頭の弁の、職に参り給ひて①
頭の弁(藤原行成)が、中宮職の庁舎に参上されて、私とお話しなんかなさってたんだけど、そのうち夜もすっかり更けてしまったの。「明日は御物忌だから、籠ってないといけないし、丑の刻にまでなったらまずいだろうなー」って、宮中に参内なさったのね。
早朝になって、蔵人所の紙屋紙(かうやがみ/かんやがみ)を重ねて、「今日は心残りがすごくある気がするのね、オールナイトで昔の話をして夜を明かそうかなって思ってたんだけど、ニワトリの鳴き声に催促されちゃって」って、すごくたくさんの言葉をお書きになってるの、立派な文字の書面でね。ご返事として、「すごく夜の深い時間帯に鳴いたニワトリの声は孟嘗君のやつかしらねぇ??」って差し上げたら、折り返しで「『孟嘗君のニワトリは、函谷関を開いて、三千の食客がかろうじて逃げ去ることができた』ってあるけど、これは逢坂の関のことですよ」って返事が来たから、
「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関はゆるさじ(夜が深いうちにニワトリの鳴き真似をして騙そうとしても、逢坂の関は絶対に通させないでしょうね!)
…しっかりとした関守がいますからね」
って差し上げたの。すると、またすぐに返事があって、
「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか(逢坂は人が越えやすい関だから、ニワトリが鳴かなくても関の戸を開けて待つっていうんですよね)」
って書いてきた手紙を、いちばん最初のは僧都の君(隆円)がすごく額を摺り付けるように拝み倒して自分のものになさったの。で、後の二つは定子さまの手元に収められたの。
----------訳者の戯言---------
頭の弁=藤原行成も、すでに何度も登場しましたのでおなじみですね。少し前にも「頭の弁の御もとより」で、清少納言にしょーもないプレゼント(?)を送ってきた彼です。
丑の刻というのは、今で言うと午前2時を中心とする約2時間で、真夜中です。テレビ番組で言うと、深夜アニメや海外ドラマ、ローカルのエンタメ情報番組、TVショッピングなどをやっている結構深い時間帯ですね。と言っても、まだまだこれからーっていう人も多いでしょう。朝まではまだまだたっぷり時間あります。でも次の日、御物忌なんでねー、そろそろ行かないとねー、って感じです。
紙屋紙(かうやがみ)というのは、朝廷の機構の一つとしてあった図書寮に付属する紙すき所「紙屋院」で漉かれた紙だそうです。つまり、国立の製紙工場で作った紙、というような意味でしょうか。
孟嘗君(まうさうくん/もうしょうくん)は中国の戦国時代の政治家。名将とされているようで戦国四君の一人とも言われています。
ここでの故事は、彼が秦の追手から逃れようとしていた時に、夜中に国境の函谷関までたどり着いたんだけど、関は夜間は閉じられてて、朝になって鶏の声がするまでは開けないルールだったそうです。で、孟嘗君の部下(食客というらしい)の一人が物真似の名人だったらしく、名乗り出て、ニワトリの鳴きまねをすると、それにつられて本物のニワトリも鳴きはじめたと。これで開けられた函谷関を抜けて、秦を脱出することができたというものです。
「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」という故事成語がありまして、「つまらない才能」とか「つまらない特技でも、何かの役に立つ」という意味なんですが、このことから来てたんですね。ふわっとしか知らなかったので勉強になりました。
ちなみに「狗盗」っていうのは、犬のようにすばしっこい泥棒のことのようです。この関を越える前に、実はもう一つ事件があったらしいんですね。孟嘗君は秦に幽閉されていたんですが、秦王の寵愛する侍女(寵姫)が欲しがった白い狐の毛皮を、犬のように盗みがうまい者(これも食客の一人)に盗ませて、この寵姫に贈ることによって釈放を許された、と。で、この二つ、ニワトリと犬を合わせて「鶏鳴狗盗」というわけです。
逢坂の関。京都と滋賀県の大津の間の逢坂山にあった関所です。昔だと山城国と近江国の国境です。畿内の東端という位置付けだったらしいです。「逢ふ」という言葉と掛かっている名称のため、男女のめぐり逢いを示唆したり、この関を越えることが男女の結ばれる意味をあらわしたりもするようですね。
「僧都の君」は隆円という人で、藤原道隆の四男、中宮定子の弟です。「無名といふ琵琶の御琴を」に出てきました。
結局のところ、藤原行成の書いたすばらしい筆跡の手紙を手にしたのは、僧都の君=隆円と定子でした。
「今日は残りおほかる心地なむする。夜を通して、昔物語もきこえあかさむとせしを、にはとりの声に催されてなむ」
の書は、定子さまの弟(僧都の君=隆円)がゲト。
「『孟嘗君のにはとりは、函谷関を開きて、三千の客(かく)わづかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり」
「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか」
この二つの手紙は、中宮定子に渡されたとのことです。
さてこの段、斉信に続いて行成。清少納言のモテモテ自慢ですか?
「ニワトリの鳴き声がしたからー」とか彼が言ってきたから、「それ、孟嘗君の部下がニワトリの鳴きまねしたやつー?」と軽く返したら、「いやいやそっちの関じゃなくて、逢坂の関(男女交際)の話なんだけど」とちょっかいを出してくる行成、しかし「鳴きまねをしても逢坂の関は絶対に通させないだろうし。だってしっかりとした関守がいるから」(何かちょっかいだしてきても、私ガード固いんだからねー)と清少納言、これに対して行成の返事は「いえいえ逢坂の関なんてのは簡単に通れるのよ、ニワトリが鳴かなくっても開けて待ってるんだから!」と。
なお清少納言の詠んだ「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関はゆるさじ」は小倉百人一首に撰入されています。
さて、このやりとりの顛末は??
②に続きます。
【原文】
頭の弁の、職に参り給ひて、物語などし給ひしに、夜いたうふけぬ。「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなむ」とて、参り給ひぬ。
つとめて、蔵人所の紙屋紙(かうやがみ)ひき重ねて、「今日は残りおほかる心地なむする。夜を通して、昔物語もきこえあかさむとせしを、にはとりの声に催されてなむ」と、いみじうことおほく書き給へる、いとめでたし。御返りに、「いと夜深く侍りける鳥の声は、孟嘗君(まうさうくん)のにや」と聞こえたれば、たちかへり、「『孟嘗君のにはとりは、函谷関を開きて、三千の客(かく)わづかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり」とあれば、
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
心かしこき関守侍り」と聞こゆ。また、たちかへり、
逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、取り給ひてき。後々のは御前に。