村上の前帝の御時に
前の帝、村上天皇の御代に、雪がたくさん降ったのを器にお盛りになって、梅の花を挿して、月がすごく明るかったんだけど、「これをテーマに歌を詠んでみて。どんな風に表現するかな?」って、兵衛の蔵人にお題を下されたんだけど、「雪月花の時」って申し上げたら、すごくお褒めになられたの。「歌なんかを詠むっていうのは、ごくごく当たり前のことだけど。こんな時にぴったりなことって、なかなか言えないものなんだよね」って、おっしゃったって。
で、同じ人(兵衛の蔵人)をお供にして、殿上の間に人々が参上してなかった時、うろうろ歩き回られてたら、炭櫃(すびつ)から煙が立ち上ってたもんだから、「あれは何なのか見てきて」って仰せつかったので、見て戻ってきて、
わたつ海のおきにこがるる物見れば あまの釣りしてかへるなりけり
って申し上げたのは、いかしてたわ! 蛙が飛び込んで焼けてたんだから!
----------訳者の戯言---------
兵衛の蔵人。枕草子をお読みの方の中にはおわかりの方も多いと思いますが、兵衛府に蔵人はいません。で、何なんだろう?と思って調べてみたところ、これは女蔵人(にょくろうど)の名前だとわかりました。兵衛サンっていう女蔵人?ですね。
女蔵人というのは、宮中に奉仕した女子スタッフで、内侍や命婦の下で雑用を務めたそうです。およそ六位に相当し、年労によって五位に叙せられる場合もあったのだそうですから、ま、男性の蔵人と同様のポジションと考えていいでしょう。
ここでは、帝がこれで歌を詠めって、プレバトで夏井さんが俳句のお題を出してる感じですか。
雪月花。日本で古くから言われてる風流なものベスト3です。
すぐ前の段で、雪と月が出てきましたが、それに花がプラスされてますね。流れとしてはカンペキです。
歌を詠むよりも、ピタッと端的な言葉で言ったのがよかったんでしょうか、兵衛の蔵人。
原文で「たたずませたまひける」と出てきました。
「たたずむ」という言葉はなかなかやっかいな語です。私たち、普通にイメージするのは、「しばらくその場で立ちとどまっている」感じです。ぽつんと一人で、というイメージがありますね。しょんぼりとしたり、唖然としてたり。建物とか、物とかを擬人化して使う場合もありますね。
一方、行きつもどりつする。徘徊(はいかい)する。うろつく。というような意味もあります。
つまり。
止まっている状態にも使うし、うろうろ動き回る状態も表すという、ややこしいことになります。しかも、古語においては、①うろうろする、②立ち止まっている の用法の頻度が逆転していて、「うろつく」ほうの意味で使うことのほうが多かったようですから。状況を見て解釈しなければいけません。本当にやっかいな語ですね。ここでは「うろうろする」の方です。
炭櫃(すびつ)というのは、囲炉裏、角火鉢のことだそうですね。そして、その赤く熾(おこ)った炭火を熾(おき/燠)と言うそうです。
わたつ海の沖にこがるる物見れば あまの釣してかへるなりけり
という歌は、藤原輔相(ふじわらのすけみ)という歌人の作だそうです。
わたつ海。
そもそも「わたつみ(わだつみ)」というのは、古事記とか日本書紀では「海神」「綿津見」などと書いて海を支配する神様のことだったそうですね。私が目や耳にしたことがあるのは「きけわだつみのこえ」という書名ですが、これは第二次世界大戦で亡くなった学徒兵の遺言を集めた本です。もちろん私はタイトルしか知りませんが。
で、その神様がいるところ、つまり「海」自体のことも「わたつみ」と言うようになったそうです。「わたつみ」の「み」は元々「神(み)」のことなんですが、誤って「渡津海」「わたつ海」とかも書かれたらしく、わたつ海(わたつうみ)もOKとなったようですね。
で、清少納言が何を言いたいかというと、
わたつ海のおきにこがるる物見れば あまの釣りしてかへるなりけり(海の沖で漕いでる物を何かと見たら、海士(あま)が釣りをして帰るとこだったよ→海の『燠(おき)』で『焦げる』物を何かと見たら、海士が釣りをして『蛙』とこだったよ)
っていう、アドリブダジャレ和歌解釈。
とは言え、兵衛の蔵人、これはなかなかスゴ技ですよ。ダジャレ部分が×3コですから、それ引っ張り出してくるワザ、ハンパなし。プロの仕事と言ってもいいかもしれません。もしや??自作自演か?っていうくらいのレベルです。共犯者の存在も疑われます。だとしたら、蛙もかわいそうですね。
余談ですが、「蛙」も「帰る」も歴史的かな遣いでは「かへる」です。柳家かゑるという噺家さんがいますし、「かゑる」というバンド名とかお店とか、見たような気がします。それを言うなら、お笑いの「よゐこ」も歴史的かな遣い的には違います。よい子は「よいこ」としか書けません。
しかし。
それはいいんです。固有名詞ですから、なんらルールに縛られることはない、というのが私の持論です。それならそんな細かいこと言うな、と、かえって叱られそうですね、すみません。
本題です。
いずれにせよ、今回ばかりはさすがの清少納言も脱帽。というか、昔の人のことなので、張り合っても仕方ないですし。こういうの、帝とか定子さまの前で私もやりたいよなー、という気持ちでしょうね。清少納言のあこがれが表れてる段です。
【原文】
村上の前帝(せんだい)の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、楊器(やうき)に盛らせ給ひて、梅の花を挿して、月のいと明かきに、「これに歌よめ。いかが言ふべき」と、兵衛の蔵人に賜はせたりければ、「雪月花の時」と奏したりけるこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよむは世の常なり。かくをりにあひたることなむ言ひがたき」とぞ、仰せられける。
同じ人を御供にて、殿上に人候はざりけるほど、たたずませ給ひけるに、炭櫃に煙の立ちければ、「かれは何ぞと見よ」と仰せられければ、見て帰り参りて、
わたつ海のおきにこがるる物見れば、あまの釣りしてかへるなりけり
と奏しけるこそをかしけれ。蛙(かへる)の飛び入りて焼くるなりけり。