細殿にびんなき人なむ
「細殿に通ってくるの、どうなんだかなぁ?っていう男のヒトが暁の頃に傘をさして出てったのよ!」ってみんな言い出したの、よく聞いてみたら、私のコトだったのよね。地下人(じげにん)とかって言っても、見た目は感じよくって、でも(私のお相手として)人に認められるくらいの人でもないもんだから、変だなぁ?って思ってたら、(使いが)定子さまからのお手紙を持って来て、「返事を、今すぐに」っておっしゃったの。何事なんだろ?って見たら、大きな傘の絵が描かれてるんだけど、人の姿は描かれてなくって、ただ手だけで傘を掴ませててその下に、
「山の端明けし朝(あした)より」(山の端が明るくなった朝から)
ってお書きになってるのよね。やっぱりこんなほんのちっちゃなことでも、ただただ素晴らしい!!って思わせられちゃってね、恥ずかしくって納得できないような下の句のお返事は何としても絶対に御覧にいれないように!って思って。こんな根拠のない噂が立つのは心苦しいけど、定子さまのお手紙がいかしてるもんだから、別の紙に、雨をいっぱい降らせた絵を描いて、その下に、
「ならぬ名の立ちにけるかな…さてや、濡れ衣にはなり侍らむ」((雨)じゃなくって噂話が立ってしまいました…これで、濡れ衣(ぬれぎぬ)にはなりますでしょう?)
って、書いて差し上げたら、右近の内侍とかにお話しになって、お笑いになったんですって。
----------訳者の戯言---------
細殿(ほそどの)というのは、殿舎の「廂の間」の中でも、細長いもののことを言ったようです。仕切りをして、女房などの居室(局)として使ったらしいですね。「廂」というのは「ひさし」のことで、廂の間は母屋の外側に付加されてる部屋だということです。
地下(じげ)は、地下人(じげにん)のことです。殿上人に対して、昇殿の許されなかった官人のことをこう言いました。五位以上が殿上人ですから、六位以下の男性のことを言ってるんですね。
大笠。柄の長い大きな傘。特に、儀式の際、先行の貴人に後ろからさしかける柄の長い大きな傘をこう言うそうです。
で、中宮定子から送られてきた「山の端明けし 朝(あした)より」です。
最初読んだ時はわかりづらかったのですが、大きな傘の絵を描いて、その下にこう書いてるので、つまり「大笠の絵(かた)」を「御笠の山」に見立てて「御笠の山 山の端明けし 朝より」という上の句をつくって中宮定子が清少納言に送った、ということなんですね。
で、その意味は何?ってことなんですが、元ネタに藤原義孝という人の詠んだ「あやしくもわれ濡衣を着たるかな 御笠の山を人に借られて」という歌があるようなのです。
意味は「何なんだろ変だね、私、濡れ衣を着てしまってるよ、御笠山の名を誰かに借りられてさ!」という感じでしょうか。
誰かに自分の名を騙られて濡れ衣を着せられちゃったの、なんでやねん、おかしくね?っていうワケですね。そういう歌があったらしいです。
では何故「御笠の山」が藤原義孝の名を騙ることになるのか?っていうと、「天皇の御笠(蓋)として近くでお守りをする」という意味で、近衛の大将、中将、少将をこのように呼んだらしいからなんですね。当時、義孝は近衛少将だったらしいですから。
藤原義孝っていうのは、この枕草子にもよく登場する藤原行成の早逝した父親だそうで、結構な美形だったそうですよ。モテモテなんですね。で、その義孝の名を騙って、致平(むねひら)親王、なんと親王!ですが、その人が、左衛門の命婦という女子のところに行ったっていうんですね。その、行く、というのは、要するに逢いに行ったのです、ムフフな関係になろうと。で、自分は行ってもないのに濡れ衣を着せられたよーという歌を詠んで、送ったのは当の致平親王のところだったそうです。なるほど。ま、そういう戯れ言を言い合う関係だったんですね。陰口ではなくて、本人に「なんてことするんすかー、もうー、やめてくださいよー 笑」的な歌なんです。で、実はその左衛門の命婦という女房?は義孝の彼女だったのではないかという説もあります。
で、余談なんですが、平城京の東にはご存じのとおり春日山があります。その前にある笠(カサ)型の山が御蓋山(みかさやま/おんかさやま/おんふたやま)なんですが、「御笠山」「三笠山」とも書くことが多いです。ていうか、春日山の一部なんですね。で、この段でも「御笠の山」となってます、和歌に出てくるのは。
ご存じのとおり、春日山の西の麓に春日大社があります。
行ったことのある方はおわかりかと思いますが、御笠山(三笠山)というのは、三角おにぎりというか、円錐形と言うか、左右対称のまさに笠みたいな山です。
ただ、「若草山」の呼び方の一つが「三笠山」になってた時期があったので、今もごっちゃになっているようでもあります。あの芝生みたいなのが広がってるのはあくまでも「若草山」で、円錐形のおにぎり山のほうが「御蓋山」「三笠山」「御笠山」と呼ばれる山です。
さて、中宮定子さま、義孝の詠んだあの歌で「御笠山(近衛少将)の名を騙られたっていう、あの「笠」をさして夜明けの山の端を出て行ったのは??」と送って来たわけです。これは、あなたのこと、私は疑ってないわよ、あなたにも言い分があるのでしょ? どうぞ、と、正当な弁明の機会を与えたということなんでしょうね。
これに清少納言が返します。
大雨の絵をかいて、「雨じゃなくって根も葉もない噂が立ってしまいましたよ、これで、濡れ衣(ぬれぎぬ)にはなりますでしょ?」と。
ただ、これも元の藤原義孝の歌を知っていないと、当然のこととしてできないやりとりなんですね。そこが定子と清少納言の阿吽の呼吸と言いますか、定子が「濡れ衣なんでしょ?」と、さらっと問いかけをしているのが、まあすごいというか優しいというかというお話です。
で、右近の内侍(右近内侍)です。ちょいちょい出てくるんですよね。
右近の内侍(右近内侍)は、これまでにも出てきました。内侍というからには、後宮の内侍司の女官であろうと考えられます。一条天皇付きのスタッフなのでしょう。定子はこの人を信頼しているというか、気を許しているのでしょうか。いろいろなことを遠慮なく話す関係のようです。
というわけで、この段は先にも書いたとおり、清少納言と中宮定子のラブラブっぷりを描いた段です。あたし、定子さまにこんなに愛されてるのだわ♡ぽわ~ん♡って感じです。いいのかそれで。
【原文】
「細殿に便(びん)なき人なむ、暁に笠さして出でける」と言ひ出でたるを、よく聞けば、わがうえなりけり。地下(ぢげ)など言ひても、目やすく人に許さるばかりの人にもあらざなるを、あやしのことやと思ふほどに、上より御文持て来て、「返りごと、ただ今」と仰せられたり。何事にかとて見れば、大笠の絵(かた)をかきて、人は見えず、ただ手の限り笠を捉へさせて、下(しも)に、
「山の端明けし朝(あした)より」
と書かせ給へり。なほはかなきことにても、ただめでたくのみおぼえさせ給ふに、はづかしく心づきなきことは、いかでか御覧ぜられじと思ふに、かかるそら言の出でくる、苦しけれど、をかしくて、こと紙に、雨をいみじう降らせて、下に、
ならぬ名の立ちにけるかな
さてや、濡れ衣にはなり侍らむ」
と啓したれば、右近の内侍などに語らせ給ひて、笑はせ給ひけり。
検:細殿になき人なむ