枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。

頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて③ ~蘭省花時錦帳下と書きて~

蘭省花時錦帳下 

って書いて、「これに続く後の句はどうでしょうか?」と書いてあるんだけど、どうやって返事すべきなんでしょ。中宮さまがいらっしゃったらお見せして相談もするんだけど、これ、いかにも知った風な顔で、下手な漢字を書いたりしても、かなり見苦しいだろうよねーなんて思いめぐらせてる間にも、返事を催促してくるのよね。なもんだから、ただその紙の端っこに、火鉢に消し炭があったのを使って、「草の庵をたれかたづねむ」って書いて使者に渡したんだけど、それっきり返事は来ないの。


----------訳者の戯言---------

「蘭省花時錦帳下」という一節は、「白氏文集」の中にある「蘭省花時錦帳下、廬山雨夜草庵中」から抜粋されているようです。白氏というのはあの白楽天白居易)ですね。
意味は、「あなたたちは花の盛りの季節、錦のとばりの下で華々しく過ごしてるけど、私は廬山という山の中、雨の夜を粗末な庵で寂しく過ごしているのだ」という感じのようです。

で、この漢詩の前半部分の続きを問われた清少納言。そのまんま続きを書いて返したんじゃ芸が無い、と、「草の庵をたれかたづねむ」と和歌の下の句(七七)で応えます。で、実はこの「草の庵をたれかたづねむ」というのにも出典があるようで、当時の公卿の一人で和歌の名人でもあった藤原公任の「大納言公任集」に書かれている「いかなるをりにか『草のいほりをたれかたづねむ』とのたまひければ、いる人たかただ『九重の花の宮こをおきながら』」からのものなのだそうですね。

内容はこうです。
大納言であった藤原公任が、いつの時だかに「草のいほりをたれかたづねむ(粗末な庵を訪ねる者なんか居るのかな? いないよね)」と下の句をおっしゃったので、藤原挙直(たかただ)という人が「九重の花の宮こをおきながら(花の都である宮中をさしおいてね)」と上の句を返した、と。
だとしたら、藤原挙直のほうがセンスある、ということになるんですか? どうなんですか?

否、そもそも白楽天漢詩を知った上で、これを和歌にアレンジしようと試みつつ、ちょっとした問答形式のお遊びにしてしまう、という藤原公任もなかなかのセンスと見るべきかもしれません。

いずれにしても、二重三重に博学の方やら、名歌人やらがバックグラウンドにいて(実際文章には出てきてない隠れキャラも含め)、なんかクイズ&アドリブ合戦みたいになってます。今で言うと、ラッパーがやってるMCバトルみたいなもんですか。違いますか。

というわけで、この段、まだまだ先が長いようです。④へ続きます。


【原文】

蘭省花時錦帳下 

と書きて、「末はいかに、末はいかに」とあるを、いかにかはすべからむ、御前おはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末を知り顔にたどたどしき真名書きたらむもいと見苦しと思ひまはすほどもなく責めまどはせば、ただその奥に炭櫃に消え炭のあるして、

草の庵をたれかたづねむ

と書きつけて取らせつれど、また返りごとも言はず。


検:頭の中将のすずろなるそら言を聞きて

 

こころきらきら枕草子 ~笑って恋して清少納言

こころきらきら枕草子 ~笑って恋して清少納言

 

 

頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて② ~長押の下に~

 女房たちはみんな長押の下で、灯を近くに取り寄せて、「扁つき」の遊びをしているのよ。「まあ、うれしい。早くおいでなさい」なんて、私を見つけて言うんだけど、私はガッカリな気分になって、何で参上しちゃったんだろうって思ったの。炭櫃(火鉢)のそばに座ってたら、そこにまたまたたくさんの人が来てね、おしゃべりしてたら、「『誰それ』(あたし?)が参上してます?」って、とっても明るくきわだった声で言うのよ。「おかしいわね。いつの間に(私がここにいるのがわかったのかな)? 何か用事でもあるのかしらね?」って、使いの者に訊ねさせたら、(使いの)主殿司だったのよ。「ただ私のほうで、人づてじゃなく申し上げたいことがあって」って言うもんだから、出てったら、「これは頭中将殿からさし上げられたものです。ご返事を早くお願いします」って言うのよね。

 すごく嫌っていらっしゃるのに、どんな手紙なのよって思ったんだけど、「今すぐに急いで見るほどのものでもないから、お帰りください。用件はわかりましたので」って、懐にしまって。それでもやっぱり、女房たちのおしゃべりを聞いてたら、すぐに引き返して来て、「『だったら、さっきの手紙を返してもらって来て』とおっしゃってるんですよ。なので、早く、早くお返事を!」って言うのが、どうも怪しくって。伊勢の物語みたいじゃんって思って、見たら、青い薄手の紙に、すごくキレイに書いていらっしゃるのよ。でも、ドキドキするようなものではなかったわ。


----------訳者の戯言---------

「扁をつく」というのは「扁つき」といって文字の扁(へん)に旁(つくり)を付ける遊びなのだそうです。が、実は正確なことはわかってないらしいです。

「主殿司」は宮中の雑務担当職員でしたね。

「伊勢の物語」の部分は「魚の物語」「いをの物語」「かいをの物語」などの説があるようです。

まだまだこの段、先が長そうです。③に続きます。


【原文】

 長押の下に火近く取り寄せて、<さしつどひて>扁をぞつく。「あな、うれし。とくおはせよ」など見つけていへど、すさまじき心地して、何しにのぼりつらむとおぼゆ。炭櫃<の>もとにゐたれば、そこにまたあまたゐて、物などいふに、「なにがし候ふ」といと花やかにいふ。「あやし。いつの間に、何事のあるぞ」と問はすれば、主殿司なりけり。「ただここもとに、人づてならで申すべきことなむ」といへば、さし出でていふに、「これ、頭の殿の奉らせ給ふ。御返事とく」といふ。

 いみじくにくみ給ふに、いかなる文ならむと思へど、「ただ今急ぎ見るべきにもあらねば、往ね。今きこえむ」とて、懐に引き入れて、なほなほ人の物いふ聞きなどするに、すなはち帰り来て、「『さらば、そのありつる御文をたまはりて来』となむ仰せらるる。とくとく」といふが、<あやしう、>い<せ>[を]の物語なりやとて見れば、青き薄様にいと清げに書き給へり。心ときめきしつるさまにもあらざりけり。


検:頭の中将のすずろなるそら言を聞きて

 

マンガでさきどり枕草子 (教科書にでてくる古典)

マンガでさきどり枕草子 (教科書にでてくる古典)

 

 

頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて①

 頭の中将(藤原斉信)がいい加減な嘘っぱち話を聞いて、めちゃくちゃ私のことをdisってね、「『どうして一人の人として認めて誉めてたんだか』なんて、殿上の間でめちゃくちゃヒドいコトおっしゃってたんだ」って。そんなの聞いたりするだけでも、恥ずかしくはあるんだけど、「それがほんとのコトならともかく、そうじゃないんだから、ま、自然と思い直してくださるでしょうよ」って笑って放っておいたのね。だけど、黒戸(の部屋)の前とかを通る時だって、私の声なんかがする時は袖で顔を隠してこっちを全然見ようともしないで、ものすごく嫌がられたもんだから、こっちも何にも言わず、見もしないで過ごしてたの。そんな二月の末、すごく雨が降って暇で仕方なくって、物忌で出かけられなかった時、「『(彼女とのやりとりがなかったら)さすがに物足りないよねー。何か言ってやろうかなぁ』っておっしゃってたよ」って女房たちが話してたけど、「まさか、ンなことないでしょ」なんて答えて、一日中、自室に退いて過ごしてから、定子さまの御前に参上したら、もうご就寝してらっしゃったの。


----------訳者の戯言---------

藤原斉信という人は、かなり優秀な公卿であり定子の実家の中関白家衰退の後、藤原道長、彰子側でも重用されたようですね。しかも詩歌、管弦などにも秀でていて文化人としても当代随一と言われていた人だそうです。

「黒戸」というのは、何故「黒戸」というのか?については、兼好法師が「徒然草」に書いてます。拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の第百七十六段 宮中の「黒戸」は をご覧ください。

「物忌み」っていうのは、陰陽師が占って凶日とした日らしいです。災いを防ぐため、家に閉じこもって、来客も禁じて、おとなしくしてたらしい。そんなある「物忌の日」に村上帝と宣耀殿の女御が「古今和歌集言い当てっこゲーム」をした「清涼殿の丑寅の隅の③ ~村上の御時に~」という話がありましたね。

「さうざうし」というから、騒々しいのかと思いきや、「物足りない」「心寂しい」という意味です。漢字は「索索し」です。古典の先生なら、「ハイ、これ、テスト出ますよ~」と言うところですね。まじ、出ますから。で、高校生のみなさん、おもしろいくらいひっかるようです。

この段、結構長いです。
まずは話の出だしです。今度は頭の中将の藤原斉信とのやり取りでしょうか。どういうエピソードになるのか、楽しみです。


【原文】

 頭の中将のすずろなるそら言を聞きて、いみじう言ひおとし、「『何しに人と思ひほめけむ』など、殿上にていみじうなむのたまふ」と聞くにもはづかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてむ」と笑ひてあるに、黒戸の前などわたるにも、声などする折は、袖をふたぎてつゆ見おこせず、いみじうにくみ給へば、ともかうも言はず、見も入れで過ぐすに、二月つごもり方、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌にこもりて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひやらまし』となむのたまふ」と人々語れど、「よにあらじ」などいらへてあるに、日一日下(しも)に居暮らして参りたれば、夜のおとどに入らせ給ひにけり。


検:頭の中将のすずろなるそら言を聞きて

 

低反発枕草子

低反発枕草子

 

 

御仏名のまたの日

 御仏名の次の日、地獄絵の屏風を持ってきて、帝が中宮さまにご覧に入れて差し上げたの。これ以上ないっていうぐらいハンパなく超恐怖でね。中宮さまは「これ見て、これ見てみ」っておっしゃるんだけど、「もうこれ以上見れませんー」って、めっちゃ怖すぎで、小部屋に隠れて寝ちゃってたの。

 その日は雨がすごいどしゃ降りで、しかも暇だったから、帝が殿上人を上の御局(みつぼね)にお召しになって、詩歌や管弦のお遊び会を開催したのね。特に少納言の(源)道方が弾く琵琶はすごくすっごくいいの。(源)済政の筝、平行義の横笛、中将の源経房の笙の笛とかもいかしてるのよ。で、一通り演奏して、琵琶を弾き終わったところで、大納言の藤原伊周が「琵琶、声やんで、物語せむとする事おそし」って朗誦なさったものだから、私、隠れて寝てたんだけど、起きて出ていって、「やっぱ(地獄絵を見ないで済まそうとした)仏罰は怖いんだけど、すばらしいものに惹かれる気持ちって抑えられないんでしょうよねー」って言ったら、みんなに笑われちゃったんだよね。


----------訳者の戯言---------

御仏名。また聞きなれないものが出てきました。正式名称?は「仏名会(ぶつみょうえ)」らしいです。仏名懺悔ともいうそうですね。過去・現在・未来の三世、八方上下計十方の国にいらっしゃる三千ないし十万の仏の名を唱え礼拝するのだとか。当時は12月19日から3日間、宮中で行われたそうです。一万三千仏画像を掲げて、地獄絵の屏風を立てて、唱礼するとかいうことです。

ちょうどGWも終わりで、今年は天皇陛下の即位があったばかりです。退位即位ともにいろいろな行事があったようで、詳しくは知らないのですが、公式行事以外は「神事」なのだと思います、たぶん。
で、平安時代にはこの段のように宮中で堂々と仏教の法要が行われていたんですね。天皇、皇族というのは神道の本家本元であるはずなのですが、それでも宮中で堂々と仏教の法要が行われました。飛鳥時代にしろ奈良時代にしろ、聖武天皇をはじめとして、仏教を大いに奨励した天皇も昔からいらっしゃったようですから、それ自体さほど違和感はありません。日本は宗教の混合に寛容であり、以前も書いたように、特に神仏習合が古くから行われていました。帝というものはこの国にあるものは須らく肯定するという、そういう存在なのだとも思います。

ですから、今も内親王ICUで学んでいらっしゃるし、現皇后陛下は雙葉、上皇后陛下は聖心、といずれもキリスト教系です。このように時代時代で皇族が神道以外の宗教と深くかかわるのはアリなのだと思います。特に明治以降は仏教よりキリスト教のほうが関係が深いようですね。と言っても、私たち庶民もなんですけどね。クリスマス、初詣、お葬式、結婚式、ハロウィン、全部宗教が違ったりします。あ、話が大きくそれました。

さて、「御遊び」「御遊(ぎょゆう)」というのは、概ね中世古代には詩歌・管弦や舞などをして楽しむことを言ったようですね。
今回は宮中の名プレイヤー勢ぞろいでライブが始まったわけです。さすが帝、雨で暇だとこんな無理も通ります。

「琵琶、声やんで、物語せむとする事おそし」というのは、白居易の「琵琶行」の一節「琵琶声停欲語遅」(琵琶ノ声停ンデ語ラント欲スルコト遅シ=琵琶の演奏が終わっておしゃべりしたいなって思ったのに返事がない)を踏まえた上での朗誦(声を出して唱えること)です。
藤原伊周中宮定子の兄。これまでも何度か出てきました)、もちろんこの漢詩を知っていたということで、これは一般教養なのか、それとも博識なのかは私わかりませんが、それがキッカケとなって清少納言、再登場と。もちろん、この漢詩知っているゾという前提です。例によっていつもの知識自慢が入っています。

まあ、そういうインテリ的なやらしい部分を垣間見せつつも、「ちょっとヘタレでかわいいワタシ」をうまく表現しましたね、清少納言。してやられたり。


【原文】

 御仏名のまたの日、地獄絵の御屏風とりわたして、宮に御覧ぜさせ奉らせ給ふ。ゆゆしう、いみじきこと限りなし。「これ見よ、これ見よ」と仰せらるれど、「さらに見侍らじ」とて、ゆゆしさにこへやに隠れ臥しぬ。

 雨いたう降りてつれづれなりとて、殿上人上の御局に召して御遊びあり。道方の少納言、琵琶いとめでたし。済政筝の琴、行義笛、経房の中将笙の笛などおもしろし。ひとわたり遊びて、琵琶ひきやみたるほどに、大納言殿、「琵琶、声やんで物語せむとすること遅し」と誦じ給へりしに、隠れ臥したりしも起き出でて、「なほ罪はおそろしけれども、もののめでたさはやむまじ」とて笑はる。

 

 

ここちよげなるもの

 気持ちよさげにしてるものっていうと、卯杖を携えた法師。御神楽の人長。神楽の振幡とかを持ってる人。


----------訳者の戯言---------

卯杖の法師って何?
で、まず卯杖です。「正月初の卯の日に、魔よけの具として用いる杖」とデジタル大辞泉にありました。
柊(ひいらぎ)・桃・梅・柳などの木を5尺3寸(約1.6メートル)に切り、2~4本ずつ合わせて上部を紙で包み、五色の糸で巻いて束ねたもので、ヤブコウジ、ヒカゲノカズラ、ヤブラシなどをつけて飾った、とあります。そして、宮中では六衛府などからこれを朝廷に奉り、で、御帳の四隅に立てて魔除けにしたらしいです。また、献上する時は「卯杖のほがひ」という寿詞(よごと)を奏したそうです。

宮中以外でも、卯杖を携え、「卯杖のほがひ」を唱えて京の街を回る法師がいたそうですし、熱田神宮では呪文を唱えながら、「卯杖の舞」を舞う神事も行われていたようですね。

私が通常訳の元にしている「三巻本」テキストでは漢字で「法師」と書かれていましたが、もう一つ私が見た「能因本」のテキストのほうは、「ほうし」と仮名で書かれていて、これを「捧持」として、「卯杖を持つ役割の舎人」との訳し方もできるかもしれません。

次に、御神楽の人長とは?
御神楽とは、内侍所御神楽ともいい、毎年宮中で行なわれるそうです。神楽歌を独唱、斉唱することが主体ですが、もちろん楽器による伴奏があります。全体を人長が統率し、「韓神」と「其駒」という曲では、この人長がサカキの枝に輪のついた採物を持って舞いも舞うのだそうです。
指揮者兼、バンマス兼、ボーカル兼、パフォーマーという感じですか。EXILEのATSUSHIがパフォーマーもやるような感じですか? 否、指揮者の佐渡裕が歌ったり踊ったりするような感じでしょうか。
と、書いていて思い出しましたが、マイケル・ジャクソンですね。MJは、楽器のマルチプレイヤーでしたし、実際に全曲こういうことをやっていましたね。ダンサーであり、舞台監督でもありました。人長とは格が違い過ぎますね。

原文で「神楽の振幡」と出てきましたが、「振幡」というのがよくはわかりません。
ただ、「能因本」のほうを見てみると、「心地よげなるもの」の段で「御霊会の振幡」という一節が出ています。(なお、「能因本」ほか枕草子の4系統の写本については「説経の講師は①」の解説部分をご覧ください)

ということですから、「振幡」は神楽、または御霊会で使ったものであることは確かでしょう。
御霊会というのは「祇園御霊会」であろうと考えられ、これが祇園祭の前身なのだそうです。で、まあそういう祭り行列の先頭で「振幡」を持った人を「気持ちよさげにしてるもの」と書いてるんですね。

そもそもなんですが、「ここちよげ」というのはどういう印象をあらわしているのでしょう。
内容から考えると、「誇らしげ」「得意げ」であり、少々「自信に満ちて」「颯爽としている」感じもあり、「実力以上の姿を誇示できて気持ちよくなっている感」も複雑に入り混じったりします。
今回だけでなく、をかし、ありがたし、めでたし、らうたし、あはれetc.いろいろ出てきますが、そういう感覚を当時と共感するのはなかなか難しいもの、とつくづく思います。


【原文】

 ここちよげなるもの 卯杖(うづゑ)の法師。御神楽の人長(にんぢやう)。神楽の振幡(ふりはた)とか持たる者。


検:心地よげなるもの

 

あなたを変える枕草子

あなたを変える枕草子

 

 

あぢきなきもの

 しょーもないもの。わざわざ自分から思い立って宮仕えに出たのに、気持ちが塞いじゃって、お勤めが面倒だなぁって思うようになってるヒト。養子の顔が不細工なの。気が進まない人を、無理やりお婿さんにしておいて、思ってたのと違うわぁ、って嘆いてるのもね。


----------訳者の戯言---------

「あぢきなし」はご存知の方も多いと思いますが、思うようにならない、おもしろくない、つまらない、という意味のようです。今の「味気ない」という感じではなさそうですね。

養子のことを昔は「取り子(とりこ)」と言ったらしいです。

けど、顔のこと言うかなーと思います。以前、藤原行成とのやりとり(「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて②」)の中で、自分のことを「すっごいブスだから、『さあらむ人をばえ思はじ(そんな人は好きにはなれないのさ)』っておっしゃってた人に顔を見せるなんて、私できないわ」と卑下していた本人なんだから、こんなこと言っちゃあいけません。

しかしまあ、度々出てはきますけど、当時からルックスというのは重要な要素ではあったようです。よく、「御簾越しの恋」とか言いますけど、最終的には顔を合わせますからね。やっぱりそうなんですね。


【原文】

 味気(あぢき)なきもの わざと思ひ立ちて宮仕へに出で立ちたる人の、物憂がり、うるさげに思ひたる。養子(とりこ)の顔憎げなる。しぶしぶに思ひたる人を、強ひて婿取りて、思ふさまならずと嘆く。


検:味気なきもの

 

 

職の御曹司におはします頃、木立など

 職の御曹司に定子様がいらっしゃった頃、木立なんかはずいぶん古びてて、建物の様子も高くてね。ひと気がなくって、もの寂しいんだけど、なんとなくいい感じなの。母屋は鬼が棲みついてるって言われてるから、間を置いて南側にスペースをつくって、南の廂の間に御帳を設置して、さらにその外側に出ている又廂の部屋に女房たちが控えてるの。

 近衛の御門(陽明門)から左衛門の陣(建春門)に参上される上達部の先払いの者たちの声は、殿上人のは短くって、私たち、大前駆(おおさき)、小前駆(こさき)って名前をつけて、掛け声を聞いては騒いでるのね。毎度毎度のことだから、その声をみんな聞き分けて、「これは誰?」「あれは?」なんて言って、また、「違うわ」とかって言ったら、人を使って見に行かせたりなんかして、言い当てた人は「やっぱ、そうでしょ」なんて言ってるのも面白いの。

 月がまだ空に残ってる有明のころ、とっても深く霧が立ち込めてる庭に女房たちが下りて、歩いてるのをお聴きになって、中宮さまも起きられたのね。で、中宮の御前にいる女房たちがみんな外に出てきて、庭に下りて遊んでたりするうちに、だんだん夜も明けていくの。

 「じゃあ、左衛門の陣(建春門)に行ってみましょう」って行くと、「私も私も」ってついてくの、で、そんな時、大勢の殿上人の声で「なにがし一声秋(いっせいのあき)」と謡いながらやって来る音がするもんだから、逃げ帰って、何もなかったようにお話をするのよ。「月をご覧になっていらっしゃったんですね」なんて、感心して歌を詠む人もいたりして。

 夜も昼も、殿上人が絶え間なくやって来るの。上達部でさえ帝のもとに参内される時、特別急ぐ用事がない場合は、こちらへも必ず参上なさるのよ。


----------訳者の戯言---------

職の御曹司(しきのみぞうし)というのは、「中宮職」の庁舎のことだそうです。「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて①」にも書きましたね。
中宮職中務省に属する役所で、皇后に関する事務全般を司っていたらしいです。

原文の「おはします」というのは、「いらっしゃる」「おられる」ですが、かなり高い尊敬の意をあらわす言葉です。帝、皇妃(中宮など)、親王、姫などに使われることが多いようですが、このシチュエーションから考えると、中宮・定子様というのがわかるようになっている、ということらしいですね。

だいぶ前に「大進生昌が家に」という段があって、当時の状況をざっくりと書きました。「中宮職」についても少し触れています。「大進」生昌はその役所の役付き職員の一人でした。

長徳の変」のあおりを受け後遺症的に謹慎状態だった定子が、その謹慎期間が明けた直後、「職の御曹司」に長期滞在していた時期があるようです。その時のことなのですね。だから、これは周知のことであり、これを前提に、描かれた段、ということになるでしょうか。

「廂」というのは「ひさし」のことで、母屋の外側に付加されてる部屋だそうです。これまでにも何度か出てきましたね。すぐ前の段の「細殿」も廂の間の一つでした。

「御帳」ですが、ま、高貴な方のお屋敷で、主がメインに居る場所のようですね。「御帳台」とか「御帳の間」などとも言うらしいです。
中に台があって、そこに寝転んだり、座ったりしてるそうですから、リビングのソファみたいなものと思っていいかもしれません。「帳」というカーテンが四方に垂らされています。拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の第百三十八段の解説文のところに図がありますのでご参照ください。

「又庇」は寝殿造りで、母屋の外側の庇からさらに外方に設けた庇だそうです。「孫庇」とも言うらしいですね。

「上達部」は、摂政・関白・太政大臣左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議、および三位以上の人の総称です。所謂「公卿」で、宮中の幹部貴族と言っていいかもしれません。

「前駆(さき)」というのは、当時は先払い、先追い、あるいは警蹕などといって、それなりのポジションの人が道を通ったりする時に、スタッフが声を上げて、道を空けるために人払いをしたらしく、それをこうも書いたようです。

有明」というのは、夜か明けても月が残ってる朝。です。

近衛の御門=陽明門(ようめいもん)は、平安京大内裏の外郭十二門の1つで、左衛門府が警固を担当したそうですが、門内に左近衛府の建物があったため「近衛御門」と呼ばれたそうです。なぜ、そんなことになっているのかはよくわかりませんけど、歴史的にいろいろあったのでしょう。大内裏の東側にありました。

左衛門の陣=建春門(けんしゅんもん)平安宮内裏外郭七門の一つで、東面の門。左衛門府の役人の詰め所があったので「左衛門の陣」とも言われたのだそうです。因みに「職の御曹司」は内裏の外郭の外側にありました。建春門から見ると道を隔てて北東方向、比較的近くにあったようです。

和漢朗詠集に下のような漢詩があり、これを吟じていたのでしょう。源英明という人の作らしいです。

池冷水無三伏夏(池冷やかにして水に三伏の夏無し→池の冷たい水には、三伏の夏も無い)
松高風有一声秋(松高うして風に一声の秋有り→松の木の高いところを吹く風に、秋の声を聞くようだ)

三伏」というのは、一年で最も暑い時期のことなのだそうです。調べてみたので詳しく書きますと、夏至以後の3回目・4回目と立秋以後の最初の庚の日をそれぞれ初伏・中伏・末伏とし、この三つを合わせて三伏と言うのだそうです。ただ、その日取りの決め方はいくつかあるようですね。

さて本題です。
長徳の変」のあおりを受け後遺症的に謹慎状態だった定子が、その謹慎期間が明けた直後、「職の御曹司」に長期滞在していた時期があるようで、この段はその時の様子を書いているようです。中宮・定子がここに住まわれていることは、周知のことであったようですね。

ここでは、とてもにぎやかな様子が描かれていて、定子さまのいらっしゃる「職曹司」に多くの幹部貴族が参上している、とも書かれていますが、実は定子の実家である中関白家は例の事件「長徳の変」で、凋落しつつあるのは否めない頃。対して藤原道長の娘・彰子が入内するのが、この段に描かれている日々とほぼ同時期であり、実権はすでに道長に移っている時代でありました。
もしかすると、定子さまが輝く時代ももうすぐ終わるのでは、と思いながら過ごしてた、そんな日々の、束の間の楽し気なできごとをピックアップしました的な段なのです。はしゃいでる感じもあったりしますが、清少納言のカラ元気とも見え、そう考えると、少ししんみりもするのです。


【原文】

 職の御曹司におはします頃、木立などのはるかにものふり、屋のさまも高う、け遠けれど、すずろにをかしうおぼゆ。母屋(もや)は鬼ありとて、南へ隔て出だして、南の廂に御帳立てて、又廂(またびさし)に女房は候ふ。

 近衛の御門より左衛門の陣に参り給ふ上達部の前駆ども、殿上人のは短かければ、大前駆・小前駆とつけて聞き騒ぐ。あまたたびになれば、その声どももみな聞き知りて、「それぞ」「かれぞ」などいふに、また「あらず」などいへば、人して見せなどするに、言ひあてたるは、「さればこそ」などいふもをかし。

 有明のいみじう霧りわたりたる庭に下りてありくを聞こしめして、御前にも起きさせ給へり。うへなる人々の限りは出でゐ、下りなどして遊ぶに、やうやう明けもてゆく。

 「左衛門の陣にまかり見む」とて行けば、我も我もと<お>[と]ひつぎて行くに、殿上人あまた声して、「なにがし一声<の>秋」と誦して参る音すれば、逃げ入り、物などいふ。「月を見給ひけり」など、めでて歌よむもあり。

 夜も昼も、殿上人の絶ゆる折なし。上達部まで参り給ふに、おぼろげに急ぐことなきは、必ず参り給ふ。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)