枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

宰相の中将② ~この四月のついたちごろ~

 実はこの四月の一日ごろ、細殿の4つめの出入口に殿上人がたくさん立ってたの。だんだんと姿を消してって、頭の中将(藤原斉信)、源中将(宣方)、あと六位の蔵人が一人残って、いろいろなことをしゃべって、お経を読み、歌を歌ったりしてたらね、「もう夜も明けてしまった。帰りましょう」って、「露は(織女が流した牽牛との)別れの涙だろうね」っていう詩を頭の中将が吟じ出されると、源中将もいっしょになってすごくいい感じで朗詠してたもんだから、私、「気の早い七夕ですね~」って言ったら、とても悔しがってね、「単に朝早くのお別れ。ってことだけをポイントに、ふと思いついたままに吟じただけなんだけど、そう言われたら情けないよねぇ。だいたい、このあたりでこういう詩を考えなしに吟じちゃったら、悔しい思いするんだよな」とかって、何回も笑って、「他人にはお話しにならないでくださいよね。絶対笑われちゃうだろうから」って言って、すごくあたりが明るくなってきたから、「葛城の神は、今帰るしかないよね!」って、お逃げになったから、七夕になったらこの事を言い出してみたいな、と思ったんだけど、宰相(参議)におなりになったから、必ずしもうまい具合ににそうできるわけでもないし。手紙を書いて、主殿司(とのもづかさ)に届けさせようかしら、なんて思ったんだけど、七日に参上なさったから、すごくうれしくて、あの夜のことなんかを言いはじめたら、お気づきになるかもしれないわね。(って、それじゃおもしろくないから)ただなんとなく突然ふっと言ったら、不審に思って首をおかしげになるでしょ? そうなったら、その時は、あの四月にあったことを言おう!って思ってたのに、ちっとも動揺せずにお答えになったの、ホント、すごく素敵だったわ。


----------訳者の戯言---------

「細殿」は時々出てきます。殿舎の廂(ひさし)の間で、細長いものを細殿(ほそどの)と言ったんですね。仕切りをして、女房などの居室(局)として使うことも多かったらしいです。

「宰相の中将」は、宰相(参議)で近衛中将近衛府の次官)を兼任する人。これに対して「頭の中将」は、蔵人頭蔵人所の実質的な責任者)と近衛中将を兼任する人のことです。①の冒頭では「宰相の中将」として登場した藤原斉信、ここ②冒頭では「頭の中将」に官職が変わっています。

ということは、藤原斉信は、この話があった4月にはまだ「頭の中将」であり、その後に「宰相の中将」に昇進したのだとわかります。ここでは4月のことを回顧してるんですね。

ここ重要、というか、史実から見て一つの転機でもあったようです。清少納言はさらっと書いてるし、原則として彼女はあまり政争を具体的には扱っていません。
が、この時代の政治的背景を見てみると、藤原道隆が亡くなったのは995年(長徳元年)。この時、斉信はまだ頭の中将でした。しかし、どうやら斉信は、道隆の死後、藤原道長に接近したようで、翌年2月には例の花山法王襲撃事件、一般に花山院闘乱事件と言われる、伊周らによる法皇襲撃が行われます。
詳しくは「大進生昌が家に①」に私、書いていますのでよろしければ再読を。
長徳の変は996年(長徳2年)ですが、2月に襲撃があり、ペナルティとして伊周らの左遷が実行されたのは4月だそうです。その日に藤原斉信は参議、つまり宰相になったようですね。

つまりこの話は、モテモテ男前の斉信サマが頭の中将から参議に昇進した頃の話。政治的にはキナ臭い動きがあった時期だと思われます。

で、「露は別れの涙なるべし」の詩です。「和漢朗詠集」にもある漢詩なんですが、

露応別涙珠空落
雲是残粧鬟未成

露ハ別レノ涙ナルベシ珠空シク落ツ、雲ハ是レ残ンノ粧ヒ鬟イマダ成ラズ ということで、意味としては、露の玉が空しく落ちているのは、織姫が別れの時に流した涙に違いない~みたいな感じです。もちろん、七夕ネタの詩ですね。

葛城の神というのは、大和(今の奈良県)の葛城山に住むといわれてる神様で、一言主神とも呼ばれるそうです。
役(えん)の行者という山岳修行者が奈良時代におりまして、この方は修験道の祖ともされているそうです。で、この役の行者さん、葛城の神に命じて、葛城山金峰山との間に橋をかけようとしたのだそうです。え?行者が神様に命令?とも思うんですが、そういう、行者が鬼神に命ずるというか、依頼する、みたいなことはあったんでしょうね、当時は。どういう関係なんでしょうか。
ま、例えば西遊記なんか読んでも、道教の仙人やら仏様やら妖怪やら、僧侶(つまり人間)、道士(人間)etc.ハチャメチャな上下関係、力関係になってますから、妖怪のはずの孫悟空だって天界に行って神様的なものになってますしね。沙悟浄も妖怪にして僧侶みたいな存在でしょ。なので、そういうこともあるのでしょう。

で、話がそれたんですが、その葛城の神(一言主神)が橋をかける工事なんですが、ルックスが醜かったらしく、それをを恥ずかしく思って、昼は姿を見せずに、夜しか働かなかったので完成しなかったという伝説があるんですね。神様なのに。ってか、木とか運んだり、杭打ったりの現場作業するんですか。神様なので、こう、パパッと神通力的なものとかでやるんではないんですか?と思うのは私だけでしょうか。

まあ、それはいいとして、さらに役の行者の怒りを買い、その罰として呪縛されたとか。偉い修行者だとしても一介の行者(人間)が神様を呪縛? もうワケがわかりませんわ。

で、本段に戻ります。夜が明けたので、「葛城の神」的に、日が昇って明るくなったら姿を消さなくちゃね、と、故事にふまえて言ったということです、単に。説明、長すぎですね、すみません。

さて、原文はものすごく一文が長いです。あの野坂昭如よりもはるかに長いです。野坂昭如。「火垂るの墓」の原作者ですね。あれは、アニメのイメージもあって泣く話になってますが、私は小説の方は、鬼気迫ると言うか、壮絶、凄惨な話に感じました。あれは文体の所為でもあると思います。おっとまた逸れました。こちらのほうは、むしろ滔々と語る感じですね。

なるほど。謎だったんですが、なんとなくわかってきましたね。

そもそも4月に「七夕ネタの詩」を歌ってしまった藤原斉信。すかさず清少納言が「今は4月よ。早すぎでしょ!」とツッコミを入れたんですね。これ、清少納言的には七夕が来たら蒸し返してやろうと思ってたんですが、さすがの斉信、このことをしっかり覚えてて、七夕の七月七日にもかかわらず「明日は『人間の四月』を謡うよ」と、さらっと返したわけですね。←これが前の記事①で書いたとこです。

あの日のこと忘れてない! こういうところ、清少納言、ぐっとくるわけですね。しかも、このやりとりは、二人だけにしかわからないネタを含んでいるから、さらに親密感が高まります。相手は稀代のハンサム公卿。しかし、彼は今や、定子さまの兄・伊周の政敵でもある藤原道長の信頼を受け、政治の中枢に入りつつある宰相(参議)にして近衛中将藤原斉信。複雑な心境でもあったかもしれません。

ということをふまえつつ、③に続きます。


【原文】

 この四月のついたちごろ、細殿の四の口に殿上人あまた立てり。やうやうすべり失せなどして、ただ頭の中将、源中将、六位一人のこりて、よろづのこと言ひ、経読み、歌うたひなどするに、「明けはてぬなり。帰りなむ」とて、「露は別れの涙なるべし」といふことを頭の中将のうち出だし給へれば、源中将ももろともにいとをかしく誦じたるに、「急ぎける七夕かな」といふを、いみじうねたがりて、「ただあかつきの別れ一筋を、ふとおぼえつるままに言ひて、わびしうもあるかな。すべて、このわたりにて、かかること思ひまはさずいふは、いと口惜しきぞかし」など、返す返す笑ひて、「人にな語り給ひそ。必ず笑はれなむ」といひて、あまり明かうなりしかば、「葛城の神、今ぞずちなき」とて、逃げおはしにしを、七夕のをりにこの事を言ひ出でばやと思ひしかど、宰相になり給ひにし<かば>、必ずしもいかでかは、そのほどに見つけなどもせむ、文かきて、主殿司してもやらむなど思ひしを、七日に参り給へりしかば、いとうれしくて、その夜のことなど言ひ出でば、心もぞ得給ふ。ただすずろにふと言ひたらば、あやしなどやうちかたぶき給ふ。さらば、それにをありしことをば言はむとてあるに、つゆおぼめかでいらへ給へりしかば、まことにいみじうをかしかりき。