荒れたる家の蓬ふかく
荒れてしまったお屋敷の蓬(よもぎ)が深く茂ってて葎(むぐら)が這ってる庭に、月が翳りなく明るく澄んだ様子で昇ってくのを見るの。また、そんな荒れてる家の板屋根の隙間から漏れて射し込んでくる月の光。荒くはない風の音。
池があるところは、五月の長雨の頃には特にすごくしみじみとしたいい情緒が感じられるの。菖蒲、菰(こも)なんかが生い茂って、水も緑だから庭も同じ色に見えて、曇ってる空をぼんやり眺めて日を暮らすのは、すごく情趣のあるものだわ。いつも池のあるところはどこも趣があっていい感じなの。
冬も氷が張る朝なんかは言うまでもないわ。わざわざ入念に手入れしてあるのよりも、水草がいっぱいで荒れ放題になってて青々としてる隙間隙間に、月が白々と映って見えるのとかね。 全部、月の輝く姿っていうのは、どんなところでもいい感じなの。
----------訳者の戯言---------
蓬(よもぎ)はわかりますが、葎(むぐら)っていうのは何?って感じです。
広い範囲にわたって生い茂り藪をつくる雑草のことだそうです。その茂みのことも葎と言うようですね。山野や道ばたに繁茂するつる草の総称とも言われています。
五月長雨というのは、ご存じのとおり旧暦5月の長雨ですから、すなわち梅雨です。ちなみに2023年の今年は本日6月8日(グレゴリオ暦=太陽暦)ですが、旧暦4月20日となっています。旧暦ではまだ5月にもなっていませんが、関西ではグレゴリオ暦5月29日にすでに梅雨入りしたものと発表(気象庁)がありました。ややっこしいですね。
ま、いずれにしても旧暦の五月頃の雨なのですね。
五月雨(さみだれ)というのも同様に梅雨のことです。五月という字面からなんとなく爽やかな感じに思えますが、あのジメジメした梅雨なのです。古典を読むときはイメージの転換をしなければいけません。
能因本では、「あはれなるもの」(123)の終わりの部分に「荒れたる家に葎這ひかかり、蓬など高く生ひたる家に、月の隈なく明かき。いと荒うはあらぬ風の吹きたる。」とあります。
すでにこのブログでも早くに紹介した、三巻本にもとづく「あはれなるもの」ですが、それに付加されるべきであった部分と考えていいのかもしれません。
荒れてつる草が茂った庭、水草で埋もれた池や、そこに映る月の姿、といったものに風情を感じる清少納言。めずらしくしなびた感じの情景を描いています。「わびさび」というのは、質素で物静かな様子の中で感じられる美しさ、という感じなんですが、実は平安時代にはあまり表現されなかったんですね。
ざっとなぞっておくと、実は平安後期から鎌倉時代にかけて藤原俊成あたりから「わびさび」らしきものが出てきたそうです。俊成の子である定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」という歌にそのエッセンスがよく出ているとされていて、時代が下ってさらに鎌倉時代から室町時代にかけては「徒然草」の兼好法師、そして「わび」と言うと茶道にその舞台が移るんですね。室町中期の茶道創始者と言われる村田珠光、「わび」の心を茶の湯に投影した武野紹鷗、さらに紹鷗から受け継ぎ「わび茶」を完成させた千利休、同じく戦国時代の豪商で茶人の今井宗久などが「わび」の分野では有名人となりました。江戸時代には松尾芭蕉ですね。それはなんとなく私も知ってます。
というわけで、清少納言的には、地味めだけどけっこういかしてるでしょ?こういうセンスの私も素敵。の段となりました。でも、そもそも「をかし」の人なのですから、「あはれ」は追々紫式部に任せましょう。
【原文】
荒れたる家の蓬(よもぎ)深く、葎(むぐら)はひたる庭に、月の隈(くま)なく明かく、澄みのぼりて見ゆる。また、さやうの荒れたる板間より洩り来る月。荒うはあらぬ風の音。
池ある所の五月長雨の頃こそいとあはれなれ。菖蒲、菰(こも)など生ひこりて、水も緑なるに、庭も一つ色に見えわたりて、曇りたる空をつくづくとながめ暮らしたるは、いみじうこそあはれなれ。いつも、すべて池ある所はあはれにをかし。冬も氷したる朝(あした)などは言ふべきにもあらず。わざとつくろひたるよりも、うち捨てて水草(みくさ)がちに荒れ、青みたる絶え間絶え間より、月影ばかりは白々と映りて見えたるなどよ。
すべて、月影はいかなる所にてもあはれなり。