枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど①

 淑景舎の方(定子さまの妹君、原子さま)が東宮に入内なさった時のことほど、なんて素敵な!ってことはなかったわね。一月十日にお入りになって、お手紙なんかは定子さまと頻繁に交換し合ってたんだけど、まだ直接姉妹がお顔を合わせることはなくって、二十日すぎに定子さまの元にお越しになるっていう情報が入ったから、いつもよりお部屋の調度を念入りにきれいにピッカピカに整えて、女房たちみんなスタンバイしてたの。夜中頃にお越しになったから、そんなに経たないうちに夜は明けたのね。

 登華殿の東の廂の二間にお迎えする支度はしてあったの。で、お父様とお母様のお二人が、早朝、まだ暗いうちに一つのお車に乗って参上なさったわ。日が出てから、とってもすばやく格子を全部上げて、定子さまはお部屋の南に四尺(約1.2m)の屏風を、西から東の方向に渡して北向きに立てて、畳の上には敷物だけを敷いて、火鉢を持って来させたのね。屏風の南側、御帳台の前には女房がすごく大勢侍ってるの。


----------訳者の戯言---------

淑景舎(しげいしゃ)というのは、御所の後宮にあるお屋敷の一つで、内裏の北東部、「桐壷」とも呼ばれたそうです。女御などが居住したお屋敷ですが、当時ここに住んだのは中宮定子の妹・原子(げんし/もとこ)です。一条天皇の次の天皇となる三条天皇に即位前(東宮時代)に入内しています。
今回は入内してしばらく経った頃のお話でしょうね。

原子は淑景舎に住んでいたから、淑景舎の方、あるいは略して、淑景舎と呼ばれたのでしょう。

登華殿(とうかでん)というのは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つだそうです。弘徽殿の北にある、南北七間、東西二間の母屋の四面に庇がある東向きの建物だったそうです。主に中宮、女御などの居所であり、公卿や殿上人の宿所が設けられることもあった、ということです。ここでは中宮定子の住まいになっているようです。

ここで「殿」というのは、この姉妹の父親・藤原道隆、「上」はその奥方、つまり母親・貴子のことのようです。家族が集まってきたようです。

「御曹司(みぞうし)」という語はよく出てきます。というか、枕草子では「職の御曹司」という風にワンセットで書かれることが多いですが、これは中宮職の庁舎のことでした。一般に「御曹司」は高貴な人の私室だそうです。これが転じてエエトコの子のことを「御曹司(おんぞうし)」と言うようになったらしいですが。

久しぶりに妹と対面、父母もやってきたと。さてどうなるのでしょうか。
②に続きます。


【原文】

 淑景舎、春宮に参り給ふほどのことなど、いかがめでたからぬことなし。正月十日にまゐり給ひて、御文などはしげうかよへど、まだ御対面はなきを、二月十余日宮の御方に渡り給ふべき御消息あれば、常よりも御しつらひ心ことにみがきつくろひ、女房など皆用意したり。夜中ばかりに渡らせ給ひしかば、いくばくもあらで明けぬ。

 登華殿の東の二間に御しつらひはしたり。殿、上、暁に一つ御車にて参り給ひにけり。つとめて、いと疾く御格子まゐりわたして、宮は御曹司(みざうし)の南に四尺の屏風、西東に御座(おまし)しきて、北向に立てて、御畳の上に御褥(しとね)ばかり置きて、御火桶参れり。御屏風の南、御帳の前に、女房いと多く候ふ。


検:淑景舎、春宮にまゐりたまふことなど 淑景舎、東宮にまゐりたまふことなど

 

枕草子 (21世紀版・少年少女古典文学館 第4巻)

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