枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

この草子、目に見え心に思ふことを(跋文)

 この草子は、目で見て心で思ったことを、誰かが見たりするかしら??(いやいや、誰も見ないわよ!)って思って、ヒマでしょうがない実家暮らしの時に書きためてたのを、よからぬことに人によっては都合の悪い言い過ぎちゃったところも結構あるから、うまく隠しおおせたわ!とは思ってたんだけど、まったく思いがけず世間に漏れ出ちゃったの。

 定子さまに内大臣殿(藤原伊周)が(紙を)献上なさったんだけど、「これに何を書いたらいいかしら? 帝は史記という書物をお書きになっていらっしゃるんだけど」なんておっしゃったもんだから、「枕でございましょう」って申し上げたら、「なら、あなたにあげましょう」っておっしゃってご下賜されたのを、変わったことをあれやこれやと、無くならないぐらい大量の紙だったんだけど、全部書いちゃおう!って書いたもんだから、まったくワケわかんないことでいっぱいになっちゃったわ。

 おおむねこれは世の中でおもしろいってこととか、みんなが素晴らしいって思うはずのことを選び出して、歌なんかも、それに木や草、鳥、虫のことも書き出したとしたら、「思ってたよりダメだね~。見え透いてるわ」ってdisられるでしょうね。ただ初志のとおり、自分の思うことを遊び半分に書き留めてっただけだから、他の作品に混じった時に、人並みに扱われるような評価をされるはずがないと思ってたら、「(恥ずかしくなるくらい)すばらしい!」とかって、読む人はおっしゃるものだから、すごく不思議な気もちになるの。たしかにそれも当然のコトで、人が嫌うものを良い!って言って、褒めるものを悪い!って言う人はいて、そういう人の感性のレベルって推し量られるわよね。ってことだけど、ただ私としては、人に見られたのが気に入らないの。

 左中将殿(源経房/みなもとのつねふさ)がまだ伊勢守(いせのかみ)って呼ばれてた時、私の実家においでになって、端の方にあった畳を差し出したら、この草子が載っかったまま出てしまったのね。慌てて取り入れたんだけど、そのまま持って行かれて、すごく日が経ってから返ってきたの。それから世間に知られはじめたらしいのよね。ってことが、私が自分で写した元本に書かれてるの。


----------訳者の戯言---------

今回はいよいよ「跋文(ばつぶん)」、つまり「あとがき」です。さてどんなことを書いているのでしょうか?

「人やは見むとする」というのは、高校の古文で習った「係り結び」ですね。
「ぞ、なむ」は連体形、「こそ」は已然形で結ばれ、「強調」されるという風に覚えました。そして、「や、か」は連体形で結ばれ、その場合は「疑問」または「反語」の意味になるということでした。
「や」→「する」と連体形で結んでますから、疑問か反語です。私は反語の意味で読みました。この部分は「疑問」とする学者もいるようで、諸説ありますが、私は「誰も見ないだろう」とするほうが自然かなと思います。

「心よりほかにこそ漏り出でにけれ」のほうは、「こそ」→(已然形)「けれ」ですから、こちらは「強調」の係り結びですね。


さて、中宮定子に紙を大量に差し上げた内大臣というのは、おなじみ、定子の兄、(藤原)伊周(これちか)です。これに何を書くべきか悩んだ定子、清少納言に聞いてみました。「帝は史記を書いてるんだけど…」と。清少納言は「そりゃ、枕でしょう」と答えます。
実は枕草子のタイトルはここから来ていると言われているんですね。というか、ここしか「枕」草子になった理由がないんです。そもそも清少納言が「このエッセイ集の題名は『枕草子』よ!!」と書いたわけでも言ったわけでもないんですから。

昔は書物、文学作品というものに明確なタイトルがないことも多かったようです。さまざまな呼び方をされて、その中から次第に定まっていったようなものも多いみたいですね。ちなみに「源氏物語」も紫式部が「源氏物語」とタイトルをつけて書き出したわけではありません。光源氏っていう主人公だからそういう題名になったんですね。日本最古の物語といわれる「竹取物語」も「竹取の翁」「かぐや姫の物語」「竹取」とかいろいろでしたし、「伊勢物語」も主人公の在五中将(モデルの在原業平)に因んで「在五」というワードの入ったいろいろな題名で言われていたようです。
今みたいに「鬼滅の刃」とか「東京リベンジャーズ」とか「推しの子」とか、タイトルを最初から考えて書かれたわけではなかったんですね。アニメばっかりで恐縮ですが。エッセイにしても「ナナメの夕暮れ」とかですね、「京都ぎらい」とか「わたしのマトカ」であったり、たしかに今はタイトルで売る、みたいなところがありますもんね。


と、逸れましたが、「枕でございましょう」と言ったのはなぜ? 枕って何?ということについては、昔から諸説があり、いまだによくわかってないそうです。そりゃそうでしょう、清少納言に直接聞けないわけですから、これからもはっきりとはわからないでしょうね。モヤモヤします。とは言っても、いくつかは紹介しておかなければいけませんよね。

まず、そもそも備忘録や日記帳などの書物のことを当時「枕草子」と言ってたらしいということです。今は固有名詞、書名ですが普通名詞だったんですね。「じゃあ、枕草子を書きましょう」そのまんまです。

内容については、一条天皇が書いてたという「史記」から「しき」と変換し、「しきたへの」という枕詞(まくらことば)を連想したため「枕」という言葉が出たという説がありまして。「しきたへ」というのは漢字では「敷妙」「敷栲」などと書き、今で言うところの敷布団のような寝具でした。よって「しきたへの」は「床(とこ)」とか「枕」とか「手枕(たまくら/腕枕の意)」を導き出す枕詞なわけですね。「帝が『史記』なら、『しき』繋がりで定子さまは『枕』でしょ!?」という感じでしょうか。こうなるとダブル・ミーニングでもあり、定子・清少納言の間で行われてる(知的とされている)いつものやりとりです。今回は「和歌の修辞法=枕詞」がネタとなりました。こういうやりとりを得意げに話すのは清少納言ならではですね。

最近出てきた説の一つは、「しき」を「四季」と連想して、清少納言が「四季を枕に書きましょうか」というつもりで答えたのであり、帝の「しき」にあやかって四季を書いた、とするものです。冒頭の「春はあけぼの」から考えるとそういうのもアリなのかもしれませんが。

「白氏文集」にある一節「書を枕にして眠る」という文からの引用である、という説もあります。枕は毎日寝る時に使う身近なものであって、枕元にいつも紙を置いておき、その日に気が付いたこと、感じたことを書き留めておく。ということが白居易(白楽天)によって書かれた、それが元ネタになっていると。これなんかもお互いに白氏文集を知っていなければ成立しないという、二人の知の共有エピソードですね。

「歌枕の解説書を作りましょう!」という意味だろうという説もあります。たしかに、枕草子を読んでいると歌枕がやたらと出てきます。また歌枕のこと書いてるのかよ、と読んでて私などもよく思ったものです。「いやいやこれはそもそも歌枕の本だからだよ」と言われれば、それもなんとなく納得できる気がします。


と、このようにいろいろな人がそれぞれに説を立てています。
私自身は、「史記」→「しきたへの」「枕」というのがキレイというか、清少納言らしいかなと思います。もちろん清少納言のことですから、「白氏文集」の文言とか、歌枕について書く、ということも同時に頭をよぎっていたかもしれません。トリプル、クアドラプル・ミーニングだったという合わせ技から、得意気に「そりゃ枕でしょう!!」と言った可能性は否定できないでしょう。
いずれにしても知識とか教養をベースにした機知とか即興、つまりアドリブ力アピールですが、いかんせんそこは現代に伝わってないのが残念なところです。中宮にさえ伝われば半分は成功なのかもしれませんが。


世の中のみんなが「おもしろい」って思うだろうことを書いたんじゃ、「期待外れ、ありきたり」って言われるのがわかってる。だからあえて自分の感性のまま遊び半分で書いて、他の著作物と並んだ時に人並に評価なんかされないだろうってわかってたけど、読んですばらしい!って言ってくれる人もいて、不思議だなぁって。でもたしかにそういうこともアリだし、人が嫌うものを良い、褒めるものを悪い、っていうあまのじゃく的な人、そういうセンスの人もいるだろうしね。ただ私としては、人に見られたのが気に入らないってのはあるのだ。
という主旨のことを書いてます。言い訳がましいというか、二重三重に保険を掛けてる感じですね。後で批判を受けても、そもそもそれも織り込み済みでしたわ、とも言えるし、共感できたっていう人には、独特のセンスですよ!!と褒め合えるという仕掛け。何か言われたら、「人に見せるつもりで書いたのではない」と居直れることもしっかり担保しています。


経房(つねふさ)の中将というのは、源経房という人のことで、枕草子には何回か登場しました。ここにもあるとおり、清少納言が里帰りしていた時にもですね。「里にまかでたるに」「殿などのおはしまさで後」などを参照いただければと思います。清少納言とは仲が良かったようですね。
ちなみに源経房が伊勢権守になったのは995年4月、右近権中将となったのは996年7月ですから、その間のことだったのでしょう。なお、998年に左近中将になっています。
彼のお姉さんは藤原道長の奥さんです。つまり、後のというか、現というか、権力者・道長の義理の弟にあたります。定子の兄伊周をはじめ、実家・中関白家としてはライバル関係にあたるはずですが、意外と中関白家にも近かったようです。


当時は「筵(むしろ)」に縁をつけたものを「畳」と言ったわけで、筵も畳もニュアンス的にはほとんど同じなんですね。というか、身分で畳の大きさ、厚さ、縁の生地や色が定められていたそうです。

経房さんに畳を出したら、それに間違って載せたままになってた草子を見つけられてしまった、みたいなことを書いてますが、何かウソっぽいですね。見つけてほしかったんでしょ? 見え見えです。わざとらしいというか、明らかに意図的に見せて「何やこれ? ええやん!」ってなるのを狙ってますよね。拡散、バズリを狙っての行動でしょう。確信犯ですね。

そして、最後の部分。「それよりありきそめたるなめり、とぞ本に。」と書いてあります。
現代語で直訳すると「その時から世間に知られるようになったらしい、って元の本に書いてある。」という意味になるでしょうか。「元の本」って!!自分で書いたはずなんですけどね。なんか他人事のように書いてるのもなんだかなーと思います。

こう見ると、跋文がかなり後にしかも版を重ねて書かれていることが推察されます。おそらく研究者の方々はもっと詳細に考察されているとは思いますが、本文を含めエピソードのあったであろう年なんかもかなり幅がありますし、書かれた時期もいろいろです。集中的に書かれた時期はあるものの、それにさらに加筆されながら、ある程度の年月をかけて完成させていったのかな、と思われます。


というわけで、枕草子の跋文は研究上も非常に重要で、先にも書いたとおり解釈にも諸説あり、定まらない難解な部分でもあります。が、かなり勝手な解釈で、結構ざっくりとまとめてしまいました私。もしかして偏ってたら、ごめん、清少納言。という感じです。これまでもずいぶんdisってきましたが、最後までこんな感じになりましたね。


さてこれにて「枕草子」一応読了となりました。2018年の春頃に訳しながら読み始めましたから、おおよそ5年あまり、ずいぶんかかってしまいました。まさかこんなに長くなるとは! いろいろ他にやることがあったり、それに横道にそれまくったからっていうのもあるんですけどね。
この後しばらくは、もう一度冒頭の「春はあけぼの」から読み返し、変な解釈、誤った記述、おもしろくない小ネタなどについて少しずつ加筆、訂正、削除などしていこうと思います。
それが終わったら次は何を読むか…やはり方丈記だろうか、紫式部和泉式部の日記なのか、それとも何か他におもしろいものはないか、考え中です。何かぴったりくるものはないでしょうかね。

そういえば来年(2024年)の大河ドラマは、紫式部が主人公らしく、このあたりの時代も描かれそうですね。ちなみに中宮・定子役は高畑充希です。31歳だそうですが。清少納言ファーストサマーウイカだそうです。さてどんな感じになるのでしょうか。


【原文】

 この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどにかき集めたるを、あいなう、人のために便なき言ひ過ぐしもしつべき所々もあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。

 宮の御前に内の大臣の奉り給へりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には史記といふ書(ふみ)をなむ書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、「さは、得てよ」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよや何やと、尽きせず多かる紙を書き尽くさむとせしに、いとものおぼえぬことぞ多かるや。

 おほかた、これは世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ選り出でて、歌などをも、木・草・鳥・虫をも言ひ出だしたらばこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えなり」とそしられめ、ただ心一つにおのづから思ふことを戯れに書きつけたれば、ものに立ち交じり、人並み並みなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「恥づかしき」なんどもぞ見る人はし給ふなれば、いとあやしうぞあるや。げに、そもことわり、人のにくむをよしと言ひ、ほむるをも悪しと言ふ人は、心のほどこそおしはからるれ。ただ、人に見えけむぞねたき。

 左中将まだ伊勢の守と聞こえしとき、里におはしたりしに、端の方なりし畳をさし出でしものは、この草子載りて出でにけり。惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。それよりありきそめたるなめり、とぞ本に。

 

 

初瀬に詣でて

 長谷寺に参詣して局に座ってたら、卑しい身分の低い者たちが下襲の裾を長く引きながら並んでたのには、ヤな感じがしたの。相当な思いで参詣したっていうのに初瀬川の音は怖ろしくって、呉階(くれはし)を上る時なんかめちゃくちゃ疲れちゃって、早く仏のお顔を拝みたい!て思ってたら、白衣を着た法師や簑虫みたいな者が集まって立ったり座ったり、額を地面に付けたりして、少しも遠慮する様子が無いのはほんと憎ったらしく思えて、押し倒しちゃいたい気がしたの。どこのお寺だって、それはそういうものなんだけどね。
 すごく身分の高い方なんかが参詣なさってる局とかの前なんかは人払いしてあるけど、そこそこ身分が高い程度の人は制しかねるようだわ。そういうものだとはわかってるけど、やっぱり直接そういうことがある時はすごく腹立つのよ。

 やっときれいにし終わった櫛を水垢の中に落としてしまった時もいまいましいわね!


----------訳者の戯言---------

初瀬(はせ/はつせ)は地名です。今の奈良県桜井市初瀬(はせ)町。長谷寺があります。ということで、「初瀬に詣で」と言うと、長谷寺に参詣する、という意味になるようですね。

「川の音」というのは初瀬川の流れる音でしょうか。古名は「はつせがわ」で、後に「はせがわ」となりました。今も初瀬川(はせがわ)です。というか、大和川なんですけどね。奈良から南大阪を流れるあの大和川の上流の方です。

呉階(くれはし)というのは、階段付きの長い廊下だそうです。


以前「ねたきもの」という段がありました。ねたしというのは、「いまいましい」「憎たらしい」「くやしい」といったような意味の言葉です。この段もねたきものを書いていますから、これも「ねたきもの」の続きみたいなものかもしれません。
しかし「あやしき下﨟ども」とか「簑虫みたいな者」って言い方、どうなの?? 相変わらず、身分の低い者が大嫌いな清少納言です。


【原文】

 初瀬に詣でて局にゐたりしに、あやしき下﨟どもの、後ろをうちまかせつつ居並みたりしこそねたかりしか。

 いみじき心起こして参りしに、川の音などのおそろしう、呉階(くれはし)を上(のぼ)るほどなど、おぼろげならず困じて、いつしか仏の御前をとく見奉らむと思ふに、白衣着たる法師、蓑虫などのやうなる者ども集まりて、立ちゐ、額づきなどして、つゆばかり所もおかぬけしきなるは、まことにこそねたくおぼえて、おし倒しもしつべき心地せしか。いづくもそれはさぞあるかし。

 やむごとなき人などの参り給へる御局などの前ばかりをこそ払ひなどもすれ、よろしきは制しわづらひぬめり。さは知りながらも、なほさしあたりてさる折々、いとねたきなり。

 掃(はら)ひ得たる櫛、あかに落とし入れたるもねたし。

 

 

荒れたる家の蓬ふかく

 荒れてしまったお屋敷の蓬(よもぎ)が深く茂ってて葎(むぐら)が這ってる庭に、月が翳りなく明るく澄んだ様子で昇ってくのを見るの。また、そんな荒れてる家の板屋根の隙間から漏れて射し込んでくる月の光。荒くはない風の音。
 池があるところは、五月の長雨の頃には特にすごくしみじみとしたいい情緒が感じられるの。菖蒲、菰(こも)なんかが生い茂って、水も緑だから庭も同じ色に見えて、曇ってる空をぼんやり眺めて日を暮らすのは、すごく情趣のあるものだわ。いつも池のあるところはどこも趣があっていい感じなの。
 冬も氷が張る朝なんかは言うまでもないわ。わざわざ入念に手入れしてあるのよりも、水草がいっぱいで荒れ放題になってて青々としてる隙間隙間に、月が白々と映って見えるのとかね。 全部、月の輝く姿っていうのは、どんなところでもいい感じなの。


----------訳者の戯言---------

蓬(よもぎ)はわかりますが、葎(むぐら)っていうのは何?って感じです。
広い範囲にわたって生い茂り藪をつくる雑草のことだそうです。その茂みのことも葎と言うようですね。山野や道ばたに繁茂するつる草の総称とも言われています。

五月長雨というのは、ご存じのとおり旧暦5月の長雨ですから、すなわち梅雨です。ちなみに2023年の今年は本日6月8日(グレゴリオ暦太陽暦)ですが、旧暦4月20日となっています。旧暦ではまだ5月にもなっていませんが、関西ではグレゴリオ暦5月29日にすでに梅雨入りしたものと発表(気象庁)がありました。ややっこしいですね。
ま、いずれにしても旧暦の五月頃の雨なのですね。
五月雨(さみだれ)というのも同様に梅雨のことです。五月という字面からなんとなく爽やかな感じに思えますが、あのジメジメした梅雨なのです。古典を読むときはイメージの転換をしなければいけません。

能因本では、「あはれなるもの」(123)の終わりの部分に「荒れたる家に葎這ひかかり、蓬など高く生ひたる家に、月の隈なく明かき。いと荒うはあらぬ風の吹きたる。」とあります。
すでにこのブログでも早くに紹介した、三巻本にもとづく「あはれなるもの」ですが、それに付加されるべきであった部分と考えていいのかもしれません。

荒れてつる草が茂った庭、水草で埋もれた池や、そこに映る月の姿、といったものに風情を感じる清少納言。めずらしくしなびた感じの情景を描いています。「わびさび」というのは、質素で物静かな様子の中で感じられる美しさ、という感じなんですが、実は平安時代にはあまり表現されなかったんですね。

ざっとなぞっておくと、実は平安後期から鎌倉時代にかけて藤原俊成あたりから「わびさび」らしきものが出てきたそうです。俊成の子である定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」という歌にそのエッセンスがよく出ているとされていて、時代が下ってさらに鎌倉時代から室町時代にかけては「徒然草」の兼好法師、そして「わび」と言うと茶道にその舞台が移るんですね。室町中期の茶道創始者と言われる村田珠光、「わび」の心を茶の湯に投影した武野紹鷗、さらに紹鷗から受け継ぎ「わび茶」を完成させた千利休、同じく戦国時代の豪商で茶人の今井宗久などが「わび」の分野では有名人となりました。江戸時代には松尾芭蕉ですね。それはなんとなく私も知ってます。

というわけで、清少納言的には、地味めだけどけっこういかしてるでしょ?こういうセンスの私も素敵。の段となりました。でも、そもそも「をかし」の人なのですから、「あはれ」は追々紫式部に任せましょう。


【原文】

 荒れたる家の蓬(よもぎ)深く、葎(むぐら)はひたる庭に、月の隈(くま)なく明かく、澄みのぼりて見ゆる。また、さやうの荒れたる板間より洩り来る月。荒うはあらぬ風の音。

 池ある所の五月長雨の頃こそいとあはれなれ。菖蒲、菰(こも)など生ひこりて、水も緑なるに、庭も一つ色に見えわたりて、曇りたる空をつくづくとながめ暮らしたるは、いみじうこそあはれなれ。いつも、すべて池ある所はあはれにをかし。冬も氷したる朝(あした)などは言ふべきにもあらず。わざとつくろひたるよりも、うち捨てて水草(みくさ)がちに荒れ、青みたる絶え間絶え間より、月影ばかりは白々と映りて見えたるなどよ。

 すべて、月影はいかなる所にてもあはれなり。

 

 

 

宮仕所は

 宮仕えするところといったら、内裏ね。そして后の宮(きさいのみや)。その皇后さまのお子さまで一品の宮とかって申し上げるお方のところ。斎院は罪深いところだけど、いかしてるわ。言うまでもなく他のところとしては、東宮の女御の御方ね。


----------訳者の戯言---------

宮仕えというのは、宮中に仕えること。あるいは貴人に仕えることを言ったようです。

内裏は言うまでもなく帝の御殿です。皇居のことですね。
后宮(きさいのみや)は「きさきのみや」「こうぐう」とも読みます。こちらは皇后が住んでる御殿のことを言います。または、皇后のことを表す場合もあります。

一品(いっぽん)の宮というのは、一品親王(いっぽんしんのう)のことです。一品親王とは、律令制において皇親(こうしん)に対して与えられた最も高い品位(一品)を与えられた親王のことを言うのだそうですね。天皇と皇太子を除く皇親の序列の中で、一品親王皇親の筆頭的な地位にあったとされています。ただ、一品親王皇位継承との関連性は無いらしいです。


斎院はこれまでにも何度か出てきました。賀茂祭の斎王が住んでるところですね。
この時代は、選子(せんし/のぶこ)内親王が斎王であった時代であり、この方がおはした斎院であると考えられています。選子内親王は在任歴代最長で大斎院とも言われました。紫式部の同時代、他に斎王がいないわけですから、源氏物語の「朝顔」のモデルにもなったでしょうね。
原文に、斎院は「罪深なれど」とあります。なぜ罪深いのか?
考え方としては、斎王は仏と関係を断つということが罪深いのだというのですね。実は当時の通念というのはこうだったわけです。ただ実際には選子内親王は斎院にあっても仏に帰依していたようですし、斎院にいたさ中に発心和歌集の序文に仏法の功徳のことを書いているそうです。

ただどの程度なのかはわかりませんが、表向き?はやはり仏教とは緯線を画すべきなのが斎王、そして斎院の立場なのでしょう。
しかし、いずれにしても清少納言が「をかし」と書いてるように、この時代の斎院が宮中に次ぐ文化サロンであったことを示唆しています。


今で言うなら、こんな会社に就職したいとか、こんな仕事に就きたいとか、そういう感じだと思います。ただ、何となく気になるのは、そこに所謂やりがいとか、自己実現みたいな意識が感じられない所です。イケてるところで働きたい!オッシャレ―な仕事をしたい!という現代のライトな感覚にも似ていますね。
もちろん、志望動機の一つとしてそれもアリなのかもしれません。やりがいなどというもの、やってるうちについてくるものかもしれないのですから。まずは就職先を決めることです。


【原文】

 宮仕所は 内裏(うち)。后(きさい)の宮。その御腹の一品(いつぽん)の宮など申したる。斎院、罪深(ふか)かなれど、をかし。まいて、余の所は。また春宮の女御の御方。

 

 

松の木立高き所の② ~いみじうことわりなど言はせて~

 (僧侶が)もののけに、すごく謝罪の言葉を言わせて、許してやるの。「几帳の中にいると思ってたんだけど、無意識のうちに人前に出てしまってたんですね。どんなことが起こったのかしら…??」って女の子は恥ずかしがって、髪の毛で顔を隠して奥に入り込もうとするもんだから、(僧は)「ちょっと待って」と、加持祈祷を少しして、「どうでしょう? 気分はすっきりしましたか?」って笑いかけるのも、こっちが恥ずかしくなるくらい立派だわ。
 「もう少しいられればいいんですが、時間になりましたので…」って退出の申し出をするもんだから、「もう少し、、」なんて言って引き留めるんだけど、すごく急いで帰るのを、上臈女房らしき人が簾のところまでにじり出て、「とってもうれしいことに、お立ち寄りくださったおかげで、我慢できないほどでしたのに、今はよくなったようでございますから。かえすがえすもお礼を申し上げます。明日もお時間が空いた時にはお立ち寄りください」って言ったら、「すごく執念深いもののけのようでございます。油断なさらないよう気をつけておいてくださいね。今は良い状態のようでいらっしゃるので、お慶び申し上げます」と言葉少なに言って帰って行くの、すごく霊験あらたかで仏様が現れたかと思ったわ。
 きれいな童で髮のきちんとした子、また、大柄で髯は生えてるけど思いのほか髮が美しい子や、はなはだしくがっしりして髪が不気味の多い子なんかがお供してて。忙しくあちこちに招かれ、高貴な方として信望を集めておられるのは、僧侶として理想的なあり方だわね。


----------訳者の戯言---------

もののけに謝罪をさせて退散させるらしいです。このへんは、さすが平安時代でおもしろいですね。気のせいというか、実は僧侶の演出なんですけどね。みんな信じているのでしょう。

「よりまし」として、もののけに憑依されていた女の子は、実際には催眠術的なものにかかっていたのか、自分がどういう状況に置かれていたのか理解していません。

いずれにしても、催眠療法がうまく効いたようで、悪かった人の体調も復活したようです。めでたしめでたし。
僧侶は、今で言うなら名医みたいなものです。ドクターX・大門未知子か、医龍、今はDr.チョコレートをやってますし、TOKYO MERの劇場版もやってます。ついこの間までGet Ready!というのもやってました。古くはブラックジャックでしょうか。


うまく病を治したら、さすが理想的な僧侶、という風になるんですね。仕事ができる人というのはいつの世の中でもカッコ良く見えます。しかも謙虚なんですね。尊敬されるものです。
しかしお供の童たち個性的過ぎ。いろんなタイプに慕われてるのも高僧ならではということでしょうか。


【原文】

 いみじうことわりなど言はせて、ゆるしつ。「几帳の内にありとこそ思ひしか、あさましくもあらはに出でにけるかな。いかなることありつらむ」とはづかしくて、髪を振りかけてすべり入れば、「しばし」とて、加持少しうちして、「いかにぞや、さわやかになり給ひたりや」とてうち笑みたるも、心はづかしげなり。「しばしも候ふべきを、時のほどになり侍りぬれば」などまかり申しして出づれば、「しばし」など留(と)むれど、いみじう急ぎ帰るところに、上臈とおぼしき人、簾のもとにゐざり出でて、「いとうれしく立ち寄らせ給へるしるしに、たへ難(がた)う思ひ給へつるを、ただ今おこたりたるやうに侍れば、かへすがへすなむ喜び聞こえさする。明日も御暇(いとま)のひまにはものせさせ給へ」となむ言ひつつ、「いと執念(しふね)き御もののけに侍るめり。たゆませ給はざらむ、よう侍るべき。よろしうものせさせ給ふなるを、よろこび申し侍る」と言(こと)ずくなにて出づるほど、いと験(しるし)ありて、仏のあらはれ給へるとこそおぼゆれ。


 清げなる童べの髪うるはしき、また大きなるが髭は生ひたれど、思はずに髪うるはしき、うちしたたかに、むくつけげに多かるなどおぼえで。暇(いとま)なう此処彼処(ここかしこ)に、やむごとなう、おぼえあるこそ、法師もあらまほしげなるわざなれ。

 

 

松の木立高き所の①

 松の木立が高いお屋敷で、東や南の格子を全部上げてあるもんだから涼しそうに透けて見える母屋に、四尺の几帳を立てて、その前に円座(わろうだ)を置いて、40歳くらいのすごくいい感じの綺麗めの僧侶が墨染で薄めの袈裟を美しく着こなして、香染の扇を使って一生懸命、陀羅尼(だらに)を座って唱えてるの。
 もののけのせいで病んですごく悩まされてるからって、(もののけを)乗り移らせる人(よりまし)として大柄な少女が生絹(すずし)の単衣に彩り鮮やかな袴を長めに着こなして、膝をついてにじり出てきたんだけど、横の方に立ててある几帳の前に座ってるものだから、僧侶は外向きになって体をひねって、すごく鮮やかな独鈷(とこ)をその女の子に持たせて拝礼しながら読んでる陀羅尼も尊いわ。
 立ち会いの女房がたくさん付き添いで座ってて、静かに見守ってるの。しばらくして女童が震え出すと正気を失って。僧侶が加持祈祷するままにその霊験をお現しになる仏の御心もすごく尊いって思う。
 兄弟や従兄弟なんかも、みんな出入りしててね。ありがたがって集まってるのも、いつもの正気のままなら、どんなにか恥ずかしがってうろたえちゃうでしょうね。女の子本人は実は自分は苦しく感じてはいないって頭ではわかってても、すごく混乱して泣いてるのが気の毒で、少女の知人たちなんかは愛おしいって思って近くに座って、着物の乱れを直してやったりするの。
 こうしてるうちに、もののけに悩まされてる人は気分がよくなって、僧侶が「薬湯を」とかって言うの。北面の廂の間に待機してた若い女房たちは、不安なんだけど薬湯の器を提げて病人のところに急いで来てお世話をするのね。女房たちは単衣なんかがすごくきれいで、薄色の裳とかもよれよれでなくて、すっきりと美しいの。


----------訳者の戯言---------

「几帳(きちょう)」というのはよく出てきますが、自らおさらいしておきます。
布製の衝立(ついたて)でしたね。間仕切り、可動式のパーテーションです。T字型のフレームにカーテンみたいなもの(帷、帳などと言う)を掛けたものです。Tの縦棒は足(あし=脚?)で2本あり、Tの上の横棒を手と言います。このあしが土居という台に設置されてる感じです。

細かなところまできっちりしている人を「几帳面な人」と言ったりしますが、この几帳から来てるらしいと前にも書きました。元々、几帳の柱が細部まで丁寧に仕上げてある、ということからこう言ったそうですね。

さて、一尺≒30.30303030303…cmなので、四尺の几帳は高さ約1.2mのものということになります。
このほかにも高さ三尺(約90cm)のものとか、二尺(約60cm)のものもあります。今回出てきたのは高い方の四尺の几帳でした。幅は「幅(の)」という単位で表されました。これも一幅=約30cmだそうです。だとすれば、「尺」でいいのに、と思うのは私だけでしょうか? まぁ良いんですが、三尺の几帳は四幅(よの)、四尺のものは五幅(いつの)の帳(ちょう/とばり)(または帷)という布を垂らしたものなんだそうです。


「円座(わらふだ/わろうだ)」というのが出てきました。これは敷物の一種だそうで、藁(わら)、がま、すげ、まこもなどを渦巻き状に平らに編んで作ったものとのことです。今の座布団なんかに近いものでしょう。


「あざやかに装束きて」という語が出てきますが、印象としては今で言う「映える」というイメージだと思います。その日のファッションがいかしてて、インスタ映えする感じでしょうか。

香染は丁子で染めたもので、薄い茶色です。カフェラテの色ぐらいの感じ。丁子というのは生薬と言われてるんですが、実際にはスパイスです。英語ではクローブと言われていて、カレーとかチャイなんかに入れられます。メキシコ料理にも使われるらしいですね。


陀羅尼(だらに)というのは、仏教で唱えられる呪文のようなものです。私のような素人が聴くと、ほとんどお経と変わらないんですが、違うものらしいです。詳しくは、以前「陀羅尼は」という段に書きました。よろしければお読みください。


この段で出てきたように、僧侶とか修験者が祈祷をしたり、死霊、生き霊、もののけなんかを調伏(コントロールして、制圧)するとき、霊やもののけを一旦憑依させる者のことを「よりまし」と言ったりします。子供や人形がその役目を担ったようですね。具合の悪くなった人からこの「よりまし」に物の怪、霊をまず移し憑(と)りつかせてから、退散させたんだそうです。


動詞「ゐざる」というのは「居ざる」「膝行る」などと書くらしいです。「膝をついて、座ったまま移動する」ことを言います。


独鈷(とこ/とっこ/どっこ)っていうのは独鈷杵(とっこしょ、どっこしょ)のことです。鉄か銅製で、両端がとがった短い棒状のもので、金剛杵(こんごうしょ)という密教の法具の一つなんだそうですね。元々は古代インドの武器で、後に密教で外道悪魔を破砕し煩悩を打ち破る象徴として使うようになったと。たしかに武器っぽいです。金剛杵にはいろいろ種類があって、独鈷杵のほか、三鈷杵(さんこしょ)、五鈷杵(ごこしょ)、三鈷剣(さんこけん)、七鈷杵(ななこしょ)、九鈷杵(きゅうこしょ、くこしょ)等々が限りなくと言っていいほどあります。


というわけで、何やら具合の悪くなった人を僧侶が加持祈祷をしている風景を描いているようです。
たしかなエビデンスも無いのに病気になったのが「もののけ」のせいだと決め付けているところが、さすが平安時代なのですが、憑き物をうまい具合に乗り移させるのが、僧侶とか修験者とか陰陽師とかの手腕なのでしょうね。と言ってもほんとうにもののけややら、悪霊やらがいるわけではないので、一種の催眠術のようなものなのでしょう。心療内科などのメンタルヘルスの治療方法に通じるものかもしれません。
ただ、これでなんでもかんでも治るわけでもなく、急性の疾患にしても、ウィルスや菌による感染症の場合もあるでしょうしね。安静や栄養補給が必要だったりもします。

いずれにしても症状が良くなってくれれば、めでたしめでたしなのですが。②に続きます。


【原文】

 松の木立(こだち)高き所の東、南の格子上げわたしたれば、涼しげに透きて見ゆる母屋(もや)に、四尺の几帳立てて、その前に円座置きて、四十ばかりの僧の、いと清げなる墨染の衣(ころも)・薄物の袈裟(けさ)あざやかに装束きて、香染(かうぞめ)の扇を使ひ、せめて陀羅尼を読みゐたり。

 もののけにいたう悩めば、移すべき人とて、大きやかなる童の、生絹の単衣あざやかなる、袴長う着なしてゐざり出でて、横ざまに立てたる几帳のつらにゐたれば、外様(とざま)にひねり向きて、いとあざやかなる独鈷(とこ)を取らせて、うち拝みて読む陀羅尼もたふとし。

 見証(けそ)の女房あまた添ひゐて、つとまもらへたり。久しうもあらでふるひ出でぬれば、もとの心失せて、おこなふままに従ひ給へる、仏の御心もいとたふとしと見ゆ。

 兄人・従兄弟なども、みな内外(ないげ)したり。たふとがりて、集まりたるも、例の心ならば、いかにはづかしと惑はむ。みづからは苦しからぬことと知りながら、いみじうわび、泣いたるさまの、心苦しげなるを、憑き人の知り人どもなどは、らうたく思ひ、け近くゐて、衣(きぬ)引きつくろひなどす。

 かかるほどに、よろしくて、「御湯」などいふ。北面に取りつぐ若き人どもは、心もとなく引きさげながら、急ぎ来てぞ見るや。単衣どもいと清げに、薄色の裳など萎えかかりてはあらず、清げなり。

 

 

檳榔毛は

 檳榔毛(びろうげ)の車は、ゆっくりと行かせるのがいいの。網代あじろ)の車は走らせて来るのがいいわね。


----------訳者の戯言---------

檳榔毛(びろうげ)の車というのは、檳榔(びろう)の葉のビラビラで飾った豪華仕様の大型車です。牛車の超高級車ですね。例えればBMWの7シリーズとかベンツのSクラスとか、センチュリーとか。あるいはリムジン系でしょうか。貴人が乗るものとされています。
檳榔(びろう)っていうのは、ヤシ科の樹木で、平安時代には松竹梅よりも神聖視された植物だったそうですね。

網代車(あじろぐるま)も牛車の一種です。竹または檜の薄板を網代に組んで、屋形を覆ったものだそうで、摂政・関白・大臣・納言・大将などは略式のもの、遠出用として使ったらしいですね。フォーマルな時は檳榔毛に乗ったのでしょうけど。
四・五位、中・少将、侍従などは普通に網代車を使ったらしいです。それでもそこそこの貴族ですから、今で言うと高級車という感じではあるでしょうね。

実ははじめの頃の段に「檳榔毛はのどかに」という似たような段がありましたね。

意味はわかるのですが、あえて言うほどのことでしょうか。


【原文】

 檳榔毛(びらうげ)は、のどやかに遣りたる。網代あじろ)は、走らせ来る。