枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

御前にて人々とも、また①

 定子さまの御前で他の女房たちとも、また、定子さまがお話しなさるついでなんかにも、「世の中が腹立たしくて、嫌になって、少しの間も生きてられる気がしなくって、ただどこでもいいから、どこかに行ってしまいたい!って思ってても、普通の紙ですごく白くてキレイなのに、上等の筆、白い色紙、陸奥国紙(みちのくにがみ)なんかが手に入ったら、格別に慰められて、どうであれ、このまましばらく生きててもよさそうだな、なんて思えるの。それに、高麗縁(こうらいばし/こうらいべり)の筵(むしろ)の青く細かく厚く編んでて、その縁の紋がすごく鮮やかで黒く白く見えてるのを広げて見たら、やっぱりこの世は絶対思い捨てることができそうにないんだって、命までも惜しくなってしまうわ」って申し上げたら、「とっても、ちょっとしたことで慰められるのね。『姨捨山の月』はいったいどんな人が見たのかしら?」なんてお笑いになったの。控えてる女房も、「すごく簡単な息災の祈りみたいね」なんて言うのよ。


----------訳者の戯言---------

陸奥国紙(みちのくにがみ/陸奥紙/みちのくがみ)は高級和紙です。ついこの前も出てきました。

「高麗縁の筵」というのは?何?ということで、まず高麗縁ですが、高麗端とも書くようです。読み方は「こうらいべり」または「こうらいばし」だそうです。
というわけで、高麗縁というのは畳の縁 (へり) の一種なのですが、どんなのかというと、白地の綾に雲形や菊花とかの紋を黒く織り出したものらしいですね。紋にも大小があって、親王や大臣など上のほうの人は大紋、公卿とかは小紋のものを使ったそうです。

当時は「筵(むしろ)」に縁をつけたものを「畳」と言ったわけで、筵も畳もニュアンス的にはほとんど同じなんですね。もちろん厚みはありますが。ここでは筵と言っています。当時の部屋は板張りで、必要に応じてそれを敷いたんだそうです。
平安時代、畳は貴重品で、天皇や貴族の屋敷だけで使われていました。また、身分で畳の大きさ、厚さ、縁の生地や色が定められていたそうです。

帝、院、三宮(皇后・皇太后太皇太后)は繧繝縁(うんげんべり)。親王や高僧、摂関や将軍などの臣下でも「准后」(准三宮)という称号が与えられると三宮扱いになるため、繧繝縁を用いたようです。親王、大臣は大紋の高麗縁、公卿は小紋の高麗縁だったらしいですね。

ちなみにお雛様は繧繝縁の畳に座っています。仏像なども繧繝縁のようですね。


さて「姨捨山の月」です。

古今和歌集に詠み人知らずでこのような歌があります。

わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
(私の心を慰めることはできません、更級の姨捨山に照る月を見ていたら)

更級(さらしな)というのは、今の長野県にあった(ある?)地名です。「更級日記」の「更級」ですね。
私は蕎麦の中でも、特に更科そばが好きなのですが、これに使われているのが更科粉というのですね。信州ですから。そばの名産地として更級郡、今の長野市からしいですが、その地名があり、それに因んで付けられたと。更科(さらしな)と書きますけれど、漢字を当てるのは結構昔からいい加減というか、ラフなので実はどっちもアリなんですよね。

で、その更級にあった姨捨山(おばすてやま)。月の名所でもあったらしいです。
そして先ほど書いた「更級日記」ですね。菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)という人が書いた日記文学で、それに前述の古今集の「わが心~」の歌を本歌取りした歌が出てくるらしいんですね。これ↓です。

月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
(月も出ていない暗闇の夜、姨捨山=年老いた独り身のわたくしのところ に、あなたはどうして訪ねておいでになったのですか)

日記の終盤、夫と死別し、子供達も独立し、年老いて、と言っても50代だったそうですが、京都郊外の山里で一人暮らす彼女を甥が尋ねて来てくれました。そのことを、姨捨山に捨てられた老人に例えて詠んだのがこの歌だそうです。で、この歌自体には「更級」というワードが出てこないし、更級日記のすべてを通して「更級」という言葉は出てこないらしいですね。本歌取りした元歌のほうに「更級や」と出てくるのみなのだそうですね。なのでタイトルも後世の人が「更級日記」と名付けたというのが有力な説なのだそうです。

ちなみに夫・橘俊通の最後の赴任地は信濃国であったそうです。月、そして姨捨という連想にはそのようなことも影響していたかもしれません。

誤解の無いように書いておくと、「更級日記」作者の菅原孝標女は「枕草子」よりは後の人(1006年生まれ)ですから、本段に更級日記の内容が反映されているという事はありません。多少ヲタ気質のある人で、少女時代「源氏物語」をめっちゃ読んで、あの世界に憧れていたらしいです。特に「源氏物語」でも最後のほうの「宇治十帖」のメインのヒロイン「浮舟の女君」所謂「浮舟」押しだったようですね。というか、自己投影していたのかもしれません。「浮舟の女君」は薫と匂宮に想われて…三角関係に悩む悲劇のヒロインだそうです。


更級日記」について書き過ぎました。すみません。戻ります。
姨捨山の月」ですね。で、本歌取りもされている先の歌「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」ですが、歌物語の「大和物語」にも取り上げられています。

ざっくり言うと、ある男が、妻にそそのかされて、親のように養ってきた伯母を山(姨捨山)に捨ててきたものの、家に帰って、山の上にある月を眺めながら、悲しい思いに沈んでしまって、伯母を連れて戻ったという話だそうです。

詳しく書くと。
信濃の国の更級という所に、男が住んでいました。
若いときに親が死んでしまったので、伯母が親のように若い時から付き添って世話をしていたんだけれども、この男の妻の心は、結構つらいことが多くて、この姑が年をとって腰が曲がっているのをいつも憎ったらしく思ってて、男にもこの伯母が意地悪くろくでもないなんて言って、昔とは違っておろそかに扱うようになったと。
で、この嫁、厄介がって、なんでくたばらねーんだよって、男に告げ口して「山奥に捨てちゃってください」と責め立てたんですね。
男も、責め立てられるのに閉口して、もうそうしちゃおうって。月夜に、「寺でありがたい法会があるから、見に行きましょ!」って、すごく喜んで背負われたんだそうです。
で、高い山の峰まで行って、下りて来られそうもない所に置いて逃げて来てしまったと。「これこれ」と呼ばれても、返事もしないで逃げてね。
で、家に戻って、冷静になってみると、そそのかされてこんなことやっちゃったけど、やっぱ長い間母親のように一緒に暮らしてたの思ってすごく悲しくなってきて、この山の頂上から月もこの上もなく明るく出てるのを見たら、一晩中眠れず、まじ悲しくて。(再度になりますが)

わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
(私の心を慰めることはできません、更級の姨捨山に照る月を見ていたら)

と詠み、また山に行って連れ戻ったそうです。それからはこの山を姨捨山と言ったそうなのですね。

という話です。長くてスミマセン。
もちろん年老いた伯母さんのことも大切ですが、どうも奥さんのほうも精神的に辛いのではないかという気がしてなりません。パニック障害であるとか、ストレス性疾患のような気がします。今なら心療内科に行って診てもらうレベルだと思います。鬼嫁的な感じで描かれていますが、実は根本的な問題はそこにあり、彼はそのへんも配慮してあげなければいけないかと考えられます。
逸れまくりましたが。
というわけで、姨捨山ですけれども、今は正式には冠着山(かむりきやま)という山なのだそうです。長野県千曲市東筑摩郡筑北村にまたがる山で、標高1252メートル、おおよそ長野盆地南西端に位置するとのことでした。

古今集が905年、大和物語が951年頃のものですから、清少納言はどちらも読んでいたのでしょう。古い歌のようですから、もっと前から有名だったかもしれませんし、説話のほうも共通認識はあったかもしれません。

そういうわけで、これを前提に定子が「姨捨山の月」はどんな人が見たのかしら??と言ったのですね。


落ち込んで澱んでた気持ちが、ちょっとしたことで洗われて正気を取り戻せたわ、定子さまや同僚たちもよかったじゃん♡って、同意してくれて…。といったところでしょうか。
②に続きます。


【原文】

 御前にて人々とも、また、もの仰せらるるついでなどにも、「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥国紙など得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる。また、高麗縁(ばし)の筵(むしろ)青うこまやかに厚きが、縁(へり)の紋いとあざやかに、黒う白う見えたるを引きひろげて見れば、何か、なほこの世は、さらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなむなる」と申せば、「いみじくはかなきことにもなぐさむなるかな。『姨捨山の月』は、いかなる人の見けるにか」など笑はせ給ふ。候ふ人も、「いみじうやすき息災の祈りななり」などいふ。