なんであんな身分の低い者なんかがお側近くにお仕えしてるのかしら?って、コワイ気がするわ。

 アイツら、まだまだ遥か先のことみたいに言ってたけど、間もなく斎王は斎院にお帰りになったのよね。女房の扇をはじめとして、青朽葉の着物が、すごくいい感じに見えてね、蔵人所のスタッフが青色の上着に白襲(しらがさね)の裾をほんの少し帯にかけてるのは、まるで卯の花の垣根みたいに思えて、郭公(ほととぎす)もその陰に隠れてしまいそうにも見えちゃうの。
 昨日は車一台に大勢乗って、二藍の袍、それに同じ色の指貫をはいて、もしくは、狩衣なんかをルーズに着て、簾(すだれ)を外しちゃって、頭おかしんじゃね?っていうぐらいにさえ見えた若君たちが、斎院の宴のお相伴役にっていうから正式の束帯をきちんとつけて、今日は一人ずつ寂しい感じで乗ってる後部座席にカワイイっぽい殿上童を乗せてるのもいかしてるのよね。


----------訳者の戯言---------

赤衣(あかぎぬ)というのは、赤い狩衣です。検非違使という治安維持担当の下級役人が警護の時に着ていた服のようですね。
しかし、相変わらず身分の低い人たちに対して完全に上からです、清少納言中宮に仕えてるかどうか知りませんけど、そういう態度よろしくないですよ。

袍(ほう/うへのきぬ)は上着的なもの。白襲(しらがさね)はシャツ的なものです。

垣下(えが)というのは、斎院の饗宴のお相手役だそうです。
殿上童というのは、10歳くらいから清涼殿の殿上の間に出入りを許された身分の高い朝臣の家の子弟のことを言うそうですね。

ええとこのボンボンたちが、昨日は車に乗ってイエ~イ的にはしゃいでたのに、今日は斎院の格調高い晩餐会に呼ばれたっていうんで、正装してシュンとしてるっていうことですかね。


この部分は、行列の様子を描写している感じでもありますね。専門家の方やファンの方は、情景模写が映像的で優れているとか、色彩感覚が瑞々しく…とか言われるのでしょうけど、私は身分の低い者に対するヘイトと、身分の高いボンボンたちへの寛容さの対比が凄まじいと思いましたね。
よく言うでしょ、足を踏まれてるものは痛いけど、踏んでる方はなーんとも思ってない、ってね。無自覚は悪ですよ。
③に続きます。


【原文】

 いつしかと待つに、御社の方より赤衣うち着たる者どもなどのつれだちて来るを、「いかにぞ。事なりぬや」といへば、「まだ、無期(むご)」などいらへ、御輿など持て帰る。かれに奉りておはしますらむもめでたく、け高く、いかでさる下衆などの近く候ふにかとぞ、おそろしき。

 遥かげに言ひつれど、ほどなく還らせ給ふ。扇よりはじめ、青朽葉どものいとをかしう見ゆるに、所の衆の、青色に白襲をけしきばかり引きかけたるは、卯の花の垣根近うおぼえて、ほととぎすもかげに隠れぬべくぞ見ゆるかし。

 昨日は車一つにあまた乗りて、二藍の同じ指貫、あるは狩衣など乱れて、簾解きおろし、もの狂ほしきまで見えし君達の、斎院の垣にとて、日の装束うるはしうして、今日は一人づつさうざうしく乗りたる後(しり)に、をかしげなる殿上童乗せたるもをかし。

 

枕草子 いとめでたし!

枕草子 いとめでたし!

 

 

祭のかへさ、いとをかし①

 賀茂祭の(斎王の)お帰りの行列はすごくいい感じなの。昨日は全部が全部きちんとしてて、一条の大通りが広くてキレイにされてたんだけど、日差しが熱くて車に射し込んでくるのも眩しいから、扇で顔を覆って、座り直したりして、長時間待ってるんだけど辛くって、汗なんかもダラダラかいてたけどね。今日はめちゃくちゃ早く急いで出てきて、雲林院とか知足院とかのところに停めてる車から葵や蔓(かづら)なんかがなびいて見えるの。

 太陽は昇って来たけど空は相変わらず曇っててね、どうしたって絶対、何をしてても聴きたいもんだわ!!って、目を覚まして起きたままで鳴くのを待ってた郭公(ほととぎす)が、こんないっぱいいるの???って鳴き声を響かせてるのは、すごくすばらしいって思うんだけど、鶯(うぐいす)の年老いた声でそれに似せようと一生懸命に合わせてるのも、憎ったらしいけど、またおもしろいものでもあるわね。


----------訳者の戯言---------

「かへさ」というのは「帰り道」ということなんですが、賀茂祭の翌日、斎王 (斎皇女/いつきのみこ/さいおう) が上賀茂神社から紫野(今の京都市北区)の斎院に帰る行列のことを「祭の帰さ」と言ったんですね。ですが斎院というものは今は残ってません。なお、紫野は現在の北区から上京区に亘る野であったため斎院の跡地は現在の上京区になります。


雲林院というのは、大徳寺塔頭(たっちゅう)だといいますから、つまり大徳寺ファミリーのお寺の一つです。大徳寺はあの一休宗純、とんちで有名な一休さんが再興したという臨済宗のお寺なんですね。ま、あのとんち話は後世に作られたものなのでどうでもいいんですが、実際の一休宗純は破天荒で痛快、権力に阿(おも)ねることもなかった人で、私はかなり好きです。能筆家でもあり詩人としても有名。そういう人なので庶民の人気もあったから、ああいう「一休さん」の話ができたわけですけどね。
大徳寺はおおよそ室町時代以降のお寺ですから、枕草子の時代にはまだありません。ずっとずっと後にできた臨済宗のお寺です。
雲林院とはあまり関係ない話をしてしまいました。
雲林院自体は元々は天台宗のお寺だったらしいです。場所は北区でも船岡山の近く、ほぼ北大路沿いにあります。

知足院は今はありません。跡地に別のお寺で、常徳寺というのがあります。北山通り沿いですから、雲林院からはかなり北になりますね。昔は、紫野は野原で狩猟地、別荘地でもありましたから、寺院やお屋敷がぽつぽつとあった感じかもしれません。雲林院とはチャリで10分ほどの距離らしいですから、もしかするとちょっと動けば見通せる範囲かもしれませんね。


郭公(ほととぎす)に対する評価がやたら高いです。
鳴き声がいいっていうんですね。たしかに戦国武将の「鳴かぬなら~」からもわかるとおり、ホトトギスの鳴き声は一般に好まれてます。ただ、鶯もなかなかいいと思いますよ。ウグイス嬢って言いますものね。ただ、ホーホケキョと鳴くのはオスだけですから、ウグイス嬢っていうのもなんだかなーとちょっと思います。あの鳴き声はメスへの求愛です。

このウグイス、「鳥は」という段で清少納言が、そもそも鳴き声も姿も良すぎて、すばらしい扱いをされてるもんだから、期待感高すぎて、実際そうでもなかったらdisられがちー、みたいなこと書いてます。たしかにハードル上がりすぎてる感はありますね。

この段ではウグイスがホトトギスを真似て鳴こうとしてるっていうんですが、それは気のせいだと思いますよ。んなわけない。しかも年老いた声って。調べてみましたが、ウグイスがモノマネをするというという科学的根拠はありません。カケスやモズはよくものまねをするらしいですが。

逆に。
ホトトギスは主にウグイスの巣に卵を産込み、ヒナを育ててもらいます。そのため、ウグイスが生息している場所に渡来するんですね。ますますウグイスが不憫になってきました。

ちなみに先にも紹介した「鳥は」の段でも、「祭の帰さ」の時の似たようなシチュエーションが描かれています。ウグイスについてはちょっとニュアンスの違う書き方をしていますね。
「祭のかへさ見るとて、雲林院、知足院などの前に車を立てたれば、郭公(ほととぎす)も忍ばぬにやあらむ、鳴くに、いとようまねび似せて、木高き木どもの中に、もろ声に鳴きたるこそ、さすがにをかしけれ」
賀茂祭葵祭)の斎王のお帰りの行列を見ようと、雲林院や知足院の前に車を停めてたら、郭公(ホトトギス)も、もはや隠れてられないかのように鳴くんだけど、それを鴬がすごく上手く真似て、小高い木の茂みの中で声を揃えて鳴くのは、さすがに素晴らしいわよね)

けっこう褒めてます。


【原文】

 祭のかへさ、いとをかし。昨日はよろづのうるはしくして、一条の大路の広う清げなるに、日の影も暑く、車にさし入りたるもまばゆければ、扇して隠し、居なほり、久しく待つも苦しく、汗などもあえしを、今日はいととく急ぎ出でて、雲林院、知足院などのもとに立てる車ども、葵・蔓(かづら)どももうちなびきて見ゆる。

 日は出でたれども、空はなほうち曇りたるに、いみじう、いかで聞かむと、目をさまし起きゐて待たるる郭公の、あまたさへあるにやと鳴き響かすは、いみじうめでたしと思ふに、鶯の老いたる声して彼に似せむと、ををしううち添へたるこそ、憎けれどまたをかしけれ。

 

学びを深めるヒントシリーズ 枕草子

学びを深めるヒントシリーズ 枕草子

 

 

行幸にならぶものは何にかはあらむ

 行幸に匹敵するものって何があるっていうワケ? 御輿にお乗りになるのを拝見したら、普段御前にお仕え申し上げてるとは思われず、神々しくて、気品があって、すごく素晴らしくて、いつもなら何とも思わないナントカ司や、姫もうちぎみでさえ、高貴で珍しい存在に思えるわ。御綱(みつな)の次官(すけ)の中将や少将は、すごく素敵なの!
 近衛の大将は、ほかの誰よりも特別に立派だわ。近衛府の人々はやっぱりとてもいい感じなのよ。

 五月の行幸は、この世で見たことがないくらい優雅だったらしいわ。だけど、今ではすっかり無くなっちゃったみたいだから、すごく残念。昔話に人が話すのを聞いていろいろ想像するんだけど、実際はどうだったんでしょ? ただその日は菖蒲(しょうぶ)を葺いて、いつもの様子であっても素晴らしいのに、会場の武徳殿の様子は、あちこちの桟敷に菖蒲を葺きわたして、参列の人はみんな菖蒲鬘(かづら)をさして、あやめの女蔵人からルックスのいい人だけを選び出され、薬玉をお与えになったら、頂いた人は拝舞して腰につけたりしたのは、どんなに素晴らしかったでしょう??

 「夷の家移り」で艾(よもぎ)の矢とかを射たのは、おマヌケだけどおもしろくも思えるわね。お帰りになる御輿の先に、獅子や狛犬に扮した舞人が舞って。ああ、そんなこともあるのかしら? ほととぎすが鳴いて、季節からして、比べるものなんてない素晴らしさだったことでしょう!

 行幸は素晴らしいものだけど、若君たちの車なんかが、感じよく、あふれるほど乗せて、都を北や南に走らせたりするのがないのは残念。そんな感じの車が、他の車を押し分けて車をとめるのは、(どんな人が乗ってるのかしら?って)心がときめくものなんだけどね!


----------訳者の戯言---------

姫まうち君。「姫もうちぎみ」です。それ何?と思いますが、「姫大夫(ひめもうちぎみ)」と書きます。「東豎子(あずまわらわ/東嬬)」という下級女官のことなんだそうですね。帝の行幸の際には、この東豎子2名が男性官人の服装をして参列してたらしいです。このため「男装の女官」とも言われるとか。
以前、「えせものの所得る折」という段でも書いていますので、ぜひお読みください。

御綱の助(御綱の次官/みつなのすけ)というのは、行幸のとき、鳳輦 (ほうれん) の綱を持つ役。鳳輦というのは、屋形の上に金銅の鳳凰 (ほうおう) を飾った輿(こし)です。多くの場合、近衛府の中将や少将が当たったらしいですね。


五月の節句には菖蒲を屋根に葺いたらしいです。時々、五月=端午の節会(節句)、菖蒲の節句のことが出てきますね。清少納言的にはこのイベントがどうも好きらしいです。詳しくは「節は五月にしく月はなし」もご覧ください。

当時、この端午の節会の時、内裏では殿内に菖蒲を飾り、帝は菖蒲鬘(あやめのかづら)を冠に付けて武徳殿に行幸されたようですね。お供の者もそれぞれ菖蒲鬘を付けて参上したらしいです。
で、何で武徳殿かというと、宮中の年中行事として、五月五、六日に衛府や馬寮の官人によって武徳殿の馬場で騎射とか競馬が開催されたようなので、それを観覧に行ったのでしょう。

菖蒲鬘(あやめかづら/あやめのかづら/しょうぶかづら)というのは、菖蒲(ショウブ)で作った頭に付ける飾りなんですが、この節会に、邪気を払うものとして、男性は冠に、女性は髪に直接挿したらしいんですね。
さて、ここで。
「あやめ」と「菖蒲」は本来違うものなのですが、どうも、これ、ごっちゃになってます。現代のほうがごっちゃ度が高いと思いますが、昔から菖蒲(しょうぶ)を「あやめ」と言ったりはしてたようですね。逆にあやめ的な花を、花菖蒲と言ったりもしますし。

特に、あやめの蔵人(菖蒲の蔵人)というのは、平安時代、この端午の節会に、糸所から献上されたショウブやヨモギなどの薬玉(くすだま)を、親王や公卿をはじめ臣下に分けて配る女蔵人(にょくろうど)のことだそうです。
薬玉(くすだま)っていうのは、この五月の節句に、邪気をはらうため御帳の柱やカーテンにかけた玉。麝香(じゃこう)とかの香料を錦の袋に入れて、ショウブとかヨモギなんかで飾って、五色の糸を垂らしたものらしいですね。で、これをつくっていたのが、中務省 (なかつかさしょう) の縫殿寮 (ぬいどのりょう) に属してる糸所(いとどころ)という役所でした。本来、糸所の主な仕事は糸を紡ぐことであり、多くの女官が働いていたらしいです。


「拝す」というのは「拝舞する」ということらしい。で、拝舞って何?? これはですね、「謝意を表して左右左(さゆうさ)を行う礼である。 唐の礼法をまねたものである」とのことです、まあ、そういうしぐさをして上の人とかに感謝したんですね。何か、大げさでイヤですね。


原文で「ゑいのすいゑうつりよきも」と出てきています。これはいろいろ調べたんですが、どうも謎らしい。もちろん全てを当たったわけではないんですが、どの本にも、ネットでも、不詳とされていて、おそらくこうではないか?という説しか見当たりませんでした。
その説によると「ゑいのすいゑうつりよきも」は「えびすのいへうつりよもぎ」の誤写ではないかとして、「夷の家移り」という異国のゲームで「ヨモギの矢を打つ」ということがあった、とするのが、有力とされています。
今回の私の訳では、この「夷の家移り」に依りました。


行幸、最高!サイコー!!って言ってます、清少納言。特に、かつてあったという、昔話に聞く端午の節句の時の行幸よね。という話です。
けれど、昔の話を持ってくるというのはルール違反というか、紅白歌合戦で数十年前のヒット曲を歌う、みたいな感じがしますね。浜崎あゆみがMを歌う、みたいなね。いや、いいんですけど、ちょっとダサいかなと。あのドラマみたいに「ダサ面白い」を狙ってるんでしょうか。


【原文】

 行幸にならぶものは何にかはあらむ。御輿(こし)に奉るを見奉るには、明暮御前に候ひつかうまつるともおぼえず、神々しく、いつくしう、いみじう、常は何とも見えぬなにつかさ、姫まうち君さへぞ、やむごとなくめづらしくおぼゆるや。御綱の助の中・少将、いとをかし。

 近衛の大将、ものよりことにめでたし。近衛司(づかさ)こそなほいとをかしけれ。

 五月こそ世に知らずなまめかしきものなりけれ。されど、この世に絶えにたることなめれば、いと口惜し。昔語に人のいふを聞き、思ひあはするに、げにいかなりけむ。ただその日は菖蒲(さうぶ)うち葺き、世の常のありさまだにめでたきをも、殿のありさま、所々の御桟敷どもに菖蒲葺きわたし、よろづの人ども菖蒲鬘(かづら)して、あやめの蔵人、形よき限り選りて出だされて、薬玉たまはすれば、拝して腰につけなどしけむほど、いかなりけむ。

 ゑいのすいゑうつりよきもなどうちむこそ、をこにもをかしうもおぼゆれ。還らせ給ふ御輿のさきに、獅子・狛犬など舞ひ、あはれさることのあらむ、ほととぎすうち鳴き、頃のほどさへ似るものなかりけむかし。

 行幸はめでたきものの、君達、車などの好ましう乗りこぼれて、上下(かみしも)走らせなどするがなきぞ口惜しき。さやうなる車のおしわけて立ちなどするこそ、心ときめきはすれ。

 

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

  • 発売日: 2015/03/17
  • メディア: 単行本
 

 

賀茂の臨時の祭

 賀茂の臨時の祭は、空が曇って寒そうでいて、雪が少し舞い散ってて、挿頭(かざし)の花や青摺りの衣なんかにかかってるのが、言葉では言い表せないくらい素敵なの。太刀の鞘(さや)がくっきりと黒くて、まだら模様で幅広に見えたんだけど、半臂(はんぴ)の緒が、磨いて艶を出してる感じで掛かってるのとか、地摺の袴の中から氷かと思って、びっくりするくらいの打目の模様なんかが見えたの、すべてがすごく素晴らしいのよ。もう少したくさんの行列に通ってほしいんだけど、祭の使いは必ずしも身分の高い人じゃなく、受領なんかの場合は見る気もしなくて、憎ったらしいくらいだけど、挿頭の藤の花に顔が隠れてるってところはおもしろいわね。でもやっぱり通り過ぎてったほうを見送ったら、陪従(べいじゅう)で品のない人が、柳襲の衣に挿頭の山吹、っていうのはバランスが悪いわって思うんだけど、馬の泥障をとても高く打ち鳴らして「神の社のゆふだすき~」って歌うのは、すごくいかしてるのよね。


----------訳者の戯言---------

賀茂神社の臨時の祭は、毎年旧暦11月、下(しも)の酉(とり)の日に行われます。十一月というと現代の暦では11月の終わり頃から1月の初め頃。概ね12月あたりですから、雪が舞うこともあるでしょう。


挿頭(かざし)。神事の時に草木の花や枝などを髪に挿したそうで、その飾り?みたいなもののことを挿頭と言ったようです。

青摺りというのは、祭礼で東 (あずま) 遊びの舞を奉納する舞人の着用する装束です。
麻に白粉を張って、山藍の葉で小草・桜・柳・山鳥などの紋様を青く摺り付けたといいますから、当時のプリント生地ですね。で、肩に赤い紐を垂らしたそうです。

また、青摺りのことを小忌衣(おみごろも)とも言ったそうで、大嘗祭(だいじようさい)、新嘗祭など、祭礼に際して、小忌の官人が装束の上に着ました。「おみのころも」とか「おみ」とも言うようです。


半臂(はんぴ)というのは、袍(ほう/うへのきぬ=上着)と下襲 (したがさね) との間に着る袖のない短い衣です。ベスト的なものでしょうか。これを着て結ぶ帯を小紐 (こひも)、さらに左脇に垂らす飾り紐を忘れ緒 (お) と言うらしいです。ここで出てきた「緒」というのは、この忘れ緒のことのようです。

瑩(よう)ずというのは、布とかを貝で磨いて光沢を出すことを言うらしいです。なぜ貝で磨く?というか、布を磨くって何? 聞いたことがありません。靴とかガラスとか金属とかは磨きますけどね。あと例えですけど、腕を磨くとか、女を磨くとか。と思って調べたら、紙や布などを摩擦して、つやを出すための貝がらを瑩(瑩貝)と言ったらしいです。金属・竹などで作ったものも、磨くやつは瑩らしい。案外適当です。
「白瑩(しろみがき)」という布もあったようで、瑩貝(ようがい)で磨いて光沢を出したものなのだそうですね。


地摺というのは、生地(きじ)に摺文様を施した布帛のこと。これも一種のプリントなのでしょう。

打目というのは、絹を砧で打ったときに生じる光沢の模様のことだそうです。先に、「絹織物を貝で磨く」という話がありましたが、さらに布を叩くという蛮行に及んでいます日本人。生乾きの状態で布をたたいて柔らかくしたりツヤを出したりしたそうですね。
砧というと、世田谷の砧です。高級住宅街ですね。元々農村地帯で砧を打ってた地域だったらしいのでこの地名なんだそうですよ。けど、今は小田急沿線で成城にも隣接する超高級住宅街。めちゃくちゃおしゃれな店もいっぱいあります。砧公園があるし、田園風景も残っているので、緑が多くて人気があるようですね。不動産屋さんかよ。


清少納言は受領を見下しているようですね。地方の国司長官か次官ですからそこそこの地位があって、蓄財もできるポジションですけど、中央の国家機関にはいないということで軽視してたのでしょう。
受領について詳しくは「受領は」「若き人、ちごどもなどは」に書いていますので、ご覧ください。

陪従(べいじゅう/ばいじゅう)。賀茂、石清水、春日の祭などで、神前で行われる東遊(あずまあそび)の舞で、舞人に従って管弦や歌を演奏する地下(じげ)の楽人のことです。

柳=柳襲。襲(かさね)の色目の名前です。表は白、裏は青。現代の柳重ねは表地に淡青、裏地にも淡青、で柳の若葉の重なりを表しています。ま、淡いグリーン系の色と考えていいと思います。

泥障(あおり/あふり)というのは、鞍の四方手(しおで)というところ、ハーネスみたいな部分に結び付けて、鞍の下に挟んで馬腹の両脇を覆って、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐものだそうです。毛皮や皮革製だとか。「障泥」と字を逆転して書くこともあるようですね。
これを高く打ち鳴らして歌ったのでしょうか。馬がかわいそうです。清少納言はそうは思わなかったようで。

「神の社のゆふだすき」という歌はなく、「賀茂の社」とする歌は古今集にあります。清少納言が間違ったのでしょうか。

ちはやぶる 賀茂の社の ゆふだすき ひと日も君を かけぬ日はなし

賀茂神社の神官達は木綿襷をかけて神に仕えてるけど…私はただの一日たりとも、あなたに想いをかけない日はありませんよ)

木綿(ゆう)とは、楮(こうぞ)のことであり、それを原料とした布のことを言います。コットン、木綿(もめん)のことではないんですね。ややっこしいですが、同字(異音)異義です。神事には、木綿鬘(ゆうかずら)を冠に懸け、木綿襷(ゆうだすき)というものを襷に使用するようです。ただ、すべてが楮製というわけではなく、麻を使ったものも「木綿(ゆう)」と呼ぶらしいですね。
襷(たすき)をかける、と、想いをかける、かける違いなんやけどねー、でも毎日想いをかけてるんよねー、という趣旨の歌です。


賀茂の臨時祭は、今はもうやってないんですね。応仁の乱でいったん途絶えて、数百年経って、江戸時代、1814年に光格天皇が復興したんですが、明治維新の東京遷都で無くなりました。葵祭のように復活も果たされなかったということです。
ただ、例祭、賀茂祭葵祭がずっと連綿と続いてるかというと、そうでもないようで、やはり室町時代に衰微して応仁の乱で途絶、元禄時代に復興、明治維新でまたもや途絶し、明治時代中期に復活、第二次世界大戦で中止され、行列が復活したのは昭和28年なのだそうです。あ、今年もコロナで中止になりましたね。

というわけで、賀茂の臨時の祭、いいわ~という段です。例によって、やはり身分の低い受領とか楽人とかは見下してます。舞人はそうでもないみたいですね。


【原文】

 賀茂の臨時の祭、空の曇り寒げなるに、雪少しうち散りて、挿頭の花、青摺(あをずり)などにかかりたる、えも言はずをかし。太刀の鞘(さや)のきはやかに、黒うまだらにて、ひろう見えたるに、半臂(はんぴ)の緒(を)の瑩(えう)したるやうにかかりたる、地摺の袴のなかより、氷かとおどろくばかりなる打目など、すべていとめでたし。今少しおほくわたらせまほしきに、使は必ずよき人ならず、受領などなるは目もとまらず憎げなるも、藤の花に隠れたるほどはをかし。なほ過ぎぬる方を見送るに、陪従(べいじゆう)のしなおくれたる、柳に挿頭の山吹わりなく見ゆれど、泥障(あふり)いと高ううち鳴らして、「神の社のゆふだすき」と歌ひたるは、いとをかし。

 

枕草子

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  • 作者:清少 納言
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