枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

五月の御精進のほど①

 五月の御精進の時、(定子さまが職の御曹司にいらっしゃった頃のことだったんだけど)塗籠の前の二間の所を特別に飾りつけたら、いつもと違って素敵な感じなの。

 一日(朔日/ついたち)から雨模様で、曇りの日も続いてて。何もやることがなくって退屈なもんだから、「ほととぎすの声を探しに行きましょう」って言ったら、「私も私も」って、みんな出かけることに。賀茂の向こうの方に、ナントカ崎?って言ったかな、七夕の渡る橋じゃなくって、ヤな感じの名前で評判なんだけど…「あの辺りでほととぎすが鳴くんだ」って誰か言ったら、「それは、蜩(ひぐらし)ですわ」って言う人もいるの。「そこへ!」ってことで、5日の朝に中宮職のスタッフに牛車を頼んで、北の陣から「五月雨だと濡れても叱られないからね」って、建物のすぐ横まで車を寄せて、4人ほど乗ってお出かけ! すると、他の子たちがうらやましがって、「もう1台、車を同じように」なんて言うんだけど、「だめですよ」って定子さまがおっしゃってね。こっちはスルーして情けもかけない感じで行ったら、馬場っていう所で人が大勢で騒いでるの。「どうしたんですか?」って訊ねたら、「射術演習で弓を射るんです。しばらくご覧になっていらっしゃってください」と言って、車を止めたのね。「左近の中将、他みなさんがお着きになりました」って言うんだけど、そんな人は見えないの。六位の役人なんかがうろうろしてるから、「興味ないわ。早く行って」と言ってどんどん進んで行くのよ。道中も、(賀茂)祭の頃が思い出されておもしろいわ。


----------訳者の戯言---------

五月の御精進。「さつきのみそうじ」と読みます。陰暦5月に行う精進潔斎とのこと。肉食を断ち、行いを慎んで身を清めることを「精進」と言ったようです。

職におはしますころ。これまでにも何回か出てきましたから、「職の御曹司」に中宮定子が滞在していた頃のことですね。「職の御曹司におはします頃、木立など」の段の「訳者の戯言」にやや詳しく書いていますのでご覧ください。

塗籠(ぬりごめ)とは、土などを厚く塗り込んだ壁で囲まれた部屋のこと。初期の寝殿造りでは寝室として使われたそうです。

七夕の渡る橋というのは、「鵲(かささぎ)の橋」ですね。「ナントカ埼」みたいな感じもある地名ですから、「かささき」的なところなんでしょうか。「かささぎの橋」といえば、大伴家持の「鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける」ですが、もう少し詳しくは「橋は」の段に書きましたのでよろしければお読みくださいね。

原文の「手結(てつがい)」は、射術を競う朝廷の年中行事である射礼(じゃらい)、賭射(のりゆみ)、騎射(うまゆみ)の前に行う武芸演習のこと、だそうです。

この段もそこそこ長いので、5~6回に分けて読み進めるつもりです。ご了承ください。

先にも書きましたが、今回も職の御曹司にいたころの逸話なのだと思います。これまでの「職の御曹司」モノから考えると、やはり楽しかったころの思い出話になるのでしょうね。今回は夏前の梅雨時のお話でしょうか。清少納言が提案して、ちょっとしたお出かけ。今で言うと、ドライブに行きました的な話ですね。
さて、どんな話になるのでしょうか。
②に続きます。


下記、コメント欄への記載内容を本文に転載(追記)しています。19.12.3

ある京都在住の方に、賀茂の奥にある嫌な感じの名前の場所に心当たりはないか尋ねたところ、「ナントカ埼」ではないんですが、「柊野別れ(ひらぎのわかれ)」というネガティブな印象の地名があると伺いました。

調べてみたところ、上賀茂神社の北西、京都産業大学より少し南に、西(左手)に行けば雲ケ畑方面、東(右手)に行けば貴船方面へと分岐している「柊野別れ」という三叉路がたしかにあります。

そして、ネットで調べると、この「柊野別れ」については、次のような逸話が語られていることもわかりました。

その昔、ここより北、京都産業大学の辺りに処刑場があり、そこで処刑される罪人を見送りにきた家族とは、この「柊野」の分かれ道で文字通り永遠の別れをしなければならなかったそう。このため、いつしかここを「柊野別れ」と呼ぶようになったのだ、と。

しかし、さらに調べていると、この辺りに刑場があったという歴史的な記録は一切ないんですね。つまり、作り話が口コミで伝わり、都市伝説になった類なのでしょう。私は、京産大生か立命あたりの学生が、「別れ」という地名にからめて、半ばおもしろがって言ったのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

「別れ」というのは「分かれ道」「分岐点」そのもののことで、単純に「柊野」エリアの分岐点を指したというのが正解な気がします。昔は文字にそれほど頓着しませんでしたからね。
そもそも上賀茂神社から北、貴船までのエリアは上賀茂神社が直轄する領地だったそうです。上賀茂神社というと、京都でいちばん古い神社であるだけでなく、御所を鎮護する神社とされていました。賀茂祭葵祭)も勅祭であったそうです。つまり、天皇家から最も崇敬されていた存在なのですね。そのような場所を処刑場にするという発想が出て来るでしょうか。ありえませんね。

というわけで、ちょっとしたことでも調べてみると、おもしろい話が出てくるものだと再認識しました。世にまことしやかに語られることも、案外違っていたりするんですね。私もものごとの真贋を見分けられるように、いっそう精進したいものです。


【原文】

 五月の御精進のほど、職におはしますころ、塗籠(ぬりごめ)の前の二間なる所を、ことにしつらひたれば、例様ならぬもをかし。

 一日(ついたち)より雨がちに、曇り過ぐす。つれづれなるを、「ほととぎすの声たづねに行かばや」と言ふを、我も我もと出で立つ。賀茂の奥に、何さきとかや、七夕の渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞えし、「そのわたりになむ、ほととぎす鳴く」と人の言へば、「それは蜩(ひぐらし)なり」といふ人もあり。「そこへ」とて、五日のあしたに、宮司に車の案内言ひて、北の陣より、「五月雨は、とがめなきものぞ」とて、さしよせて、四人ばかりぞ乗りていく。うらやましがりて、「なほ今一つして、同じくは」などいへど、「まな」と仰せらるれば、聞き入れず、情なきさまにて行くに、馬場(むまば)といふ所にて、人多くて騒ぐ。「何するぞ」と問へば、「手結(てつがひ)にて、真弓射るなり。しばし御覧じておはしませ」とて、車とどめたり。「左近の中将、みな着き給ふ」といへど、さる人も見えず。六位など、立ちさまよへば、「ゆかしからぬことぞ。はやく過ぎよ」といひて、行きもて行く。道も、祭の頃思ひ出でられてをかし。

 

枕草子―能因本 (原文&現代語訳シリーズ)

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