枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

松の木立高き所の①

 松の木立が高いお屋敷で、東や南の格子を全部上げてあるもんだから涼しそうに透けて見える母屋に、四尺の几帳を立てて、その前に円座(わろうだ)を置いて、40歳くらいのすごくいい感じの綺麗めの僧侶が墨染で薄めの袈裟を美しく着こなして、香染の扇を使って一生懸命、陀羅尼(だらに)を座って唱えてるの。
 もののけのせいで病んですごく悩まされてるからって、(もののけを)乗り移らせる人(よりまし)として大柄な少女が生絹(すずし)の単衣に彩り鮮やかな袴を長めに着こなして、膝をついてにじり出てきたんだけど、横の方に立ててある几帳の前に座ってるものだから、僧侶は外向きになって体をひねって、すごく鮮やかな独鈷(とこ)をその女の子に持たせて拝礼しながら読んでる陀羅尼も尊いわ。
 立ち会いの女房がたくさん付き添いで座ってて、静かに見守ってるの。しばらくして女童が震え出すと正気を失って。僧侶が加持祈祷するままにその霊験をお現しになる仏の御心もすごく尊いって思う。
 兄弟や従兄弟なんかも、みんな出入りしててね。ありがたがって集まってるのも、いつもの正気のままなら、どんなにか恥ずかしがってうろたえちゃうでしょうね。女の子本人は実は自分は苦しく感じてはいないって頭ではわかってても、すごく混乱して泣いてるのが気の毒で、少女の知人たちなんかは愛おしいって思って近くに座って、着物の乱れを直してやったりするの。
 こうしてるうちに、もののけに悩まされてる人は気分がよくなって、僧侶が「薬湯を」とかって言うの。北面の廂の間に待機してた若い女房たちは、不安なんだけど薬湯の器を提げて病人のところに急いで来てお世話をするのね。女房たちは単衣なんかがすごくきれいで、薄色の裳とかもよれよれでなくて、すっきりと美しいの。


----------訳者の戯言---------

「几帳(きちょう)」というのはよく出てきますが、自らおさらいしておきます。
布製の衝立(ついたて)でしたね。間仕切り、可動式のパーテーションです。T字型のフレームにカーテンみたいなもの(帷、帳などと言う)を掛けたものです。Tの縦棒は足(あし=脚?)で2本あり、Tの上の横棒を手と言います。このあしが土居という台に設置されてる感じです。

細かなところまできっちりしている人を「几帳面な人」と言ったりしますが、この几帳から来てるらしいと前にも書きました。元々、几帳の柱が細部まで丁寧に仕上げてある、ということからこう言ったそうですね。

さて、一尺≒30.30303030303…cmなので、四尺の几帳は高さ約1.2mのものということになります。
このほかにも高さ三尺(約90cm)のものとか、二尺(約60cm)のものもあります。今回出てきたのは高い方の四尺の几帳でした。幅は「幅(の)」という単位で表されました。これも一幅=約30cmだそうです。だとすれば、「尺」でいいのに、と思うのは私だけでしょうか? まぁ良いんですが、三尺の几帳は四幅(よの)、四尺のものは五幅(いつの)の帳(ちょう/とばり)(または帷)という布を垂らしたものなんだそうです。


「円座(わらふだ/わろうだ)」というのが出てきました。これは敷物の一種だそうで、藁(わら)、がま、すげ、まこもなどを渦巻き状に平らに編んで作ったものとのことです。今の座布団なんかに近いものでしょう。


「あざやかに装束きて」という語が出てきますが、印象としては今で言う「映える」というイメージだと思います。その日のファッションがいかしてて、インスタ映えする感じでしょうか。

香染は丁子で染めたもので、薄い茶色です。カフェラテの色ぐらいの感じ。丁子というのは生薬と言われてるんですが、実際にはスパイスです。英語ではクローブと言われていて、カレーとかチャイなんかに入れられます。メキシコ料理にも使われるらしいですね。


陀羅尼(だらに)というのは、仏教で唱えられる呪文のようなものです。私のような素人が聴くと、ほとんどお経と変わらないんですが、違うものらしいです。詳しくは、以前「陀羅尼は」という段に書きました。よろしければお読みください。


この段で出てきたように、僧侶とか修験者が祈祷をしたり、死霊、生き霊、もののけなんかを調伏(コントロールして、制圧)するとき、霊やもののけを一旦憑依させる者のことを「よりまし」と言ったりします。子供や人形がその役目を担ったようですね。具合の悪くなった人からこの「よりまし」に物の怪、霊をまず移し憑(と)りつかせてから、退散させたんだそうです。


動詞「ゐざる」というのは「居ざる」「膝行る」などと書くらしいです。「膝をついて、座ったまま移動する」ことを言います。


独鈷(とこ/とっこ/どっこ)っていうのは独鈷杵(とっこしょ、どっこしょ)のことです。鉄か銅製で、両端がとがった短い棒状のもので、金剛杵(こんごうしょ)という密教の法具の一つなんだそうですね。元々は古代インドの武器で、後に密教で外道悪魔を破砕し煩悩を打ち破る象徴として使うようになったと。たしかに武器っぽいです。金剛杵にはいろいろ種類があって、独鈷杵のほか、三鈷杵(さんこしょ)、五鈷杵(ごこしょ)、三鈷剣(さんこけん)、七鈷杵(ななこしょ)、九鈷杵(きゅうこしょ、くこしょ)等々が限りなくと言っていいほどあります。


というわけで、何やら具合の悪くなった人を僧侶が加持祈祷をしている風景を描いているようです。
たしかなエビデンスも無いのに病気になったのが「もののけ」のせいだと決め付けているところが、さすが平安時代なのですが、憑き物をうまい具合に乗り移させるのが、僧侶とか修験者とか陰陽師とかの手腕なのでしょうね。と言ってもほんとうにもののけややら、悪霊やらがいるわけではないので、一種の催眠術のようなものなのでしょう。心療内科などのメンタルヘルスの治療方法に通じるものかもしれません。
ただ、これでなんでもかんでも治るわけでもなく、急性の疾患にしても、ウィルスや菌による感染症の場合もあるでしょうしね。安静や栄養補給が必要だったりもします。

いずれにしても症状が良くなってくれれば、めでたしめでたしなのですが。②に続きます。


【原文】

 松の木立(こだち)高き所の東、南の格子上げわたしたれば、涼しげに透きて見ゆる母屋(もや)に、四尺の几帳立てて、その前に円座置きて、四十ばかりの僧の、いと清げなる墨染の衣(ころも)・薄物の袈裟(けさ)あざやかに装束きて、香染(かうぞめ)の扇を使ひ、せめて陀羅尼を読みゐたり。

 もののけにいたう悩めば、移すべき人とて、大きやかなる童の、生絹の単衣あざやかなる、袴長う着なしてゐざり出でて、横ざまに立てたる几帳のつらにゐたれば、外様(とざま)にひねり向きて、いとあざやかなる独鈷(とこ)を取らせて、うち拝みて読む陀羅尼もたふとし。

 見証(けそ)の女房あまた添ひゐて、つとまもらへたり。久しうもあらでふるひ出でぬれば、もとの心失せて、おこなふままに従ひ給へる、仏の御心もいとたふとしと見ゆ。

 兄人・従兄弟なども、みな内外(ないげ)したり。たふとがりて、集まりたるも、例の心ならば、いかにはづかしと惑はむ。みづからは苦しからぬことと知りながら、いみじうわび、泣いたるさまの、心苦しげなるを、憑き人の知り人どもなどは、らうたく思ひ、け近くゐて、衣(きぬ)引きつくろひなどす。

 かかるほどに、よろしくて、「御湯」などいふ。北面に取りつぐ若き人どもは、心もとなく引きさげながら、急ぎ来てぞ見るや。単衣どもいと清げに、薄色の裳など萎えかかりてはあらず、清げなり。