枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

五月の御精進のほど③ ~卯の花のいみじう咲きたるを折りて~

 卯の花がすごくいっぱい咲いてるのを手折って、牛車の簾や側面なんかに挿して、余ったのを屋根や棟なんかに長い枝を葺いたように挿したら、卯の花の垣根を牛に掛けたみたいに見えたわ。お供の下男たちもめちゃくちゃ笑いながら、隙間に「ここがまだだ、ここがまだだ」って挿し合ってるの。

 人と会わないかなって思うんだけど、卑しい僧侶や、とりたてて言う甲斐もない身分の低い者ばっかり、それもたまたま見かけるくらいだから、すごく残念で、近くまで帰って来たけど、「このまま帰っちゃうのかな、このいかした車の様子が人の話題にのぼるくらいになってから帰りましょうよ」って一条殿のあたりに停めて、「侍従殿(藤原公信さま)はいらっしゃいますか? ほととぎすの声を聴いて、今帰るところなんです」って使いの者に伝えさせたら、使いの者が「『ただ今、参ります、しばしお待ちを、あなた様』っておっしゃってましたよ。警護担当の控室でリラックスしていらっしゃったんだけど、急いで立ち上がって、指貫をはいてました」って言うの。「待ってられないわよ」って、車を走らせて、土御門の方に出発したら、いつの間に着物を着たのか、帯は道すがら結びながら、「ちょっと、ちょっと」って追いかけてくるのよ。お供の侍3、4人ほども、履き物もはかないで走ってくるみたいなの。で、「早く行って!」って、とっても急がせて土御門に行き着いたら、ハアハア息を切らして喘ぐようにいらっしゃって、この車の様子をめっちゃお笑いになるのよね。

 「気の確かな人が乗ってるっては、到底思えないよ。ほら、下りて見て!」なんて、お笑いになったら、いっしょに走ってきた人たちも面白がって笑うの。「歌はどうです? 聞かせてくれない?」っておっしゃるから、「まず定子さまにお見せした後でね」なんて言ってたら、雨が本降りになってきたのよね。「何で他の門と違って土御門はこんな風に屋根の無い造りにしてるんだろう?? 今日はマジ憎ったらしい」なんて言って、「どうして帰ることができるかな? ここに来るまでは、ただ遅れまいとだけ思って、人目も気にしないで走って来られたんだけど、このまま奥に行っちゃうんじゃ、めちゃくちゃがっかりだよ」っておっしゃるから、「さあ、いらっしゃって、内裏に」って言ったのね。「でも烏帽子でだと、どうだろう?」「取りに行かせなさったらいいんじゃ?」なんて言い合ってたら、雨がさらに大降りになって、笠もない私たちの牛車のスタッフたちは、とにかく車を門の中に強引に引き入れたの。公信さまは、一条殿から傘を持ってきてたのを従者にささせて、振り返りながら、今度はゆーっくりと、気が進まない感じで、卯の花だけを車から取ってお帰りになるのもおもしろかったわ。


----------訳者の戯言---------

「一条殿」というのは、そういうお屋敷があったんだと思います。この当時は藤原為光の邸宅だったようですね。
為光の子がこれまでに何度も登場した藤原斉信(ただのぶ)という男前、女の子には超人気のナイスガイです。清少納言も「ちょっといいかも」と思っている男性ですね。「頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて」「かへる年の二月廿余日」をお読みいただくと、おわかりいただけると思います。
そして、ここで出てきた「侍従殿」というのが、この家の子で斉信の弟、当時の侍従だった藤原公信(きみのぶ)という人のようです。

「侍従」というのは概ね高貴な立場の人物に付き従って、身の回りの世話などをすること、またそれをする人のことを言いました。一般にはおおよそ天皇の身の回りの世話などをする文官のことを侍従と言い、ここで出てきたのは当時の帝の「侍従」であった人(公信)です。
蔵人所もあったので、その辺、蔵人と仕事をどう分担してたのかわかりませんが、やはり次第に有名無実化して、兼任が多くなっていったようです。今は宮内庁にこの特別職が定められているようですね。

清少納言から見ると、同じ名家の子だけど、斉信サマは同年代の才色兼ね備えたエリート。侍従の公信クンは10歳くらい年下のエエトコの子、って感じです、当時は。

土御門というのは、平安京大内裏外郭東面の上東門の異称なのだそうです。上西門も土御門と言いましたが、「西の土御門」と言ったとか。築地(ついじ)を切り抜いた屋根のない門であることからこう言ったようです。

烏帽子。公家は宮中出仕以外の日常これをかぶるんですね。この段では、内裏に入るにはちょっとこれでは、というような言葉が出ました。宮中では必ず「冠」をかぶったからですね。

ここでの主人公は藤原公信クンです。先にも書いたとおり、清少納言より10コくらい年下で、この時二十歳前後。ちょっとコケにしちゃった感じですね。面白がっちゃってます。清少納言も、地の文では彼の言動については基本、敬語使ってるんですが、そうではない部分も混じってたりして、誰の言動か訳しづらいところもありました。しかしこれも清少納言の彼に対する立ち位置を、図らずもあらわしているように思います。
これが、斉信サマだったら、また彼女の態度も表現も変わったんでしょうけれどね。

④に続きます。


【原文】

 卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、かたはらなどにさしあまりて、おそひ・棟などに、長き枝を葺きたるやうにさしたれば、ただ卯の花の垣根(かきね)を牛に懸けたるとぞ見ゆる。供なる男どももいみじう笑ひつつ、「ここまだし、ここまだし」とさしあへり。

 人もあはなむと思ふに、更に、あやしき法師、下衆のいふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いと口惜しくて、近く来ぬれど、「いとかくてやまむは。この車のありさまぞ、人に語らせてこそやまめ」とて、一条殿の程にとどめて、「侍従殿やおはします。ほととぎすの声聞きて、今なむ帰る」と言はせたる、使「『只今まゐる。しばし、あが君』となむのたまへる。侍に間拡げておはしつる、急ぎ立ちて、指貫奉りつ」といふ。「待つべきにもあらず」とて、走らせて、土御門(つちみかど)ざまへやるに、いつの間にか装束(さうぞ)きつらむ、帯は道のままにゆひて、「しばし、しばし」と追ひ来る。供に侍三四人ばかり、ものもはかで走るめり。「とく遣れ」と、いとどいそがして、土御門に行き着きぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじう笑ひ給ふ。

 「うつつの人の乗りたるとなむ、更に見えぬ。猶下りて、見よ」など笑ひ給へば、供に走りつる人どもも興じ笑ふ。「歌はいかが。それ聞かむ」とのたまへば、「今、御前に御覧ぜさせて後こそ」などいふ程に、雨まこと<に>降りぬ。「などか、こと御門(みかど)々々のやうにもあらず、<この>土御門しも、かう上もなくしそめけむと、今日こそいとにくけれ」などいひて、「いかで<帰>らむとすらむ。こなたざまは、ただおくれじと思ひつるに、人目も知らず走られつるを、奥行かむことこそ、いとすさまじけれ」とのたまへば、「いざ給へかし、内裏へ」といふ。「烏帽子(えぼうし)にては、いかでか」「取りにやり給へかし」などいふに、まめやかに降れば、笠もなき男ども、ただ引きに引き入れつ。一条殿より笠持て来たるを、ささせて、うち見かへりつつ、こたみはゆるゆると物憂げにて、卯の花ばかりを取りておはするもをかし。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)