枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

御形の宣旨の

 御形の宣旨(みあれのせんじ)が、帝に、五寸(約15cm)ほどの殿上童のすごくかわいい人形を作って、みずら(角髪)を結って、着物なんかもオシャレにして、中に名前を書いて差し上げたんだけど、「ともあきらの大君」って書いてあったの、すごく面白がられたそうなのよね。


----------訳者の戯言---------

御形(みあれ)というのは、御生とも書きます。御生神事(みあれのしんじ)のことだそうです。同じ神事なんですが、今は「御生神事」と書くほうが多いようですね。
現在はこの「御生神事」という神事、「御蔭祭(みかげまつり)」と言うらしいです。下鴨神社に「御蔭神社」という境外摂社があって、そこのお祭りなのだとか。葵祭という京都人の大好きなお祭りがありますが、これは、その前の儀式として、比叡山の麓の御蔭山で新たにお生まれになった神様の荒御魂(あらみたま)を、「下鴨神社」へとお迎えする重要な神事なのだそうです。

摂社っていうのは、ご存じの方も多いと思いますが、比較的大きな神社の内外にある支店みたいな神社です。縁の深い神様を本店の周りに祀ったわけですね。
とはいえ、googleマップで調べたら、結構遠いです。下鴨神社の最寄駅は「出町柳」ですが、ここから御蔭神社の最寄駅、叡山電車八瀬比叡山口駅」まではそれぞれを含めて7つの駅があります。電車だと13分ほどらしいですね。距離にすると5.6kmほどありますから、線路を歩いたとして1時間あまり。おそらく道路を歩けば、御蔭神社から下鴨神社まではゆっくり歩いて約2時間といったところではないかと思われます。

ところで、下鴨神社というのは、正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と言います。ちなみに上賀茂神社は「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」です。上賀茂神社に祀られる祭神は「賀茂別雷神賀茂別雷命)」なんですが、その神様の母と母の父(つまり祖父)にあたる神様が下鴨神社賀茂御祖神社)に祀られています。なので、本名はこんな名前なんですね、なるほど。

先に書いた、その御蔭山で生まれた御魂っていうのは、この賀茂別雷神っていう上賀茂神社のほうの神様の御魂だそうです。そもそも日本の古い信仰では、神様は神社に常駐しているわけではなくて、自然界にいらっしゃると。で、お祭りの度に人里を訪れて下さったんだとか。まあ、そういうことらしいですね。

上賀茂神社下鴨神社は元々は賀茂神社という一つの神社だったそうで、それぞれ上社、下社という存在だったらしいです。結構離れてますが。ま、よくわかりませんが昔は野原だったんでしょうしね。そんなもんでしょう。
各々家族というか兄弟というか、そういう存在ですので、対になって神事も行われるようです。上賀茂神社でも字は違いますが「御阿礼(みあれ)神事」が同時期に行われるそうですね。

しかし葵祭、今年は新型コロナの影響で、残念ながら例の行列はなくなりました。もちろん神事は行われたようです。私はあの行列がおもしろいものだとは思えませんが、昔の娯楽としてはダントツで、一大イベントだったそうです。今で言うなら、テーマパークのパレード的なものなのでしょう。

当時は、都で「祭」といえば、賀茂祭葵祭)でした。今、日本の三大祭の一つといわれている祇園祭は、祭のランクとしては下の方だったんですね。山鉾巡行はもっと後の時代にできたものですし、どっちかというと祇園祭は町人のものだったようですしね。それに比べると、賀茂祭は勅祭、帝(天皇家)が取り仕切る国家的イベントだったわけですから、格は違います。

祭のことだけで、こんなに書いてしまいましたが、祭の話ではありません。

御形の宣旨(みあれのせんじ)です。
宣旨(せんじ)は、律令期以降、天皇太政官の命令を伝達する文書形式です。当初は宣旨が下される際、その口宣を蔵人に伝える女官(内侍)のことを指していたらしいですが、のちには宣旨の宣下に関係なく、こう呼ばれるようにもなったらしいです。職名が通称になった、と。ハリウッドザコシショウみたいなもんでしょうか。違いますね。

そういうわけで、「御形の宣旨」は、ある女官で、歌人でもあった人の名前です。
ただ、この人は花山(かざん)天皇が即位前、親王であった時に仕え、御生神事で宣旨を務めた人らしいですから、ザコシショウではありません。

つまり、ここで出てきた帝というのは、花山天皇だということです。花山天皇が子ども(師貞親王)だったころ、御形の宣旨がこの親王に仕えていたらしいんですね。
花山天皇は変わった人というか、ヤンチャというか、そういう帝だったらしいです。私驚いたのは、即位の日に馬の内侍という美人女官を引っ張り込んでレイプしたことですよ。恐るべし。そのほかにもいろいろ逸話のある人です。ちょっと困った帝だったようではありますね。

殿上童(てんじょうわらわ)というのは、公卿の子どもで、宮中の作法を見習うために、元服前に殿上に上ることを許されて出仕する少年のことだそうです。

「みずら」というのは、漢字で「角髪」と書きます。結うとありますから髪型なんですが、よく古代の神様とかが結ってた感じの、あの髪型です。センター分けにして、顔の両側、耳のところに、括った髪を長細い耳みたいにしてセットしたやつですね。そんないかした人形をつくりましたと。

「ともあきらの大君」と出てきました。誰?と思い調べましたが、そんな人はおらず。で、他の方の訳を拝見したところ、兼明親王(かねあきらしんのう)のことらしいです。やっぱり誰それ?って感じです。
兼明親王についてはわかりました。ウィキペディアにも載ってます。醍醐天皇の第11皇子だそうですね。朱雀天皇村上天皇源高明の異母兄弟にあたる人らしいです。一時期、臣籍降下して源兼明(みなもとのかねあきら)と名乗ったそうですが、晩年になって皇籍に復帰したそうです。なので、60歳は過ぎてるおじいちゃんだけど、「兼明親王」なんですね。

ただ、この皇籍復帰というのは、別に名誉なことでもなく、当時、太政大臣に次ぐ朝廷の要職・左大臣だった源兼明が、藤原氏の家内での政争に巻き込まれた形でゴリ押しで「復帰させられた」というのが実情のようですね。この人自身は博学多才な人だったらしいです。

しかしそもそも、「ともあきらの大君(おおきみ)」っていうのが、何で兼明親王のことなのかがわかりません。みんな、そう書いてますが、根拠を教えていただきたいです、モヤモヤはしますね。
そして、仮に兼明親王だとして、それをなぜ「ともあきらの大君」に変えたのかもわかりません。ダブルで謎。人形だからなんか適当に仮名にしたのかもしれませんけど。「〇〇あきら」がいっしょだから?
「アベゴンゾウくん」とか「ガースー」とかの感じでしょうか。そういえば、最近陰の薄くなった菅官房長官、どうしてるんでしょうか。あ、ガキ使のほうではありませんよ。

というわけで、花山天皇が子どもの頃、御形の宣旨がかわいい人形をつくって差し上げたんですね。で、名前を入れたんですが、それが「ともあきらの大君」でしたと。このことを、子どもの花山天皇(師貞親王)が、おもしれーと思ったらしいです。
しかし先にも書いたように、何がおもしろいのか、はっきりとはわかりません。子どもですから。下ネタとか変顔とかでめちゃくちゃ笑いますからね。HIKAKINとかでも。

私の想像でしかないんですが、カワイイ子どもの人形に、あえて「おじいちゃん親王」っぽい名前をつけてウケ狙いの御形の宣旨。名前は「かねあきらの大君」の一部をもじって「ともあきらの大君」にしたら、子どもの花山天皇(師貞親王)が結構ウケてくれました。と。

ま、いろいろ考えましたが、まとまりはありません。正解についてもしご存じの方がいらっしゃいましたら、どうかご教授よろしくお願いします。

清少納言的には、ぜひこれ書いておこう、という話のようですね。前の段で、村上天皇の時代の逸話を紹介した彼女、またちょっと昔の話を持ってきました。流れとしては、機知に富んだ応対をしたかつての女官をリスペクト!シリーズ第二弾のような気がしましたが。


【原文】

 御形(みあれ)の宣旨(せじ)の、上に、五寸ばかりなる殿上童のいとをかしげなるを作りて、みづら結ひ、装束などうるはしくして、なかに名書きて、奉らせ給ひけるを、「ともあきらの大君」と書いたりけるを、いみじうこそ興ぜさせ給ひけれ。