枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。

清涼殿の丑寅の隅の② ~陪膳つかうまつる人の~

 給仕係が蔵人たちを呼ぶ前に、帝がこちらにお越しになりました。そこで定子様が「硯の墨をすって!」とおっしゃるんだけど、私の視線はあらぬ方、ただ帝がいらっしゃるお姿だけを見てたら、あやうく(墨ばさみの)継ぎ目が外れて落としそうになって。

 そんな時、定子様が白い色紙を折りたたんで「これにたった今思い浮かんだ古い歌を一つずつ書いてね」っておっしゃるの。で、外にいらっしゃる伊周様に「これはどうしたものでしょう?」と申したら、「早くお書きになってください。男が口を出すべきではございませんから」って、紙を差し戻されるんです。

 中宮様、硯を私のほうにお渡しになって「早く早く! シンプルに、考えすぎなくっていいですから。『難波津』でも何でも、ふと思いついたのを!」って責め立てられたものだから、私としたことがどうしてそんなに気後れしちゃったんでしょ!?? 顔真っ赤になって頭も大混乱。で、春の歌や花に動かされる心など、って、そう言いながらも、上のほうの女房たちが二つか三つほど書いて、私にも「ここに」って渡されたもんだから、

年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし
(年を重ねて老けちゃったけど、桜の花を見ていると、そんなに思い悩むこともありません)

という和歌の、「花をし見れば」のとこを「君をし見れば」って書き変えたのね。で、中宮様がそれをお見比べになって、「ただ、その歌の心もちを知りたかったんです」とおっしゃって、そのついでに「円融院の時代に『草子に歌を一つ書いてみ』って院が殿上人におっしゃったんだけど、みんなすごく書き辛かったので、ご辞退される人が何人もいらしたの、で、『別にさー、字の上手下手、歌が季節に合ってるかどうかとかも関係ないからー』っておっしゃったものだから、困惑しながらもみんなが書かれてた中で、今の関白殿(中宮・定子自身の父・藤原道隆)がまだ三位の中将だった時なんだけど、

潮の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが
(潮が満ちる 「いつもの浦」 ではないけど――いつもいつもあなたのことを深く思うのは私)

という歌の最後のところを(『思ふはやわが』でなく)『頼むはやわが(頼りにしてるのは私)』とお書きになったのを、すごくお褒めになったことがあるのね」なんておっしゃるもんだから、ただとにかく冷汗が出る思いがしちゃって。でも年齢の若い女房であれば、あんな風に書くことはできなかっただろうに、っては思うのよ。いつもはすごく上手く字を書く人だって、理屈に合わないことに気後れしてしまって、書き損じてしまったのでしょうよね。

 定子様は古今和歌集の冊子を前に置かれて、和歌の上の句をおっしゃって、「この歌の下の句は?」ってお聞きにもなるんだけど、まあ、とにかく、夜昼心にかけて覚えたのに、肝心のこんなところでスムーズに答えられないなんて、どういうわけなんでしょう!? (女房の中でも博識の)宰相の君は十首くらいはお答えになられたけど、それでも十分な数じゃないし。ましてや、5、6首の人は、ただ「覚えてない」って申し上げるべきなんだけど、「そんなに、そっけなく、中宮様がおっしゃったことをその甲斐もないように、ぱっとしない感じにしてしまっていいものかしら」って、残念がり悔しがる言い分も可笑しいのよね。下の句を知ってる、と申し上げる人がいない歌は、定子様がそのまま全部詠み上げて、目印にしおりをお挟みになったんだけど、「この歌は知っている歌だったのに。なんで、こんなに答えられないんだろう」って言って嘆いてるの。
中でも古今集をたくさん書き写してる人は、全部覚えてるべきことですよね。


----------訳者の戯言---------

短くなった墨を挟んで使う「墨ばさみ」っていう器具があったらしく、どうもそれが外れそうになったらしいです。天皇の前だとやはり緊張するんですね。

「難波津」つまり「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」というのは、まあ、誰でも知ってる歌なんでしょう。基本中の基本ということですわね。

円融天皇=円融院というのはここで登場する帝=一条天皇の父親なんですね。

で、この部分、やはり相変わらず中宮定子礼賛の文章となっています。
ただ、当たり前に考えると、いきなり、何を意図しているのかわからんようなことをやらせるし、クイズみたいなのもやるし。しかもそれが夫=帝が来た時におっ始めたワケで。いいのか??それは。

清少納言が咄嗟に選んだ「年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし」は藤原良房という人の歌だそうです。で、「花」を「君」に変えたんですね。

「君」というのは、もちろんYouという意味もありますが、どっちかというと「帝、天皇」なんでしょうね、当時は。だとすると、帝を讃え、敬愛する心をそれとなく示したということになります。今上天皇一条天皇)へのヨイショがうまくできました。しかも、定子と清少納言の阿吽の呼吸で。今、ワールドカップやってますけど、ナイスアシストですね。どっちがパスを出して、どっちがシュート打ったのか?っていうのはよくわかりませんけど、とにかくいいゴールが決まりました。ドンピシャです。

で、ついでに今の天皇の父(円融院)に対する、わが父(藤原道隆)の忠誠心もそれとなく言うところが、なかなか巧みです、定子様。相当なキレ者ですし、教養もハンパないです。この頃ってまだ20代前半じゃないかと思うんですけどね。さすが定子様、侮れません。清少納言も礼賛するワケです。

まだ、次に続きます。


【原文】

陪膳つかうまつる人の、男どもなど召すほどもなくわたらせ給ひぬ。「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目はそらにて、ただおはしますをのみ見奉れば、ほとど継目も放ちつべし。白き色紙おしたたみて、「これにただ今おぼえむふるきこと一つづつ書け」と仰せらるる、外にゐ給へるに、「これはいかが」と申せば、「とう書きてまゐらせ給へ。男は言加へ候ふべきにもあらず」とて、さし入れ給へり。

御硯取りおろして、「とくとく。ただ思ひまはさで、難波津も何も、ふとおぼえむことを」と責めさせ給ふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みてぞ思ひ乱るるや。春の歌、花の心など、さいふいふも、上臈二つ三つばかり書きて、「これに」とあるに、

年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

といふことを、「君をし見れば」と書きなしたる、御覧じ比べて、「ただこの心どものゆかしかりつるぞ」と仰せらるるついでに、「円融院の御時に、『草子に歌一つ書け』と殿上人に仰せられければ、いみじう書きにくう、すまひ申す人々ありけるに、『さらにただ、手のあしさよさ、歌のをりにあはざらむも知らじ』と仰せらるれば、侘びてみな書きける中に、ただ今の関白殿、三位の中将と聞こえける時、

潮の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが

といふ歌の末を『頼むはやわが』と書き給へりけるをなむ、いみじうめでさせ給ひける」など仰せらるるにも、すずろに汗あゆる心地ぞする。年若からむ人、はた、さもえ書くまじきことのさまにや、などぞおぼゆる。例いとよく書く人も、あぢきなうみなつつまれて、書き汚しなどしたるあり。

古今の草子を御前に置かせ給ひて、歌どもの本を仰せられて、「これが末いかに」と問はせ給ふに、すべて夜昼心にかかりておぼゆるもあるが、け清う申し出でられぬは、いかなるぞ。宰相の君ぞ十ばかり、それもおぼゆるかは。まいて、五つ、六つなどは、ただおぼえぬ由をぞ啓すべけれど、「さやはけにくく、仰せごとを、はえなうもてなすべき」とわび、口惜しがるもをかし。知ると申す人なきをば、やがてみな読み続けて、夾算せさせ給ふを、「これは知りたることぞかし。などかう、つたなうはあるぞ」と言ひ嘆く。中にも古今あまた書き写しなどする人は、みなもおぼえぬべきことぞかし。


検:清涼殿の丑寅のすみの 清涼殿の丑寅の隅の

清涼殿の丑寅の隅の①

 清涼殿の東北の隅っこにある、北側と隔ててる障子は、荒海の絵で、恐ろしげな生き物の手長や足長なんかが描かれてるの。上の御局の戸を押し開けたら、いつでも見えるんだけど、みんな嫌がったりして笑うのよね。

 欄干の下のところに青い瓶の大きいのを置いて、桜のすごくいい感じな枝の五尺(150cm)くらいのを、めっちゃいっぱい挿して、欄干の外まで咲きこぼれちゃったお昼頃、大納言殿(藤原伊周)が、桜の直衣の少し着慣れたのに、濃い紫の固紋の指貫、何枚かの白い御衣(おんぞ/おほんぞ)と、上着の中に重ね着した濃い綾織のとっても鮮やかなのを出して宮中に来られたんだけど、帝がこちらにお越しになったので、戸口の前の細い板敷にいらっしゃって、お話し申し上げるの。

 御簾の内側では、女房たちが桜の唐衣なんかをラフに着崩して、藤色や山吹色とか、カラフルでイケてるのがいっぱい小半蔀(はじとみ)の御簾からはみ出してる頃、昼の御座(おまし)どころの方では昼食の準備の足音が高く響いてて。先払いの「おし!」っていう声が聞こえるのも、うららかにのどかな日の風景なんかも、すごく素敵で、最後のお膳を準備した蔵人が来て、お食事のスタンバイOKなのを申し上げたら、帝が中の戸から昼の御座所へお移りになるの。大納言殿はお供して縁側からお送りに参上なさったんだけど、その後、元々の例の桜の花のところにお戻りになったのね。

 中宮様が前の御几帳を押しやって、長押(なげし)のところにまで出てこられるっていうのは、ただ何というわけではなくすっごくステキで、側に仕えてる人だって、何の不安も思わなくっていいウットリ気分で、「月も日も変わっていくけど永く変わらぬ三室の山の」って、(大納言様が)とてもゆったりとおっしゃるのが、すごく素敵に思えて、ホント、千年もこうあってほしいナって思える、(ご兄妹の)ご様子なのですよね。


----------訳者の戯言---------

ウィキペディアによると、手長足長というのは、各地に伝わる伝説や昔話に登場する巨人らしいですね。
手も足も長い一体のものであるという説もありますし、多くは手長と足長のそれぞれ1体ずつ、という話です。
手長足長には、神仙としてのイメージ、異民族や妖怪としてのイメージ、この二つがあるようですね。

この段に出てきた障子は「荒磯障子」と呼ばれるものらしいんですが、手長と足長を神仙図として描くことによって天皇の長寿を願ったものらしいです。
天皇のお住まいである清涼殿に置かれたわけですね。

さて高欄(こうらん)ですが、まあ、「欄干」と同じだそうです。屋敷の周りなんかに付いてる手すりみたいなやつですね。橋の欄干、っていうのもあります。

一尺≒30.30303030303…cmなので、五尺は150cmぐらいですかね。

藤原伊周というのは前にも出てきましたが、清少納言が仕える中宮・定子の兄ですね。「大進生昌が家に」という段に詳しく書いてます。

桜の直衣についても前に「三月三日は」っていう段で出てきました。この段のこの部分って、「三月三日は」のとほぼ同じ情景ですね。

まず、「固紋(かたもん)」っていうのは、織物の紋様を、糸を浮かさないで、 かたく締めて織り出したものを言うらしいです。カッチリと模様が織り込んである、と。で、「指貫(さしぬき)」というのは袴ですね。ボトムスです。裾を紐で引っ張って絞れるようになってるやつ、だそうなので、今のファッションで言うと、カーゴパンツの裾とかのドローコード付きみたいな感じだと思っていいかもしれません。

主上というのは天皇のことだそうです。

小半蔀(こはじとみ)というのは小窓みたいな感じでしょうかね。

原文にある「警蹕(けいひち)」というのは、天皇や貴人の通行などのときに、声を立てて人々をかしこまらせ、先払いをするんですが、これを「けいひち」とか「けいひつ」とか言ったようです。「おし!」とか言ったんですね。

「長押(なげし)」ですが、よく言われるのは引き戸の上の部分、鴨居の上です。つまり柱に垂直(つまり水平)に渡した構造材、というのが一般的な意味合いですね。鴨居っていうのは、引き戸の上のレールのことです。敷居が下のレールです。
かように長押っていうのは、柱同士を水平方向につないで外側から打ち付けられてる構造材全般を言いますから、上部にも下部にもあります。地面に沿うようなのもあるようです。ここで出てきたのは、下の方、つまり敷居のあたりに渡された「長押」なんでしょう。
外廊下にそれがちょっと出ているイメージでしょうか。

ちょっと意地悪な言い方をすると、伊周とか定子とかを褒め過ぎなんですよね。それはもう、気持ち悪いくらいで、情景描写もかなり悦に入っている感じで、厳しい言い方すると、自分の筆にも酔っちゃってますね、清少納言


【原文】

清涼殿の丑寅の隅の、北の隔なる御障子には、荒海の絵、生きたる物どものおそろしげなる、手長足長(てながあしなが)などをぞかきたる。上の御局の戸をおしあけたれば、常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ。

高欄のもとに青き瓶の大きなるすゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方、大納言殿、桜の直衣の少しなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、うへには濃き綾のいとあざやかなるを出だしてまゐり給へるに、うへのこなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷にゐ給ひて、ものなど申し給ふ。

御簾の内に、女房、桜の唐衣どもくつろかに脱ぎたれて、藤、山吹などいろいろこのましうて、あまた小半蔀(はじとみ)の御簾よりも押し出でたるほど、昼の御座のかたには、おものまゐる足音高し。警蹕(けいひち)など「おし」といふ声聞こゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、はての御盤取りたる蔵人まゐりて、おもの奏すれば、中の戸よりわたらせ給ふ。御供に廂より大納言殿御送りにまゐり給ひて、ありつる花のもとに帰りゐ給へり。

宮の御前の御几帳おしやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、何事となくただめでたきを、候ふ人も、思ふことなき心地するに、「月も日もかはりゆけどもひさにふる三室の山の」といふことを、いとゆるらかにうち出だし給へる、いとをかしうおぼゆるにぞ、げに千歳もあらまほしき御ありさまなるや。


検:清涼殿の丑寅のすみの 清涼殿の丑寅の隅の

家は

 家は、近衛の御門(陽明門=大内裏の東の門)、二条みかゐ? 一条もいいです。染殿宮(そめどのの宮)、清和院(せかい院)、菅原院(すがはらの院)、冷泉院、閑院、朱雀院、小野宮(をのの宮)、紅梅殿(こうばい)、一条井戸殿(あがたの井戸)、竹三条、小八条、小一条、ですね。


----------訳者の戯言---------

みかゐ?がよくわからないので調べましたが、「のゐん」つまり「二条の院」の誤りという説もあるようですけど、普通こんだけ間違うかな?「ゐ」しか合うてないがな。
それか、「みかど」の間違いとする説。まだこちらのほうが間違いとしてはあり得ます。けど、「二条帝」って家か? というと、違いますよね。ただ、「ミカド」というのは元々「御門」のことらしいですから、この「みかど」は=「御門」かもしれないですね。

ま、近衛の御門もそうなんですけど、そもそも、門が「家」か?という疑問も最初からあるんですよ、私。でも細かいこと言っても何ですし。別に門も家に含めてもいいんですけどね。
だから、二条というのは場所としてはあったわけですから、そこにあった門を指してるのだ、と言われれば、はあ、そうですかー、とは思います。二条に門があったのなら、ね。

さて、一条ですが、これ、書かれたのは一条天皇の時代ですから、一条はまさに今の内裏ということでしょう。

「染殿宮」以下は、いろいろな人が住んでいるお屋敷、邸宅のようですね。
イケてるデザインのアーキテクチャはこれだ!って感じですね。

今だったら、カーサブルータスとかああいうのに載ってる感じでしょうか。
若干多いですけどね。太刀は1個でしたのにねぇ。


【原文】

家は 近衛の御門。二条みかゐ。一条もよし。そめどのの宮。せかい院。すがはらの院。冷泉院。閑院。朱雀院。をのの宮。こうばい。あがたの井戸。たけ三条。小八条。小一条。

たちは

 太刀は、玉造ですね。


----------訳者の戯言---------

1個だけかい!
で、「たまつくり」とは何ぞや?

日本刀っていうのは平安時代の中頃に原型が完成されたらしいですね。
で、主に東北(奥州)に良い鍛冶集団が何個かあったようです。
大きく分けて、舞草鍛冶、月山鍛冶、玉造鍛冶ってあったらしいんですけど、ここで出てきたのは玉造鍛冶。今の宮城県玉造郡というのがあって、 そこの刀工のグループっていうか、ま、そこのがサイコー!ってことですか。

「たち」が「太刀」という説もあるようですけど、「舘」という説もあるらしいです。
玉造も大阪の玉造とか、島根県にも玉造という地名がありますから、どれが正解なのかよくわかりません。
6~7世紀頃までは「玉造部」という装飾品を作ったりする民のグループがあったらしく、その部民が移り住んだ土地に玉造の地名を付けたということもあったようですね。

私の読解力ではどうしようもないです。


【原文】

たちは たまつくり。

わたりは

 渡し場といえば、志香須賀の渡し、こりずまの渡し場、みづはしの渡しがいいですね。


----------訳者の戯言---------

志香須賀(しかすが)の渡しというのは、愛知県豊川市平井町にあった渡し場らしいです。
他のは場所もよくわかりませんでした。

少し調べると、言葉的には「然すが(しかすが)に」=「そうは言うものの」とか、「懲りずま(こりずま)に」=「しょうこりもなく」といった古語がありました。そういうダブルミーニングのような面白さもあるのでしょうか。
それとも全然関係ないのでしょうか。よくわかりません。

渡し場ねー、それなりに風情もあったんでしょうか。


【原文】

わたりは しかすがのわたり。こりずまのわたり。水はしのわたり。


検:渡りは

みささぎは

 御陵といえば、鴬の御陵、かしはぎの御陵、あめの御陵が素敵です。


----------訳者の戯言---------

「みささぎ」は漢字で「陵」とか「御陵」と書きます。天皇や皇后のお墓ということです。

昔はお墓が丘陵になってました。前方後円墳とか。
なので、絶景だったり、いい感じのもあったのでしょうか。私もいくつかは見たことがありますが、古墳というのは小さい山みたいな感じですよね。

で、鴬の御陵というのは、奈良の若草山の山頂にある前方後円墳です。そのほかのは、調べましたが、わかりませんでした。


【原文】

 みささぎは うぐひすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。

海は

 海は、水うみ、与謝の海、かはふちの海がいい感じです。


----------訳者の戯言---------

「海は、水海」、って、いきなり湖かい! 純粋な海ちゃうんかい!
とツッコミ入れつつ、「湖」と言うと、やはり琵琶湖なんですね。京都ですからね、そりゃ、近い湖といえば琵琶湖でしょう。

与謝の海というのは、京都府の北のほうの宮津市というところに宮津湾という湾があって、天橋立という観光地があるんです(日本三景の一つと言われているので有名です)が、天橋立というのは砂嘴(さし)で、その陸側=内海を阿蘇海というらしいんですけど、ま、あのあたりの海を与謝の海とも呼んだらしいですね。

かはふちの海っていうのは、大阪湾とか淀川の河口とか、の説がありますが、何のことやらですね。川はどこでもありますし。まあ、そういう海があったということで、ぼんやりしていますが、仕方ないです、清少納言の心の内側のことでもありますしね、私にほかの文献を調べるスキルもないもので…。
ま、大阪湾と書いてる訳は多いのでそうなんでしょうけど。


【原文】

海は 水うみ。与謝の海。かはふちの海。