枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

たふときこと

尊いこと。
九条の錫杖(しゃくじょう)。念仏の回向(えこう)。 


----------訳者の戯言---------

九条の錫杖(しゃくじょう)。聞いたことがありません。九条というと京都の九条、あとは大阪の九条とか。地名ぐらいしかわからないですね。地名ならほかにもあるかもしれません。

錫杖というのは、お坊さんとかが行脚の時に持って歩く杖ですね。上部の枠に何個か輪っかが掛けてあって、振ると鳴るやつです。時代劇とかでは山伏がよく持ってます。ほら貝とこの錫杖は山伏の必須アイテムでもあります。ドラクエの勇者における盾と剣みたいなものですね。

錫杖は行脚のとき振って音を出して、獣とかヘビとか虫とかを避けるためのものであり、托鉢の時には門前で来たことを知らせる役目もあったみたいです。玄関チャイムは昔はないですしね。あってもわざわざ呼び出すのは気が引けます。つまり、何気に来訪を気付かせるというなかなか頭脳的なシステムでもあるのです。そして、煩悩を除去し智慧を得る効果があるともされていました。

というわけで、「九条の錫杖」に戻りますが、この錫杖を振って唱える「偈(げ)」で九節からなるものを「九条錫杖経」などと言いました。え?何それ?そして「偈(げ)」って?
偈というのは、経典の中で詩句の形式で教理や仏・菩薩をほめたたえた言葉です。声明(しょうみょう)とも言えるでしょうかね。4字か5字か7字で1句として、4句から成るものが多いらしく、平等施会条、信発願条、六道智識条、三諦修習条、六道化生条、六捨悪持善条、邪類遠離条、三道消滅条、回向発願条の九つなので「九条」なんですね。内容はさっぱりわかりませんが。

何せ一条唱えるごとに錫杖を振るそうです。こういう時の唱和の時に振るのは、それ用の短いサイズの錫杖らしいですね。で、そのようにして密教系や修験道などで唱えられるのだとか。最初の三条だけを唱えるものを三条錫杖と言うらしいです。

なんかわけが解らなさ過ぎるんですが、清少納言的にはこれ、尊いことらしいです。「こと」と書いてますから、それをやってる行為が尊く感じられたのでしょう。

そういうわけで、私もYouTubeでいくつか九条錫杖経を見てみました。リズムもメロディ?も違うんですね。同じ宗派でも。所謂お経みたいなのもありますし、まさに謡ってるようなのもあります。で、錫杖の使い方も違います。上に書いたように一条ごとに鳴らしてるのもあるし、リズム楽器的に使ってるようなのもあります。概ねシャカシャカシャカシャカ~とトレモロで鳴らすのが多いように思いました。


日常の勤行や法要の終りに、僧侶や自分が修得した善行とか功徳を他のものに回し向けることを言います。それを願って唱える声明を回向、回向文と言うそうですね。
宗派によって異なるようですが、密教系の宗派では下記です。文字で書くとこうなります。

願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道

唱えるとするとこうなります。↓

願わくは此の功徳を以て
普(あまね)く一切に及ぼし
我等と衆生
皆共に仏道を成(じょう)ぜん

意味は、
私の願いっていうのは、私の行った善い行いの結果生まれる恵みとか幸福が、ありとあらゆるもの全部に行きわたって、
私とかその他全ての人々と生きものが全員で一緒にお互い深い慈しみの心を持って勤め励む仏道を毎日進んで行けますように。ってことなのだ~。

という感じでしょうか。これを唱えてるのも、尊いわ。と清少納言は思ったのでしょう。


さて昨今はネットスラングの側面から「尊い」という言葉が見直されたりしてましたね。神、ネ申、押し、~しか勝たん、などと同系列の言葉になるかもしれません。

ネット界隈や若者言葉的に使われる「尊い」が、ここで清少納言が書いたとおり、崇高で近寄りがたい、神聖である、非常に貴重である、という意味から派生したのはもちろんですが、昨今日常的にかなり使われるようになりました。すごく素晴らしい、完璧、最高すぎる的なものに「尊い」と言いますし、「わかってる感」があった時なんかにも使います。「好き」の最上級的にも使われますね。所謂「押し」のことが好き過ぎて「尊い」となったりします。
最近では、アニメやコミックなどの2次元から、アイドルや俳優などの3次元キャラクターに対しても使われることが多いです。すとぷりなんかにも使われがちですね。
変化系では「尊み」があります。「わかりみが深い」の「わかりみ」と同じような語形変化です。

今、清少納言がいたら、

尊み~。すとぷりのライブ~。なにわ男子の新曲~。

ぐらいのこと書いてたかもしれません。いやそんなことはないだろう。


【原文】

 たふときこと 九条の錫杖(さくぢやう)。念仏の回向(ゑかう)。

 

 

関白殿、二月二十一日に㉖ ~院の御桟敷より~

 女院の桟敷から「千賀の塩釜(ちかのしおがま)」とかっていうお便りがあってね、定子さまも返歌をなさるの。趣のある贈物なんかを持って人が行き来するのも素敵だわ。
 法会が終わって、女院がお帰りになったの。院司や上達部が今回は半分ほどお供をなさったのね。
 定子さまが内裏にお入りになったのも知らないで、女房の従者たちは、二条の宮にお帰りになるんだろうな?って、そっちにみんな行っちゃって、待てども待てども来ないままで、夜がすっかり更けてしまったのよ。宮中では、宿直用の着物を早く持って来てくれたらいいのに!って待ってたんだけど、全然音沙汰がないの。新しい衣でまだ身体になじんでないのを着て、寒いから文句を言って腹を立てるんだけど、どうしようもないわ。翌朝になって来たから、「どうしてそんなに気がきかないのよ!!」なんて言いはするんだけど、従者たちの言い分にももっともなところがあるのよね。
 翌日、雨が降ったのを関白殿が「(昨日降らなかったの)これだろうよね! 私の前世の縁が素晴らしいの、わかりますよね?? どうご覧になる?」って定子さまにおっしゃって自画自賛しちゃうのも、当然だわ。でもあの時、素晴らしい!って拝見した全部のことが、今のことと見比べてみると、まったく同じことだと申し上げることもできないくらいに変わってしまったから、憂鬱な気持ちになって、いろいろたくさんあったことも一切書くのをやめてしまったの。


----------訳者の戯言---------

千賀の塩釜=千賀塩竈。千賀浦。という宮城県中部、松島湾西部の地名です。塩釜(塩竈)というのは宮城県塩竈市にある塩釜港あたりなのです。市名は「塩竈」ですが港湾の名称は「塩釜」。現代の住所表記はちゃんとしなければいけないのでしょうけれど、古代からどっちゃでもええがな、という感じだったのでしょう。千賀の塩竈だろうが千賀の浦だろうが、塩竈の浦だろうが、もはや何でもありです。歌枕としてうたわれ、「近し」を掛けて詠まれることが多いところではあったようですね。遠い陸奥にありながら「ちか」が付いた地名なので、「近くて遠い仲」を暗示する、ということのようです。

ここで清少納言が「『千賀(ちか)の塩竃』などいふ御消息参り通ふ」と書いたのは、「こんなに近くにいたのにお話もできなかったわね、的な文がやりとりされた」ぐらいの意味でしょう。ちなみに「古今六帖」には下のような歌があります。

みちのくのちかの塩竈ちかながら 遥けくのみも思ほゆるかな


院司(いんのつかさ)というのは、上皇法皇女院の庁で事務を執った職員のことだそうです。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった、とウィキペディアに書かれています。


というわけで、正暦5年(994年)2月21日に法興院の積善寺で藤原道隆が父の供養のため一切経の法要を行ったということで、その前後のことを書いてます。中関白家が栄華を誇っていた時のことですね。
これを清少納言が書いたのはもちろん後年のことで、帝のパートナーとして中宮彰子が定子にとって代わり、すでに道長が趨勢をきわめようとしている頃かと思います。
最後のところでちょこっと出てきますが、すっかりあの頃とは変わってしまったなぁと思って、気が滅入ってしまった…という本音が少し出たようですね。

さてこの段、9月終わりごろから読み始め、4~5カ月ほどはかかるかな??と思っていましたが、10月末に半分ほどまで読みまして、意外と順調なもんであと1カ月かなーとか思っていたら、なんのなんのそれからペースダウンしました。やっぱりか。案の定そこから2カ月半かかってしまいましたよ。持久力がなくてダメですね。終わってみれば予想通り4カ月近くかかってしまいました。


【原文】

 院の御桟敷より、「千賀(ちか)の塩竃」などいふ御消息参り通ふ。をかしきものなど持て参りちがひたるなどもめでたし。

 ことはてて、院帰らせ給ふ。院司、上達部など、今度(こたみ)はかたへぞ仕り給ひける。

 宮は内裏に参らせ給ひぬるも知らず、女房の従者どもは、二条の宮にぞおはしますらむとて、それにみな行きゐて、待てども待てども見えぬほどに、夜いたうふけぬ。内裏(うち)には、宿直(とのゐ)物持て来なむと待つに、きよう見え聞こえず。あざやかなる衣どもの身にもつかぬを着て、寒きまま、言ひ腹立てど、かひもなし。つとめて来たるを、「いかで、かく心もなきぞ」などいへど、陳(の)ぶることも言はれたり。

 またの日、雨の降りたるを、殿は、「これになむ、おのが宿世は見え侍りぬる。いかが御覧ずる」と聞こえさせ給へる、御心おごりもことわりなり。されど、その折、めでたしと見たてまつりし御ことどもも、今の世の御ことどもに見奉りくらぶるに、すべて一つに申すべきのもあらねば、もの憂くて、多かりしことどもも、みなとどめつ。

 

 

関白殿、二月二十一日に㉕ ~ことはじまりて~

 法会が始まって、一切経を蓮の花の赤い造花の一つずつに入れて、僧侶、上達部、殿上人、地下人、六位、その他の者に至るまで持って続いているの、すごく尊いわ。導師が参上して、講義が始まって、舞楽なんかもしたの。一日中見てたら目も疲れて苦しいのね。宮中からお使いとして五位の蔵人が参上したの。桟敷の前に胡床(あぐら)を立てて座ってるのとかってほんとすばらしいわ。
 夜になる頃、式部の丞の則理(のりまさ)が参上したの。「『このまま夜には(中宮は)宮中に参内なさるように。そのお供をしなさい』と、帝より宣旨を賜っていますので」って言って、帰ろうとしないのね。定子さまは「先に(二条宮)に一旦帰ってから」とおっしゃるけれど、また蔵人の弁が参上して関白殿にもお手紙があったってことで、帝の仰せごとなんだからって、ここから参内なさることになったの。


----------訳者の戯言---------

一切経の法会が始まりました。一切経についてや、そしてそもそもこの法会が何のために行われているのかについては、「関白殿、二月二十一日に①」を再度ご参照ください。

導師というのは、法会や供養などの時、僧侶たちを率いてその法要を主宰、つまりリーダーというかボスというか、ですね。僧侶界のBIG BOSSと言っていいかもしれません。嘘。だいたいで言うと、その儀礼を中心となって執行する僧ということになるでしょうか。

胡床(あぐら)というのは折り畳みの椅子みたいなものなんですが、和室で使うものとして今も売られているようです。Yahoo!ショッピングとか楽天にもありました。一般にはパイプ椅子を使うところでしょうけれど、和風のシチュエーション、つまり寺社、結婚式場、葬儀場、華道、茶道、柔道、剣道、歌舞伎、能楽雅楽なんかで折り畳み椅子が必要という場合はこれを使うみたいですね。
形は背もたれの無いディレクターズチェアみたいな感じ。ホテルの部屋にあるバッグとか荷物を置く折り畳みの台みたいなあれと同じような形状で少し小さい物のようです。

則理(のりまさ)というのは源則理という人のことのようです。式部省の丞(3等官)ですから、それほど高い官職の人ではなさそうですね。ただ、妹が伊周の室であったということですから、前途はあったと思います。が、長徳の変で伊周がアレになってしまいますので。則理さんもその後不遇になります。

「蔵人の弁」は、蔵人所のスタッフ(蔵人)にして、弁官だった人。帝の秘書官で太政官の事務官僚でもある、ということになります。今で言うなら宮内庁の幹部スタッフ兼内閣官房副長官補ぐらいの感じです。今ほど仕事があるわけではないので兼務できたんでしょうけど、エリートには違いないですね。


というわけで、あの二条の実家に帰ってから、と思っていたら、帝が直接宮中に戻ってきて、と手紙が届きました。帝、定子をどんだけ好きなんだ。しゃーねーな。というわけで、㉖に続きます。


【原文】

 ことはじまりて、一切経を蓮の花の赤き一花づつに入れて、僧俗、上達部、殿上人、地下、六位、何くれまで持てつづきたる、いみじう尊し。導師参り、講はじまりて、舞ひなどす。日ぐらしみるに、目もたゆく苦し。御使に五位の蔵人参りたり。御桟敷の前に胡床(あぐら)立ててゐたるなど、げにぞめでたき。

 夜さりつ方、式部の丞則理(のりまさ)参りたり。「『やがて夜さり入らせ給ふべし。御供に候へ』と宣旨かうぶりて」とて、帰りも参らず。宮は「まづ帰りてを」とのたまはすれど、また蔵人の弁参りて、殿にも御消息あれば、ただ仰せ事にて、入らせ給ひなむとす。

 

 

関白殿、二月二十一日に㉔ ~僧都の君、赤色の薄物の御衣~

 僧都の君が赤色の薄物の衣、紫色の袈裟、すごく薄い薄紫の衣、指貫なんかをお召しになって、頭の様子が青々ときれいな感じで、地蔵菩薩みたいな姿で女房たちに混じってあちこちお歩きになるのもとてもいい感じに見えるわ。「僧綱(そうごう)の中で威儀を正してもいらっしゃらないで、見苦しくも、女房の中にいらっしゃる」なんてみんな笑うのね。
 大納言(伊周)の御桟敷から、松君をお連れ申し上げるの。葡萄染(えびぞめ)の織物の直衣(なほし)、濃い紅の綾を打った衣に紅梅色の織物の衵なんかをお召しになっていらっしゃって。お供にはいつものように四位、五位の人たちがすごく多いの。御桟敷で、女房の中にお抱き入れ申し上げると、何か女房に粗相があったのかしら、大声をあげてお泣きになるのさえ、すごくきわだって素晴らしいのよ。


----------訳者の戯言---------

僧綱(そうごう)というのは、僧侶の組織の中における管理職とも言うべきもののようですね。
感じとしては、会社で言うと、部長、課長、取締役たちというイメージ。この頃、定子の弟・隆円は15歳ぐらいですからまだお子ちゃまですが、僧侶の中では管理職的な役職・僧都にすでになっちゃってます。さすが関白の息子。子ども店長ならぬ子ども課長的なお坊さん。ですから、部課長取締役の中にいるよりOLさんたちとカジュアルにつるんでる方が似合ってたというか、微笑ましくはあったのかもしれないですね。


松君は大納言・伊周の子、つまり道隆の孫になります。伊周の長男・藤原道雅の幼名ですね。後に花山法皇の皇女を殺させたり、敦明親王の従者・小野為明を髪を掴んで凌辱して瀕死の重傷を負わせたり、博打場で乱行したりと悪行が絶えなかったので、世上荒三位、悪三位などと呼ばれたらしい人です。子どものころ甘やかされたから? しかし。小倉百人一首に入ってる有名な歌人でもあったりするのです。

今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
(今はただあなたへの思いをあきらめてしまおうっていうことだけを、人づてじゃなくて直接話する方法があればなあ)

とありました。
この時、前斎宮当子内親王と密通してたらしい。これも悪行と言えば悪行なのかもしれませんが、それは恋愛です。ただ、許されない恋だったのですね。内親王の父・三条院の怒りに触れて、仲を割かれた上で当然密会するかもしれないと監視されてる状況。で、詠んだ歌です。「左京大夫道雅」となっていますが、これは亡くなる前に出家する、そのさらに前、最終職歴という感じでしょうか。


というわけで、定子の弟の僧都(今なら中学生ぐらい?)と関白道隆の初孫(後の悪三位)を紹介しています。
㉕に続きます。


【原文】

 僧都の君、赤色の薄物の御衣(ころも)、紫の御袈裟、いと薄き薄色の御衣ども、指貫など着給ひて、頭つきの青くうつくしげに、地蔵菩薩のやうにて、女房にまじりありき給ふも、いとをかし。「僧綱の中に威儀具足してもおはしまさで、見苦しう、女房の中に」など笑ふ。

 大納言の御桟敷より、松君ゐて奉る。葡萄染の織物の直衣、濃き綾の打ちたる、紅梅の織物など着給へり。御供に例の四位、五位、いと多かり。御桟敷にて、女房の中にいだき入れ奉るに、なにごとのあやまりにか、泣きののしり給ふさへ、いとはえばえし。

 

 

関白殿、二月二十一日に㉓ ~入らせ給ひて~

 関白殿がお入りになって見上げなさったら、みんな裳、唐衣を御匣殿(みくしげどの)までもが着ていらっしゃるの。殿の奥方は裳の上に小袿(こうちき)だけ着ていらっしゃるわ。「絵に描いたようなお姿! もうお一人も、今日はみんな認めるいっぱしに仕上がってるし…」って申されるのね。「三位の君(三番目の娘)ちゃん、中宮さまの裳をお脱がせなさい。この中の主君は中宮の定子さましかいらっしゃらないのだからね。御桟敷の前に陣屋を置いていらっしゃるのは、いいかげんなことじゃないんだよ」ってお泣きになるのよ。ほんとそのとおりだわ、って思って、みんな涙ぐんでたら、私が赤色の表着に桜襲の五重の衣を着てるのを関白殿がご覧になって、「法衣の一つが足りなくて、急なことだったもんだから騒いでたんだけど、これこそ、僧侶にお返しすべきものだったんじゃないのかな?? いや、もしかして赤い衣を独り占めになさってたのか?」っておっしゃるもんだから、大納言殿(伊周)は少し下がって座っていらっしゃったんだけど、お聞きつけられて、「清僧都のものだったんでしょうね」っておっしゃるの。ひと言だって素晴らしくないことはないわ。


----------訳者の戯言---------

「しかめる」というのは、「顔をしかめる(顰める)」の「しかめる」ではなく、「如(し)く」(及ぶ、匹敵する)+ 「あめり」(あるみたいに見える~)の連体形=「しく+あめる」=「しかめる」、認められるように見える、という感じかと思います。

「陣屋」というのはよく出てきますが、警固の人の詰め所です。思ったとおりです。 転じてと言うか、時代が移って江戸時代あたりになると、城をもたない小大名や交代寄合の屋敷のことを意味するところに至るんですね。

「おぼろげ」というのは、はっきりしないさま。不確かなさまを言います。ここでは反語法で使われていますから、逆の意味、つまり絶対的だとか、並外れてるとか、尋常ではないとかっていう様子を表しているのでしょう。

大僧正以上は緋色、僧正は紫、僧都以下は赤、下っ端の僧は黒と定められていたらしいですね。


道隆が見回すと…という状況でしょうか。
当時は身分の低い者ほど正装しなければなりませんでした。それが礼儀だったらしいですね。しかし、⑳のとおり最上級の中宮定子が正装でキメてますから、母とは言っても道隆の上の方(妻)が裳の上に小袿という略式では失礼にあたります。道隆は暗にそれを揶揄しているようですね。そして、娘のハレの姿を想って感極まって泣いてしまったといったところでしょう。
しかし、場の雰囲気が…しんみりしてしまい、とっさに清少納言に「もしや赤い服収集マニア?」と変なボケをかまします。関白には誰もツッコめずいたところ、定子の兄で道隆の息子の大納言・伊周がツッコミ?を入れます。というか、清少納言の「清」を取って「清僧都のものかも?」と言ったのはボケ返しですかね。Wボケ。笑い飯とかジャルジャルのやつです。あれほどは高度ではないですが。

この段もあと少しです。㉔に続きます。


【原文】

 入らせ給ひて見奉らせ給ふに、みな御裳・御唐衣、御匣殿までに着給へり。殿の上は裳の上に小袿(こうちぎ)をぞ着給へる。「絵にかいたるやうなる御さまどもかな。今一人は、今日は人々しかめるは」と申し給ふ。「三位の君、宮の御裳脱がせ給へ。この中の主君(すくん)には、わが君こそおはしませ。御桟敷の前に陣屋据ゑさせ給へる、おぼろげのことかは」とてうち泣かせ給ふ。げにと見えて、みな人涙ぐましきに、赤色に桜の五重の衣を御覧じて、「法服の一つ足らざりつるを、にはかにまどひしつるに、これをこそ返り申すべかりけれ。さらずは、もしまた、さやうの物を取り占められたるか」とのたまはするに、大納言殿、少ししぞきてゐ給へるが、聞き給ひて、「清僧都のにやあらむ」とのたまふ。一言(ひとこと)としてめでたからぬことぞなきや。

 

 

関白殿、二月二十一日に㉒ ~女院の御桟敷~

 女院の桟敷や所どころの桟敷をいろいろ見渡すと、その様子がすばらしいの。関白殿(道隆)は、定子さまのいらっしゃる御前から女院の座敷に参上なさって、少ししてから、ここにいらっしゃったのね。大納言の二人、三位の中将は陣に詰めてられる姿のままで、道具を背負って、すごく似合ってる感じ、いかしたご様子でいらっしゃるの。殿上人、四位、五位の人たちが大勢連れだって、お供をして並んで座ってるわ。


----------訳者の戯言---------

道隆の妹の詮子は円融天皇の女御であり一条天皇の母です。この段に描かれている時点では女院東三条院)です。ということで、女院女院と出てきますが、定子の叔母であって義理の母。ややこしすぎます。

三位の中将というのは、この時は藤原隆家でした。というのは、この段の⑭にも書きましたね。詳しくはまた読み返してくださると幸いです。

関白・道隆が息子や部下を多数引き連れて登場、というシーンですが、そんなにヨイショしますか?と言いたくなるほどの持ち上げよう。
㉓に続きます。


【原文】

 女院の御桟敷、所々の御桟敷ども見渡したる、めでたし。殿の御前、このおはします御前より院の御桟敷に参り給ひて、しばしありて、ここに参らせ給へり。大納言二所、三位の中将は陣に仕り給へるままに、調度(でうど)負ひて、いとつきづきしう、をかしうておはす。殿上人、四位・五位こちたくうち連れ、御供に候ひて並みゐたり。

 

 

関白殿、二月二十一日に㉑ ~三尺の御几帳一よろひをさしちがへて~

 三尺の御几帳1セットを互い違いに立てて、こっちとの仕切りにして、その後ろに畳一枚を横長に縁を端にして、長押の上に敷いて、「中納言の君」っていうのは殿(道隆)の叔父様で右兵衛の長官でいらっしゃる藤原忠君っていう方のお嬢さま、「宰相の君」は富小路の右大臣(藤原顕忠)のお孫さん、その二人が長押の上に座って見ていらっしゃるの。定子さまがあたりを見渡して、「宰相の君はあっちに行って、みんながいるところでごらんなさい」っておっしゃっると、そのご配慮を察して、宰相の君が「ここでも3人だったらすごくよく見えますから」って申し上げられたもんだから、定子さまは「それじゃあ、入りなさい」っておっしゃって、私を召し上げるんだけど、下に座ってる女房たちが「殿上を許された内舎人(うどねり)ってとこね」って笑うから、「これ、笑わせよう!っていうお思いでおっしゃったのですか??」って言うと、「馬を引くほうの内舎人かな!!」なんて言うのだけど、そこに上って座って見るのはすごく名誉に思うわ。こういうことなんかを自分で言うのは自慢話でもあるし、また定子さまのためにも、軽々しくこの程度の人をそんな風に贔屓にしてたかなんて、当たり前みたいにものごとを理解して世の中のことを批判したりする人っていうのはつまんないっていうか、おそれ多くも定子さまを巻き込んじゃって恥ずかしくはあるけど、事実なんだから書かないではおけないでしょ?? ほんと、身のほどを過ぎたこととかっていろいろとあるものよね。


----------訳者の戯言---------

「几帳」というのは、移動式の布製の衝立(ついたて)です。当時の間仕切り、可動式のパーテーションですね。
細かなところまできっちりしている人を「几帳面な人」と言ったりしますが、この几帳から来てるそう。元々、几帳の柱が細部まで丁寧に仕上げてある、ということからこう言ったそうですね。

一尺≒30.30303030303…cmなので、三尺は90cmぐらいです。三尺の几帳は、室内用の几帳で、高さ三尺×幅六尺だったらしいですね。

内舎人(うちとねり/うどねり)というのは、帝や貴人の身辺警護を担当したスタッフだそうです。当時はそんなに身分も職位も高くはありませんでした。


女房の世界も妬みやら、マウンティングやらいろいろあったようですね。
しかし、中宮さまの前でダイレクトに声を出して言うとは、言う方も根性入ってます。
LINE外しとかのSNSでの陰湿なイジメに比べるとまだマシなのかもしれませんね。

清少納言の言う「世の中もどきなどする人(世の中のことを批判したりする人)」というのはどういう人か? 読みながら思ったのは、ひろゆきですね。平安時代ひろゆき。論破王。そういう人もいたのでしょう、たぶん。
㉒に続きます。


【原文】

 三尺の御几帳一よろひをさしちがへて、こなたの隔てにはして、その後ろに畳一枚(ひとひら)を長さまに縁(はし)を端(はし)にして、長押の上に敷きて、中納言の君といふは、殿の御叔父の右兵衛の督(かみ)忠君(ただきみ)と聞こえけるが御むすめ、宰相の君は、富の小路の右の大臣の御孫、それ二人ぞ上にゐて、見給ふ。御覧じわたして、「宰相はあなたに行きて、人どものゐたるところにて見よ」と仰せらるるに、心得て、「ここにて、三人はいとよく見侍りぬべし」と申し給へば、「さば、入れ」とて召し上ぐるを、下にゐたる人々は、「殿上ゆるさるる内舎人(うどねり)なめり」と笑へど、「こは、笑はせむと思ひ給ひつるか」と言へば、「馬副(むまさへ)のほどこそ」など言へど、そこに登りゐて見るは、いと面だたし。かかることなどぞ、みづからいふは、吹き語りなどにもあり、また、君の御ためにも軽々しう、かばかりの人をさおぼしけむなど、おのづからも、もの知り、世の中もどきなどする人は、あいなうぞ、かしこき御ことにかかりてかたじけなけれど、あることはまたいかがは。まことに身のほどに過ぎたることどももありぬべし。