枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

受領は

 受領やるなら。伊予の守。紀伊の守。和泉の守。大和の守。


----------訳者の戯言---------

受領(ずりょう)。何か聞いたことはあるけどー、みたいな言葉ですね。というか、地方のまあまあ偉い役人、ぐらいの認識です。私だけですか。

一応、朝廷が治める中央集権国家ですから、地方の国々には朝廷から地方行政を司る役人が派遣されたりしました。これを国司と言って、例によって四等官であったようです。守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)ですね。で、長官が守(かみ)だったわけですが、平安中期以降は遙任と言って、国司の守といっても、実際には地方に赴任せず、都にいたままの人が多かったようですね。

しかし、もちろん実際に現地に赴いた人もいました。そっちの守のほうを受領と言いました。
受領は強大な権限があったので、巨額の富をGETすることができたらしいですね。某国の大統領みたいなものでしょうか。私腹を肥やせるなかなか美味しいポストだったようです。なので、国司に任命されるために人事に影響力のある人に取り入る人も多かったそうですね。

ということを踏まえた上で。この段です。
ご存じのとおり、伊予は今の愛媛県紀伊和歌山県、和泉は大阪府南部、大和は奈良県です。以上の4国は、国の規模が大きくて税収が多かった、ということのようですね。受領は一定の租税を国庫へ納付さえすれば、それ以外の税収を私的に得ることができましたからね。

つまり、オイシイ国の受領(守)は?っていうと……ってことですか。
ヤラシイな!


【原文】

 受領は 伊予の守。紀伊の守。和泉の守。大和の守。

 

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

  • 作者:清少納言
  • 発売日: 1962/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

君達は

 君達(きんだち)っていうと、頭の中将。頭の弁。権の中将。四位の少将。蔵人の弁。四位の侍従。蔵人の少納言。蔵人の兵衛の佐。


----------訳者の戯言---------

君達っていえば?という段ですね。君達(きんだち/きみたち)というのは、高貴な家柄の子どもの意味。「貴公子」のことです。貴公子というと、今は、ナントカの貴公、たとえば「ミュージカル界の貴公子」「サーキットの貴公子」みたいな言い方をしますが、あれの原型ですね。育ちが良さそうでシュッとしたハンサムに対して言います。君達の場合、「良さそう」ではなく、ほんとに良いんですがね。

「頭の中将」は、蔵人の頭(蔵人頭)にして近衛府の中将(次官)。中将は近衛府ではナンバー2でした。この二つを兼任した人ですね。枕草子では、頭の中将と言えば、藤原斉信がそれでした。すぐ前の段で出てきましたが後に宰相の中将になっています。少し前に書いた「宰相の中将①」の段は、斉信がちょうど頭の中将から宰相の中将に昇任する頃の話でしたね。

蔵人頭というのは、蔵人所の「頭」ですから、ヘッドということになります。族のリーダー? 総長? ま、似たようなもので、トップ、長という意味です。帝の身の周りのことを司る秘書室というのが蔵人所の役割ですから、蔵人頭は、首席秘書官ということになります。

「頭の弁」は、蔵人の頭と「弁」を兼任した人です。弁(弁官)というのは、朝廷の最高機関「太政官」の事務官僚で四位五位相当。学識ある有能な人材がこの官に任用されていたらしいですね。左右、大中少の弁があり、左中弁以上の経験者には参議に昇進する資格があったそうで、将来三位以上に昇る道が開かれた出世の登竜門でもありました。
枕草子では、頭の弁として藤原行成が何回か出てきましたね。能筆家、歌人としても高名な人ですが、清少納言とのやりとりもなかなか面白い、ちょっと茶目っ気のあるハンサムボーイです。清少納言アネキのことを好きすぎる藤原行成は、やたらとちょっかいを出してきます。というわけで、興味とお時間のある方は下記の段も再読いただけば、と思います。
職の御曹司の西面の立蔀のもとにて①
頭の弁の御もとより
頭の弁の、職に参り給ひて①
五月ばかり、月もなういと暗きに①

「権の中将」というのは、近衛府の中将の次に位するもの=中将の権官。相当位は従四位下です。
権官」についてはすぐ前の段「上達部は」で詳しく書きましたので、そちらもぜひご覧ください。

「四位の少将」。近衛府の少将は普通は正五位下の位階なんですが、少将のまま四位に叙された人をこう言いました。

「蔵人の弁」は、蔵人所のスタッフ(蔵人)にして、弁官だった人です。帝の秘書官で太政官の事務官僚でもある、ということになりますね。今で言うなら宮内庁の幹部スタッフ兼内閣官房副長官補ぐらいの感じでしょうか。こうして書いてみても、エリートに違いないという気がします。

「四位の侍従」というのは、先に出てきた四位少将と同じで、侍従は本来従五位下相当なんですが、侍従のまま四位に叙された人をこう言ったそうです。侍従というのは、帝の身の回りの世話などをする文官でした。これも高貴な家の子弟ならではの職位です。

「蔵人の少納言」は、文字通り蔵人と少納言を兼任した人です。少納言というと、大納言、中納言の次と思われがちですが、違います。参議と言うのが間にありまして、さらにその下で実務を行うのが少納言でした。と聞いても、パッとはしませんね。それでも従五位下に相当する官職だそうです。

少納言というと清少納言の女房名にも付いていますね。まず「清」は実家の苗字、清原から来ているのでしょう。「少納言」については、女房名に付く場合、普通は父か夫の役職が付けられることが多いようです。ただ、清少納言の父・清原元輔は高名な歌人三十六歌仙の一人ではありましたが少納言にはなっていません。また、離婚後にも兄妹のような交際が続いていた元夫の橘則光は、修理の亮(すりのすけ/しゅりのすけ)、すなわち主に内裏の修理造営を司る「修理職(すりしき/しゅりしき)」の亮(次官)として枕草子に登場してはいます。さらにその後、左衛門の尉となった則光が描かれた段もありますが、やはり少納言であったという経緯はありません。
他の親近者にも少納言になった人はいないようで、清少納言の女房名に「少納言」が付いた明確な根拠は見当たらず。諸説はあるものの現在も不詳、謎となっているのです。

ちなみに紫式部は父・藤原為時の官職が式部丞(しきぶのじょう)だったことからこう名乗ったと言われています。
式部省というのは、文官の人事考課、行賞を担当すると同時に役人養成機関である大学寮を統括する重要な役所でした。丞はその三等官です。
また、女流歌人赤染衛門は、父の赤染時用が右衛門尉(うえもんのじょう)だったことから、この女房名となったそうです。

しかし通称とは言え、夫や父の官職名から名前を付けられるというのは、当時の女性としてはどういう感覚だったんでしょうね。バリバリの男尊女卑社会、女性が自立してない(自立させない)感じがするのは、私だけでしょうか? もちろん、1000年も前のことですから、今からどうすることもできないんですけれど。上野千鶴子さんや田島陽子さんはどう言うでしょうかね。

「蔵人の兵衛の佐(すけ)」は、蔵人と兵衛府の佐(次官)を兼任した人です。従五位上相当だそうです。やはり名家の子息がこういうポジションに就いたんでしょうか。

さて。
列挙されたのは、ええとこの子どもたちが就くポスト、官職のようです。
この段も前段に続いて、摂関家大臣家など家格の高い家、つまりセレブリティの子弟を無条件に崇めるかのような内容ですね。高貴なお家柄のご子息で、こんなおシゴトの男性、ステキ♡ という感じです。
世襲とかには全く無批判。清少納言はいいのかそれで。恥ずかしくないのか?


【原文】

 君達は 頭の中将。頭の弁。権の中将。四位の少将。蔵人の弁。四位の侍従。蔵人の少納言。蔵人の兵衛の佐。

 

本日もいとをかし!! 枕草子

本日もいとをかし!! 枕草子

 

 

上達部は

 上達部というと、左大将。右大将。春宮の大夫。権大納言。権中納言。宰相の中将。三位の中将。


----------訳者の戯言---------

上達部(かんだちめ)。三位以上の上級貴族。参議の場合は四位でもこの中に入ります。
朝廷の幹部貴族ですね。数えてみると、おおよそ、清少納言の頃は20何人かぐらいいました。

そもそも、律令制度では「位階」という身分制度で階級分けがされていました。
正一位従一位からはじまって~従八位の上と下、そして最下位の少初位の下まで、30コの位階があったそうです。
一応、五位以上が「貴族」なんだそうですね、厳密に言うと。なので、清少納言とかは、その考え方からいうと貴族ではありません。「貴族たち一派」でしかないんですね。
で、その下にこの位階も何にもない、私のような一般庶民がいました。

その位階に対応して仕事「官職」があり、例えば正一位従一位では太政大臣、正二位や従二位で左大臣や右大臣、正三位で大納言、従三位中納言、みたいな感じで対応していたみたいです。

例えが適当でないかもしれませんが、会社で言えば、代表取締役、取締役、執行役員、一般社員などの「階級(クラス)」があるとします。一方で、この「クラス」に対応する仕事、つまり社長とか、会長とか、専務とか、常務とか、さらにこれらと兼任して、コンプライアンス担当とか、財務担当とか、事業本部長、経営企画室室長、人事部長、営業本部長、広報担当、社長室付等々、いろいろな「職」つまり「お仕事」の役割分担あるという感じに似ていると思います。

左大将、右大将は、左右の近衛府の長官です。宮中の警固などを司るのが近衛府という役所ですが、左右2つあったんですね。それぞれの大将(長官)を左大将、右大将と言いました。官位相当は従三位です。日本では左のほうが上位とされています。

そういうわけで、雛人形にある左大臣と右大臣は、向かって右側が左大臣(老人のほうの人形)を置くのが正解。左に若い方の人形を置きます。
しかし。余談ですが、実はおひな様の左大臣、右大臣は実は「随身」、つまりSP的なスタッフとされています。本当は大臣さんたちの人形ではないんですね。間違って言っているんですよ、あれ。「おひなさま」の歌も悪いですね。あれは昔の有名な作詞家が書いたんですが、童話とは言えちょっとどうかと思います。私たち一般市民が間違っても、それほど問題は無いんですが、高名な人がやらかすと取り返しのつかないことになりますね。

話を戻します。
左大将、右大将については、従三位相当ですが、官職的には平安中期以降は大納言よりも上位とされるようになったそうです。もちろん、大臣や大納言、中納言と兼務する人も多くいたようですけれど。
左大将、右大将になる人というのは、摂関家、つまり大納言、右大臣、左大臣を経て摂政関白、太政大臣に昇任できる家格の家の子息なのだそうです。

春宮というのは、皇太子と皇太子妃、またその未婚の子女(親王/内親王)の家政機関です。
東宮(とうぐう)=春宮(しゅんぐう)です。同じものです。今はもっぱら東宮と言いますが。そこのトップは大夫(だいぶ)と言います。位階は従四位下相当だそうです。これも摂関家の子弟がなることが多かったようですね。

権大納言と権中納言。ただの大納言、中納言ではなく、あえて権大納言、権中納言と書いてます。こういうふうに「権」が付く官職のことを権官と言いますが、そもそも権官というのは、定められた定員以外に置かれた官のことを言いました。何もつかない正の大納言も中納言も、権大納言、権中納言もシゴト自体は変わりはないはずなんですがね。なぜ権が付いてる方がいいのでしょうか。

ま、ざっくり書くと、大臣経験者の子どもや孫は、それだけでいい位階を与えられたんですね。昔は側室とかもいっぱいいましたし、子どもとか孫も多かったですから。すると、そのハイクラスの人たちが馬鹿みたいに増えていきます。そうすると、先にも書いたとおり、それに対応する官職が足りなくなってきます。で、それなりのいいポストを増やさざるを得なくなると。で、増やしちゃったのが「権官」でした。なので、権大納言や権中納言には、ええとこの出の、若い貴族がなることが多くなったんですね。

宰相の中将。これはつい最近の段にも出てきました。枕草子ではおなじみの貴公子、藤原斉信がこの職ありましたね。宰相=参議にして近衛府の中将というエリートです。「宰相」というと現代では、内閣総理大臣(首相)の通称として使われる言葉です。が、元々は国政を補佐する官職「参議」のことでした。大臣、大納言、中納言の下あたりのポジションです。これも家格のいい若手がなることが多かったようですね。藤原斉信も父は藤原為光という太政大臣をやった人。自身も最終的には大納言になりました。ただし、この人は権大納言ではなく正の大納言だったそうです。家格だけでなく実力もあったのでしょうか。

三位の中将。近衛府の中将というのは、普通は四位が相当とされています。が、特別に三位を授けられた人がいて、それを三位の中将と言いました。これも大臣の子や孫に限られた特別待遇です。定子の父・藤原道隆も三位の中将を経て関白にまで上り詰めましたし、道隆の子で定子の弟の隆家も三位の中将を経て中納言になっています。

というわけで、上達部のなかでも特にいかしてるのは何か?という段です。
気持ち悪いくらいの身分階級意識の強さ。皇族を除けば、揺るぎようのないヒエラルキーの頂点にある者を露骨に礼賛する清少納言です。無自覚ですね。本当に誰か注意してやれよと思うくらいヒドイです。


【原文】

 上達部は 左大将。右大将。春宮の大夫。権大納言。権中納言。宰相の中将。三位の中将。

 

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 枕草子 (学研まんが日本の古典)

  • 発売日: 2015/03/17
  • メディア: 単行本
 

 

野は

 野でいいのは?
 嵯峨野は言うまでもないわ。印南野(いなみの)。交野。飛火野(とぶひの)。しめし野。春日野。そうけ野はなんとなーくおもしろいわね。どうしてそんな名前をつけたのかしら? 宮城野。粟津野。小野。紫野。


----------訳者の戯言---------

ええ感じの野。です。
嵯峨野は言うまでもない、というのは今も同じですね。

印南野(いなみの)は、今の兵庫県にありました。明石川加古川に挟まれた台地のエリアだそうです。きれいな原野だったんでしょうか。

交野(かたの)は、ご存じのとおりで、大阪府交野市です。交野ヶ原。交野台地ですね。現在の枚方市にも少しかかっているエリアのようです。
川は」という段で天の川という川が出てきましたが、その川があったとされるのも、この交野ヶ原でした。

そして、この辺りで詠んだと言われているのが、超有名なこの歌↓です。

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
(この世に桜というものがなかったら、春になっても気持ちが穏やかでいられるのになぁ)

在原業平が惟喬親王と交野ヶ原に遊び、惟喬親王の別邸(渚院)の桜を詠んだもの、と言われています。生涯3733人の女性と情を交わしたとされる超色好みですから、この歌は、女子に心惑わせられることを自嘲した歌のようにも言われています。これまた、女っつーのは♪ ですね。在原業平の名誉のためにも書いておきますが、もちろん他の意味に読み取ることもできます。彼は権力に固執することを嫌い、権力争いに右往左往する、そういう人々を冷静に見ていたのかもしれません。
というわけで、ちょっと逸れ気味になりましたが、交野というエリアは美しい自然のあるいい場所だったのでしょう。京都、奈良、大阪の真ん中あたりにあって、ちょうど良い感じの郊外であるとも私は思います。

狛野(こまの)というのは、今の京都府の南端部で、かなり奈良県に近いところです。今は市町村合併木津川市となっていますが、かつて山城町と言った辺りが、狛野と言われた場所のようですね。通称「狛のわたり」。「わたり」は辺り(あたり)のことです。狛の野っぱら=狛の辺、ってことですね。木津川がちょうど南北の流れになるところ、東北岸です。調べると、JR奈良線の「上狛」という駅がありました。
狛というのは、狛犬(こまいぬ)の狛なんですが、昔は高麗と書いて「こま」と読みました。この辺りには、昔大陸から来た渡来人が多く居住していたらしく、そのために「こま」と呼ばれたようです。

飛火野(とぶひの)。今は「とびひの」と言います。ここは私も行ったことがあります。というか、奈良公園の一部、という感じです。芝生の広がってるあの一帯を飛火野と言うんですね。今もきれいなところです。もちろん鹿もたくさんいます。

しめし野。かなり調べましたが、ここは手がかりがありません。お手上げでした。そういう名前の野が当時はあったのでしょうか、もしくは誤記だと思います。ご存じの方がいらっしゃいましたら、手がかりだけでもご教授ください。よろしくお願いします。

春日野は、奈良の春日大社の境内から東大寺興福寺にかけての辺り一帯を言います。ざっくり言うと今の奈良公園ですね。先に出てきた飛火野は春日野の一部という認識でいいと思いますが、清少納言的には別に挙げています。趣が少し違うと捉えたのかもしれません。

奈良は京都と違って、このように主要な観光スポットが集中しているので、移動時間がかからず観光の効率はいいんですね。それに鹿がいっぱいてかわいいです。今はコロナの影響でインバウンド観光客も国内観光も激減して、せんべいをもらえない鹿がお腹を空かせているのでは?という話もありますが、主食は草ですから、大丈夫です。オヤツがちょっと減っている感じですね。ダイエットで甘いものを減らしても、朝昼晩はしっかり食べるから大丈夫、みたいなものですよ。

「そうけ野」も、今はないようです。過去にあったという情報も得られませんでした。清少納言ももう少し具体的な情報を盛り込んでくれたらいいんですけどねー私みたいに。
彼女的には、「そうけ野」は、名前が意味なくおもしろいらしいです。
何ソレ? わけわかんね ウケるー って感じなんでしょうか。

宮城野は、今の仙台にあった原野だそうです。仙台市宮城野区という地名は今も残っています。歌枕なので清少納言はこれを挙げたのでしょう。たぶん彼女は行ったことないでしょうけど、古今和歌集以来、この地にちなんだ多くの和歌が詠まれていますからね。

粟津野も歌枕です。滋賀県大津市に粟津町というところがあります。京阪電車にも「粟津」という駅がありますね。琵琶湖の南端にあって、古来、交通の要地となっていたところです。湖畔の風光明媚なところでもあったのでしょう。「逢わず」の意味を掛けて「粟津野」がよく和歌に詠まれたというのもうなづけます。

小野。歌枕には無さそうですが、小野っていう地名はいっぱいあります。「ちっちゃい野」ですからね。きれいに聞こえますけど野ですから。野原ですから。自然のまんま。悪く言えば、開発されてないだけとも言えますしね。
で、関西で小野というと、兵庫県の小野市です。土器もたくさん出ていますし、古墳もある地域です。7世紀には寺院も建てられています。もしかするとここかもしれません。

もう一つは、長野県にある憑(たのめ)の里というところです。実は「たのめの里」は以前、「里は」という段に登場した里なのですが、ここにも古くから小野という地名が見られます。
もしかして、これが小野でしょうか。根拠もないし、全く自信はありません。ほぼ、当てずっぽうです。でも、素人ですからね。ぜひ、教えてください。
無責任極まりないですね。

紫野は京都市北区にあります。おおむね、船岡山周辺から大徳寺あたりのエリアを言うそうですね。前にも別の段で書きましたが、昔はあの葵祭賀茂祭)の主役ともいえる斎王(いつきのみこ)が住む斎院(跡地は上京区)があったところでもあります。元々、このあたりは天皇や貴族の薬草園や別荘があったり、遊猟地でもあったところ。生薬や染料に使う貴重な紫草が生えていたので、この名がついているらしいですね。今は住宅地になっているようです。

実は、京都には紫野を含め「七野(しちの)」と呼ばれる「野」がありました。七野とは、内野、北野、平野、上野、紫野、蓮台野(れんだいの)、〆野(標野/点野/しめの)、京都市の北方、船岡山の周辺に広がっていた七つの野の総称で、洛北七野とか京都七野とも言われたそうです。区で言うと現在の上京区から北区にかけてのエリアですね。〆野の代わりに柏野(かしわの)、萩野、御栗栖野(みくるすの)であったという説もありますし、他に、頭野(かしらの)、禁野などがその一つであったという説もありました。
京都にお住いの方に聞くと、今の船岡山は、緩やかな道を登って行くと広い公園になっていて、北区の人たちの憩いの場になってる、やはり素敵な場所なのだそうです。

洛北と言うと、現在思い浮かべるのは上賀茂から北の、岩倉、貴船、八瀬、大原とかなんですが、平安時代平安京大内裏から見て北の船岡山の周辺地域を指していたようですね。今の北区南部の平野部も洛北だったということなんです。今だと、そこ洛北?みたいに思われると思いますが、平安宮(大内裏)の北はざっくり「洛北」だったのでしょう。
いずれにしてもこのあたりにはいい「野」がいっぱいあったんだと思います。

というわけで、清少納言がいいと思った野、原野を書き連ねた段でした。
しかし調べることだらけで遅々として読み進めません。


【原文】

 野は 嵯峨野さらなり。印南野。交野。狛野。飛火野(とぶひの)。しめし野。春日野。そうけ野こそすずろにをかしけれ。などてさつけけむ。宮城野。粟津野。小野。紫野。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

 

 

井は

 井といえば…。堀兼の井。玉の井。走り井は、逢坂の関にあるのが素敵だわ。山の井は、どうしてそんなに心が浅い例として引き合いに出されるようになったのかしらね? 飛鳥井は「御水(みもひ)も寒し」と褒めたのがおもしろいし! そのほか、千貫(せんかん)の井。少将の井。櫻井。后町(きさきまち)の井もね。


----------訳者の戯言---------

井。井戸ですね。一般には穴を掘って地下水を汲み上げる場所ですが、泉や流水から飲み水を汲みとるところも井(走り井)と言います。というか、元々、川の水を堰き止めて水汲みの場所にしたのが井(井戸)だったそうで、後に掘削するタイプの水汲み場ができ、それも井と言ったというのが時系列的には正しいようですね。
なお、山中にわき水がたまって、自然にできた井戸を「山の井」とも言ったようです。


堀兼の井。
埼玉県狭山市の堀兼神社にある井戸らしいです。古来、武蔵国の堀兼の井は有名だったようですね。清少納言が実際に見たかどうかはわかりませんが。


玉の井と言えば、永井荷風の「濹東綺譚」という小説にも出てきた私娼街です。調べていて出てきたのですが、忘れていました。私は小説は読んでいないのですが、津川雅彦が主演した映画は見ました。永井荷風を主役とした私小説的に描かれていて切ない話でした。相手役の女優さんがよかったですね。

という玉の井は、もちろん別の話でしょうけど、一般に良い水の出る井戸を「玉の井」と言うそうです。もしかすると、それを指しているのかもしれません。

そしてもう一つの可能性。神代の昔、豊玉姫が日常的に使っていた日本最古の井戸「玉の井」というのが、鹿児島県にあるそうで。調べてみたところ、たぶん聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、「山幸彦と海幸彦」の話の元ネタ、つまり古事記とか日本書紀に出てきているんですね、この井戸。陸の世界と海の世界を媒介する交通路とするのがこの神話における「玉の井」でした。
詳細は省きますが、豊玉姫と山幸彦は結婚し、子ども(子どもと言っても神サマ)をなすのですが、さらにその子ども(つまり孫)が神武天皇であると伝えられています。

神話というのは、現実を反映しているものでもあるんですね。
兄弟ゲンカに形を借りていますが、弟の山幸彦はヤマト国の主要勢力、兄・海幸彦は南九州の地方勢力(隼人とか熊襲と言われます)を暗示しています。結果的には山幸彦が勝利して服従させるというところに落ち着く、つまり政治的に討伐、平定となったことを示唆しているのですね。

また話がそれました。

このように神話でも重要な位置づけにある「玉の井」、つまり現在の鹿児島県にある玉の井が、ここに書かれた玉の井であるとも考えられます。さすがに清少納言も見てはないでしょうけど。
ま、玉の井については、他説もたくさんありそうです。諸説の一つとして解釈いただければと思います。


逢坂の関は、歌枕でもあり、この枕草子でも何度も出てきます。また、関の清水、関水、という語も和歌には幾度も出てきており、やはりこの近くに湧き水があったのはたしかなようです。掘削した井戸ではなく「走り井」です。いずれにしても逢坂関はとても有名ですから、ご存じの方も多いと思います。いまさら私が解説するまでもないかと思いますので、簡単に留めておきます。


そして、山の井です。これは安積山の近くにある「山の井」を根拠に考えるのが妥当なようですね。

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
(安積山の姿が映って見える山の井のような、浅い心で、あなたのことを思ったりしてないのに)

これは万葉集編入されている歌で、安積山、山の井は福島県にある歌枕となっています。この歌はいくつかの逸話、物語を残しているようです。

一つは、葛城王という人に関する言い伝えです。葛城王は7~8世紀頃、奈良時代に活躍した皇族、親王でした。後に臣下に下って橘諸兄と名乗ったそうですね。この葛城王陸奥国に派遣された時、国司たちのもてなしがあんまりよくなかったので、ちょい機嫌を悪くしたそうなんです。で、お酒を注ごうとしても拒否。大人げないですね。この時、以前采女(うねめ)だった雅びやかな女性がいて、左手に盃、右手に(山の井から汲んだ)水を持って、王の傍らでこの歌を詠んだとか。それで王の心がなごんで、酒宴が盛り上がったとさ。結構単純です。ていうか、好みだったのかもしれません。女っつーのは♪ですね。
ちなみに采女っていうのは、貴人の身の回りで食事なんかの雑事を行った下級の女官だそうです。

そして実は「大和物語」という歌物語にも、この和歌が出てきます。

昔、美しい娘をもつ大納言がいて、その娘を、帝に嫁がせようと大切に育ててたらしい。お話ですけどね。けれども、大納言にお仕えしていた内舎人(うちとねり/うどねり)が、このお嬢様のあまりの美しさに、恋煩い、ほんとに病気にもなろうかというところまでになって、ある日このお嬢様をさらって、 馬に乗せて陸奥に逃げたのだそうです。お嬢様の気持ちは?と思うのですが、そこはそれ、フィクションですから、相思相愛ってことなんでしょう。
ちなみに内舎人というのは、帝や貴人の身辺警護を担当したスタッフだそうです。当時はそんなに身分も職位も高くはありませんでした。

で、安積山という所に庵(いおり)をつくって、男はそこでお嬢様と暮らしていました。男は時々里に出ては食料を入手して帰り、妻となったお嬢様に食べさせていたそうです。

で、そうこうするちに身籠ったらしいです。そして、ある時、男が物を求めに出かけてしまったまま、3、4日帰ってこなかったので、待ちこがれて外に出て、近くにある山の井に行って、姿を映してみると、以前とは別人のように見苦しくなってたんですね。かつて美貌を誇ったお嬢様はやつれてひどい容貌に変わってしまいました。こんな姿になった私、もしかすると捨てられてしまったのかもしれない。
そこで、戻らない彼を想って詠んだのがこの歌でした。再度、記しておきます。

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
(安積山の姿が映って見える山の井のような、浅い心で、あなたのことを思ったりしてないのに)

と、木に書いて身重の彼女は自殺してしまったんだそうです。そこに男が帰ってみると、妻が死んでいると。それを見て、男もやりきれなくなって、後追い自殺をしてしまいます。っていう、悲惨なお話。
清少納言は「山の井」が「浅い心」の例えにされているのを不思議がっているんですね。それ、言いがかりじゃね、って感じでしょうか。それとも、他の理由があるんでしょうか。それは清少納言のみぞ知るってことで。


さて、飛鳥井です。当時流行った催馬楽に「飛鳥井」というのがあります。催馬楽というのは今で言う歌謡曲とかJ-POPですね。馬子唄ですから、馬を曳く時に歌った一種の労働歌でもあったのでしょう。
「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(みもひ)も寒し、御馬草(みまくさ)もよし」と謡われていたようです。「飛鳥井に泊まるのだー、(掛け声~や、おけ)日蔭もあるし、水も冷たくてきれい、馬に食べさせる草もばっちり」という感じの歌です。
で、飛鳥井がどこにあるか調べました。

一つは、京都市上京区にある白峯神宮というところにあるという説。今もあります。白峯神宮のオフィシャルウェブサイトにも書かれていました。
もう一つは、奈良の明日香村にある飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)にも飛鳥井があるという説。こちらはオフィシャルサイトがありませんが、境内の井戸の横に説明書きが掲示されています。
つまり、どちらも自説をプッシュ。なので、どちらが正解かは謎。


千貫の井は、調べてみましたが、これ!という明確な説はわかりませんでした。ただ「東三条院の敷地内にあった」とする説はあるようです。現存しないので何とも言えませんが。ちなみに東三条院は現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあったそうです。Googleマップで見ますと、東西にわたる押小路通りと南北を貫く釜座通りの交わるところ、ストリートビューではたしかに西北の角に「東三条院址」の碑と立て札のようなものが見られました。

東三条院摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸でした。なので、この人は通称・東三条殿とも呼ばれたそうです。兼家は、ご存じのとおり清少納言が仕える中宮さま=定子の父・道隆の、さらにお父さんにあたる人ですね。


少将の井は、かつて京都市中に存在した名井、とウィキペディアに書かれています。現在の京都市中京区烏丸通竹屋町下ルというところらしいです。
先の東三条院のところでも、出てきましたが、京都ではタテヨコの通りで住所をこういう風に表すんですよね。だからやたらと住所が長いし、とてもわかりにくいんです。全くメンドクサイ地域ですよね。京都の人は「何でやの?わかりやすいやん」と言いますが、他都道府県の者からすると、通りの名前など全部は覚えてないし、サクッと町名でシンプルに表してほしいということなんです。
と言っても、彼らは譲りませんけどねぇ。京都以外の人を見下してますから。ものごとを相対化できない人々なのでしょう。

と、京都人をdisるのもほどほどにして。少将井町という町名はたしかにあります。
Googleマップで見ると、現在の京都御所のやや南西、京都新聞の本社があるあたりのようですね。


桜井。
松ヶ崎というエリアにある湧水であるという説があるんですが、末刀岩上神社の北、宝ヶ池へ至る道のあたりに井泉があり、それが桜井(水)であるということです。近くにある湧泉寺の墓参に供える水ともされていて、この井泉は聖域ともされているようですね。これも一説に過ぎないと思いますが。どのような場所なのか、土地勘がないので詳細はわかりませんが、いかにも清涼な感じがします。

今も京都市上京区桜井町というところがあり、こちらにあったという説もあるようです。由来はこの地にあった桜井基佐(もとすけ)という人のお屋敷の井戸だったということです。ただ、桜井基佐という人は室町時代の人ですから、かなり後です。地名が先なのか人名が先なのか? 悩ましいところですね。ちなみに今は、ここに首途八幡宮という神社があるようです。今出川通りの少し北、西陣と言われるエリアです。


后町(きさきまち)の井というのは、后町の廊のわきにある井です。后町は宮中の常寧殿の別名で、きさいまちとも読みます。
常寧殿は平安京内裏十七殿の一つで、皇后・女御の居所でした。五節舞(ごせちのまい)が行われたところでもありました。五節殿とも言うそうです。五節舞については、「宮の五節いださせ給ふに」の段に詳しく書いています。その日の様子もその段をお読みいただくと、わかりやすいかもしれません。

その常寧殿の傍に、ええ感じの井戸があったのでしょうね。


というわけで、「井は」の段。このたぐいの段は、思っている以上に調べものが多く、書くことも多くなるのでいつも面倒なんですよね。あ、自分で脇道に逸れてるんですか。すみません、自業自得ですね。2、3行の文章に数日かかってしまいます。しかも、一説に過ぎない、信ぴょう性も定かではないネタにしかたどり着けません。ま、そもそも、自己満足的な読み方です。どぶろっくでも聴いて自分を慰めることとしましょう。


【原文】

 井は ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。山の井、などさしも浅きためしになり始めけむ。飛鳥井は、「みもひもさむし」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少将井。櫻井。后町(きさきまち)の井。

 

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

  • 作者:清少納言
  • 発売日: 1962/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

遠くて近きもの

 遠くて近いもの。
 極楽。舟の旅。男女の仲。


----------訳者の戯言---------

前の段は近くて遠いもの、だったんですが、この段は遠くて近いものです。
どう違うんや? 一見遠いように感じるけど、実際には近いもの。ん?

極楽というのは、みなさんご存じのとおり、仏教でいう極楽浄土の「極楽」です。
ざっくり言うと、「幸せのあるところ」なんだとか。この世で功徳を積むと、亡くなった後、行けるそうですね。ただ、この世にも極楽はありますよ。銭湯とか温泉で「極楽極楽」って言ってるおじさんとかいますし。偽物ですけどね。ていうか、慣用的に使ってるだけ。細かいこと言ったらだめですが。

意味としては、天国みたいなものでもあります。けれど、宗教的にみるとこれまた微妙には違うそうですから、一緒くたにすると、それぞれの立場の方から叱られますね。ただ、修辞的慣用的にはほぼ同じです、天国も極楽も。気持ちええとこ、シアワセなとこであることに変わりはありません。昇天も同義ですよ。

そこで、みなさん、極楽を遠いと感じますでしょうか?
私はやはり「遠い」ほうに一票です。さほど信仰心の強くない者からすると、身近ではないものですね。
仏教が身近にあった平安貴族のメンタリティとしては、私よりは多少近いものだったかもしれませんが、イメージとしてはやはり「遥か遠くのもの」なのでしょう。ただ、一心に念仏すれば、死後すんなり極楽に往生できるんですよ、という教えもあるわけで。そいうった思想がここに表されたと言えそうです。

ただ、清少納言って、実はそれほど信仰心強くないんですよね。どの口が言うか、って話ではあります。
説経の講師は①」の段で、説経の講師は、顔がかっこいいこと!顔がイケてない講師は罪つくりだと思います。とか書いてます。
また、同じ段の②では、説法の会場にイケメンでオシャレな男のコたちが登場してきて、かなり興奮してましたしね。

舟の道とは? 「道」というのは、道中とか道行きという言葉がありますが、それだと思われます。東海道中膝栗毛の「道中」ですね。旅、旅行ということだと思います。舟の旅は、乗っていると、自身は動かなくても自然と目的地に着くように感じられますから、遠いように思ってたけど、近かったよ!と実感したのでしょう。でこぼこ道や山道を越えて行く陸路の旅よりも、昔は舟の旅にはるかに「近さ」を感じたんですね。

現代は、旅客機、鉄道、もちろん船もそうですが、様々な交通機関があり、自力で移動しなくてもすーっと連れて行ってくれるのが当たり前になっていますから、そういう実感はほとんどありません。便利なことに生まれた時から慣れてしまっているんですね。

さて、人の仲。人の仲って? ざっくりしています。よくわからないので調べて見たら、能因本のほうでは「男女の中」となっていました。
つまり、男女の間柄というのは、本来相容れずお互い理解しがたいものではありますが、いったん恋におちると極めて密接な関係になる、ということなのでしょうか。
それとも、離れていても心は近くにある、ということでしょうか?
遠いようで近い。今も昔も、男女の仲というのはようわからんという話です。


【原文】

 遠くて近きもの 極楽。舟の道。人の仲。

 

新編日本古典文学全集 (18) 枕草子

新編日本古典文学全集 (18) 枕草子

  • 発売日: 1997/10/24
  • メディア: 単行本
 

 

近うて遠きもの

 近くて遠いもの。宮咩祭(みやのめのまつり)。思いやりのない兄弟や親戚の仲。鞍馬のつづらおりっていう道。12月の大晦日と1月1日の間。
 

----------訳者の戯言---------

宮のべの祭り。宮咩の祭(みやのめのまつり/宮咩祭)とも言うそうです。というか、宮咩祭のほうが正式名称のようですね。禍(わざわい)を避け幸福を祈願して、正月と12月の初午(はつうま)の日に、高御魂命高皇産霊神(たかみむすひのかみ)=高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、大宮津彦(読み方不明?)、大宮津姫=大宮能売神(おおみやのひめ)、大御膳津命(おおみけつのみこと?)、大御膳津姫(おおみけつひめ?)、笠間の神の合わせて六柱の神をまつった祭、とのことです。
しかし神様の名前っていうのは、よくわからないですね。古事記日本書紀、また他の文献でも違うようですし、そもそもあの辺の書物は漢文で書かれていますから、読み方ははっきりとはわからないものなんでしょう。

で、この祭が近くて遠い?と思いましたが、12月から1月までは近いけど、その年、1月の祭が終わってから同年の12月までは遠いってことではないでしょうか?違いますか?

兄弟の距離感。なるほどね。近くにいる兄弟姉妹といっても、心の距離は遠い、ということでしょうか。そういう関係もあるんでしょうね。わかる気はします。年老いた親御さんを誰が面倒みるんだと揉めたり、亡くなったら遺産相続争いとかもあります。ただ、大人になるとそんなにベタベタはしないですよね。兄弟姉妹でも、気遣いはするし、遠慮もします。もちろん、嫌いなところもある。そして大好きだったりもします。けれど子どものころのように仲良く遊ぶわけでもない。人間というのは複雑ですね。

遠水難救近火 遠親不如近隣(遠水は近火を救い難く、遠親は近隣に如かず)という言葉があり、「遠くの親類より近くの他人」の語源なんですが、隣人同士が仲良くするのが大事ってことです。もちろん、遠くても親戚と仲良くすることは大事でしょう。私は、どっちもおろそかにしていますから、あまり偉そうなことは言えませんが。

鞍馬寺というのは、ご存じのとおり、源義経(幼名は牛若丸)が幼少期に預けられたお寺です

そして、鞍馬山の奥の方にある僧正が谷には天狗が住んでいたそうで、牛若丸はその天狗に稽古をつけてもらいました。天狗っていうぐらいですから、妖(あやかし)なんでしょう。けど、神でもあったらしいです。「天の狗(いぬ)」「あまつきつね」とも言われます。この鞍馬山の天狗は鞍馬山僧正坊(くらまやまそうしょうぼう)と呼ばれていたそうですね。また、鞍馬寺の本尊の一つは魔王尊と呼ばれる天狗なのだそうです。やはり鞍馬というのは天狗に縁があるところなのでしょうか。
鞍馬天狗」という大佛次郎の時代小説もありました。昭和時代にはドラマ化もされたようですね。
幕末の京都を舞台に「鞍馬天狗」と名乗る謎の勤皇の志士が新撰組相手に戦う、というフィクションです。たしか、新選組はかなり悪者に描かれていたと思います。そういえば近年では、るろ剣の剣心も勤皇派でしたね。

また話がそれました。
ここでも出てきましたが、鞍馬山には、幾重にも曲がりくねって続く坂道=つづら折りという道があったようです。「つづら折り」自体は普通名詞ですが、今も鞍馬山には「九十九折参道」として残っていて、山麓叡山電車鞍馬駅から鞍馬寺の仁王門までの道をこう呼んでいるようですね。
九十九というと「つくも」と読むことが多いですが、これは「つづら」と読むようです。
直線距離はそんなにないけど、歩いたら相当な距離があった、ということでしょう。

晦日から元旦の間。と書いていますが、現代に暮らす私たちには近くも遠くもないですね。普通に、ドラえもんとか紅白とかガキ使とか格闘技とか見て、その後、おもしろ荘とか、カウントダウンTVとか見ますしね。ライブ行ったりとか、渋谷や道頓堀とかでカウントダウンしたりする人もいますしね。私はしませんけど。
昔は、一瞬なんだけど年は改まるので、こう思ったんでしょう。そんなん、考えすぎですけどね。


【原文】

 近うて遠きもの 宮のまへの祭り。思はぬ兄弟(はらから)・親族(しぞく)の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。十二月(しはす)の晦日(つごもり)の日、正月(むつき)の一日(ついたち)の日のほど。

 

枕草子 (新明解古典シリーズ (4))

枕草子 (新明解古典シリーズ (4))

  • 作者:桑原博史
  • 発売日: 1990/08/01
  • メディア: 単行本