枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。

雑色、随身は

 雑色や随身は、少し痩せててスリムなほうがいいわね。
 男は、やっぱり若いうちは、そんな風にスラッとしてるほうがいいのよ。すごく太ってる人は眠たそうに見えるもんね。


----------訳者の戯言---------

雑色(ぞうしき)というのは、貴族の家の雑用係だそうです。
随身については「をのこは、また、随身こそ」の段で詳解しています。警護係、ボディガード役ですね。

やっぱり昔も、痩せててスラッとしているほうがカッコよかったのかなーと思います。特に若いスタッフはですね。その辺のセンスは今とあまり変わらないようです。


【原文】

 雑色・随身は 少し痩せて細やかなるぞよき。

 男は なほ若きほどは、さるかたなるぞよき。いたく肥えたるは、いねぶたからむと見ゆ。


検:雑色随身は 雑色・随身

 

リンボウ先生のうふふ枕草子

リンボウ先生のうふふ枕草子

 

 

猫は

 猫は、上だけが白くてお腹がめっちゃ白いのがいい。


----------訳者の戯言---------

牛もそうなんですが、猫もめっちゃピンポイントついてきます。
黒白猫で、所謂「ハチワレ」といわれてる猫ですね。→こんな感じでしょうか。けど猫はどれもかわいいですけどね。何で1種類だけなんでしょうか。

 

【原文】

 猫は 上の限り黒くて、腹いと白き

 

まんがで読む古典 1 枕草子 (ホーム社漫画文庫)

まんがで読む古典 1 枕草子 (ホーム社漫画文庫)

 

 

牛は

 牛は、おでこがとっても狭くて白っぽくて、お腹の下、脚、尻尾の毛なんかが全部白いのがいいわね。


----------訳者の戯言---------

そんな牛いる?と思います。
まぁ、いるんでしょうけど、googleで「在来種 牛」で画像検索してもなかなか出てきません。だいぶ探したんですが、見つかりませんでした。

 

【原文】

 牛は 額はいと小さく、白みたるが、腹の下・足・尾の筋などは、やがて白き。

 

枕草子(上) 新潮日本古典集成 第11回

枕草子(上) 新潮日本古典集成 第11回

 

 

馬は

 馬は、真っ黒だけどほんの少しだけ白いところがあるのがいいわね。黒栗毛で模様が入ってる馬、葦毛の馬も。薄紅梅の毛色だけどたてがみと尻尾は真っ白なの。まさに「ゆうがみ(ゆふかみ/木綿髪)」とも言えそうね!
 黒くって四本の脚が白いのもとっても素敵なの。


----------訳者の戯言---------

紫というのは紫騮という黒栗毛の馬のことだと思われます。紫騮馬とか紫騮駒というのが漢文に出てきます。清少納言なら多分知っているでしょう。ここに書いてあるのは黒栗毛で、模様が入ってる馬だと思われます。

葦毛(芦毛)の馬はごぞんじのとおり白っぽい灰色です。すでに伝説になっているオグリキャップというすごい芦毛の馬がいました。もちろんサラブレッドですが。さすがに枕草子に書かれている馬はサラブレッドやアラブではありません。日本在来馬で、小型の馬です。種類としてはポニーに属するらしいですね。

薄紅梅ってピンクですから、たぶん薄い赤茶色なのでしょう。具体的にはどんなのを指すのかはよくはわからないです。

今回は「好きな馬、いかしてる馬」です。ああ当時はそうだったのかなーという感じです。感動が少なくてすみません。


【原文】

 馬は いと黒きが、ただいささか白き所などある。紫の紋つきたる。葦毛。薄紅梅の毛にて、髪・尾などいと白き。げに「ゆふかみ」とも言ひつべし。

 黒きが、足四つ白きも、いとをかし。

 

新編日本古典文学全集 (18) 枕草子

新編日本古典文学全集 (18) 枕草子

 

 

職の御曹司の西面の立蔀のもとにて③ ~立ち出でて~

 すると頭の弁(行成)が出ておいでになり、「まったく余すことなく、全部見ちゃいましたよ」っておっしゃったもんだから、「則隆と思ってたから、油断してましたわ。どうして『見ない』っておっしゃっておきながら、そんなにじっくり見ちゃうのかなあ」って言ったら、「『女は寝起きの顔がすごくいい』って言うから、ある人の局に行って垣間見たんだけど、もしかするとあなたの顔も見られるかも、って思って来ちゃったんですよ。まだ帝がいらっしゃった時からいたんだけど、気づきませんでしたね」って。で、それから後は、局の御簾をくぐって入っていらっしゃるようになったの。


----------訳者の戯言---------

さて、結局、顔をしっかりと見られた清少納言。行成はこの日、意図的に顔を見に来ていたようですね。帝夫妻が突然やってきた日に重なっちゃったようです。
※前の記事で帝に従って清少納言のいた「廂の間」に来ていたかのように、私、解釈していたんですが、どうも違うようです。追って前記事は加筆・訂正しておきます。

才覚はお互いに認め合っていて、藤原行成清少納言姉さんを頼りにし、屈託なく押せ押せでアプローチしてきます。本気で彼女にしたいのか、それとも友人としての愛情表現なのか。そして清少納言は自分の容姿にコンプレックスを持ちながらも、悪い気もせず、行成の言動にときめく心隠せず。という展開。
しかし、結局は、簾の中で顔を合わす関係に。もちろん、これをもって男女の関係になったのかと言うと、その可能性はきわめて大だけど、確定ではないということで。仲のいい友人でしょ説、いやいややはり恋人同士説、両方あるようですね。
私は最終的にはそういう関係にはなったと思います。ただ、それが「恋仲」と言えるものかどうかはわかりません。

実はいろいろ調べていたら、これ、前半と後半で約3年くらいの差があるようなんです。つまり、帝と中宮清少納言の部屋に突然やってきた日は実は前半の3年後くらいなんですね。だから、その間、清少納言と行成も一線を越えてはいないということ。しかも、それぞれの逸話を寝かしておいてから、後年まとめて執筆し、あえて公表しているわけです。このへん含めて考えると、案外舞い上がってもなく客観的に捉えていて、「気持ち」としては、仲のいい友人関係におさまってるのかな、という気もします。

また、上の様なある意味わかりやすいストーリーの中にあって、「論語」「史記」「白子文集」「九条殿遺誡」「万葉集」といった和漢両方の古典から引用した言葉を随所にちりばめてきます。もちろん、実際に言った言葉なんでしょうけど、こうした行成と清少納言のやりとりは当然、両者の教養レベルが揃っていないと成立しないし、お互いにそうした知的な遊びのパートナーである、ということも確かに表現されていますね。つまり、私たち二人ってこんなにインテリジェンスに富んでるのよ、的な趣の話でもあるのです。

さらに。もっと穿った見方をすると、すでに35歳を超えた清少納言ですから、あえてうぶうぶなラブストーリーに絡めて博識自慢してくるということだって、なくはないでしょう。高度ですね。あざといですね。秋元康じゃあるまいし。それはないですか。

ま、もっと単純に、お姉さん的存在ながら意外とかわいい清少納言と、年下で世間からは面白みのない男子と思われてる藤原行成のときめきストーリー。少女漫画か!?と思うようなお話。じゃれ合っているのか?とさえ、思って読むほうが、楽しいには違いありません。

しかしこの段、いろいろな読み方ができて面白かったです。長かったですけどね。


【原文】

 立ち出でて、「いみじく名残なくも見つるかな」とのたまへば、「則隆と思ひ侍りつれば、あなづりてぞかし。などかは、見じとのたまふに、さつくづくとは」といふに、「『女は寝起き顔なむ、いとか<た>き』といへば、ある人の局に行きて、かいばみして、またも見やするとて来たりつるなり。まだ上のおはしましつる折からあるをば、知らざりけり」とて、それより後は、局の簾うちかづきなどし給ふめりき。

 

枕草子―付現代語訳 (上巻) (角川ソフィア文庫 (SP32))

枕草子―付現代語訳 (上巻) (角川ソフィア文庫 (SP32))

 

 

職の御曹司の西面の立蔀のもとにて② ~物など啓せさせむとても~

 中宮様に用事を申し上げるような時にだって、一番最初に取次ぎを頼んだ人(私)を尋ねて来るし、局に下がってる時でもわざわざ私を呼び出すし、局まで何か言いに来たりね、実家に帰ってる時は手紙を書いてきたり、わざわざ家までやってきたりもして「宮中に来られるのが遅くなるようなら、『頭の弁がこのように申してました』って中宮様に使者を遣わしてくださいよ」っておっしゃるの。「それ、他の人もいるんだから頼めるでしょ」なんて言って、他の人に振ろうとするんだけど、それはどうしても承服できない感じでいらっしゃるのね。

 「状況に応じて柔軟に対処して、こだわらず、何事もうまくやり過ごすのがいいことだってされてますのに」ってアドバイス的に言ってはみたんだけど、「私の本来のメンタリティですから」とキッパリおっしゃって、「改まらないのが心というものだからね」とも言われるもんだから、「それじゃ(論語の)『改めることをためらってちゃいけない』ってどういうことを言ってるんでしょうかね?」って不思議そうに聞いてみたの。すると、笑いながら、「仲良しだって、みんなからも言われてるさ。こんな風におしゃべりしてるんだから、どうして恥ずかしがる必要があるの? 顔を見せてくれてもいいじゃない」っておっしゃるのよね。
 「すっごいブスだから、『さあらむ人をばえ思はじ(そんな人は好きにはなれないのさ)』っておっしゃってた人に顔を見せるなんて、私できないわ」って言ったら、「ほんとに嫌いになっちゃうかもしれない、だったら、顔を見せないで!」って、普通にしてたらお互い顔が見えてしまうような時も、自分から目を隠して見ないようにされるから、この人は心底、嘘偽りはない、と思ってたの。で、三月の終わる頃、冬用の直衣はもう暑くて着てられないのかな、上着だけで、殿上に宿直する人もいっぱいいた頃ね。

 そんなある日の早朝、日が出てくるまで、式部さまと小さな廂の間で寝てたんだけど、奥の引き戸をお開けになって、帝と中宮さまがお出ましになったから、突然のことで起き上がれずに慌てふためいてたら、お二人、すごくお笑いになったのね。私たちは(上着の)唐衣を肌着(汗衫)の上に羽織っただけで、夜具やら何やらが埋もれてる状態のところにいらっしゃって、陣を出入りする者たちをご覧になって。殿上人が、そんな状況を全く知らずに寄って来て、御簾越しに話しかけたりもするんだけど、帝は「気づかれないようにしてね」ってお笑いになるのよ。

 そして、帝と中宮様はお帰りになられたの。「二人とも、さあどうぞ」っておっしゃったんだけど、「今、お化粧なんかしてるところなので」ってお断りして、参上はしなかったのね。お戻りになった後も、やっぱステキだよね!なんて、話し合ってたら、南側の引き戸の近くにある几帳の手(横棒)が突き出てて、それに引っ掛かって簾が少し開いたとこから黒っぽい物が見えたから、蔵人の橘則隆がいるんだろうと思って、ちゃんと見もしないで、また続けて別のことを話してたら、すっごいニコニコ顔が出てきたから、どうせ則隆でしょ、って見たら、違う顔だったの! あきれちゃって、けらけら笑って、几帳を引き直して隠れてたら、頭の弁(行成)でいらっしゃるのよ。もう顔をお見せしないつもりだったのに、すごくショック! 一緒にいた式部さまはこっち向きだったから顔も見えなかったのに。


----------訳者の戯言---------

「さて『憚りなし』とは何をいふにか」(それじゃ『(改めることを)ためらってちゃいけない』ってどういうことを言ってるんでしょうかね?)と出てきます。何のことなのかと調べました。
これ、論語に出てくる「過則勿憚改」(過ちは憚らずすぐに改めなさい)というのが出典のようですね。

「さあらむ人をばえ思はじ(そんな人は好きにはなれないのさ)」というのは、前半(このブログでは直前の記事)で「なほ顔いと憎げならむ人は心憂し」(やっぱ顔がすごく不細工な人は苦手ではあるんだけどね)と彼が言ってたことを、指してるのでしょう。ブスは好きになってもらえないんだ、って気にしてる感じですね。清少納言、ルックスにかなりコンプレックスがあったようです。

旧暦三月、というと現代の太陽暦では、概ね4月の下旬~5月前半くらい。ですから、もう冬用の服だと暑いでしょうね。直衣(なほし/のうし)っていうのは、当時の男性のカジュアルウェア。

「つとめて」は早朝のこと。ちょくちょく出てきます。
朝の時間帯を表す語については「木の花は」の段でまとめてみましたので、ご参照ください。

「式部のおもと」です。これ、女房の名前とかと同じです。
前に「小白河といふ所は①」でも書きましたが、女房の名は「~の式部さんとこの妹さん」「~~の少納言さんとこの娘さん」「~の乳母さん」「~~の衛門さんの娘さん」的に名前がつくられたようで、たとえば紫式部は、式部省の官僚であった父(もしくは親戚)がいたから、とか、和泉式部は父が式部丞だったから、とか、赤染衛門は、父が右衛門尉であったとか、まあいろいろです。

おもとというのは漢字で「御許」と書き、ご婦人とかお方を指すようですね。「~のおもと」で「~の方、~さま」というニュアンスになります。

なので、「式部のおもと」だと、「式部の方」「式部さま」ぐらいの感じでしょうか。

まさか仲がよろしくないと言われた紫式部ではないでしょうけどね。と言っても、実はこの二人は面識はない、とされています。紫式部が「紫式部日記」で清少納言を一方的にdisってはいるようですが。和泉式部とはまあまあ仲が良かったらしいけどこちらも同僚ではなかったですし、交流があったのはたぶん後年のこと。生年がわからないので、はっきりとしたことは言えませんが、紫式部は5~10歳ぐらい年下、和泉式部は10コぐらい下だったのではないかとのことです。

唐衣(からぎぬ)は、これまでにも何回か出てきましたが、十二単の一番上に着る丈の短い上着です。
汗衫というのは、これまでも女児の上着として出てきましたが、元々は汗取り用の下着だったそうですね。アンダーウェアだったわけですが、そのうち、それを女の子用の上着にするようになり、ひいては正式に女児用上着として作るようになった、ということらしいです。
今みたいにニット、つまりカットソーのプルオーバーの下着なんてないわけですから、前開きで一重のシャツジャケット的なもの、とイメージできますね。

宿直物は「とのいもの」と読むそうです。宿直の時に使った衣服や夜具などのことです。
几帳というのは間仕切りなんですが、T字型のフレームにカーテンみたいなの(帷)を掛けたものなのです。Tの縦棒は足(脚?)で2本あります。Tの上の横棒を手と言うそうです。これが土居という台に設置されてる感じです。

さてこの段のこの部分、どういう状況かよくはわからないんですが、宿直してた女房の部屋に、早朝、いきなり帝と中宮の夫妻がやってきたと。
しかし仮にも女子の寝室ですからね、そこに入ってくるのは、帝や中宮ならOKなんすか? 理由は「陣」の様子を見学? たぶん、気まぐれなんでしょうね。やりたい放題ですね、さすが帝。おそるべし。

橘則隆というのは、当時の蔵人の一人で、清少納言の夫だった橘則光の弟だそうです。行成は蔵人頭ですから、その部下の一人ですね。清少納言橘則光とはこの頃たぶんすでに離婚してます。たぶんですけど。その辺は専門家にお任せしたほうがいいですかね、はい。

しかし平安時代の貴族というのは、仕事とかおしゃべりをする間柄でありながら、顔をはっきりと見ない見せないという関係が成立していたわけですね。ちょっと不思議な感じはします。

清少納言藤原行成の微妙な関係。はたしてどうなるのか。次に続きます。

しかし長いです。あとちょっとだ。


【原文】

 物など啓せさせむとても、そのはじめ言ひそめてし人をたづね、下なるをも呼びのぼせ、局に来て言ひ、里なるは文書きても、みづからもおはして、「おそくまゐらば、『さなむ申したる』と申しに参らせよ」とのたまふ。「それ、人の候ふらむ」など言ひゆづれど、さしもうけひかずなどぞおはする。「あるにしたがひ、定めず、何事ももてなしたるをこそよきにすめれ」と後ろ見聞こゆれど、「我がもとの心の本性」とのみのたまひて、「改まらざるものは心なり」とのたまへば、「さて『憚りなし』とは何をいふにか」とあやしがれば、笑ひつつ、「仲良しなども人に言はる。かく語らふとならば、何か恥づる。見えなどもせよかし」とのたまふ。「いみじく憎げなれば『さあらむ人をばえ思はじ』とのたまひしによりて、え見え奉らぬなり」といへば、「げににくくもぞなる。さらば、な見えそ」とて、おのづから見つべき折も、おのれ顔ふたぎなどして見給はぬも、まごころに虚言(そらごと)し給はざりけりと思ふに、三月つごもりがたは、冬の直衣の着にくきにやあらむ、袍がちにてぞ、殿上の宿直姿もある。

 つとめて、日さし出づるまで式部のおもとと小廂に寝たるに、奥の遣戸をあけさせ給ひて、上の御前・宮の御前出でさせ給へば、起きもあへずまどふを、いみじく笑はせ給ふ。唐衣(からぎぬ)をただ汗衫の上にうち着て、宿直物も何もうづもれながらある上におはしまして、陣より出で入る者ども御覧ず。殿上人の、つゆ知らでより来て物いふなどもあるを、「けしきな見せそ」とて、笑はせ給ふ。

 さて、立たせ給ふ。「二人ながら、いざ」と仰せらるれど、「今、顔などつくろひたててこそ」とて、参らず。入らせ給ひて後も、なほめでたきことどもなど言ひあはせてゐたる、南の遣戸のそばの几帳の手のさし出でたるに障りて、簾の少しあきたるより黒みたる物の見ゆれば、則隆がゐたるなめりとて、見も入れで、なほこと事どもをいふに、いとよく笑みたる顔のさし出でたるも、なほ則隆なめりとて見やりたれば、あらぬ顔なり。あさましと笑ひさわぎて、几帳引きなほし隠るれば、頭の弁にぞおはしける。見え奉らじとしつるものをと、いと口惜し。もろともにゐたる人は、こなたにむきたれば顔も見えず。

 

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

 

 

職の御曹司の西面の立蔀のもとにて①

 職の御曹司の西側にある衝立のところで、頭の弁(藤原行成)が、結構長いこと立ち話をなさってたから、さしでがましくも「そこにいるのはどなた?」って言ったら、「弁でございます」っておっしゃるの。「何をそんなにおしゃべりしてるんですか。大弁がお見えになったら、あなたを見捨ててあっちに行っちゃうでしょうに」って言ったら、大笑いして「もう、誰がそんなことまで言いふらしてるんですか。『そんなことしないでよね』って、お話ししてたんだから」って言われたのね。

 それほど目立って風流ぶったこともしなくて、ただ普通に振舞ってるもんだから、みんなはそういう表面的な部分だけ見てたようだけど、私はもっと奥深い部分の心持ちを理解してたから、「(彼は)凡人ではありませんよ」とかって、中宮様にも申し上げてて。また中宮様もそれをわかっていらっしゃってね。だからいつも「『女は自分を愛してくれる者のためにお化粧をする、男は自分を認めてくれる者のために死ぬ』っていうじゃない」ってお互いに言い合って、彼も私を理解してくれてるのよ。私たちは「遠江の浜柳」ってお互いに約束してたんだけど、若い子たちはとにかく言いにくいことなんかも、ぶっちゃけ言っちゃうもんだから、「あの方とはホント付き合ってらんないわね。他の人みたいに、歌を歌って遊んだりしないし。面白くないんだよね」なんてけなしてるの。で、彼もそれ以上に誰かれともなくおしゃべりしたりもしないのね。

 「私は、目は縦についてて、眉は額(ひたい)の方に生えてて、鼻は横向きだったとしても、ただ口元が可愛くて、あごの下から首にかけてがすっきりキレイで、声が悪くない人だったら、好きになっちゃうんだよね。とは言っても、やっぱ顔がすごく不細工な人は苦手ではあるんだけどね」とだけおっしゃるから、ましてや顎が細くて可愛くない人なんかは、不愉快に思ってね、彼を目の仇にして、中宮様にだって悪口を申し上げるの。


----------訳者の戯言---------

「職御曹司」というのは「職曹司」のこと。「中宮職」の庁舎です。どこやらのお坊ちゃん「御曹司」とは全然関係ありません。語源なんでしょうけどね。職御曹司は「しきのみぞうし」と読むらしいですが。
中宮職中務省に属する役所で、皇后に関する事務全般をやっていたところらしいです。

頭の弁。頭は蔵人頭のこと。「弁」は前の段「をのこは、また、随身こそ」で出てきた弁官です。かなり小馬鹿にしてましたけどね。細かく言うと左大弁、右大弁、左中弁、右中弁、左少弁、右少弁がいたらしいです。
「頭の弁」というのはこの二つを兼任してた人のことらしい。蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる人がいたようなんですね。この二つを兼任している人というのは、当時たぶん一人しかいなくて、名前を書かなくてもこれで個人を特定できたわけですね。ここで出てきたのは藤原行成だそうです。三跡の一人でもありました。

遠江の浜柳」。遠江(とおとうみ)というのは、現在の静岡県西部です。近江つまり琵琶湖に対して、浜名湖遠江としたわけですね。その遠江の浜柳とは?
これ、万葉集にある旋頭歌「あられ散り遠つあふみの跡川柳刈れ(離れ)どもまたも生ふ(逢ふ)ちふ跡川柳」からのものだそうです。恋愛の歌ですね。「いくら刈ってもまた生えてくる」という跡川の川柳、転じて「永遠に切っても切れない仲、たとえ別れても必ずまた逢える」といった意味で使われたのがこのフレーズだったらしいです。

しかし、この段で出てきたのは「浜柳」で「川柳」ではないんですよね。博学ですが、勘違いも時々ありの清少納言。はたしてわざとなのか、間違いなのか。

ところで「顎が細い」のは、よくなかったんですかね。今ならそのほうがいいような気がするんですが、やはり古代の美人は違うんでしょうか。

清少納言、今回は藤原行成を高評価。この後どういう展開になるのでしょうか。
ちなみに藤原行長が「頭弁」であったのは996年頃で、当時20代半ばくらい。まだまだ若いです。清少納言は生年が不詳ですが30代前半、おそらく6、7歳ほどお姉さんなんですよね。

次に続きます。乞うご期待。


【原文】

 職(しき)の御曹司(みざうし)の西面(おもて)の立蔀(たてじとみ)のもとにて、頭の弁、物をいと久しう言ひ立ち給へれば、さし出でて、「それはたれぞ」といへば、「弁候ふなり」とのたまふ。「何か、さも語らひ給ふ。大弁見えば、うち捨て奉りてむものを」といへば、いみじう笑ひて、「たれかかかる事をさへ言ひ知らせけむ。『それさなせそ』と語らふなり」とのたまふ。

 いみじう見え聞こえて、をかしきすぢなど立てたることはなう、ただありなるやうなるを、みな人さのみ知りたるに、なほ奥深き心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など、御前(おまへ)にも啓し、またさ知ろしめしたるを、常に、「『女は己をよろこぶもののために顔づくりす。士は己を知る者のために死ぬ』となむいひたる」と言ひあはせ給ひつつ、よう知り給へり。「遠江の浜柳」と言ひかはしてあるに、若き人々はただ言ひに見苦しきことどもなどつくろはずいふに、「この君こそうたて見えにくけれ。こと人のやうに、歌うたひ興じなどもせず、けすさまじ」などそしる。さらにこれかれに物言ひなどもせず。

 「まろは、目はたたざまにつき、眉は額ざまに生ひあがり、鼻は横ざまなりとも、ただ口つき愛敬づき、頤(おとがひ)の下・頸清げに、声にくからざらむ人のみなむ思はしかるべき。とは言ひながら、なほ顔いと憎げならむ人は心憂し」とのみのたまへば、まして頤細う、愛敬おくれたる人などは、あいなくかたきにして、御前(ごぜん)にさへぞあしざまに啓する。

 

まんがで読む古典 1 枕草子 (ホーム社漫画文庫)

まんがで読む古典 1 枕草子 (ホーム社漫画文庫)