枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

男は、女親亡くなりて

 男は、女親が亡くなって父親一人になって、父親はその男(息子)のことをすごく思いやってるんだけど、気難しい後妻を迎えたその後からは、部屋の中にも入れさせず、着物なんかは、乳母とか、亡くなった先妻の付き人たちとかに言ってお世話をさせてるの。
 (男は)西や東の対のあたりに風情ある感じに作ってる客間なんかで、屏風や障子の絵も見事な部屋に住んでるのね。殿上に勤めてるんだけど、そつなくやってるって人々も思ってて、帝もお気に入りでいつもお召しになって、管弦のお遊びの相手だと思っていらっしゃるんだけど、やっぱりいつも何となく憂鬱で、世の中が自分に合わない気がして、色恋を好む気持ちへと並外れて向かってるようなの。
 上達部で比類無いくらい大切にされてる妹が一人いるんだけど、男はその人にだけは思っていることを話して心の慰めにしてるのよ。


----------訳者の戯言---------

対(たい)。寝殿造において主人の起居する寝殿に対して東、西、北などに造った別棟の建物のことを「対の屋(たいのや)」と言うそうです。ここにはたいてい妻や子女が住むそうですね。


さて、ここに登場した女親が亡くなった「男」というのは、皇后定子様亡き後の敦康(あつやす)親王ではないかと言われているようです。
しかし定子亡き後、藤原道長が権力を振るう世になって、敦康親王や定子のことをあからさまに書くわけにはいかない状況。ましてや彰子をdisるようなことは書けないでしょう。そのため主人公を「男」とし、一条天皇のことを「男親」とした。つまりフィクションのように書いています。

敦康親王には1歳違いの媄子(びし)内親王という妹がいましたが、9歳の時に亡くなりました。したがってここで出てきた「妹」というのはその妹の内親王ではないようです。また、2歳年上の姉・脩子(しゅうし)内親王という人もいましたが、この人は終生未婚だったようですね。位も皇后に準じるほどの位階だったようですから、この姉も違うと考えられます。もちろんいずれもノンフィクションなら、という話ですが。ちなみに、当時は年上の女きょうだいも「いもうと」と言いました。

敦康親王は、15歳の時に中務宮(なかつかさのみや)具平(ともひら)親王の娘を妻としています。その妻の実姉は隆姫女王と言い、権大納言藤原頼通の妻となった人でした。従って上達部(藤原頼通)の義理の妹を娶ったのは事実で、妻(妹)にだけは本音を語り心の慰めにしていた、ということなら辻褄が合わないでもありません。しかし、そうだとしてもこれまた無理やりこじつけたかのようには思えます。

実際には、一条帝は敦康親王を疎んだわけでもなく、むしろ愛しんだそうです。また、道長の娘、中宮・彰子も、自身の子どもがまだいなかったため幼い親王を愛情こめて育てたということです。


すべてはすでに清少納言が宮中より退いた後のことです。
ここはシンプルに、父から疎外され傷ついた若き男性が、その欲求不満を、恋愛・性愛によって紛らわしたのだ。そしてその男はただ一人の妹にだけ本心を打ち明け慰められているのだ。と、伝聞と想像に基づき、フィクションにして描いたもの、と考えたほうが良いように思いました。
しかしやはり清少納言の心のどこかに彰子や一条帝を恨むような気持ちがあったのは否めないと思います。


【原文】

 男は 女親(めおや)亡くなりて、男親(をおや)の一人ある、いみじう思へど、心わづらはしき北の方出で来て後は、内にも入れ立てず、装束などは、乳母、また故上の御人どもなどしてせさせす。

 西東の対のほどに、まらうど居など、をかし。屏風・障子の絵も見所ありて住まひたる。

 殿上のまじらひのほど、口惜しからず人々も思ひ、上も御けしきよくて、常に召して、御遊びなどのかたきにおぼしめしたるに、なほ常にもの嘆かしく、世の中心に合はぬ心地して、好き好きしき心ぞ、かたはなるまであべき。

 上達部のまたなきさまにてもかしづかれたる妹(いもうと)一人あるばかりにぞ、思ふことうち語らひ、なぐさめ所なりける。