枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

僧都の御乳母のままなど

 僧都の君の乳母なんかが御匣殿(みくしげどの)の御局に座ってたら、ある男性スタッフが縁側の板敷の近くに寄って来て、「ひどい目にあいまして、どなたにこの辛さを申し上げたらよいでしょうか?」って言って泣きそうな様子だから、「どうしたの?」って尋ねたら、「ほんのちょっと出かけてた間に、私の住んでる所が火事で焼けてしまいまったもので、やどかりのように人の家に尻を差し入れて暮らすしかございません。馬寮(うまづかさ)の秣(まぐさ)を積んでた家から火が出て延焼したのでございます。ただ私の家は垣根を隔ててるだけでしたから、寝室に寝ておりました妻も、危うく焼け死ぬところでして。少しも家財を運び出せなかったんです…」なんて言ってるのを御匣殿もお聞きになってすごくお笑いになるの。

みまくさをもやすばかりの春の日に夜殿さへなど残らざるらむ
(御秣を燃やす程度の火でなぜ夜殿が残らずすっかりやけたのだろうか=草を萌え出させる程度の春の陽なのにどうして淀野が残らず焼けたのでしょう??)

って私が書いて、「これを渡してやってください」って言って投げたら、みんな笑い騒いで、「ここにいらっしゃるお方が、あなたの家が焼けたから、気の毒がってくださったのよ」って取らせたら、手紙を広げて見て、「これは何の短冊なのでしょう? 物はどのくらいいただけますか?」って言うから、「とにかく読みなさい」って言ったの。「どうして読めるのでしょう? 片目も開かない(書いてある字が読めない)のですから…」って言うもんだから、女房たちは、「人にでも見せなさい。とにかくすぐに!って定子さまがお呼びだから急いで御前に参上するのね。そんなに素晴らしいものを手に入れたのに、どうして悩んでるのかしら??」って言ってみんなで笑い騒いで参上したら、「あの歌を人に見せたのかしら? 家に返ってからどんなに怒るでしょうね」とかって、御前に参上して(僧都の君の)乳母が申し上げると、またみんな笑って騒ぐのね。定子さまも「どうしてそんなに大騒ぎしてるのよ!?」ってお笑いになるの。


----------訳者の戯言---------

僧都の君」というのは藤原道隆の四男、つまり、伊周や定子、隆家らの弟にあたる人です。出家していて法名を隆円と言いました。


御匣殿(みくしげどの)。ここでは定子の幼い妹(道隆の四女)を指しています。

藤原道隆の長女が定子。二番目の娘が原子で後に三条天皇東宮時代(居貞親王)の后になった人=淑景舎(しげいしゃ)とも呼ばれました。三女の頼子は後に敦道親王の后になった人。四女がこの御匣殿(本名不詳)です。

この時代は中務省の内蔵寮(くらりょう)という役所で朝廷の金銀、財宝や衣服なんかを倉庫に収納したり管理したそうですが、そこが調進する以外に、天皇の衣服などの裁縫をする所があって、これを「御匣殿」と言い、この御匣殿の女官の長(別当)のことも御匣殿と呼ばれていました。この時四女はまだ子どもで、生年不詳ではありますが、大きくても11歳or12歳、もう少し幼かった可能性もあります。
しかしそれで御匣殿の別当なんですから、権力者の子弟がいかに出世が早かったかということは言えると思います。

この御匣殿別当が後に女御(にょうご)や東宮妃などになることもあったのだそうです。
定子の妹の御匣殿は定子が若くして亡くなった後、3人の遺児(甥や姪たち)の母代りとなったそうです。皇子女たちの世話をしているうちに、皇后定子を失った一条天皇の心を捉え、やがて寵を受け懐妊したといいますが、身重の時に亡くなったのだそうです。


「がうな(ごうな)」というのは蟹であって「擁劔」(かざめ)を表したものであるか、「寄居虫」「寄居子」と書くケースもあったようです。「ガザミ=ワタリガニ」という蟹がいますから、「擁劔(かざめ)」はそれだったのでしょう。一方、「寄居虫」はヤドカリであって、「かみな」「かむな」「かうな」とも読んだようです。
即ち、「がうな」だろうが「かみな」だろうが「寄居虫」だろうが「寄居子」だろうが、ここに出てくるものは「ヤドカリ」なのであって、堅いこと言ってはダメということだと思います。ホンマか?


馬寮(うまづかさ/うまのつかさ/めりょう/まりょう)というのは官馬の調教とか飼育、馬具の調整などを司った役所です。
秣(まぐさ)とは馬や牛の飼料とする草。干し草でしょうか。


童べ(わらべ)というのは、一般には子どものことなんですが、「まだまだ子供の妻」という意味で「妻をへりくだって言う」場合にも使われたようです。今で言うと愚妻というイメージですね。今の時代にそんな言葉使うセンスはどうかとは思いますが。


原文に最後の定子の言葉に「もの狂ほしからむ」とありましたが、「狂おしい気持ちだ。気持ちが高ぶる。ばかげている。」といった意味になります。
心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
と「徒然草」の冒頭に書いたのは、兼好法師ですね。


まじか。
家が火事になった男を笑いまくる女房たち。僧都の君(隆円)の乳母も御匣殿もです。この男性が文盲なのも笑い話にしてるし。
御匣殿はお子ちゃまだからしかたないとしても、大人たちが人の不幸をこれだけ笑うとは感心しませんな。それどころか、清少納言はこれをネタに一首詠んで、タイムリーにええ感じで詠めましたわと自慢する始末。

人、特に身分の低い人の不幸を面白がりすぎ。
平安時代、人に対する思いやりとか敬意ってどうなってるの?という段です。


【原文】

 僧都の御乳母のままなど、御匣殿の御局にゐたれば、男(をのこ)のある、板敷のもと近う寄り来て、「からい目を見候ひて、誰にかは憂(うれ)へ申し侍らむ」とて、泣きぬばかりのけしきにて、「何事ぞ」と問へば、「あからさまにものにまかりたりしほどに、侍る所の焼け侍りにければ、がうなのやうに、人の家に尻をさし入れてのみ候ふ。馬づかさの御秣積みて侍りける家より出でまうで来て侍るなり。ただ垣を隔てて侍れば、夜殿に寝て侍りける童べも、ほとほと焼けぬべくてなむ。いささかものもとで侍らず」など言ひをるを、御匣殿も聞き給ひて、いみじう笑ひ給ふ。

  みまくさをもやすばかりの春の日に夜殿さへなど残らざるらむ

と書きて、「これを取らせ給へ」とて投げやりたれば、笑ひののしりて、「このおはする人の、家焼けたなりとて、いとほしがりて賜ふなり」とて、取らせたれば、ひろげてうち見て、「これは、なにの御短冊にか侍らむ。物いくらばかりにか」といへば、「ただ読めかし」といふ。「いかでか、片目もあきつかうまつらでは」といへば、「人にも見せよ。ただ今召せば、とみにて上へ参るぞ。さばかりめでたき物を得ては、何をか思ふ」とて、みな笑ひまどひ、のぼりぬれば、「人にや見せつらむ。里に行きていかに腹立たむ」など、御前に参りてままの啓すれば、また笑ひ騒ぐ。御前にも、「など、かくもの狂ほしからむ」と笑はせ給ふ。