枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

説経の講師は①

 説経の講師は、顔がかっこいいこと! 講師の顔をじっと見つめててこそ、そのお説法の尊さも理解できるってものでしょ。よそ見なんかしてたら、すぐ忘れちゃうんだから、顔がイケてない講師は罪つくりだと思います。って、こんなこと言うのはやめないといけないんだけどね。若かった頃はこんな罪になることも書いてただろうけど、今は罪がすごく怖いのです。

 でもまた、尊いイベントだからって、信心深いって人がお説経会場に毎度一番乗りして座ってるのは、やっぱこんな罪深い心の私にとってみると、「そんなにまでしなくても」って、すっごく思えたりして…。

 蔵人を引退して「蔵人の五位」になった人なんか、昔は(蔵人の五位になってからやるような)行幸の先導役のお仕事とかもやらないで、退官したその年には内裏にさえ姿も見せなかったもんだけど、今の人はそんなこともなくって、そのまま蔵人の五位のお仕事を引き続きやってるようなのね。
 蔵人の五位なんて、逆になおさら忙しく仕えることになっちゃうんだけど、でも六位蔵人だった当時のハードワークに比べたら何もやることないサってくらいで、気持ちとしては余裕しゃくしゃくな感じがするもんだから、そういう説経の会場に1、2回聞きに行ったら、毎回行きたくなって、夏なんかめっちゃ暑くっても、帷子のすごくビビッドなのを着て、薄二藍、青鈍の指貫なんかを左右に蹴って広げては座ってるのよ。烏帽子に物忌みの札を付けてるのは、そんな物忌みをしなくちゃいけない日なんだけど、仏法の功徳を積むためには差し障り無し、って見せつけてるつもりなのかしらね。

 お説経をする僧侶とおしゃべりして、来場者が牛車を停めることなんかにまで立ち入ったりして、すっかり慣れてる様子でもあるの。
 長年会ってなかった人と再会したらしたで、懐かしがって近くに座って、何か言っては頷いて、面白トークをはじめて、扇を広げて口にあてて笑ったり、アクセサリー風に身に着けた数珠を手で弄んで、あちこちキョロキョロ見回して、クルマの良し悪しをほめたりけなしたり。またどこやらでその誰かが主催した「八講」や、「経供養」をしたこととか、あんなことあった、こんなことあったって、いろいろ比較しておしゃべりしてるうちに、今回の説経の内容は全然耳に入ってないのよ。
 どうなんでしょ、いつも聴いてることだから、耳慣れちゃって新鮮じゃないからなのかなぁ。


----------訳者の戯言---------

「説経」です。経文の教えを説くということです。「説教」とは少しニュアンスが違うのかもしれませんが、現代人にとっては、まあ同じですね。

そして、またまた出てきました蔵人。10人くらいいたという天皇の秘書スタッフですね。

実は「御前」という言葉、いろいろな意味があって、いや、困りました。①貴人・主君などの座の前 ②神仏や神社仏閣を敬っていう語 ③貴人や高位の人の敬称 とありますが、ここのはもう一つ、「前駆(ぜんぐ)」に接頭辞「御」がついた「御前駆」の省略形ということがわかりました。意味は、「行列などの前方を騎馬で進み、先導すること」とgoo辞書に書いてあります。

さて、この蔵人のくだりですが、原文で「蔵人など、昔は御前などいふわざもせず、その年ばかりは」となっています。この部分が、どういう意味なのかどうしてもわからないんです、どう考えても。「その年」がどの年を指すのかまったくわからないのですね。

で、仕方なく調べてみました。
私が読んでいる原文としているものは、実は原文と言いながらも厳密に言うと「写本」です。その写本は「三巻本」と呼ばれているものなんですが、別の写本である「能因本」には「蔵人おりたる人」とありました。また別の写本「堺本」では「蔵人なりし人は、おりて後」となっていました。

枕草子に詳しい方はおわかりかと思いますが、枕草子には、三巻本、能因本、堺本、前田本の主に4つの系統の写本があります。段の順番や構成、各々の内容も違います。もちろんかなり違う部分もあれば、似通っている、同じ内容のところもあったりします。「前田本」についてはテキストが入手困難なため紹介できませんが、三巻本、能因本、堺本は下のとおりとなっていました。

三巻本「蔵人など、昔は御前などいふわざもせず、その年ばかりは、内裏わたりなどには影も見えざりける」
能因本「蔵人おりたる人、昔は御前などいふ事もせず、その年ばかり、内わたりには、まして影も見えざりける」
堺本「蔵人なりし人は、おりて後、内裏わたりなどに常に見ゆるをば、わろきことにぞしける」

お気づきのとおり、能因本、堺本を見ると、ここに出てくる「蔵人」は「すでに退官した蔵人」であり、「その年」は「退官した年」ということがわかりました。

で、またまた問題です。蔵人の五位。これ、「五位蔵人/五位の蔵人(ごいのくろうど)」とは全然違うらしいんですね。語順がたまたま逆に書かれているだけではありません。一位違うだけですが「五位蔵人」のほうがランクは絶体的上位になります。「蔵人の五位」のほうは、元々「六位蔵人」だった人が6年以上勤めた後、従五位下に叙される慣例になってて(これを巡爵と言ったそうです)、出世みたいに思われますが、実はこうなると、普通は蔵人を辞職したそうなんですね、その人を「蔵人の五位」って言ったようです。

で、古典を読んでいるとよく「殿上人」という言葉が出てくるんですが、これ、「清涼殿」の殿上の間にのぼることが許されてる人、ということなんですね。

清涼殿というのは、平安京の内裏にあるお屋敷の一つで天皇の日常の居所なわけです。「六位蔵人」までは「殿上人」なんですが、これを辞めて「蔵人の五位」になると、殿上人→地下人(じげにん)になります。地下人ももちろん、内裏に勤務する公務員なんですが、「殿上に入る」という特権、名誉がなくなったわけで、やはり降格のイメージはあったんでしょうね。

さて、「帷子」は夏用の麻の衣ということです。裏地なしだとか。「薄二藍」は前の段で出てきました「二藍」の少し薄いもの。「青鈍(あおにび)」はブルーグレーといった感じの色です。指貫は前にも「清涼殿の丑寅の隅の①」で出てきました。裾を紐で引っ張って絞れるようになってる、つまりドローコード付きのボトムスです。

「八講」っていうのは、法華経8巻を朝夕1日2回×4日間、計8回講義して完了する法会だそうです。ちなみに米倉涼子の着物のやつは6回でしたね、ここではどうでもいいですか。
「経供養」とは、「経文を写し終えたとき、仏前に供えて法会を営むこと」とコトバンクにありました。

さて、本題です。

この段は、「説経イベント」をマイルドにdisるという展開。
まず、とある「蔵人の五位」の人。誰か特定の人を観察して書いたのは明らかですよね。
で、その人、説経イベントの常連さんなんですね。アイドルヲタの方とかと重なるような部分もありますし、中高年女性が純烈とかを追っかける感じにも少し似ています。サロン的にやっているカルチャー教室などでもありがちですね。常連講習生が有名講師先生の取り巻き化したり、そのうち仕切りはじめたり。

また最後のところは、たとえば大学の大講堂でやってる、イケてるはずの講義に来たんだけど、友だち見つけて私語しまくり、今ならLINEやゲームもやり放題、肝心の講義は全然聞いてない、っていう感じにも似ています。

そして、そもそも、説経自体、新鮮さが無くて面白くないんじゃね。っていう結論です。

たしかに、大学の講義にしろ、講演会の類にしろ、面白くてためになる内容なら、私語したり寝たりしませんからね。

うーん、この段、訳して読むの、かなり手強いです。次に続きます。


【原文】

 説経の講師は 顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたふとさもおぼゆれ。ひが目しつればふと忘るるに、憎げなるは罪や得たらむとおぼゆ。このことはとどむべし。少し年などのよろしきほどは、かやうの罪得がたのことはかき出でけめ、今は罪いとおそろし。

 また、たふときこそ、道心おほかりとて、説経すといふ所ごとに最初にいきゐるこそ、なほこの罪の心には、いとさしもあらでと見ゆれ。蔵人など、昔は御前などいふわざもせず、その年ばかりは、内裏わたりなどには影も見えざりける、今はさしもあらざめる。蔵人の五位とて、それをしもぞいそがしうつかへど、なほ名残つれづれにて、心一つは暇ある心地すべかめれば、さやうの所にぞ、一度二度も聴きそめつれば、常に詣でまほしうなりて、夏などのいと暑きにも、帷子いとあざやかにて、薄二藍、青鈍の指貫など、踏み散らしてゐためり。烏帽子に物忌つけたるは、さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらずと見えむとにや。

 そのことする聖と物語し、車立つることなどをさへぞ見入れ、ことについたるけしきなる。久しう会はざりつる人の詣であひたる、めづらしがりて、近うゐより、物言ひうなづき、をかしきことなど語り出でて、扇ひろうひろげて、口にあてて笑ひ、よく装束しある数珠かいまさぐり、手まさぐりにして、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあしほめそしり、某にてその人のせし八講、経供養せしこと、とありしこと、かかりしこと、言ひくらべゐたるほどに、この説経のことは、聴きも入れず。何かは、常に聴くことなれば、耳馴れてめづらしうもあらぬにこそは。


検:説経の講師は

 

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