枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。

すさまじきもの①

 がっかりで、引いちゃう感じのモノ。昼吠える犬。春の網代。3~4月の紅梅色の着物。牛が死んじゃった牛飼い。赤ちゃんが亡くなった産屋。火を起こさない炭櫃(火鉢)や地火炉(いろり)。博士の家に続けて女の子が授かるの。方違えに行った先でもてなしがなかった時。ましてや、節分なんかだったらなおさら、がっかり感ハンパないです。

 地方から送られてきた手紙に、贈答品が付いてないの。京の都からのもそうは思うけど、でも、京都からの場合は聞きたいことを書き集めて、世の中の情報なんかを知ることができるから、それはすごくいいのね。

 人のところに、スペシャルにきれいに書いて送った手紙の返事を、すぐに持ってくるかな、あやしいくらい遅いなぁ、なんて待ってたら、その手紙を――立て文でも、結び文でも――とっても乱雑に扱って、紙がぼさぼさになってて、上に引いた墨なんかも消えちゃってて、「いらっしゃいませんでした」とか、「御物忌で受け取ってもらえませんでした」って言って持ち帰ってくるのは、ホントにめちゃくちゃガッカリなんだよねー。

 また、必ず来るはずの人の家に車をやって待ってたら、帰ってくる音がするもんだから、「…だよね!」ってみんな出てって見たら、車宿りにそのまま引き入れて、轅(ながえ)をぽんとうち下ろすので、「どうしたの?」って聞いたら、「今日は他の所へいらっしゃるっていうことで、来られません」なんて言って、牛を全部引いて行っちゃうの。

 それと、自分ちのお婿さんが来なくなったのも、とってもガッカリ。それ相応の身分の、宮仕えをするような女性にお婿さんを横取りされて、恥ずかしいと思っている妻の様子もすごくつまんない。

 子供の乳母が、ほんのちょっとだけ、って出かけて行っている間、子供をいろいろなだめてたんだけど、「早く戻ってきて」って言いにやったら、「今夜は参上できません」って返事をしてきたのは、がっかりするだけじゃなくって、まじ、ムカついてどうしようもないことだわ。女子を迎える男の人だったら、まして、どうなることでしょう!? 人を待ってて、夜も少し更けたころ、静かに門を叩く音がして、ちょっとドキドキしながら、人を出して応対してもらったら、全然待ってた人じゃない、どうでもいい人が名乗って来たのも、どう考えてもガッカリ、って言うのさえくだらないわね。


----------訳者の戯言---------

網代あじろ)」っていうのは冬の間に川に入れて魚を獲る仕掛け、だそうです。竹や木で編んだものとのこと。春になってもまだこれが残ってるのはなんかイケてないというか、さぶいよな、と。

紅梅の衣というのは、文字通り、紅梅の色の服ということでしょう。やっぱり当時も季節に合わせた色のものを着るのがお洒落だったようで、2月の紅梅が咲く「まで」に紅梅色は着ておきたいと。花が終わった後はやっぱり「いけてねー」となるんでしょうね。クリスマスが終わった後にクリスマスカラ―(緑+赤)を着ていたら、ちょっと…と思いますしね。トリコロールのマリン系の服を秋口に着るとか、ハロウィンの後に黒とオレンジでコーディネートしてしまうなど、重大なミスを犯しちゃう、そういう感じでしょうか。

牛が死んでしまったり、赤ちゃんが死んでしまうというのは、それは当然、がっかりこの上ありません。しかし、ここであえて書くようなことですか? 当たり前でしょ! なんか新しい発見ですか? 違うよね。もちろん、深く考えずに何気に書いたんだと思いますよ。けど、私、そのセンスにちょっとびっくりしました。平安時代の古典文学ということで、称えられてるところありますが、こんなレベルのエッセイにそれほど感心しててはいけない、と私は思います。

そういう意味では、火を起こさない炭櫃(火鉢)や地火炉(いろり)も、まあ当たり前です。新鮮味は皆無です。

博士というのは、官職の一つで、「学生」に学問・技術を教授し、研究に従事した人たちのこと、だそうです。今で言うと大学の教授とか講師とかでしょうか。「大学寮」に明経、紀伝(のちに文章)、明法、算、書などがあったそうです。他に陰陽寮に陰陽、暦、天文、漏刻、典薬寮に医、針、按摩などの博士があった、とありました。

当時は世襲制だったようで、博士が続けて女子を続けて授かった時というのは、がっかりもしたんでしょうか。しかし、牛が死んだり、死産に比べれば、どうってことないですよ。むしろおめでたいことでしょう。なのに何の疑いもなくこういうことを、そのまんま書いている時点で、清少納言、大したことないです。むしろそこに矛盾を感じてくれていれば評価もできるんですが。

方違えというのは「かたたがえ」っていうそうで、目的地の方角の縁起が良くない時に、前の日に別方角へまず出向いて一泊してから目的地へ行く行き方なんですが、そこでおもてなしがなかったらガッカリっていうのも、なんだかなーと思います。かなり図々しいんですが、そこに気づいていない。この人、もしかして鈍感なんでしょうか?
という風なことを書くと、当時の貴族の生活についての知識とか、ものごとの考え方にたいする理解不足云々を言われる方もいらっしゃるんですが、実は人の根底にある思いやりなどというのは、そうそう変わるものでもなく、やはり考えの浅さは否めないと思いますよ。

轅(ながえ)というのは、牛車の前に長く突き出ている柄の部分のことです。拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の第四十四段に図がありますのでご参照ください。

後半部分。

まず、地方蔑視ですね。都からの手紙は手紙だけでいいけど、地方からはロクな情報も無いんだから手紙だけじゃなく物も付けて寄こせ、ってちょっと横柄じゃないですか?

その後は、主に彼氏とか彼女とかが来てくれないとか、思ってたのと違う来客で感じる、ガッカリ感ですね。まあ、気持ちはわかるけど、それほど高級な「ガッカリ感」ではないですね。

「すさまじきもの」として書きはじめた段なんですから、もうちょっと「ガッカリ」について深く言及してほしいですね。この段、まだ続きますから、この後に期待しましょう。


【原文】

 すさまじきもの 昼吠ゆる犬。春の網代。三四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼。乳児亡くなりたる産屋。火おこさぬ炭櫃、地下炉。博士のうちつづき女児生ませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。まいて節分などは、いとすさまじ。

 人の国よりおこせたる文の、物なき。京のをもさこそ思ふらめ、されど、それはゆかしきことどもをも書き集め、世にあることなどをも聞けば、いとよし。

 人のもとにわざときよげに書きてやりつる文の、返りごと今はもて来ぬらむかし、あやしう遅きと待つほどに、ありつる文、立文(たてぶみ)をも結びたるをも、いときたなげにとりなしふくだめて、上に引きたりつる墨など消えて、「おはしまさざりけり」もしは「御物忌みとて取り入れず」と言ひてもて帰りたる、いとわびしくすさまじ。

 また、必ず来べき人のもとに車をやりて待つに、来る音すれば、さななりと人々出でて見るに、車宿りにさらに引き入れて、轅(ながえ)ぼうとうちおろすを、「いかにぞ」と問へば、「今日はほかへおはしますとて、渡り給はず」などうち言ひて、牛の限り引き出でて往ぬる。

 また、家の内なる男君の来ずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人の宮仕へするがりやりて、恥づかしと思ひゐたるほど、いとあいなし。乳児の乳母の、ただあからさまにとて出でぬるほど、とかく慰めて、「とく来」と言ひやりたるに、「今宵はえ参るまじ」とて返しおこせたるは、すさまじきのみならず、いとにくくわりなし。女迎ふる男、まいていかならむ。待つ人ある所に、夜少しふけて、忍びやかに門たたけば、胸少しつぶれて、人出だして問はするに、あらぬよしなき者の名のりして来たるも、かへすがへすすさまじと言ふはおろかなり。

 

すらすら読める枕草子

すらすら読める枕草子

 

 

 検:すさまじきもの

おひさきなく、まめやかに

 将来に希望なんて持たず、ただただまじめに(一途に夫を愛するなどして)、見せかけの幸せを感じてたいっていうような人は、鬱陶しくて、軽蔑してもいいって思うくらいですね。やっぱり、それなりの身分の人の娘なんかは、宮仕えをさせて、世間の有様も勉強させて欲しいし、内侍(ないし)のすけなんかに少しの間でもならせたら、と、ホントに思います。

 でも宮仕えする人を、いかにも浮ついててよくないって思ってる男の人は、マジむかつくわね。たしかに、それももっともな部分もあるかも知れないけど。口にするのもおこがましい帝をはじめとして、上達部(かんだちめ=三位以上の人)、殿上人(てんじょうびと=五位以上の人および六位の蔵人)、五位、四位などの人たちは言うまでもなく、女房の姿を見ない、なんて言う人はいないですからね。女房のお供の者、里から来る者、雑用担当の下級女官のリーダー、トイレ清掃担当、その他石ころや瓦かけ程度の卑しい者まで、そういう人たちの前でも、恥ずかしがって隠れたりすることがあったかしらね? 男の人はそれほどでもないかもだけど、でも、宮仕えするからにはそういうもの、つまり、人前に姿を現すのが当然なのじゃないのかな。

 宮仕えした人を「上」などと言ってかしづいて妻にめとる時、宮仕えしてたことをよろしくないことだって思うのももっともなところはあるけど、だけど、やっぱり内裏の典侍なんて呼ばれて、時折に内裏に参上し、葵祭の使いなんかに出るのって、晴れがましくないことがあるかな。(いやいやとっても名誉なことでしょ!) それでいて、家庭もしっかり守れるのは、まして素晴らしいことなのです! 受領が五節の舞姫を出す時なんかにも、田舎っぽいことを言ったり、知ってて当然のことを人に尋ねるとかっていうこともないでしょう? やっぱり宮仕えのキャリアがある女性って素晴らしいものなんですよね。


----------訳者の戯言---------

原文にあるのが「えせざひはひ」=似非幸ひ、という言葉なんですが、文字からもわかるとおり、ニセモノ、見せかけのシアワセ、のことだそうです。

五節というのは、ここでは新嘗祭大嘗祭豊明節会五節舞に出演する舞姫のこと。公卿の娘から二人、受領の娘から二人選ばれたらしいです。

さて本題。
今回は「女性のキャリア」についてですね。今の女性の社会進出、ダイバーシティといった考え方とはちょっと異なる部分はあるかと思います。むしろお勤めに出てた経験は活かせるよ、という割と単純な思考です。もちろんそれはそれで、わかりやすくていいんですけどね。
といっても、公務員です、当時のキャリアというのは。特に女性というのは内侍司に就職するというのが一般的だったみたいですね。あとは清少納言のように中宮の私設秘書的な仕え方をするのも一つだったかもしれません。

ま、所謂「キャリア」というのが、ちょっと浮わついてる感じに見られたというのは、現代も形を変えてありそうなことで、今なら職業、業種なんかによって偏見とかもあるんだろうなと思うし、似ているところはあるかもしれません。

ただ、宮仕えのキャリアがあったら、いろいろと名誉だったりとか、恥ずかしくない振る舞いができたりしていいよ、っていうのは、何だか表面的というかね、薄っぺらな発想ですね。

すぐれた随筆家なら、社会でいろいろな経験をすることによって、人間的に内面が成長するのだとか、深みが増すとか、そういうところに言及すべきであって、それができてないのは、所詮、清少納言であって、まだまだだと私は思います。清少納言にはもうちょっと頑張ってほしいですね。今後に期待です。


【原文】

 生ひ先なく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて。なほさりぬべからむ人のむすめなどは、さしまじらはせ、世のありさまも見せならはさまほしう、内侍のすけなどにてしばしもあらせばや、とこそおぼゆれ。

 宮仕へする人をば、あはあはしう悪るきことに言ひ、思ひたる男などこそ、いとにくけれ。げに、そもまたさることぞかし。かけまくもかしこき御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位、四位はさらにも言はず、見ぬ人は少なくこそあらめ。女房の従者、その里より来る者、長女、御厠人の従者、たびしかはらといふまで、いつかはそれを恥じ隠れたりし。殿ばらなどはいとさしもやあらざらむ、それもある限りはしか、さぞあらむ。

 うへなど言ひてかしづきすゑたらむに、心にくからずおぼえむ、ことわりなれど、また内裏の内侍のすけなど言ひて、折々内裏へ参り、祭の使などに出でたるも、面立たしからずやはある。さてこもりゐぬるは、まいてめでたし。受領の五節出だすをりなど、いとひなび、言ひ知らぬことなど人に問ひ聞きなどはせじかし。心にくきものなり。


検:生ひ先なく、まめやかに 生ひさきなく、まめやかに

清涼殿の丑寅の隅の③ ~村上の御時に~

 で、定子様、
 「村上天皇の時代に、宣耀殿の女御という方がいらっしゃったんだけど、彼女が小一条の左の大臣殿(藤原師尹)の娘であることを知らない者はいなかったのですね。まだ入内される前、即ち姫君でいらっしゃった時、お父様がお教えになったのが、『一つには書を習いなさい。次に、琴(きん)の御琴を誰よりも上手に弾けるようにしなさい。そして、古今和歌集の二十巻を全部暗唱するのをお勉強にしなさい』と、おしゃったそうなの。
 と、そのことを村上帝がお聞きになって、物忌の日に、古今和歌集を持って女御のところにお渡りになったのね。
 御几帳を間に置いて隔てられたから、女御はいつもと違って怪しい、って思われたんだけど、和歌集をお開きになって『その月のその時に、その人が詠んだ歌は何だ』とご質問されたから、そういうことか!って理解なさったのはさすがで、でも、間違って覚えてたり、忘れちゃったりもしてるだろうから、大変なことになっちゃう、ってどうしようもないくらいドキドキしちゃったんです。
 和歌が苦手じゃない、どっちかっていうと得意な女房を2、3人呼び寄せて、碁石を置いて勝ち負けの数をお数えになって、帝が女御に歌を言わせなさるご様子、なんて素敵な光景だったことでしょう! 御前にお仕えしてただけの人でも、ほんとに羨ましいことですわね。
 帝が強引に言わせようとなさっても、女御様は利口ぶって歌の最後まで言う、なんてことはなさらないんだけど、全然ちっとも間違うことはなかったんですって。で、なんとかしてちょっとでもミスを見つけて終わりにしちゃおう!って、憎々しいくらいに帝がお思いになってらっしゃるうちに、(なんと!)十巻にまで達しちゃたのです。帝は『これ以上はもういいや』って、冊子にしおりを挟んで、ご就寝されたの、これもまた素敵なおふるまいだったでしょう♡
 そうして、帝はかなり時間が経って起きられたんだけど、『やっぱ勝ち負けを決めずに終わりにしちゃうのは全然良くないよね』って、そして下巻(十巻)を『明日になったら、女御が別の冊子で確認しちゃうかも』と、『今日のうちに決着付けてしまおう』ってね、御殿の灯火をお点けになって、夜がふけるまでお読みになったということなのです。でも、結局女御は負けられなかったんですって。
 他方、『帝が女御さまの所にお渡りになられて、こんなことになってます』って人々が父の大臣殿(藤原師尹)に報告したものだから、すごく大ごとに思われて、慌ててたくさんの御誦経なんかをお読ませになり、宮中に向かってずっと上手くいくようにお祈りなさってたの、それも風流で、ステキなことでございますよね」
なんてお語りになったのを、帝もお聞きになって感心していらっしゃるの。「私は三巻、四巻でも読みきれないなぁ」っておっしゃって。

 「昔は、身分の低い者なんかも、みんな風流だったんだよねぇ。最近はこんな話を聞くこともありませんものねぇ」なんて中宮様にお仕えしている女房や、帝の女房でこちらへ出入りが許されている人たちが来られて、口々に話す様子は、ホント、露ほども心配事がなくって、とっても素晴らしいって思うのよね。


----------訳者の戯言---------

原文に「琴の御琴を」とあるんですが、「琴の琴」って何やねん!「琴」だけやったらあかんのかい!とみなさん思われたことでしょう。え?私だけですか?
まあ、まどろっこしいですね、昔の人は。と思って調べてみたら、実は琴にはいろいろと種類がある、というか、琴(きん)も箏(そう)も和琴 (わごん)も全部「琴」なので、「琴(きん)の琴(こと)」という言い方をしたんですってね。琵琶も「琵琶の琴」って言ったらしいですから、「琴」っていうのは「弦楽器」全般のことだったわけですね。
で、現代私たちが「琴=こと」と呼んでいるのは「筝(そう)」という楽器です。「筝曲」とかって言いますね。

で、ここに出てくるのが「琴(きん)の琴(こと)」。筝(そう)は柱(じ)っていうブリッジで音程をつくるんですが、琴(きん)は弦を押さえる場所で音程を決めます。スタイルは違いますけど筝は西洋楽器のハープの感じですかね。琴(きん)はまあ、バイオリンとか、ギターとか三味線とか、押さえるところで音程を変えると。でも、弾き方のイメージとしては、スチールギタードブロギターなんかに近いですかね。置いて弾きます。

物忌の日=御物忌なりける日っていうのは、陰陽師が占って凶日とした日らしい。災いを防ぐため、家に閉じこもって、来客も禁じて、おとなしくしてたらしい。けど暇だったんだろうね、こういうゲーム的なことをやったんでしょう。

御几帳っていうのはパーテーション的なものですね。「大進生昌が家に②」でも出てきました。

大殿油(おおとなぶら)というのは、お察しの通り、「おおとのあぶら」が変化したもの。宮中や貴族の邸宅で使われた油の灯し火のことです。

原文の「えせもの=似非者」というのは、そもそもは文字通り「にせ者」の意味なんでしょうけど、つまらない者、くだらない者、身分の低い者、といったあたりの意味があるようです。まあ、ここに出てくるシチュエーションはバリバリの貴族社会、ですから、差別意識というのが当然のことのようにあり、「卑しい者」を簡単に差別します。
平気で「身分の低い者なんかでも」みたいな言い方しますから。嫌ですね。けど自覚がないというか、別に悪気があるわけでもなく普通の感覚なんですよね。

ここでは、宣耀殿の女御のことを言ってるんでしょうか?
たしかに中宮=皇后に比べると、身分は低いんでしょう。ただ、女御は皇后の候補でもあったわけですし。けど身分的に更衣よりは上です。まあ、私の知識くらいでは何がよくて何が下なのか、そのランクの違いの根拠も度合もよくわかりません。「源氏物語」の冒頭でも「いずれの御時にか女御更衣あまたさぶらひたまひける中に」というフレーズがあったとおり、皇妃はいっぱいいたんでしょう、そのれくらいしかわかんないです。けど、ここでの話し流れからすると、「女御みたいに、にせもの=卑しい人でも風流だったんだよねぇ、素敵だよねぇ」としか聞こえないです。
見下してるのか?褒めてるのか?これ? 私の解釈が間違っているのでしょうか。

いずれにしても、この段ですが、何せ長いです。疲れました。
プライベートでいろいろあって、忙しかったということもありますが、「清涼殿の丑寅の隅の」の三つの記事におおよそ2カ月かかってますからね。

さて本題の感想です。

この部分はほとんどが中宮・定子様の語りです。
村上天皇というのは先に出てきた円融天皇の父ですね。今の天皇一条天皇)からすると、祖父と言うことです。宣耀殿の女御というのは、本名・藤原芳子という方だそうです。こんな名前の人、現代でもそのへんに普通にいてそうです。すみません、失礼ですね。

が、この芳子という女御、村上天皇の皇后・藤原安子という人だったらしいですが、この安子に嫉妬されたらしいです。芳子はずいぶん美人で、ここにも出てきたように古今和歌集を暗唱できる才媛だったというので、天皇のお気に入りだったと。この二人、実は従姉妹だったそうです。天皇が芳子の元に通われた時、安子がなんか投げつけたとか、というような話が、「大鏡」に載ってるらしいです。興味のある方は、そちらのほうもぜひ読んでみてください。

さておき。まあ、この段では、定子様も清少納言天皇とか皇妃とかを褒めておけばオッケー的な感じってないですか? たしかに、みんな立派な方だったんでしょうけど。露骨なんですよね。
会社なんかでもいますけどね、あからさまに上に媚びる奴とか。会社自体がそういう文化だったりとか。気持ち悪いですね。私はかなり嫌いです。

まあ、そういうわけで、上に媚びる人たちと、差別バリバリの人たちのお話でした。


【原文】

 「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞こえけるは小一条の左の大臣殿の御娘におはしけると、誰かは知り奉らざらむ。まだ姫君と聞こえけるとき、父大臣の教へ聞こえ給ひけることは、『一つには御手を習ひ給へ。次には、琴の御琴を人よりことに弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌二十巻を、みなうかべさせ給ふを、御学問にはせさせ給へ』となむ、聞こえ給ひける、と聞こし召しおきて、御物忌なりける日、古今をもてわたらせ給ひて、御几帳を引き隔てさせ給ひければ、女御例ならずあやしとおぼしけるに、草子を広げさせ給ひて、『その月、何の折、その人のよみたる歌はいかに』と問ひ聞こえさせ給ふを、かうなりけりと心得給ふもをかしきものの、ひがおぼえをもし、忘れたるところもあらば、いみじかるべきことと、わりなうおぼし乱れぬべし。その方におぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石して数置かせ給ふとて、強ひ聞こえさせ給ひけむほどなど、いかにめでたうをかしかりけむ。御前に候ひけむ人さへこそうらやましけれ。せめて申させ給へば、さかしう、やがて末まではあらねども、すべてつゆたがふことなかりけり。いかでなほ、少しひがごと見つけてをやまむと、ねたきまでにおぼしめしけるに、十巻にもなりぬ。『さらに不用なりけり』とて、御草子に夾算(けふさん)さして大殿ごもりぬるも、まためでたしかし。いと久しうありて、起きさせ給へるに、『なほこのこと、勝ち負けなくてやませ給はむ、いとわろかろべし』とて、下の十巻を、『明日にならば、異(こと)をぞ見給ひ合はする』とて、『今日定めてむ』と、大殿油参りて、夜更くるまで読ませ給ひける。されど、つひに負け聞こえさせ給はずなりにけり。上わたらせ給ひて、『かかること』など、人々殿に申し奉られたりければ、いみじうおぼしさわぎて、御誦経などあまたせさせ給ひて、そなたに向きてなむ念じ暮らし給ひける、すきずきしう、あはれなることなり」など語り出でさせ給ふを、上も聞こし召し、めでさせ給ふ。「我は三巻、四巻をだにえ果てじ」と仰せらる。「昔は、えせ者なども、みなをかしうこそありけれ。このごろは、かやうなることやは聞こゆる」など、御前に候ふ人々、上の女房、こなた許されたるなど参りて、口々言ひ出でなどしたるほどは、まことにつゆ思ふことなく、めでたくぞおぼゆる。


検:清涼殿の丑寅のすみの 清涼殿の丑寅の隅の

清涼殿の丑寅の隅の② ~陪膳つかうまつる人の~

 給仕係が蔵人たちを呼ぶ前に、帝がこちらにお越しになりました。そこで定子様が「硯の墨をすって!」とおっしゃるんだけど、私の視線はあらぬ方、ただ帝がいらっしゃるお姿だけを見てたら、あやうく(墨ばさみの)継ぎ目が外れて落としそうになって。

 そんな時、定子様が白い色紙を折りたたんで「これにたった今思い浮かんだ古い歌を一つずつ書いてね」っておっしゃるの。で、外にいらっしゃる伊周様に「これはどうしたものでしょう?」と申したら、「早くお書きになってください。男が口を出すべきではございませんから」って、紙を差し戻されるんです。

 中宮様、硯を私のほうにお渡しになって「早く早く! シンプルに、考えすぎなくっていいですから。『難波津』でも何でも、ふと思いついたのを!」って責め立てられたものだから、私としたことがどうしてそんなに気後れしちゃったんでしょ!?? 顔真っ赤になって頭も大混乱。で、春の歌や花に動かされる心など、って、そう言いながらも、上のほうの女房たちが二つか三つほど書いて、私にも「ここに」って渡されたもんだから、

年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし
(年を重ねて老けちゃったけど、桜の花を見ていると、そんなに思い悩むこともありません)

という和歌の、「花をし見れば」のとこを「君をし見れば」って書き変えたのね。で、中宮様がそれをお見比べになって、「ただ、その歌の心もちを知りたかったんです」とおっしゃって、そのついでに「円融院の時代に『草子に歌を一つ書いてみ』って院が殿上人におっしゃったんだけど、みんなすごく書き辛かったので、ご辞退される人が何人もいらしたの、で、『別にさー、字の上手下手、歌が季節に合ってるかどうかとかも関係ないからー』っておっしゃったものだから、困惑しながらもみんなが書かれてた中で、今の関白殿(中宮・定子自身の父・藤原道隆)がまだ三位の中将だった時なんだけど、

潮の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが
(潮が満ちる 「いつもの浦」 ではないけど――いつもいつもあなたのことを深く思うのは私)

という歌の最後のところを(『思ふはやわが』でなく)『頼むはやわが(頼りにしてるのは私)』とお書きになったのを、すごくお褒めになったことがあるのね」なんておっしゃるもんだから、ただとにかく冷汗が出る思いがしちゃって。でも年齢の若い女房であれば、あんな風に書くことはできなかっただろうに、っては思うのよ。いつもはすごく上手く字を書く人だって、理屈に合わないことに気後れしてしまって、書き損じてしまったのでしょうよね。

 定子様は古今和歌集の冊子を前に置かれて、和歌の上の句をおっしゃって、「この歌の下の句は?」ってお聞きにもなるんだけど、まあ、とにかく、夜昼心にかけて覚えたのに、肝心のこんなところでスムーズに答えられないなんて、どういうわけなんでしょう!? (女房の中でも博識の)宰相の君は十首くらいはお答えになられたけど、それでも十分な数じゃないし。ましてや、5、6首の人は、ただ「覚えてない」って申し上げるべきなんだけど、「そんなに、そっけなく、中宮様がおっしゃったことをその甲斐もないように、ぱっとしない感じにしてしまっていいものかしら」って、残念がり悔しがる言い分も可笑しいのよね。下の句を知ってる、と申し上げる人がいない歌は、定子様がそのまま全部詠み上げて、目印にしおりをお挟みになったんだけど、「この歌は知っている歌だったのに。なんで、こんなに答えられないんだろう」って言って嘆いてるの。
中でも古今集をたくさん書き写してる人は、全部覚えてるべきことですよね。


----------訳者の戯言---------

短くなった墨を挟んで使う「墨ばさみ」っていう器具があったらしく、どうもそれが外れそうになったらしいです。天皇の前だとやはり緊張するんですね。

「難波津」つまり「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」というのは、まあ、誰でも知ってる歌なんでしょう。基本中の基本ということですわね。

円融天皇=円融院というのはここで登場する帝=一条天皇の父親なんですね。

で、この部分、やはり相変わらず中宮定子礼賛の文章となっています。
ただ、当たり前に考えると、いきなり、何を意図しているのかわからんようなことをやらせるし、クイズみたいなのもやるし。しかもそれが夫=帝が来た時におっ始めたワケで。いいのか??それは。

清少納言が咄嗟に選んだ「年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし」は藤原良房という人の歌だそうです。で、「花」を「君」に変えたんですね。

「君」というのは、もちろんYouという意味もありますが、どっちかというと「帝、天皇」なんでしょうね、当時は。だとすると、帝を讃え、敬愛する心をそれとなく示したということになります。今上天皇一条天皇)へのヨイショがうまくできました。しかも、定子と清少納言の阿吽の呼吸で。今、ワールドカップやってますけど、ナイスアシストですね。どっちがパスを出して、どっちがシュート打ったのか?っていうのはよくわかりませんけど、とにかくいいゴールが決まりました。ドンピシャです。

で、ついでに今の天皇の父(円融院)に対する、わが父(藤原道隆)の忠誠心もそれとなく言うところが、なかなか巧みです、定子様。相当なキレ者ですし、教養もハンパないです。この頃ってまだ20代前半じゃないかと思うんですけどね。さすが定子様、侮れません。清少納言も礼賛するワケです。

まだ、次に続きます。


【原文】

陪膳つかうまつる人の、男どもなど召すほどもなくわたらせ給ひぬ。「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目はそらにて、ただおはしますをのみ見奉れば、ほとど継目も放ちつべし。白き色紙おしたたみて、「これにただ今おぼえむふるきこと一つづつ書け」と仰せらるる、外にゐ給へるに、「これはいかが」と申せば、「とう書きてまゐらせ給へ。男は言加へ候ふべきにもあらず」とて、さし入れ給へり。

御硯取りおろして、「とくとく。ただ思ひまはさで、難波津も何も、ふとおぼえむことを」と責めさせ給ふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みてぞ思ひ乱るるや。春の歌、花の心など、さいふいふも、上臈二つ三つばかり書きて、「これに」とあるに、

年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

といふことを、「君をし見れば」と書きなしたる、御覧じ比べて、「ただこの心どものゆかしかりつるぞ」と仰せらるるついでに、「円融院の御時に、『草子に歌一つ書け』と殿上人に仰せられければ、いみじう書きにくう、すまひ申す人々ありけるに、『さらにただ、手のあしさよさ、歌のをりにあはざらむも知らじ』と仰せらるれば、侘びてみな書きける中に、ただ今の関白殿、三位の中将と聞こえける時、

潮の満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが

といふ歌の末を『頼むはやわが』と書き給へりけるをなむ、いみじうめでさせ給ひける」など仰せらるるにも、すずろに汗あゆる心地ぞする。年若からむ人、はた、さもえ書くまじきことのさまにや、などぞおぼゆる。例いとよく書く人も、あぢきなうみなつつまれて、書き汚しなどしたるあり。

古今の草子を御前に置かせ給ひて、歌どもの本を仰せられて、「これが末いかに」と問はせ給ふに、すべて夜昼心にかかりておぼゆるもあるが、け清う申し出でられぬは、いかなるぞ。宰相の君ぞ十ばかり、それもおぼゆるかは。まいて、五つ、六つなどは、ただおぼえぬ由をぞ啓すべけれど、「さやはけにくく、仰せごとを、はえなうもてなすべき」とわび、口惜しがるもをかし。知ると申す人なきをば、やがてみな読み続けて、夾算せさせ給ふを、「これは知りたることぞかし。などかう、つたなうはあるぞ」と言ひ嘆く。中にも古今あまた書き写しなどする人は、みなもおぼえぬべきことぞかし。


検:清涼殿の丑寅のすみの 清涼殿の丑寅の隅の

清涼殿の丑寅の隅の①

 清涼殿の東北の隅っこにある、北側と隔ててる障子は、荒海の絵で、恐ろしげな生き物の手長や足長なんかが描かれてるの。上の御局の戸を押し開けたら、いつでも見えるんだけど、みんな嫌がったりして笑うのよね。

 欄干の下のところに青い瓶の大きいのを置いて、桜のすごくいい感じな枝の五尺(150cm)くらいのを、めっちゃいっぱい挿して、欄干の外まで咲きこぼれちゃったお昼頃、大納言殿(藤原伊周)が、桜の直衣の少し着慣れたのに、濃い紫の固紋の指貫、何枚かの白い御衣(おんぞ/おほんぞ)と、上着の中に重ね着した濃い綾織のとっても鮮やかなのを出して宮中に来られたんだけど、帝がこちらにお越しになったので、戸口の前の細い板敷にいらっしゃって、お話し申し上げるの。

 御簾の内側では、女房たちが桜の唐衣なんかをラフに着崩して、藤色や山吹色とか、カラフルでイケてるのがいっぱい小半蔀(はじとみ)の御簾からはみ出してる頃、昼の御座(おまし)どころの方では昼食の準備の足音が高く響いてて。先払いの「おし!」っていう声が聞こえるのも、うららかにのどかな日の風景なんかも、すごく素敵で、最後のお膳を準備した蔵人が来て、お食事のスタンバイOKなのを申し上げたら、帝が中の戸から昼の御座所へお移りになるの。大納言殿はお供して縁側からお送りに参上なさったんだけど、その後、元々の例の桜の花のところにお戻りになったのね。

 中宮様が前の御几帳を押しやって、長押(なげし)のところにまで出てこられるっていうのは、ただ何というわけではなくすっごくステキで、側に仕えてる人だって、何の不安も思わなくっていいウットリ気分で、「月も日も変わっていくけど永く変わらぬ三室の山の」って、(大納言様が)とてもゆったりとおっしゃるのが、すごく素敵に思えて、ホント、千年もこうあってほしいナって思える、(ご兄妹の)ご様子なのですよね。


----------訳者の戯言---------

ウィキペディアによると、手長足長というのは、各地に伝わる伝説や昔話に登場する巨人らしいですね。
手も足も長い一体のものであるという説もありますし、多くは手長と足長のそれぞれ1体ずつ、という話です。
手長足長には、神仙としてのイメージ、異民族や妖怪としてのイメージ、この二つがあるようですね。

この段に出てきた障子は「荒磯障子」と呼ばれるものらしいんですが、手長と足長を神仙図として描くことによって天皇の長寿を願ったものらしいです。
天皇のお住まいである清涼殿に置かれたわけですね。

さて高欄(こうらん)ですが、まあ、「欄干」と同じだそうです。屋敷の周りなんかに付いてる手すりみたいなやつですね。橋の欄干、っていうのもあります。

一尺≒30.30303030303…cmなので、五尺は150cmぐらいですかね。

藤原伊周というのは前にも出てきましたが、清少納言が仕える中宮・定子の兄ですね。「大進生昌が家に」という段に詳しく書いてます。

桜の直衣についても前に「三月三日は」っていう段で出てきました。この段のこの部分って、「三月三日は」のとほぼ同じ情景ですね。

まず、「固紋(かたもん)」っていうのは、織物の紋様を、糸を浮かさないで、 かたく締めて織り出したものを言うらしいです。カッチリと模様が織り込んである、と。で、「指貫(さしぬき)」というのは袴ですね。ボトムスです。裾を紐で引っ張って絞れるようになってるやつ、だそうなので、今のファッションで言うと、カーゴパンツの裾とかのドローコード付きみたいな感じだと思っていいかもしれません。

主上というのは天皇のことだそうです。

小半蔀(こはじとみ)というのは小窓みたいな感じでしょうかね。

原文にある「警蹕(けいひち)」というのは、天皇や貴人の通行などのときに、声を立てて人々をかしこまらせ、先払いをするんですが、これを「けいひち」とか「けいひつ」とか言ったようです。「おし!」とか言ったんですね。

「長押(なげし)」ですが、よく言われるのは引き戸の上の部分、鴨居の上です。つまり柱に垂直(つまり水平)に渡した構造材、というのが一般的な意味合いですね。鴨居っていうのは、引き戸の上のレールのことです。敷居が下のレールです。
かように長押っていうのは、柱同士を水平方向につないで外側から打ち付けられてる構造材全般を言いますから、上部にも下部にもあります。地面に沿うようなのもあるようです。ここで出てきたのは、下の方、つまり敷居のあたりに渡された「長押」なんでしょう。
外廊下にそれがちょっと出ているイメージでしょうか。

ちょっと意地悪な言い方をすると、伊周とか定子とかを褒め過ぎなんですよね。それはもう、気持ち悪いくらいで、情景描写もかなり悦に入っている感じで、厳しい言い方すると、自分の筆にも酔っちゃってますね、清少納言


【原文】

清涼殿の丑寅の隅の、北の隔なる御障子には、荒海の絵、生きたる物どものおそろしげなる、手長足長(てながあしなが)などをぞかきたる。上の御局の戸をおしあけたれば、常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ。

高欄のもとに青き瓶の大きなるすゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方、大納言殿、桜の直衣の少しなよらかなるに、濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、うへには濃き綾のいとあざやかなるを出だしてまゐり給へるに、うへのこなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷にゐ給ひて、ものなど申し給ふ。

御簾の内に、女房、桜の唐衣どもくつろかに脱ぎたれて、藤、山吹などいろいろこのましうて、あまた小半蔀(はじとみ)の御簾よりも押し出でたるほど、昼の御座のかたには、おものまゐる足音高し。警蹕(けいひち)など「おし」といふ声聞こゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、はての御盤取りたる蔵人まゐりて、おもの奏すれば、中の戸よりわたらせ給ふ。御供に廂より大納言殿御送りにまゐり給ひて、ありつる花のもとに帰りゐ給へり。

宮の御前の御几帳おしやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、何事となくただめでたきを、候ふ人も、思ふことなき心地するに、「月も日もかはりゆけどもひさにふる三室の山の」といふことを、いとゆるらかにうち出だし給へる、いとをかしうおぼゆるにぞ、げに千歳もあらまほしき御ありさまなるや。


検:清涼殿の丑寅のすみの 清涼殿の丑寅の隅の

家は

 家は、近衛の御門(陽明門=大内裏の東の門)、二条みかゐ? 一条もいいです。染殿宮(そめどのの宮)、清和院(せかい院)、菅原院(すがはらの院)、冷泉院、閑院、朱雀院、小野宮(をのの宮)、紅梅殿(こうばい)、一条井戸殿(あがたの井戸)、竹三条、小八条、小一条、ですね。


----------訳者の戯言---------

みかゐ?がよくわからないので調べましたが、「のゐん」つまり「二条の院」の誤りという説もあるようですけど、普通こんだけ間違うかな?「ゐ」しか合うてないがな。
それか、「みかど」の間違いとする説。まだこちらのほうが間違いとしてはあり得ます。けど、「二条帝」って家か? というと、違いますよね。ただ、「ミカド」というのは元々「御門」のことらしいですから、この「みかど」は=「御門」かもしれないですね。

ま、近衛の御門もそうなんですけど、そもそも、門が「家」か?という疑問も最初からあるんですよ、私。でも細かいこと言っても何ですし。別に門も家に含めてもいいんですけどね。
だから、二条というのは場所としてはあったわけですから、そこにあった門を指してるのだ、と言われれば、はあ、そうですかー、とは思います。二条に門があったのなら、ね。

さて、一条ですが、これ、書かれたのは一条天皇の時代ですから、一条はまさに今の内裏ということでしょう。

「染殿宮」以下は、いろいろな人が住んでいるお屋敷、邸宅のようですね。
イケてるデザインのアーキテクチャはこれだ!って感じですね。

今だったら、カーサブルータスとかああいうのに載ってる感じでしょうか。
若干多いですけどね。太刀は1個でしたのにねぇ。


【原文】

家は 近衛の御門。二条みかゐ。一条もよし。そめどのの宮。せかい院。すがはらの院。冷泉院。閑院。朱雀院。をのの宮。こうばい。あがたの井戸。たけ三条。小八条。小一条。

たちは

 太刀は、玉造ですね。


----------訳者の戯言---------

1個だけかい!
で、「たまつくり」とは何ぞや?

日本刀っていうのは平安時代の中頃に原型が完成されたらしいですね。
で、主に東北(奥州)に良い鍛冶集団が何個かあったようです。
大きく分けて、舞草鍛冶、月山鍛冶、玉造鍛冶ってあったらしいんですけど、ここで出てきたのは玉造鍛冶。今の宮城県玉造郡というのがあって、 そこの刀工のグループっていうか、ま、そこのがサイコー!ってことですか。

「たち」が「太刀」という説もあるようですけど、「舘」という説もあるらしいです。
玉造も大阪の玉造とか、島根県にも玉造という地名がありますから、どれが正解なのかよくわかりません。
6~7世紀頃までは「玉造部」という装飾品を作ったりする民のグループがあったらしく、その部民が移り住んだ土地に玉造の地名を付けたということもあったようですね。

私の読解力ではどうしようもないです。


【原文】

たちは たまつくり。