枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

関白殿、二月二十一日に⑬ ~御経のことにて~

 一切経の供養があるから明日積善寺へお向かいになるっていうことで、私は今夜参上申し上げたのね。南の院の北側の向かいに顔を出したら、高坏(たかつき)に火を灯して、2人3人、または3、4人で親しい者同士、屏風を引き寄せて仕切ってる女房もいるの。几帳とかを使って仕切ったりもしてるのね。また、そうでもなくて、何人かで集まって座って、衣装を縫い重ねて、裳の引腰(ひきごし)を差して、お化粧をする様子は今さら言うまでもなく、髪なんかはっていうと、明日を過ぎればもう無くなってもいいっていうくらい念入りに見えるわ。「寅の時(午前3時~5時)に定子さまが積善寺にお出ましになるそうよ。どうして今まで参上なさらなかったの? 扇を使いの者に持たせてあなたを探してる人がいたわよ」って知らせてくれたの。

 それで、ほんとに寅の時かと思って、身支度を整えて待ってたんだけど、夜が明けてしまって日も射し出したのね。西の対(たい)の唐廂(からびさし)に車を寄せて乗るってことで、渡殿(わたどの)を通って女房全員が行く時に、まだフレッシュな新入りの女房たちは気持ちが引けちゃってるんだけど、西の対には関白殿がお住まいだから定子さまもそこにいらっしゃって。まず女房たちを車にお乗せになるのをご覧になるってことで、御簾の内側に、定子さま、淑景舎(しげいしゃ)さま、三番目四番目の姫君、関白殿の奥方、奥方の妹の三人の方々が立ち並んでいらっしゃるの。


----------訳者の戯言---------

「南の院」というのは、東三条殿の南院のことだそうです。東三条殿というのは、ここに登場する関白殿=藤原道隆の父・兼家の主邸であったところで、兼家は「東三条殿」と呼ばれました。また、その娘藤原詮子(つまり道隆の妹、円融天皇の女御/円融法皇の皇太后/一条天皇の母)の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となったという、そこです。これはこの段の冒頭にも少し書きましたね。ただし、女院となってからは東三条殿に住むことはなかったらしいですが。

実は正暦4年(993年)の3月に、父から引き継いで道隆の邸宅になっていた東三条殿の南院が全焼しています。本院は焼失を免れたらしいですが、南院もすぐに再建され、翌年11月には完成したそうですから、この段のお話は建設途中であった可能性が高いですね。おそらくその所為で道隆も主殿でない西の対に住んでいたのでしょう。

原文に「裳の腰さし」という表現があります。
裳(も)というのは、「表着の上で腰に巻いて、後ろに裾を長く引くもの」だそうです。女性の礼装でそういうのがあったらしいですね。腰に当てる固い部分を「大腰(おおごし)」といい、その左右から分かれて左右脇より下へ引くものを「引腰(ひきごし)」と言うそうです。小腰というものも存在し、ベルト的な位置づけのものですが、元々は引腰であったもののようですね。
引腰は後年装飾として位置づけられるようになったようですが、

寅の時は、現在で言うと午前3時~5時の間の時間帯です。めちゃくちゃ早い。

西の対(にしのたい)と出てきました。寝殿造において主人の起居する寝殿に対して東・西や北につくった別棟の建物のことを「対の屋(たいのや)」と言うそうです。ここにはたいてい妻や子女が住むそうですね。「西の対」は文字通り主殿の西側に建てられた対の屋のことです。

唐廂(からびさし)。 唐破風(からはふ)造りにした家の軒先のこと。唐破風というのは曲線でデザインされた屋根です。時々寺院とかにありますね。真ん中がぽこんと山形になっていて両端がふにょっと上がってるあの感じです。西の対の屋根がこんな感じだったのでしょうか。


淑景舎(しげいしゃ)はこの前も出てきました。定子のすぐ下の妹、次女の原子です。

「おとと」というのは「おとうと」のことではあるのですが、元々は男にも女にも使った言葉らしいです。弟。妹。同性の年下のきょうだいのことなんですね。
そもそも年下を表すのが「おと」という語だったようで、漢字では「乙」または「弟」と書いたらしいです。「おとひと→おとと」となったと考えられるようですね。また、「おとひと」のウ音便が「おとうと」となったということです。

これに対して「妹(いも)」。こちらは妻、恋人、姉妹、でした。男性から女性を親しんで呼ぶ言葉でした。これが「いもうと」になったということでしょう。「妹」に対する言葉は「背(せ)」でしたね。これは女性が、夫、恋人、兄弟など自分の親しい男性をさして呼んだ語です。ですから、そこから考えると「妹」の対義語は「背」になるはずなんですが、そうはならなかったというのが、言語のおもしろいというか、ままならないところではありますね。


というわけで、いよいよ一切経供養のために定子が積善寺へ向かう前日となりました。清少納言も戻ってきてスタンバイOKでしたが…。日も変わり当日。朝早く出ると教えられてたのに、もう夜が明けて日が射してきた時間帯です。京都の3月下旬ころの日の出となると午前6時前後のようですからね。3時か4時かと聞いてたのが、7時頃になったじゃん、ガセかよ!という感じですね。
中関白家の女子のみなさんが並んで、女房たちの随行を送り出すんですね。そんなことするんですか? 逆じゃないのか?
よくわからないまま⑭に続きます。


【原文】

 御経のことにて、明日わたらせ給はむとて、今宵参りたり。南の院の北面にさしのぞきたれば、高杯どもに火をともして、二人、三人、三四人、さべきどち屏風引き隔てたるもあり。几帳など隔てなどもしたり。また、さもあらで、集まりゐて衣どもとぢかさね、裳の腰さし、化粧するさまはさらにも言はず、髪などいふもの、明日よりのちはありがたげに見ゆ。「寅の時になむわたらせ給ふべかなる。などか、今まで参り給はざりつる。扇持たせて、もとめ聞こゆる人ありつ」と告ぐ。

 さて、まことに寅の時かと装束きたちてあるに、明けはて、日もさし出でぬ。西の対の唐廂にさし寄せてなむ乗るべきとて、渡殿へある限り行くほど、まだうひうひしきほどなる新参(いままゐり)などはつつましげなるに、西の対に殿の住ませ給へば、宮もそこにおはしまして、まづ女房ども車に乗せ給ふを御覧ずとて、御簾のうちに、宮、淑景舎、三四の君、殿の上、その御おとと三所(みところ)、立ち並みおはしまさふ。