殿などのおはしまさで後③ ~例ならず仰せ言などもなくて~
いつもとは違ってお手紙もいただかずに何日も経ったから、心細くてぼうっとしてたら、長女(おさめ)が手紙を持ってきたの。「定子さまから、宰相の君を通して、こっそりと賜ったものです」って言って、ここに来てさえ、人目を避けようとしてるのってあんまりだわ。人を使って書かせた手紙じゃないんだろうなって、胸をドキドキさせながら急いで開けたら、紙には何も書いていらっしゃらず、山吹の花びら、たった一片だけお包みになっていらっしゃるの。それに、「言はで思ふぞ(言わずに、思ってる)」ってお書きになってるの、すごく感激で、この何日間かご無沙汰で悲しかった気持ちも、全部慰められてうれしい私を、長女も見守って、「定子さまにあっては、どんなにか、何かにつけて思い出していらっしゃるそうですのに。女房のみなさんも誰もが何でこんなに長い間里帰りしてるのか、って思ってますよ。どうして参上なさらないんです??」って言って、「この近所にほんのちょっと行ってから、また伺いましょうかね」と言って帰った後、その間にお返事を書いて差し上げようって思ったんだけど、この「言はで思ふぞ」の歌の上の句をまったく忘れてしまってたのよね。「めちゃくちゃ不思議だわ。同じ古歌って言いながら、こんな有名なのを知らない人っている?? ここまで出て来てる感じなんだけど、口から出てこないのは、どうしてなのかしら!?」なんて私が言うのを聞いて、小っちゃい女の子が前にいたんだけど、「『下行く水』って申しますよ!」って言ったの、どうしてこんなに忘れてたんでしょう。こんな小さな子に教えられるのも、おもしろいことだわね。
----------訳者の戯言---------
長女(おさめ)というのは、宮中で雑用などにあたった下級の女官。専領(おさめ)とも書くようです。
宰相の君は、この段の①で出てきた、同僚女房、宰相の君ですね。
清少納言が忘れてしまって、ここまで出てきてるんだけどどうしても思い出せなかったっていうのは、「古今和歌六帖」の第五帖に撰入されてる下の歌だったようです。
心には 下行く水の わきかへり 言はで思ふぞ 言ふにまされる
(心の中には地下水がわき返ってる 言わないで思ってるけれど 言うよりもっと深い気持ちなんです)
例によって、清少納言と中宮定子の相思相愛エピソードになってきましたね。
④に続きます。
【原文】
例ならず仰せ言などもなくて日頃になれば、心細くてうちながむるほどに、長女文を持て来たり。「御前より、宰相の君して、忍びてたまはせたりつる」といひて、ここにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれてとく開けたれば、紙にはものも書かせたまはず、山吹の花びらただ一重をつつませ給へり。それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日頃の絶え間嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女もうちまもりて、「御前には、いかが、もののをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」といひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」といひて往ぬる後、御返りごと書きて参らせむとするに、この歌の本さらに忘れたり。「いとあやし。同じ故事(ふるごと)と言ひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」などいふを聞きて、小さき童の前にゐたるが、「『下ゆく水』とこそ申せ」といひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるるもをかし。