殿などのおはしまさで後② ~げにいかならむと~
ほんと、私のことをどう考えていらっしゃるんだろ?って、ご推察申し上げてた…そんな中宮様のご機嫌を損ねたワケじゃなくてね、側に侍ってる女房たちなんかが、「彼女は左大臣(道長)派の人たちと、親しい間柄なのよ」って言って、みんなで集まって話してる時だって、私が下の局から参上してくる様子を見たら、急にしゃべるのをやめて、私を仲間外れにする雰囲気がそれまで経験したこともなくヤだったから、定子さまから「参上しなさい」なんて、何度も何度もいただいたお言葉をスルーしちゃって、本当に長い時間が過ぎてね、それでまた定子さまの周辺じゃ、完全に敵方の者のように仕立て上げられて、事実無根の作り話まで出てきちゃったみたいなのよね。
----------訳者の戯言---------
左の大殿(おおとの)というのは、左大臣のことだそうです。当時の左大臣は藤原道長。何度か書きましたが、道隆の亡き後、道隆の子で定子の兄、藤原伊周と権力争いをした人です。
たしかに清少納言は藤原道長と親しい関係にあったんじゃないか、とも言われていて、「関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて②」にも、私、少し書いたんですが、それが誤解されてか、中関白家の派閥、つまりここで出てきたように定子に仕える女房たちなんかからもいろいろ言われたのでしょう。実家に引き籠ってしまったようですね。ちょうど、その話が本人の筆によってリアルに描かれているのがこの段、この部分ということになりそうです。
さて、清少納言は定子の元に戻るのでしょうか、それとも??
③に続きます。
【原文】
げにいかならむと思ひ参らする。御けしきにはあらで、候ふ人たちなどの、「左の大殿(おほとの)がたの人、知るすぢにてあり」とて、さしつどひものなどいふも、下より参る見ては、ふと言ひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ、「参れ」など、たびたびある仰せ言をも過ぐして、げに久しくなりにけるを、また宮の辺(へん)には、ただあなた方に言ひなして、そら言なども出で来べし。