枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

三条の宮におはします頃

 三条の宮殿に定子さまがいらっしゃった頃、五月五日の菖蒲の輿なんかを持ってやってきて、薬玉を献上したりするの。
 若い女房たちや御匣殿(みくしげどの)とかは、薬玉を姫宮や若宮のお着物にお付けなさってらっしゃって。とってもいい感じの薬玉が他のところからも献上されて、青挿(あおざし)っていうものも持ってきてたの、それを青い薄様の紙をおしゃれな硯箱の蓋に敷いて、「これがませ越し(ませごし)でございます」って定子さまにご覧に入れたら、

みな人の花や蝶やと急ぐ日もわが心をば君ぞ知りける
(人がみんな花や蝶やと浮かれてるこんな日にだって、私の気持ちをあなたはよくわかってるのよね)

って、その青い薄様の紙の端をお破りになって、お書きになったのね、すごく素晴らしいわ。


----------訳者の戯言---------

菖蒲の輿(そうぶのこし/あやめのこし)。平安時代とかには五月五日の端午の節会 (せちえ)の時、輿に菖蒲(しょうぶ)を盛って宮中の御殿の軒先なんかに飾ったらしいです。それのことなんですね。

薬玉(くすだま)というのは、やはりこの日、五月五日に邪気をはらうために、御帳の柱やカーテンとかにかけた玉だそうです。ここではお子様の衣服にも付けたように書かれていますから、そういうこともしたんでしょうね。麝香(じゃこう)などの香料を錦の袋に入れて、菖蒲や蓬とかで飾って、五色の糸を垂らしたような玉なんだとか。で、この薬玉は御帳には秋まで飾られてて九月九日に菊に取り換えられたらしいです。

薬玉をつくっていたのは、中務省(なかつかさしょう)の縫殿寮(ぬいどのりょう)に属してる糸所(いとどころ)という役所だったそうです。本来、糸所の主な仕事は糸を紡ぐことで、多くの女官が働いていたらしいですね。で、この端午(菖蒲)の節句には、この糸所から献上される菖蒲や蓬の薬玉を女蔵人(にょくろうど)の中から選任されたあやめの蔵人(菖蒲の蔵人)が、親王や公卿をはじめ臣下に分けて配ったらしいです。
ただ、この段では別のところからも献上されたようですから、必ずしも糸所メイドのものだけでもなさそうです。

御匣殿(みくしげどの)というのは、この時は中宮定子の妹君でしたね。
この時代は中務省の内蔵寮(くらりょう)という役所で朝廷の金銀、財宝や衣服なんかを倉庫に収納したり管理したそうですが、そこが調進する以外に、天皇の衣服などの裁縫をする所があって、これを「御匣殿」と言ったらしいです。また、この御匣殿の女官の長(別当)のことを御匣殿と呼んだらしいんですね。
で、この御匣殿別当が女御(にょうご)や東宮妃などになることもあったのだそうです。

青刺(あおざし)。しかし、「青刺」でググりますと、全然出てきません。いきなり「刺青」ばっか出てきます。入れ墨、タトゥーの意味の「刺青」ですね。「刺青」を今は「いれずみ」と読むことが多いですが、元々は「しせい」ですからね、谷崎潤一郎の「刺青」は「しせい」ですから、しせい! 
で、ひらがな「あおざし」でGoogle先生に聞いてみますと、お菓子なんだそうです。しかも、書物ではこの枕草子のこの段が日本のお菓子に関する記述の最初なんだそうですね。そういや菓子って昔は果物のことでしたものね。果物ではなく、今で言うまさにお菓子的なお菓子のオリジンがこの「あおざし」なのでしょうか。

またまた調べると「青挿/青稜子」というものがあるらしく「炒った青麦の穂を臼で挽いて粘りを出し、撚って糸状にした菓子」だそうです。歳時記にありました。夏の季語らしいです。というわけで、当時もこんなお菓子だったのかどうかはわかりませんがお菓子であることには違いなさそうです。

ませ越し。笆越し(ませごし)、籬(ませ)とも書くようです。「ませ」というのは籬垣(ませがき)のことを指すことが多いようですね。
籬垣は竹や柴 (しば) などを粗く編んでつくった低い垣のことを言うそうです。「ませ越し(笆越し/籬越し)」はこの籬垣を越えて何か事をすることなんですね。物を受け渡すとか。

この「ませ越し」の元ネタはこの↓和歌だそうです。

ませ越しに麦はむ駒のはつはつに及ばぬ恋もわれはするかな(古今和歌六帖)
(ませ垣越しに麦を食べている馬は口が届かないから少しずつしか食べられない、そんな、まどろっこしく叶わない恋を私はしているんだよね)

この「これがませ越し(ませごし)でございます」と差し入れた「あおざし」に定子はすごく感激して、「あなただけは私の気持ちをわかってくれるのね」と返したんですね。

この段の出来事は、長保2年(1000年)、中宮だった定子が皇后になった年のことだそうです。内親王親王はすでにいて、3人目の子ども(媄子内親王)を懐妊している時でした。ただ、皇后になったのは権勢を振るう藤原道長が娘の彰子を強引に一条天皇中宮にしたからであって、皇后と言えども仲の良かった一条天皇からは引き離され、気も沈んで日々泣いて暮らしていたとも言われています。

「みんな、彰子(道長)の権勢に『花や蝶や』となびいて行く時世の中で、あなただけは私を気持ちを理解してくれてるのよね」と言いたかったのか、あるいは「今いる子どもたちや今日の節句に『花や蝶や』と楽しそうに見えるけど、あなただけはこの食事も喉を通らない私の状況をわかってくれてるのね」と思ったのか、もしくはその両方をも含めた複雑な感情だったのかもしれません。
懐妊中、精神的にだけではなく、つわりで体調も良くない状態です。当然食も細っていたのでしょう。
清少納言が「せめてわずかでも」という気持ちを添えて、目先を変えた、素朴だけれど食べやすいお菓子を差し上げたその心遣いに感激したと見るべきでしょうね。

定子さまを称えながら、自分の気遣いを何気に自慢。いや、そこまで言うのは、いくら何でも失礼ですね。自慢って言うよりも、清少納言、定子さま好き過ぎ、それはわかります。仕方ないか。


【原文】

 三条の宮におはします頃、五日の菖蒲の輿などもて参り、薬玉参らせなどす。

 若き人々、御匣殿など、薬玉して姫宮・若宮に着け奉らせ給ふ。いとをかしき薬玉ども、ほかより参らせたるに、青刺(あをざし)といふ物を持て来たるを、青き薄様を艶なる硯の蓋に敷きて、「これ、笆(ませ)越しに候ふ」とて参らせたれば、

  みな人の花や蝶やと急ぐ日もわが心をば君ぞ知りける

 この紙の端を引き破(や)らせ給ひて書かせ給へる、いとめでたし。

 

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

  • 作者:清少納言
  • 発売日: 1962/10/16
  • メディア: 文庫