宮にはじめて参りたるころ①
中宮(定子)さまにお仕えをはじめた頃、恥ずかしいこと数知れずで、涙も落ちてしまいそうだから、毎晩参上して、三尺(約90cm)の御几帳の後ろに控えてたら、定子さまが絵なんかを取り出しお見せ下さったったんだけど、手も差し出せないくらい、たまらなく辛かったわ。「これは、こういうものなの。ああなってるの。どの場面かしら? あれかしら!?」とかおっしゃるの。高坏に取ってある灯火があるから、髪の毛流れがかえって昼間よりはっきり見えて恥ずかしいんだけど、そこはぐっとこらえて絵を見たりしてたのね。すごく寒い時だから、差し出されてちらっと見える手が、とても艶やかな薄紅梅色なのは、この上なくすばらしい、って、こういう世界を知らない田舎者のメンタリティとしては、こんな素敵な方がこの世に存在なさったんだ!って驚くような気持ちで、お見つめ申し上げてしまったの。
----------訳者の戯言---------
「几帳」というのは、移動式の布製の衝立(ついたて)です。当時の間仕切り、可動式のパーテーションですね。
細かなところまできっちりしている人を「几帳面な人」と言ったりしますが、この几帳から来てるそう。元々、几帳の柱が細部まで丁寧に仕上げてある、ということからこう言ったそうですね。
一尺≒30.30303030303…cmなので、三尺は90cmぐらいです。三尺の几帳は、室内用の几帳で、高さ三尺×幅六尺だったらしいですね。
御殿油(おんとなぶら)は大殿油(おおとなぶら/おおとのあぶら)とも言います。これまでには「大殿油」で、枕草子の中には何回か出てきました。宮中や貴族の邸宅で使われた油の灯し火のことです。油そのもののことではなく、灯火を指してこう表現したらしいです。
清少納言が定子の元に出仕してすぐの話のようです。
出仕したのは993年、清少納言27歳の時。一条天皇の中宮であった定子はその時17歳。27歳のオトナ女子が、17歳のお妃様にたじろいでいます。高貴すぎるし、見目麗しすぎて、委縮している感じでしょうか。
定子は13歳くらいで3歳年下の一条天皇に入内してますから、相当な早婚。教養もあり、しかも性格も温和だった人です。天皇に嫁ぐこと自体父の権力に直結しますから、政争に利用される存在ではありましたが、一条天皇とは仲が良く、帝は定子にぞっこんであったようです。3人目の子どもをお産みになった直後、後産が遅れて亡くなったようです。24歳という若さだったそうですね。
後産(あとざん)とは、胎児を娩出(べんしゅつ)した後、胎盤、卵膜、臍帯などが体外に排出されることを言いますが、これがスムーズに排出されないと、胎盤遺残となり、出血多量など、母体に影響を及ぼします。現代医療ではマッサージをして自然排出を促しますが、場合によっては開腹手術も行われるらしいです。当時なら、なおさら生死にかかわる一大事だったのでしょう。
後産については「心もとなきもの③」にも、もう少し詳しく書きましたので、ご参照ください。
10コも年下の定子さまの素敵さに見惚れる清少納言。
②に続きます。
【原文】
宮にはじめて参りたるころ、もののはづかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳の後ろに候ふに、絵など取り出でて見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。「これは、とあり、かかり。それか、かれか」などのたまはす。高坏に参らせたる御殿油なれば、髪の筋なども、なかなか昼よりも顕証に見えてまばゆけれど、念じて見などす。いとつめたきころなれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじう匂ひたる薄紅梅なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまでぞ、まもり参らする。
検:宮に初めて参りたるころ