枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

御前にて人々とも、また④ ~二日ばかり音もせねば~

 二日ほど音沙汰が無かったもんだから、間違いない!ってことで、右京の君のところに、「…こういうことがあったのね。で、そんな様子ってご覧になったかしら?? こっそりどうだったかおっしゃって。…もしそんなじゃなかったら、こんなこと言ってたって絶対言いふらさないでくださいね」って手紙を送ったら、「(定子さまが)すごくお隠しになってたことなのです。私が申し上げたって絶対口にしないでくださいね」って返事があったもんだから、やっぱり思ったとおりだ!って、おもしろくって、定子さまご自身へのお手紙を書いて、またこっそりと定子さまのお屋敷の高欄に置かせたんだけど、慌てちゃってて。そのまま下に落として、階段の下にまで落ちちゃったっていうのよね。


----------訳者の戯言---------

右京の君というのは、同僚と言うか、清少納言よりも若手の女房のようです。右京といえば「相棒」ですけどね、普通は。
「~の君」と付きますからね。「君」といってもめちゃくちゃ高い位の人ではなかったようで、女房名には時々、こういう名前の人がいます。これまでにも中納言の君、宰相の君という女房が出てきました。前にも書きましたが、当時は親や夫の官職なんかから女房名をつけるという、まさに男尊女卑的社会なんですね。

高欄(こうらん)ですが、「欄干」と同じで、屋敷の周りなんかに付いてる手すりみたいなやつです。


結局のところ、例の畳を持って来させたのはやはり中宮・定子さまであったと確認。思ったとおりです。そして、お礼?の手紙を書いて高欄に置かせたけど、下に落ちちゃったようだと。

なぜ落ちたのを知っててそのままなのか、落ちた手紙がその後どうなったのか、気になって仕方ないですが、特に書かれていませんね。溶けたのか??


というわけで、この段の背景です。

関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて②」でも出てきましたが、長徳の変より少し後、定子の父・藤原道隆はすでに亡くなっており兄・伊周が藤原道長との権力闘争にも負けて、世の中はいよいよ道長の世となりつつあります。
道長の娘・彰子が一条帝に入内し、定子は彰子に取って代わられ不遇の時を迎えている頃。まさに「この世をばわが世とぞ思ふ望月の~」と詠んだあの時代が訪れようとしています。

清少納言は定子=伊周派というか中関白家側の身ではありましたが、ご存じのとおり才知に長けており、交友関係も広かったようで、対抗勢力の一端でもある定子サロンに居ながら、道長派の面々、そして道長自身とも交流を持っていました。

道長とは付き合ってたのではないか?という説もあるぐらいですし、上にも書いた「関白殿、~」の段でも「押し」の一人であったことを匂わせています。
そのようなことから、「長徳の変」において、清少納言道長派に通じていたのではないか、という噂が流れます。意外なことに、これに清少納言は酷く傷心したのだそうですね。それで実家に帰って一時引き籠り状態になります。その時の逸話の一つが、この段だと言われているようです。非常に複雑な心境を感じますね。階段の下まで手紙が落ちたことを知ってても、そのままスルーしてしまった、というのが、当時の清少納言のメンタリティだったということなのでしょう。


【原文】

 二日ばかり音もせねば、疑ひなくて、右京の君のもとに、「かかることなむある。さることやけしき見給ひし。忍びてありさまのたまへ。さること見えずは、かう申したりとな散らし給ひそ」と言ひやりたるに、「いみじう隠させ給ひしことなり。ゆめゆめまろが聞こえたると、な口にも」とあれば、さればよと思ふもしるく、をかしうて、文を書きて、またみそかに御前の高欄におかせしものは、まどひけるほどに、やがてかけ落して、御階(みはし)の下に落ちにけり。