枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

はるかなるもの

 気が遠くなるもの。半臂の緒をひねるの。陸奥の国に行く人が逢坂の関を越える頃。生まれた赤ん坊が大人になるまで。


----------訳者の戯言---------

半臂(はんぴ)というのは、袍(ほう/うへのきぬ=上着)と下襲 (したがさね) との間につける袖のない短い衣です。ベスト的なものでしょうか。これを着て結ぶ帯を小紐 (こひも)、さらに左脇に垂らす飾り紐を忘れ緒 (お) と言うらしい。ここで出てきた「緒」というのは、この忘れ緒のことのようです。長さ八尺(約2.4m)、幅二寸五分(約7.5cm)、または一丈二尺(約3.6m)、幅三寸三分(約9.9cm)の羅(うすもの)を三重に折り畳んでで使ったらしいです。
私もド素人でよくわからないんですが、これ、折って糊で貼り合わせたみたいなんですが、その時、まず指でひねって付けはじめたんでしょうか、たぶん。ま、2.4メートルとか3.6メートルとか、めっちゃ長いですから、結構気の長い作業ですね。めんどくせー、って感じなんでしょう。

逢坂というのは、逢坂の関のことです。京都と滋賀県の大津の間の逢坂山にあった関所ですね。昔だと山城国近江国の国境です。畿内の東端という位置付けだったらしいです。

逢坂の関というと、蝉丸という人の詠んだ「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌が超有名です。百人一首の歌ですね。この蝉丸という人は、詳細はよくわかってないらしいんですが、盲目で琵琶の名人だったようですね。一説によると少し前に書いた「無名といふ琵琶の御琴を」に出てきた琵琶「無名」を愛用したらしいです。逢坂の関の辺りに住んでたとか。

で、もう一つは、清少納言の本人の作で小倉百人一首にも入っている「夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも よに逢坂の 関はゆるさじ」という歌です。 直訳すると「夜が深いうちに鶏の鳴き真似をして騙そうとしても、逢坂の関は絶対に通させないでしょうね!」となります。何やら意味深ですが、それはまた別の機会に。

で、本題です。
気が遠くなるもの、です。一般には、同じ「はるかなるもの」でも、視点が多様だよねーという高評価なのでしょうが、私はまあこんなものかなーと思いました。すみません。

短いので読みやすかったですが、忘れ緒とか蝉丸の琵琶とか、清少納言の歌とか、調べてたら、時間がかかってしまいました。


【原文】


 はるかなるもの 半臂の緒ひねる。陸奥国へ行く人、逢坂越ゆる程。生れたるちごの、大人になる程。

 

すらすら読める徒然草 (講談社文庫)

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二月つごもり頃に

 二月の終わり頃、風が強く吹いて、空がものすごく黒くなって、雪が少し降ってる時、黒戸に主殿司のスタッフが来て、「やって参りました」って言うもんだから、近寄ってみると、「これは(藤原)公任の宰相殿からです」と渡されたのを見てみると、懐紙に、

少し春ある心地こそすれ(少し春のような気分がするんだよね)

って書かれてて、それはほんと今日の日和にすごくぴったりしてるんだけど、これの上の句はどうやって付けたらいいんでしょ? とても付けようがないわ、って思い悩んじゃったのよね。主殿司の職員に「(殿上の間には)誰々がいますか?」って訊ねたら、「あの人と、この人と…」って言うのね。すごく恥ずかしくなるくらいみんな立派な方たちがいる中に、宰相の公任さまへのお答えとして、何てことないありきたりのものを送れるものかしら? いや、やっぱり無理だわ!って、自分一人で考えるのは辛いから、定子さまにお見せしようって思ったんだけど、帝がお越しになって定子さまのお部屋でお休みなってるの…。主殿司のスタッフは「早く早く」って言うし。ほんと、不出来な上に遅いっていうことにまでなったら、取り柄が全然無いから、もう、どうにでもなっちゃえ!って、

空寒み花にまがへて散る雪に(空が寒くって、まるで花と見間違えるみたいに散る雪に)

と、手をわなわな震わせながら書いてスタッフに渡して。で、彼(藤原公任)はどう思うだろ?って悩んでたの。この「答え」についての感想を聞いてみたいとは思うんだけど、もし貶されたりしてたら聞きたくないとも思うしね、「(源)俊賢の宰相なんかは、『やっぱ彼女、内侍にするように帝に進言申し上げたいくらいさ』って、高評価なさってましたよ」って、左兵衛の督で、当時は中将でいらっしゃった方はお話しになったんだけれどね。


----------訳者の戯言---------

主殿司(とのもりづかさ)は、天皇の車、輿輦、帷帳に関すること、清掃、湯浴み、灯火、薪炭なんかをつかさどる役所、またはその職員のことです。

宰相というのは、現代では総理大臣=首相を表しますが、当時は「参議」のことを言ったようです。四位以上の位階で大臣、納言に次ぐ官職。参議以上は公卿と言われました。藤原公任は、最終的には権大納言になるんですが、この段の当時は、参議のポジションにありました。
ちなみに藤原公任歌人としても有名ですが、「和漢朗詠集」の撰者としても知られています。

原文で「ことなしび」は漢字で「事無しび」と書きます。「何気ないふり」「何事もないようす」という意味のようです。この段では「何の変哲もない」「何てことのない」ありきたりのもの、という意味になりそうです。

左兵衛督(さひょうえのかみ)というのは、左兵衛府の長官。
「中将」は(左右)近衛府の中将=次官(スケ)のことです。この逸話があった当時は「中将」で、この段の執筆時には左兵衛府の督(カミ)だった人なんでしょうね。と思い、調べてみたところ、藤原実成という人らしいとのこと。

藤原公任源俊賢(としかた)は宰相=参議です。同じ参議ですが、公任のほうが年齢は若いけど、キャリアは上のようですね。藤原実成はこの時はまだ近衛中将ですし、20代ですから、ここの登場人物の中では下っ端な感じですね。とはいっても三位~四位とかですから、公卿か殿上人なんですね。まあみんな上級貴族です。

またもや清少納言、小自慢の段です。「アカンアカン、ダメよダメよ」「うまくできないのー」とか言いつつ、「なんとかできてほめていただきましたー」という話でした、はい。


【原文】

 二月つごもり頃に、風いたう吹きて空いみじう黒きに、雪少しうち散りたるほど、黒戸に主殿司来て、「かうて候ふ」と言へば、寄りたるに、「これ、公任の宰相殿の」とてあるを、見れば、懐紙に、

少し春ある心地こそすれ

とあるは、げに今日のけしきにいとようあひたる、これが本はいかでかつくべからむ、と思ひわづらひぬ。「たれたれか」と問へば、「それそれ」といふ。みないと恥づかしきなかに、宰相の御答(いら)へを、いかでかことなしびに言ひ出でむ、と心一つに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして御殿籠りたり。主殿司は、「とくとく」と言ふ。げに遅うさへあらむは、いと取りどころなければ、さはれとて、

空寒み花にまがへて散る雪に

と、わななくわななく書きて取らせて、いかに思ふらむ、わびし。これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじとおぼゆるを、「俊賢(としかた)の宰相など、『なほ、内侍に奏してなさむ』となむ定め給ひし」とばかりぞ、左兵衛の督の、中将におはせし、語り給ひし。


検:二月つごもりごろに

 

枕草子 (岩波文庫)

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殿上より、梅のみな散りたる枝を

 殿上の間から、梅の花が全部散っちゃった枝を「これはどうですか?」って言ってきたから、シンプルに「早く落ちにけり」って答えたら、その詩を声に出して唱えて、殿上人が黒戸にすごくたくさん座ってるのを、帝がお聞きになって、「まあまあ良い歌なんかを詠んで聞かせるよりは、こっちのほうが勝ってるよ。上手く答えたもんだね」っておっしゃったの。


----------訳者の戯言---------

下手に凝りすぎるより、シンプルなほうがかっこいい、ということでしょうか。
私は、たまたま、上手くいったのだと思いました。いつもこれだと、またそれはそれで面白くないと思ったりします。


【原文】

 殿上より、梅のみな散りたる枝を、「これはいかが」と言ひたるに、ただ、「早く落ちにけり」といらへたれば、その詩を誦じて殿上人黒戸にいとおほくゐたる、上の御前に聞こしめして、「よろしき歌など詠みて出だしたらむよりは、かかることはまさりたりかし。よくいらへたり」と仰せられき

 

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

 

 

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど⑨ ~日の入るほどに~

 日が沈む頃に帝が起きられて、山の井の大納言(藤原道頼)を呼び出して、お着物を整えさせなさって、お帰りになるの。桜襲の直衣に紅色の衣が夕日に映えてる様子なんて、畏れ多過ぎてこれ以上書くのがはばかれるほどでね。山の井の大納言は、定子様たちの腹違いのお兄様なんだけど、とても立派な方でいらっしゃるの。ルックスでは、こちらの大納言(藤原伊周)にも勝っていらっしゃるんだけど、ああやって世の人びとがことごとく貶めて言ってるのは、とても気の毒だわ。
 関白殿(道隆)、大納言(伊周)、山の井の大納言(道頼)、三位の中将(隆家)、内蔵頭(頼親)たちが、帝にみんな付き従って行くのよ。
 定子さまに帝のところにお越しになるようにっていうご伝言をお伝えするために、馬の内侍典が参上したの。「今夜はお伺いできませんません」なんて、渋っていらっしゃるのをお父さまがお聞きになって、「それはすごくいけないことだ。早く参上しなさい」っておっしゃって。で、東宮のほうのお使いもしきりにやってきて、とても騒がしくてね。お迎えに女房や東宮の侍従とかの人たちも参上して、「お早く」って急かして言うの。「じゃあ、先にあの君(妹)をお帰ししてからね」って定子さまがおっしゃるから、「でも、どうでしょう?(いけませんわ)」っていうと、「(あなたを)お見送りしてからよ」なんておっしゃるのも、とてもすばらしくって、すごく感じがいいのよね。(道隆)「それなら、遠い方が先に出るべきかな」ってことで、まず淑景舎がお帰りになったの。関白殿(道隆)たちみんな、お見送りからお戻りになってから、定子さまが帝の元に参上なさったのね。その道中でも道隆さまの冗談にめちゃくちゃ笑っちゃって、あやうく打橋から落ちそうになっちゃったわ。


----------訳者の戯言---------

通称・山の井の大納言というのは、藤原道頼という人のことだそうです。この人も伊周や定子の異母兄弟。2つ前の記事⑦で登場した藤原周頼ともまた違うお母さんの子です。年齢は伊周より3つぐらい上らしいですね。長男なんですが、やはり道隆は貴子の実家・高階家、そして高階貴子とその実子を重用したようで、この道頼もこの家では傍系の子どもという扱いのようですね。ちなみに藤原道頼は容姿も性格もとても良い人だったそうです。

内蔵頭(くらのかみ)は、内蔵寮(くらりょう)の長官です。内蔵寮は金・銀・絹などをはじめとする皇室の財産管理、宝物の保管、官人への下賜・調達など皇室関係の出納事務を担当した機関だとか。
当時の内蔵頭は藤原頼親(よりちか)という人で、この人も道隆の子どもです。先に出てきた道頼のすぐ下、次男ですが、扱いはかなり軽んじられていますね。母親は不詳。周頼の母とも違いますし、山の井の大納言(道頼)の母ともまた違います。

というわけで、ここまでに登場した道隆の子どもたちは、順番に①道頼②頼親③伊周④定子⑤隆家⑥原子⑦隆円・・・※周頼・・・となります。
⑦の隆円は「無名といふ琵琶の御琴を」で出てきましたね。出家して僧都の君と言われた人です。
周頼は生年不詳で何番目の子かはっきりとはわかりませんので番外としました。
道隆に子どもはもっといたんですが、この段に出てきたのは7人。その母親は4人です。まあ、他にも妻や妾、彼女もいっぱいいたんでしょうね。子どもは合計15人(わかっているだけで)。どんだけおるねん。

原文に「馬の内侍のすけ参りたり」とあります。「馬の内侍」という人がいたことはわかりましたが、「典(侍)」(スケ=次官)であったという歴史的事実はなかったようですね。どうやら「掌侍」(ジョウ)だったようで。この部分は清少納言の思い違いか書き間違いではないかと思います。
馬の内侍という人は、女流歌人として有名ですが、かなりの美人だったらしく、逸話もいろいろ残っているようです。恋愛の秀歌も多かったらしいですね。ショッキングなのは、花山天皇即位の日に花山天皇自身にレイプされたとか、この段で登場の父・道隆と恋愛関係にあったとか、その他いろいろな人と浮名を流したようです。天皇が強姦って…。しかもお咎めなし。花山天皇といえば、ここで出てきた藤原伊周&隆家兄弟に伊周の彼女を寝取ったと間違われて襲撃された人です。まあ、それだけめちゃくちゃな人たちだったということでしょう。貴族や皇族なのに。

この時、一家が揃っているのは定子の住まい「登華殿」です。定子は帝のいる「清涼殿」に呼ばれている、と。淑景舎(原子)はもちろん「淑景舎(桐壷)」に帰って行きます。距離的には、関白殿も言うとおり淑景舎(桐壷)のほうが若干遠いでしょうか。

定子を送っていく道々で道隆、またもや猿楽言(さるがうごと)を言ってたようですね。清少納言めっちゃ笑ったらしいです。ほんまか?

打橋(うちはし)というのは、殿舎と殿舎との間に渡して、取り外しができるようにした板の橋だそうです。

この段、道隆一家(中関白家)の栄華が頂点にあった頃の、煌びやかなお話とされているようですが、私なんか、気になって仕方ないのが、先にも書いたとおり、兄弟姉妹の境遇の微妙な違いです。
結局、「道隆の面白話、めっちゃウケるー」というお話でした。
お話としておもしろかったか?というと、申し訳ないですけど、そんなでもなかったです。


【原文】

 日の入るほどに起きさせ給ひて、山の井の大納言召し入れて、御袿まゐらせ給ひて、帰らせ給ふ。桜の御直衣に紅の御衣の夕映えなども、かしこければ、とどめつ。山の井の大納言は入り立たぬ御兄人(せうと)にては、いとよくおはするぞかし。匂ひやかなる方は、この大納言にもまさり給へるものを、かく世の人は切に言ひ落とし聞こゆるこそいとほしけれ。殿、大納言、山井も、三位の中将、内蔵(くら)の頭(かみ=頼親)など皆さぶらひ給ふ。宮のぼらせ給ふべき御使にて、馬の内侍のすけ参りたり。「今宵は、えなむ」などしぶらせ給ふに、殿聞かせ給ひて、「いとあしき事。早のぼらせ給へ」と申させ給ふに、春宮の御使しきりてある程、いと騒がし。御迎に、女房、春宮の侍従などいふ人も参りて、「疾く」とそそのかし聞こゆ。「まづ、さはかの君わたし聞こえ給ひて」とのたまはすれば、「さりとも、いかでか」とあるを、「見送り聞こえむ」などのたまはするほどにも、いとめでたくをかし。「さらば遠きをさきにすべきか」とて、まづ淑景舎渡り給ひふ。殿など帰らせ給ひてぞ、のぼらせ給ふ。道の程も、殿の御猿楽言(さるがうごと)にいみじく笑ひて、殆(ほとほと)打橋よりも落ちぬべし。


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学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

 

 

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど⑧ ~松君のをかしうもののたまふを~

 松君がかわいらしくお話しされるのを、みんな誰もがカワイイ~ってお褒めになるの。「中宮のお子さまってことで、みんなの前に披露しても悪くはないだろうね」なんて関白殿はおっしゃるんだけど、ホント、どうして定子さまに今までお子さまのご誕生がないんだろうって、気になっちゃうのです。

 未(ひつじ)の頃(午後2時頃)になって、「筵道をお敷きします」って言って少しの間もなく、帝がお召物の衣ずれの音をさせてお入りになったから、定子さまもこちらにお越しになったのね。そのまま御帳台に二人でお入りになられたから、女房たちもみんな南側に全員、衣ずれの音をさせながら去ってくようなの。廊下には殿上人がすごく大勢いて。関白殿は中宮職の役人をお召しになって、「果物や酒の肴なんかを持ってきて。みんな酔わせてよ」なんておっしゃるのね。まじで殿上人はみんな酔っぱらって、女房たちとおしゃべりする頃には、お互いに心から愉快だなって思ってるようね。


----------訳者の戯言---------

筵道(えんだう/えんどう)というのは貴人が通行する時に、衣服の裾が汚れないように通路に敷いたむしろ、なのだそうですね。

松君カワイ過ぎ、みたいな話から、定子さまにお子さまがいてもいいのになぁ、という話になり。
午後になると、帝が定子さまのところにお渡りになって、二人で御寝所に入られます。
そしてやはり女房たちは気を利かせて、退散するんですね。

この段は、定子の実家(中関白家)の一家集合みたいなことで、枕草子の中でも最も華やかな段の一つとされているらしいですが、高校の授業ではやりづらいでしょうね。少し変えれば「帝の寵愛を一身に受けた中宮定子」という表現になりますが、もう少し生々しい感じがしますね。いえ、いいんですけどね。

で、もう一つみなさん、忘れていませんか。帝と言っても、定子よりも3歳ほど年下だということを。そう、15歳の男子ですからね。18歳くらいの乃木坂のセンター張るようなきれいなお姉さんが自分の嫁なんですから。そりゃ、もう、って感じです。

というわけで、お父さんとしては、娘が帝の寵愛を受けるのは良いことだし、世継ぎを授かればさらに自分ちのメリットも増えますから、結構喜んでいる感じです。酒盛りですからね。
いよいよ次がこの段の最終回。どうなりますか。⑨に続きます。


【原文】

 松君のをかしうもののたまふを、たれもたれも、うつくしがり聞こえ給ふ。「宮の御みこたちとて、ひき出でたらむに、わるく侍らじかし」などのたまはするを、げになどかさる御事の今までとぞ心もとなき。

 未(ひつぢ)の時ばかりに、「筵道(えんだう)まゐる」と言ふ程もなく、うちそよめき入らせ給へば、宮もこなたに入らせ給ひぬ。やがて御帳に入らせ給ひぬれば、女房もみな南面(おもて)にみなそよめき往ぬめり。廊に殿上人いと多かり。殿の御前に宮司めして「くだもの・さかななど召させよ。人々酔はせ」など仰せらる。まことに皆酔ひて、女房と物言ひ交はすほど、かたみにをかしと思ひたり。


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枕草子 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)

枕草子 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)

 

 

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど⑦ ~しばしありて~

 それからしばらくして、式部の丞の何とかっていう人が、帝からのお使いとして参上したから、御膳宿りの北寄りの部屋に、褥(=敷物)を差し出して座ってもらったんだけど、中宮さまは返事を今日は早くお出しになったのね。で、出してた敷物もまだ片付けてないうちに、今度は東宮のお使いとして周頼の少将が参上したの。お手紙を受け取って、渡殿は細い縁側だから、こっちの縁側に別の敷物を差し出したのね。お手紙はお父様、奥様、定子さまが回し読みなさったの。「ご返事を早くしなさい」ってお父様が言うんだけど、すぐになさらないから、「誰かが見てるから、お書きになれないんだね。そんなじゃないときには、こっちから時間を空けずにお手紙を書かれてたようだけど」なんて申し上げなさったら、淑景舎さまのお顔が少し赤くなって、はにかまれるご様子がすごくステキなの。「ほんとに早く」なんてお母様もおっしゃるから、奥に向いてお書きになってね。お母様が近くにお寄りになって、いっしょにお書きになるから、なおいっそう遠慮がちになってしまってるの。
 定子さまのほうから、萌黄の織物の小袿(こうちき)と袴をお使いのお礼に出して来られたから、三位の中将(藤原隆家)が周頼の少将の肩におかけになったのね。そうしたら、首が苦しい様子で、手に持って立ったの。


----------訳者の戯言---------

「御膳(おもの)やどり」は、漢字では「御膳宿/御物宿」または「御膳宿り/御物宿り」と書くようです。宮中で催される儀式や宴会用の食膳を納めておく場所だそうで、紫宸殿の西廂にあったのだそうです。
しかし、この段の舞台は定子の住まい「登華殿」ですから、「御膳宿り」はないはずです。また、原子が住む「淑景舎(=桐壷)」にも「御膳宿」はありません。登華殿から紫宸殿までは結構距離があって、見える範囲でないのは確かですしね。

というわけで、ここで出てきた「御膳宿り」はいったいどこにあるものなのか? ネットや本で調べてはみたんですが、実はそれが、わからないままで。どなたかおわかりの方がいらっしゃったら、「登華殿」の「御膳宿り」がどういうものなのか、どこにあるのか、教えていただけないでしょうか。たぶん食事の準備をする、または食膳を保管するような部屋ではないかとは思うのですが。

褥(しとね)というのは敷物です。座布団のようなもののようです。一つ前の記事で「円座(わらふだ/わろうだ)」というのが出てきました。円座のほうはもちろん円形で、藁のようなものを編んでますから、どっちかというと夏用のマットみたいな感じかと思います。ただ、この段、冬のできごとですから、あくまでも現代使うなら夏用っぽい感じ、ということですね。褥は布製で四角いです。

周頼(ちかより)の少将というのは、フルネーム・藤原周頼で、当時の右近衛少将です。この段に出てきた兄弟姉妹とは実は異母兄弟にあたります。道隆の子どもの一人ですね。生年が不詳なので何歳くらいかはわかりません。
しかし、正室の子たちと側室の子、えらく扱い違いますね。側室の子はお使い役ですか。右近衛少将というのは四等官の次官(すけ)に相当したそうですから、そこそこのポジションではありますが、なんか、ちょっと複雑な気持ちにはなりますね。

⑧に続きます。


【原文】

 しばしありて、式部の丞(ぞう)なにがし御使に参りたれば、御膳やどりの北に寄りたる間に褥さし出だしてすゑたり、御返し今日は疾く出させ給ひつ。まだ褥も取り入れぬほどに、春宮の御使に周頼(ちかより)の少将参りたり。御文取り入れて、渡殿は細き縁なれば、こなたの縁にこと褥さし出だしたり。御文取り入れて、殿、上、宮など御覧じわたす。「御返しはや」とあれど、とみにも聞こえ給はぬを、「なにがしが見侍れば、書き給はぬなめり。さらぬをりは、これよりぞ間もなく聞こえ給ふなる」など申し給へば、御おもては少し赤みて、うちほほゑみ給へる、いとめでたし。「まことに、とく」など上も聞こえ給へば、奥に向きて書い給ふ。上、近う寄り給ひて、もろともに書かせ奉り給へば、いとどつつましげなり。

 宮の方より萌黄の織物の小袿、袴おし出でたれば、三位の中将かづけ給ふ。頸苦しげに思ひて、持ちて立ちぬ。


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枕草子(上) (講談社文庫)

枕草子(上) (講談社文庫)

 

 

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど⑥ ~あなたにも御膳まゐる~

 淑景舎さまにもお食事が配膳されました。「うらやましいね、皆さま方には全部出されたようだ。早くお召し上がりになって、爺さん、婆さんにお下がりを下さいよ」なんて、一日中、冗談ばっかりおっしゃってるうちに、大納言殿(藤原伊周)と三位中将(藤原隆家)が伊周の子の松君を連れて参上されたのね。関白殿(道隆)は孫の松君をすぐに抱き寄せて、膝の上に座らせていらっしゃるの、すごくかわいいのよ。狭い縁側に、ところ狭しと衣装の下襲が引き散らされててね。大納言殿(伊周)は堂々としてて美しく、中将殿(隆家)はすごく上品で知性的でスマート、どちらも立派なご様子を拝見すると、お父様の関白殿(道隆)は言うまでもないけど、お母様の北の方(貴子)の前世の因縁もほんとに素晴らしいって言わざるを得ないわね。「円座(わらふだ)を」とかって、お父様はおっしゃるんだけど、「陣の座に参りますから」って言って、大納言殿は急いでお立ちになったの。


----------訳者の戯言---------

ここの両親、お爺さん、お婆さんみたいなこと言ってますが、まだ40代前半と思われます。道隆は43歳で亡くなってますからね。この段はまだギリ生きてた頃の話です。政変とか疫病で亡くなったのではなく、今で言う糖尿病の悪化だったらしいですね。

猿楽言(さるごうごと)というのは、「冗談、ジョーク、おどけた言葉」などの意味があるとされています。まあ、「おもしろトーク」なのでしょう。
けど、道隆、やっぱり大しておもしろいこと言ってないです。寒いオヤジですね。私個人としてはすべってる話です。たぶん娘たちも心の中では(おもしろくねーよ)と思ってるに違いありません。
しかし清少納言自身は、おもしろい体(てい)で書いてます。残念。そこまで気を使わなくてもと思いますが。上流貴族だから仕方ないんでしょうか。

大納言=藤原伊周は、枕草子には時々出てきます。定子の兄ですね。大納言というとおじさんかと思いますが、まだ22歳くらい。父の威光によって昇進していたんです。
三位中将=藤原隆家は定子の弟です。原子(淑景舎の方)の兄。つまり、定子と原子の間に挟まれた男子です。この時17歳?くらいのようですが、すでに三位。こちらもさすが関白の息子、めっちゃ昇進早いです。
松君は藤原伊周の子で、後の藤原道雅という人。このお話の時はまだ4歳とか、それぐらいの年齢だったようですね。

藤原伊周と隆家の兄弟は、例の花山上皇襲撃事件をやらかした二人です。「長徳の変」のきっかけになった事件ですね。もちろん、今回のお話よりは後のことです。清少納言はここでは絶賛していますが、なかなかやんちゃな兄弟です。しかも、けっこう迂闊な子たちかも。全くアンガーマネジメントもできてないですね。
詳しくは、「大進生昌が家に①」の「訳者の戯言」をご覧ください。

原文で、「円座(わらふだ/わろうだ)」という語が出てきます。これは敷物の一種だそうで、藁(わら)、がま、すげ、まこもなどを渦巻き状に平らに編んで作ったもの、とのこと。おそらく今の座布団に近いものだと思います。
道隆が「まあちょっと座りなよ」と言った、ぐらいのニュアンスかと。

原文の「陣」とあるのは「陣の座」のことなのだそうです。「平安時代中頃から,内裏の左右近衛陣にあり、公卿が政務を評議するために着席した場所。本来は近衛の詰所であったが、のちに公卿が会議などを行う場所となった。この会議を陣定 (じんのさだめ)、仗議 (じょうぎ)などと言い、公卿は任官ののち必ず陣座に着くことになっていた」とあります。
大納言・伊周は、「ちょっと今から陣で会議なんで」って、急いで行っちゃった感じですね。

藤原道隆関白一家、集合の日。さて、この先どうなるんでしょうか?
⑦に続きます。


【原文】

 あなた(=淑景舎)にも御膳まゐる。「うらやましう、方々の、みなまゐりぬめり。疾く聞こし召して、翁、嫗に御おろしをだに給へ」など、ただ日一日、ただ猿楽言(さるがうごと)をのみし給ふ程に、大納言殿、三位中将、松君ゐてまゐり給へり。殿いつしかと抱き取り給ひて、膝に据ゑ奉り給へる、いと美し。せばき縁に所せき御装束の下襲引き散らされたり。大納言殿は物々しう清げに、中将殿はいと労々じう、いづれもめでたきを見奉るに、殿をばさるものにて、上の御宿世こそいとめでたけれ。「御円座」など聞こえ給へど、「陣に着き侍るなり」とて、急ぎ立ち給ひぬ。

検:淑景舎、春宮にまゐりたまふことなど 淑景舎、東宮にまゐりたまふことなど

 

現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)

現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)