枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。最初から読みたい!という奇特な方は「春はあけぼの」https://makuranosoushi.hatenablog.com/entry/2018/04/19/163807←こちらから。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑬ ~二十日参りたるにも~

 そして、二十日に定子さまのところに参上した時にも、まずこのことを申し上げたのね。「身は投げた」って言って、蓋(ふた)だけを持ってきたお坊さんのように、遣いの者が空容器をすぐさま持って帰ってきたのにはガッカリだったこと、もし雪が残ってたら、容器の蓋に小さい山を作って、白い紙に歌をいい感じに書いて参上しようとしたことなんかを申し上げたら、すごくお笑いになったの。定子さまの側に控えてた女房たちも笑って、
「こんなに思い入れがあったのに、台無しにしちゃったわけで、罪作りなことしたわね。実は14日の夜、侍たちを行かせて取り捨てちゃったの。あなたの返事で、誰かが雪を捨てたって言い当ててたのには、めっちゃウケちゃったわ。その木守の女が出てきて、すごく手をすり合わせて懇願したんだけど、『定子さまのお達しなのよねぇ。あの里から来るような人(清少納言)にこのことを話してはダメ! 話したら、家を叩き壊しちゃうわよ』とか言って、左近の司の南の土塀あたりに雪は全部、捨てちゃったの。『すごく固くて、いっぱい残ってましたよ』なんて言ってたから、ほんと20日までは残ってたでしょうね。今年の初雪も、さらに降り積もってたかもしれないし。帝もこれをお聞きになって、『彼女、よくよく深く考えて、しっかり反対意見を押し通したんだね』なんて、殿上人のみんなにおっしゃったんですって。いずれにせよ、その作った和歌を詠んでみて! 今はこうやって全部、白状しちゃったんだから、おんなじこと。あなたの勝ちですわよ」
って、定子さまはおっしゃるし、女房も言うものだから、「どうして、そんなにつらいことを聞きながら、申し上げられるでしょう? できませんわ」なんて、ほんと真剣に情けなくなって、落ち込んじゃってたら、帝もお越しになって「ほんとに、この何年間か(中宮の)お気に入りの人と思ってたんだけど、これでは、あやしいナ、って思ったよ」とか、おっしゃるから、ますます情けなくって、つらくって、泣いちゃいそうな気持ちがするの。「もう、情けない、すごくつらい世の中ですわ、後から降り積もった雪をうれしいって思いましたのに、『それ、気に入らないわ、掻き捨ててね」っておっしゃいましたしね』って申し上げたら、「勝たせまいと思ったんだろうね」って、帝もお笑いになったの。


----------訳者の戯言---------

「身は投げた」って言って蓋だけ持って帰ったというのは、どういうことなのか? 何を意味するんでしょうか? よくわかりません。いきなり難題です。

まず、偈(げ)という仏典の詩があるそうです。元来、仏典において、詩句で思想や感情を表現したものは多いようで、もちろん元々はサンスクリット語で書かれたようですね。これを漢語(漢文)に翻訳したのが、まあ「偈」というものらしいです。漢語になると、今度は漢字で三言四言あるいは五言など×4句からなる詩文となったと。下記、そのいくつかの例です。

七仏通戒偈「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」
無常偈「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」
法身偈「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説」

とまあ、私にはよくわかりませんが、このように仏教の根本思想を簡潔に表現したものとして、有名なものがあるそうです。

今回出てきた「身は投げつ」というフレーズは、この中でも「無常偈」(=諸行無常偈)に関連していて、「半偈」という逸話が残っています。

雪山童子(せっせんどうじ)という求道者がその昔、いたそうです。雪山というのはヒマラヤのことだそうですね。まあ、仏教の生まれたのはインドですから、それも納得です。

帝釈天というのは、天界に住む仏教の守護神の一人とされているそうですが、その帝釈天がある時、この雪山童子の求道の姿勢に疑いを持って、本気度を試そうとしました。羅刹=悪鬼に姿を変えて、「無常偈」の前半部分(諸行無常 是生滅法)を教えたと。しかし、後半部分をどうしても知りたいと願い出たところ、羅刹は食うための人肉を求め、それと引き換えに教えると約束。このため雪山童子は自らの身体を捧げて、この偈の後半部分、つまり「半偈」(生滅滅已 寂滅為楽)を得ようとしたのですね。
こうして「無常偈」を獲得した雪山童子は、人々に遺すため方々にこの「無常偈」を記し、その上で、羅刹に身体を捧げるため、高い木に登って身を投げたのだそうです。
地面に落ちないうちに、化けていた羅刹は帝釈天に戻って、雪山童子の身体を受け止め、ひれ伏して懺悔し、さらには未来に悟りを得られた際には、お救いいただくようにと願い出さえしたとのこと。すげー。という、この雪山童子、後世のお釈迦様でありました、という話。

で、この↑逸話の「身を投げた」というところだけピックアップしたのが、ここの部分。上のような逸話の紹介必要ですか? いりませんか、そうですか。

「左近の司」は、左近衛府のこと。宮中の警備や行幸の時、警護に当たる役所です。

さて私の感想。

定子、アンタが黒幕だったんかい!
しかも手下の女房、脅迫やばい。庭師の家壊すゾって…。いや、これどっちもけっこうな執念というか、思い入れ強い。案外勝ち負けにこだわる人々。雪が残るかどうかぐらいで…。

最終的には白状しちゃったんで、まあ良いんですが、清少納言的には納得いかなかったと。

予想通りこの段、めちゃくちゃ長くて、やはり読むのに約1カ月かかりました。
雪山の話メインなんですが、サブキャラの常陸の介、式部省の丞の源忠隆、そして斎院の手紙とか、いろいろ話は飛びまくり。清少納言、いろいろ書きたいのはわかりますが、もうちょっとテーマを分けて書いてもいいような気もしましたね。

これ、たぶん枕草子ファンのみなさん、おっしゃることなんでしょうけど、清少納言の「定子さま愛」がハンパない、というのが結論。もちろん、書いたのは後年のこと。枕草子の日記的章段はだいたい中宮定子の「よかった頃」を後から書いてるわけですから、結局はあれこれ愚痴も言ったけど、いい思い出ね、ということですね、はい。


【原文】

 <さて、>二十日参りたるにも、まづこのことを御前にてもいふ。「[身は投げ]身は投げつ」とて、蓋の限り持て来たりけむ法師のやうに、すなはち持て来しがあさましかりしこと、物の蓋に小山作りて、白き紙に歌いみじく書きて参らせむとせしことなど啓すれば、いみじく笑はせ給ふ。御前なる人々も笑ふに、「かう心に入れて思ひたることをたがへつれば罪得らむ。まことは、四日の夜、侍どもを遣りて取り棄てしぞ。返りごとに言ひ当てしこそいとをかしかりしか。その女出で来て、いみじう手をすりて言ひけれども、『仰せごとにて。かの里より来たらむ人に、かく聞かすな。さらば、屋うちこぼたむ』など言ひて、左近の司の南の築土などにみな棄ててけり。『いと固くて、おほくなむありつる』などぞいふなりしかば、げに二十日も待ちつけてまし。今年の初雪も、降り添ひなまし。上も聞こしめして、『いと思ひやり深くあらがひたり』など殿上人どもなどにも仰せられけり。さても、その歌語れ。今はかく言ひあらはしつれば、同じこと勝ちたるななり」と御前にも仰せられ、人々ものたまへど、「なでふにか、さばかり憂きことを聞きながら啓し侍らむ」など、まことにまめやかにうんじ、心憂がれば、<上もわたらせ給ひて、>「まことに、年頃はおぼす人なめりと見しを、これにぞあやしと見し」など仰せらるるに、いとど憂く、つらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。「いで、あはれ、いみじく憂き世ぞかし。後に降り積みて侍りし雪をうれしと思ひ侍りしに、『それはあいなし、かき棄ててよ』と仰せごと侍りしよ」と申せば、「勝たせじとおぼしけるななり」と、上も笑はせ給ふ。


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職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑫ ~暗きに起きて~

 暗いうちから起きて、折櫃(おりびつ)なんかを持たせて、「これに雪の白いところを入れて持って帰って来て。汚くなったところは掻き捨ててね」なんて言って、使いを遣ったら、すごく早く、持たせた容器を引っ提げて、「すでに、早々に無くなってございましたよ」って言うから、めちゃくちゃがっかりしちゃって。いい感じにできあがったら、みんなに語り伝えてもらおう!って、苦心して詠んだ歌も、残念ながら役に立たなくなっちゃったわ。「何でそんなことになったのかしら? 昨日まではあんなにあったのに、夜の間に消えちゃうって!?」って、しょんぼり言ったら、「木守が申したのには『昨日、すごく暗くなるまであったんですよ。御褒美をいただけると思ってたのにー!』って、手をたたいて騒いでましたよ」なんて言って騒いでね。そうしてるうちに、宮中からお達しが届いたの。で、「雪は今日までありましたか?」とのお言葉があって、すごく忌々しくって残念なんだけど、「『長くて年内、まして一日まではまさか残ってないでしょ』って女房たちみんなが申し上げてたんだから、昨日の夕方まで残ってたのは我ながら上出来じゃないかなって思います。今日までっていうのは、欲張りすぎたのでしょうか、夜のうちに誰かが私を憎んで、雪を取って捨てたんじゃないかって推測しているんですよ、って申し上げてくださいね」って、お返事差し上げたの。


----------訳者の戯言---------

「折櫃」(おりびつ)は、コトバンクによると、「檜ひのきの薄い板を折り曲げて作った器」と出ていました。肴(さかな)や菓子などを盛ったそうで、四角、六角などの形がある、のだそうです。

「言ひくんず」というのは、漢字で書くと「言ひ屈ず」なのだそうです。「言って力を落とす。しょげて言う」という感じのようですね。

「ねたう」というのは、忌々しい、癪にさわる、イラっとする感じでしょうか。

自分の予想がまあまあ当たってたわけですが、あと一日あればなー、というところで、雪が無くなったと。
これ、悪意のある人のせいにしてます、清少納言。はたしてそうなのでしょうか? 犯人誰やねんという話ですか? いずれにしても次回で終わりの予定です。どういう結末なのか、乞うご期待。


【原文】

 暗きに起きて、折櫃など具せさせて、「これに、その白からむ所入れて持て来。きたなげならむ所、かき棄てて」など言ひやりたれば、いととく持たせたる物を引きさげて、「はやくうせ侍りにけり」といふに、いとあさましく、をかしうよみ出でて、人にも語り伝へさせむとうめき誦(ずん)じつる歌も、あさましうかひなくなりぬ。「いかにしてさるならむ。昨日までさばかりあらむものの、夜のほどに消えぬらむこと」と言ひくんずれば、「木守が申しつるは、『昨日いと暗うなるまで侍りき。禄たまはらむと思ひつるものを』とて、手をうちてさわぎ侍りつる」など言ひ騒ぐに、内裏(うち)より仰せごとあり。さて、「雪は今日までありや」と仰せごとあれば、いとねたう口惜しけれど、「『年のうち、一日(ついたち)までだにあらじ』と人々の啓し給ひしに、昨日の夕暮れまで侍りしはいとかしこしとなむ思う給ふる。今日までは、あまりごとになむ。夜のほどに人のにくみて取り棄てて侍るにやとなむおしはかり侍ると啓せさせ給へ」など聞こえさせつ。


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職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑪ ~そのほども~

 その時だって、あの雪山のことが気になるから、宮仕えの女官、洗濯や湯殿の清掃担当女子スタッフ、雑務担当女子スタッフなんかを使って、絶えず見張りに行かせてたの。七日の節句のお下がりまであげたから、木守(=庭師)が拝んで感謝してたことなんかも、みんなで笑い合ってたのよ。

 里帰りしてる時も、毎日、夜が明けたらすぐ、この雪山こそ最重要マターってことで、使いを送って見に行かせてたの。十日頃、「あと五日ほどは残ってるでしょう」って言うから、当たったー!ってうれしく思ったわ。で、また昼も夜も人を遣わして様子を見に行かせてたんだけど、14日の夜、雨がすごく降ったから、これで雪山が消えちゃうんじゃないかって、あと一日か二日待てないものー?って夜も起きてめっちゃ嘆いてたら、それを聞いた人は「こりゃイカれてるわー」って笑ってたのよね。誰かが出ていく時、私もそのまま起きてたから、下働きのスタッフを起こそうとしたんだけど、全然起きないから、めちゃくちゃ腹立ってね、ようやく起き出してきたから見に行かせたら、「円座くらいのが残ってます。木守がすごくしっかりガードして、子どもも寄せつけなかったんですね。『明日か明後日までは残っているでしょう。ご褒美をいただきたいです』って申してましたよ」って言うから、とってもうれしくってね、早く明日になったら、歌を詠んで、容器に残った雪を入れて、定子さまのところに持って参ろう!って思うの。すごく待ち遠しくって落ち着かなくて、やりきれないのだわ。


----------訳者の戯言---------

「円座」は、敷物の一種。「 Weblio古語辞典」によると、藁、がま、すげ、まこもなどを渦巻き状に平らに編んで作ったもの。だそうです。座布団みたいなものでしょう。

どうやら、清少納言の予想が当たった!お見事!みたいな展開です。
⑫に続きます。


【原文】

 そのほども、これが後ろめたければ、おほやけ人、すまし、長女(をさめ)などして、たえずいましめにやる。七日の節供(せく)のおろしなどをさへやれば、拝みつることなど笑ひあへり。

 里にても、まづ明くるすなはち、これを大事にて見せにやる。十日のほどに、「五日待つばかりはあり」といへば、うれしくおぼゆ。また昼も夜も遣るに、十四日夜さり、雨いみじう降れば、これにぞ消えぬらむといみじう、いま一日(ひとひ)二日も待ちつけでと、夜も起きゐて言ひ嘆けば、聞く人も、「ものぐるほし」と笑ふ。人の出でて行くに、やがて起きゐて、下衆(げ<す>[に])起こさするに、さらに起きねば、いみじうにくみ腹立ちて、起き出でたる遣りて見すれば、「円座(わらふだ)のほどなむ侍る。木守いとかしこう守りて、童(わら<は>)べも寄せ侍らず。『明日、明後日(あさ<て>)までも候ひぬべし。禄たまはらむ』と申す」といへば、いみじううれしくて、いつしか明日にならば歌よみてものに入れて参らせむと思ふ、いと心もとなくわびし


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歴史読み 枕草子―清少納言の挑戦状

歴史読み 枕草子―清少納言の挑戦状

 

 

職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑩ ~さて、その雪の山は~

 さて、その雪山は本物の越(こし=北陸)の山みたいに見えて、雪が消えそうな感じもしなくなってるの。黒く汚れてきて見る価値もない様子にはなったんだけど、ほんと、勝ったわねって気持ちになって、何とかして15日までは持たせたいって私、祈ったわ。でも、「七日を越えるのは到底無理でしょう」って、やっぱ言われるし、どうにかしてこの雪山の最後を見届けようって、女房たちもみんな思ってたんだけど、急に定子さまが三日に内裏にお入りになることになって。この山の最後を知らないで終わるのはめちゃくちゃ残念、って、心底思ったの。他の人も「ほんと、雪の山がどうなるか知りたかったのにねぇ」なんて言うし、定子さまもそうおっしゃるから、どうせなら言い当ててご覧にいれようと思ってたのに、それもムリだし。で、定子さまの参内のための道具類を運んだりして、とっても忙しい時に紛れて、木守っていう者(庭師)が土塀のところに廂を出して住んでるんだけど、その人を縁側のところに呼びよせて、「この雪山を厳重に守ってて。子どもなんかに踏み散らかされたりせず、壊されたりもしないよう、しっかり15日までキープしておいてね。その日まで雪山があったら、すばらしいご褒美をいただくでしょうし。わたしからも十分なお礼をするわね」なんてお話しして、いつもは台盤所の女房や下男なんかに貰ってるんだけど、その果物やなんかをすごくいっぱい持たせてあげたら、ニコニコ笑って、「ま、とっても簡単なことです。きっちりガードしますよ、子どもは登るかも、ですけど…」って言うから、「そこ、ちゃんとコントロールして、言うことを聞かない者がいたら報告して」とかって、言い聞かせて、定子さまが参内されたから、七日までお供して。それから実家に戻ったのね。


----------訳者の戯言---------

原文の「越(こし)」というのは、「Weblio古語辞典」によると、若狭と佐渡を除く「北陸道」の古名となっています。今の福井県、石川県、富山県新潟県。だそうです。「大化改新の後、越前・越中・越後に分かれ、さらにその後に能登・加賀に分かれた」となっていますが、能登・加賀に分かれたのは今の石川県や富山県、つまり越中あたりだけのことでしょう。「越の国」「越の道」「越路(こしじ)」などとも呼ばれたそうです。

詳細は専門家の方にお任せするとして北陸の雪山と言えば「白山」でしょう。

「築土」というのは、「屋根付き土塀」のことのようです。「人にあなづらるるもの」という段に出ていました。

「台盤所(だいばんどころ)」とは、「台盤を置いておく所。宮中では、清涼殿内の一室で、女房の詰め所」となっています。では「台盤」とは何ぞや? 公家の調度の一つで、食器や食物をのせる台。とのこと。食卓、お膳みたいなやつですね。

お正月になって、定子さまにお供して内裏に入ることになった定子サロンのスタッフたち。何とか雪山をキープすべく、清少納言は庭師の人にこの雪山のガードを頼みます、と。さて、この雪山、いつまでもつのでしょうか。

常陸の介や斎院の手紙はいったいどうなったの?と気になりつつも、やはりメインのストーリーは雪山の行方にシフトしていく感じですか。いやいや、この段まだまだ気は抜けません。
⑪に続きます。


【原文】

 さて、その雪の山は、まことの越のにやあらむと見えて、消えげもなし。黒うなりて見るかひなきさまはしたれども、げに勝ちぬる心地して、いかで十五日待ちつけさせむと念ずる。されど、「七日をだにえ過ぐさじ」と、なほいへば、いかでこれ見果てむとみな人思ふほどに、にはかに内裏へ三日に入らせ給ふべし。いみじう口惜し、この山のはてを知らでやみなむことと、まめやかに思ふ。こと人も「げにゆかしかりつるものを」などいふを、御前にも仰せらるるに、同じくは言ひあてて御覧ぜさせばやと思ひつるに、かひなければ、御物の具どもはこび、いみじうさわがしきにあはせて、木守といふ者の、築土のほどに廂さしてゐたるを、縁のもと近く呼びよせて、「この雪の山いみじう守りて、童べなどに踏み散らさせず、こぼたせで、よく守りて、十五日まで候へ。その日まであらば、めでたき禄たまはせむとす。わたくしにもいみじき喜び言はんとす」など語らひて、常に台盤所の人、下衆などに呉[ま]るるを、菓物や何やといとおほく取らせたれば、うち笑みて、「いとやすきこと。たしかに守り侍らむ。童べぞのぼり候はむ」といへば、「それを制して、聞かざらむ者をば申せ」など言ひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、七日まで候ひて出でぬ。

 

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枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

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職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑨ ~さて雪の山つれなくて~

 で、雪の山には別に何ごともなく、そのまんま年が明けたのです。でも一月一日の夜、雪がすごくいっぱい降ったから、「うれしいな、また積もったかなぁ」って見たら、定子さまが「これは気に入らないわね。最初に降った雪の部分はそのままにして、今回の分は掻き捨ててね」っておっしゃるの。

 その後、局にはすごく早く下りてって。すると侍の長の者が、柚子の葉のような宿直衣(とのゐぎぬ)の袖の上に、青い紙を松の枝につけた手紙を置いて、ぶるぶる震えながら出てきたのね。「それはどこからの手紙かしら?」って訊ねたら、「斎院からです」って言うから、すぐさま、素敵!って思えて、手紙を受け取って、さっそく定子さまのところに参上したの。

 まだご就寝中だったので、御帳台の前にあたる格子を、碁盤なんかを引き寄せてそれに乗っかって、一人でヨイショって持ち上げるんだけど、すごく重いの。で、格子の片方だけを持ち上げるから、ぎしぎしと音が鳴って、定子さまが目を覚まされてね、「何をしてるのよ」っておっしゃったもんだから、「斎院からお手紙が届いたんですから、どうして急いで格子を上げないでいられるでしょう?」って申し上げたら、「ほんと、えらく早い時間帯だこと」って、起きられたのよね。お手紙をお開けになったら、五寸くらいの長さの卯槌二つを、卯杖に見立てて頭の所を紙に包んだりして、山橘、日陰、山菅なんかの草木で美しく飾ってあったんだけど、お手紙はないの。何もないはずないじゃない、って、よくよくご覧になると、卯杖の頭を包んでる小さな紙に、こう書いてあったの。

山とよむ斧の響きを尋ぬればいはひの杖の音にぞありける
(山に鳴りわたる斧の響きをたずねてみたら、祝いの卯杖を作るための木を切る音だったよ)

 ご返事をお書きになる定子さまのご様子もとっても素敵。斎院にはこちらからお送りする時も、お返事する時にも、やはりことさらに書き損じも多くって、ご配慮がうかがわれるの。お使いの者に、白い織物の単衣(ひとえ)、蘇芳色に見えたのは、梅染めだったようで、雪の降り積もった上を、これら賜った織物を肩に掛けて行くのも美しく見えるのよね。このとき定子さまがどんな返歌を書かれたのか、知ることができなかったのは残念だったわ。


----------訳者の戯言---------

斎院(さいいん)というのは、賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王のことです。伊勢神宮では斎宮と言います。これらを合わせて「斎王」とも呼びますね。

卯槌(うづち)とは「中務省の糸所(いとどころ)から邪気払いとして朝廷に奉った槌」だそうです。
すさまじきもの③ ~よろしうよみたると思ふ歌を~」にも出てきました。ご記憶に残ってますでしょうか。

卯杖(うづえ)とは、正月初の卯の日に、魔よけの具として用いる杖らしいです。「ここちよげなるもの」に詳しく書きましたのでご参照ください。

蘇芳」という色は、蘇芳という植物で染めた黒味を帯びた赤色です。インド・マレー原産のマメ科の染料植物とか。

さて、いよいよ年が明けました。
また新たな展開です。「常陸の介」はどこへやら、話はあっちこっちに飛びまくりですね。

雪山を作った雪が最初に降ったのが12月の10日過ぎ、12日なのか15日なのかはわからないですけど、みんなあと10日くらいしか残ってないんだろう、大晦日まではないだろう、と言ってた中、清少納言だけは来年1月の10日過ぎても残ってるんじゃないかと予想してましたから、なかなかの慧眼(けいがん)です。まずこれ、自慢だったんでしょうね。

で、斎院の手紙が届きました。
「山とよむ(山が響く)」の歌がどういったことを表してるのかはよくわからないのですが、こういう歌を斎院が中宮定子に寄せたわけですね。その「こころ」は、この後何か出てくるのでしょうか。

もう少し読み進めないといけませんね。
⑩に続きます。


【原文】

 さて雪の山つれなくて年もかへりぬ。一日の日の夜、雪のいとおほく降りたるを、「うれしくもまた降り積みつるかな」と見るに、「これはあいなし。はじめの際をおきて、今のはかき棄てよ」と仰せらる。

 局へいととく下るれば、侍の長なる者柚の葉のごとくなる宿直衣の袖の上に青き紙の松につけたるを置きて、わななき出でたり。「それはいづこのぞ」と問へば、「斎院より」といふに、ふとめでたうおぼえて、取りて参りぬ。

 まだ大殿籠りたれば、まづ御帳にあたりたる御格子を、碁盤などかきよせて、一人念じあぐる、いと重し。片つ方なればきしめ<く>[き]に、おどろかせ給ひて、「など、さはすることぞ」とのたまはすれば、「斎院より御文の候ふには、いかでか急ぎあげ侍らざらむ」と申すに、「げにいと疾かりけり」とて起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる卯槌二つを卯杖のさまに頭などつつみて、山橘・日陰・山菅などうつくしげに飾りて御文はなし。ただなるやうあらむやはとて御覧ずれば、卯杖の頭つつみたる小さき紙に、

山とよむ斧の響きを尋ぬればいはひの杖の音にぞありける

 御返し書かせ給ふほども、いとめでたし。斎院にはこれよりきこえさせ給ふも、御返しもなほ心ことに書きけがしおほう、御用意見えたり。御使に白き織物の単衣、蘇芳なるは梅なめりかし、雪の降りしきたるに、かづきて参るもをかしう見ゆ。そのたびの御返しを知らずなりにしこそ口惜し<けれ>[う]。

 

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『枕草子』をどうぞ―定子後宮への招待― (新典社選書44)

『枕草子』をどうぞ―定子後宮への招待― (新典社選書44)

 

 

 

職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑧ ~つごもりがたに~

 大晦日の頃には、雪山も少し小さくなった感じなんだけど、それでもまだ結構高くって、お昼頃、縁側に女房たちが出てきてた時、ちょうど常陸の介がやって来たの。「どうしたの? すっごく長いこと見かけなかったじゃない」って聞いたら、「別に何てことはないですが。ヤなことがありましたのでね」って言うのよ。「何ごと?」って尋ねたら、「やっぱり…こう思ってたのですよ」って、朗々と声をのばして詠いはじめたの。

うらやまし 足もひかれず わたつ海の いかなる人に もの賜ふらむ
(うらやましくって足も向かないの。いったい全体どんな人に物をお与えになったのかしら??)

って詠んだんだけど、みんな嘲笑して、無視するようになったから、雪の山に登り、うろうろ歩いたりして帰ってった後、右近の内侍(左近の内侍?)に「こんなことあったの」って言ったら、「どうして、人を付けてこっちに来させてくれなかったんです?? 彼女がきまり悪くって、雪の山に登ったりうろうろしてたのは、すごく悲しいじゃないですか」って言うから、また、みんな笑ったの。


----------訳者の戯言---------

常陸の介が作った歌に「わたつうみ」と出てきますが、海。大海のことだそうです。もしかすると「めっちゃいっぱいの」もの、コトを表しているのかもしれません。自信ないですが。
そもそも「わたつみ」というのは海を支配する神。海神。で、「わたつみ」が「渡津海」などと書かれたため、「み(神)」を誤って「海」と解釈してできた語だそうです。

右近の内侍(左近の内侍?)は、この段の③に出てきました。常陸の介に興味津々の人でしたね。

常陸の介、再登場です。どうも例の上品な尼さんが物をもらってたのを見て、やっかんでたらしい。
まだまだ先が読めませんが、⑨に続きます。


【原文】

 つごもりがたに、少し小さくなるやうなれど、なほいと高くてあるに、昼つ方、縁に人々出でゐなどしたるに、常陸の介出で来たり。「などいと久しう見えざりつるに」と問へば、「何かは。心憂きことの侍りしかば」といふ。「何事ぞ」と問ふに、「なほかく思ひ侍りしなり」とて、ながやかによみ出づ。

うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなる人にもの賜ふらむ

といふを、にくみ笑ひて、人の目も見入れねば、雪の山にのぼり、かかづらひありきて往ぬる後に、<右>[左]近の内侍に、「かくなむ」と言ひやりたれば、「などか、人添へてはたまはせざりし。かれがはしなたなくて雪の山までのぼりつたよひけむこそ、いとかなしけれ」とあるを、また笑ふ。

 

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まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

 

 

職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑦ ~さて、その山作りたる日~

 で、その雪山を作った日、お遣いとして式部省の丞の源忠隆が参上してきたから、座布団を差し出して話してたんだけど、「今日は雪の山を作らせてらっしゃらないところはありません。帝のいらっしゃる清涼殿の壺庭でも作らせておられましたし。皇太子の東宮にも、弘徽殿にも作られました。京極殿にも作らせていらっしゃいましたよ」なんて言うから、

ここにのみ めづらしと見る 雪の山 ところどころに 降りにけるかな
(ここだけで、珍しいと思って見る雪の山、だけど、この雪、実は方々に降っちゃってるのよね)

って詠んで、近くにいた女房を介して言わせたら、何度も何度も首を傾げて、「返歌をしたら、あなたの歌をけがすことになっちゃいます。この歌、オシャレですよー。御簾の前でみんなに披露しましょうよ」って立ち上がったの。歌がとっても好きだって聞いてたのに、変だわね。定子さまにこのことをお話ししたら、「あなたの歌にふさわしい、すごく良い歌を詠んで返さなきゃって思ったんでしょうね」って、おっしゃったの。


----------訳者の戯言---------

式部省というのは、朝廷の人事と大学寮を司る役所だそうです。「丞」(じょう)というのは、律令制では省の補佐官ではあるんですが、四等官の第3位のポストです。守(カミ)=長官、介(スケ)=次官に次いでの官ということになるでしょうか。

源忠隆は、「うへに候ふ御猫は①~③」にも登場していましたね。その時は蔵人の一人でした。なんか、犬を叩いたり、かと思えば、探したり、何かうろうろしてる奴、みたいな役どころの人でした。

「褥」は「しとね」と読みます。敷物のことで、概ね、座布団、敷き布団等々。

「御前の壺」というのは帝のいらっしゃる清涼殿と後凉殿との間にある壺庭のことを指すようです。

「春宮」は「とうぐう」と読みます。「東宮」とも書きます。読み方「しゅんぐう」ではないとか。皇太子の住む宮殿のことを言いますが、転じて皇太子自身のこともこう言ったりします。この段のお話では本来の意、皇太子の住む御殿のことですね。

「弘徽殿」も殿舎の一つです。后妃が賜って居住したということで、当時は藤原義子という人が入内していて、この方は「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」と呼ばれていたそうです。
一条天皇の后妃としては、この枕草子に登場する中宮・定子、そのライバルと言われている中宮・彰子が有名ですが、側室として3人の女御(藤原義子=弘徽殿女御、藤原元子=承香殿女御、藤原尊子=暗戸屋女御=前御匣殿女御)がいたそうです。所謂歴史の授業とかにはあまり登場はしませんが、実はこうして天皇の側室はいっぱいるんですね。
なお、源氏物語に「弘徽殿女御」という女御が登場しますが、当然これはフィクションで、架空の人物です。

で、「京極殿」です。読みは「きょうごくどの」。こちらは、平安京の東京極大路に面した殿舎。藤原道長の邸宅の一つのようです。

とまあ、あちこちで雪山作りをしたらしい。この頃の皇族やら貴族ってのは、何やっとるんだか。というのが私の感想ですね。こんな人たちに政治を任せていていいのでしょうか。ブラックだし。

で、お話としては、またもやネタがコロコロ変わり、清少納言の自作和歌自慢コーナーになりました。
収拾はつくのか? ⑧に続きます。


【原文】

 <さて、>その山作りたる日、御使に式部丞忠隆参りたれば、褥さし出だしてものなどいふに、「今日雪の山作らせ給はぬところなむなき。御前の壺にも作らせ給へり。春宮にも弘徽殿にも作られたり。京極殿にも作らせ給へりけり」などいへば、

ここにのみめづらしとみる雪の山所々にふりにけるかな

と、かたはらなる人して言はすれば、度々かたぶきて、「返しはつかうまつりけ<が>[る]さじ。あされたり。御簾の前にて人にを語り侍らむ」とて立ちにき。歌いみじうこのむと聞くものをあやし。御前にきこしめして「いみじうよくとぞ思ひつらむ」とぞのたまはする。

 

検:職の御曹司におはしますころ、西の廂にて 職の御曹司におはしますころ西の廂にて 職の御曹司におはします頃西の廂にて

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