枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

女は

 女なら、内侍典(ないしのすけ)。内侍。


----------訳者の戯言---------

内侍典(ないしのすけ)というのは、内侍司(ないしのつかさ)という役所の典(すけ)。次官です。

内侍司というのは、帝の近くに侍って、勅旨(帝のお言葉)を官人などに伝えたり、宮中の礼式等を司ったりした、女性だけの役所です。天皇の秘書役とも言うべき重要な役職で、ここのスタッフにはインテリで有能な女性が多く任命されたようですね。 幹部にはもちろん、摂関家など家格の高い家の子女が任命されました。

長官は尚(かみ)、次官は典(すけ)、第三等官は判官(じょう)と言いました。
ここで清少納言が最初に出してきたのは、次官の典(すけ)ということなんですね。
別の表記として、尚侍(かみ/ないしのかみ/しょうじ)、典侍(すけ/ないしのすけ/てんじ)、掌侍(じょう/ないしのじょう/しょうじ)というのもあります。意味は同じで、ものによってはこう書かれている場合も多いです。

元々、内侍尚=尚侍(ないしのかみ)はこの役所のトップで、帝の奏請・伝宣(直接お言葉を賜って伝える仕事)はこの尚侍だけが仰せつかっていた仕事だったそうです。つまり、直接、帝のお側に侍るオシゴト。で、次第に尚侍というポストは后妃的な存在になっていったらしいです。ま、すぐ側にいるということは、そういうことか。
それで有名無実化したというか、そんなら、まどろっこしいことせずにダイレクトに后妃になればいいじゃん。というわけでしょうか、実際、平安後期以降、内侍尚は任命されてないらしいです。

で、本当のお役所仕事、つまり実務は、内侍典=典侍(ないしのすけ)がやるようになりました。この役所の実質的な管理職トップとなったわけですね。

が、またもや。
典侍も后妃的な存在、つまり側室の一人になっていくんですね。どういうこと? やっぱ、近くで働いてるとそういうことになるのね。やらしいわね。というか、帝の「お相手をする」、あるいは場合によっては「側室となる」ことも「お役目」であった、とするほうが正しいのかもしれません。
実際のところ、典侍や権典侍以外にも掌侍(権掌侍)、命婦までは手をつけられることはそこそこあったらしく、側室にもなったらしいです。帝ですからね、そういう女官も、場合によっては女官以外でも望めばまあまあ好きにできていたのでしょうね。

で、まじめな話。平安中期以降は、典侍=側室というのも、半ば公然のことになっていったようです。
清少納言の頃は、実質的な実務トップ→側室に移行する、そのちょうど過渡期に差しかかる頃だったのではないかと思います。

実際、明治天皇までは側室がいらっしゃいました。そしてそれは、公にはやはり典侍という女官の形をとっていました。明治天皇の皇后にはお子様ができず、大正天皇の生母は早蕨典侍(さわらびのすけ)、本名は柳原愛子という方だったそうです。やはりこの方のほかにも何人かの典侍(権典侍)もいたそうですね。

大正天皇より今に至る天皇陛下まではもちろん一夫一婦で、側室はいません。このことが、皇位継承問題を複雑にしている、という視点もありますが、それを語り出すと行数がとんでもないことなるので、別の機会に。

というわけで、結局、内侍司の上位2つのポストは后妃化しました。長官は任命自体がなくなり、次官は側室の代名詞にもなっていくわけです。
そして、後年にかけて、本当に実務をちゃんとやるのは、内侍司の判官=掌侍(ないしのじょう)ということになるのです。このポジションにある人は、実際に実務をしっかりやったらしいですね、当時は。(もちろん、帝に気に入られると手をつけられることはあったらしい)定員は正官4名、権官2名の計6名。もちろん才能のある人が多かったようです。
この掌侍(ないしのじょう)は、カミとかスケとかジョウとかは付けずに単に「内侍(ないし)」とも呼ばれていました。

清少納言の言うとおり、女性がその能力を発揮する仕事というと内侍!というのも、妥当だったのかもしれません。


【原文】

 女は 内侍のすけ。内侍。