枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

井は

 井といえば…。堀兼の井。玉の井。走り井は、逢坂の関にあるのが素敵だわ。山の井は、どうしてそんなに心が浅い例として引き合いに出されるようになったのかしらね? 飛鳥井は「御水(みもひ)も寒し」と褒めたのがおもしろいし! そのほか、千貫(せんかん)の井。少将の井。櫻井。后町(きさきまち)の井もね。


----------訳者の戯言---------

井。井戸ですね。一般には穴を掘って地下水を汲み上げる場所ですが、泉や流水から飲み水を汲みとるところも井(走り井)と言います。というか、元々、川の水を堰き止めて水汲みの場所にしたのが井(井戸)だったそうで、後に掘削するタイプの水汲み場ができ、それも井と言ったというのが時系列的には正しいようですね。
なお、山中にわき水がたまって、自然にできた井戸を「山の井」とも言ったようです。


堀兼の井。
埼玉県狭山市の堀兼神社にある井戸らしいです。古来、武蔵国の堀兼の井は有名だったようですね。清少納言が実際に見たかどうかはわかりませんが。


玉の井と言えば、永井荷風の「濹東綺譚」という小説にも出てきた私娼街です。調べていて出てきたのですが、忘れていました。私は小説は読んでいないのですが、津川雅彦が主演した映画は見ました。永井荷風を主役とした私小説的に描かれていて切ない話でした。相手役の女優さんがよかったですね。

という玉の井は、もちろん別の話でしょうけど、一般に良い水の出る井戸を「玉の井」と言うそうです。もしかすると、それを指しているのかもしれません。

そしてもう一つの可能性。神代の昔、豊玉姫が日常的に使っていた日本最古の井戸「玉の井」というのが、鹿児島県にあるそうで。調べてみたところ、たぶん聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、「山幸彦と海幸彦」の話の元ネタ、つまり古事記とか日本書紀に出てきているんですね、この井戸。陸の世界と海の世界を媒介する交通路とするのがこの神話における「玉の井」でした。
詳細は省きますが、豊玉姫と山幸彦は結婚し、子ども(子どもと言っても神サマ)をなすのですが、さらにその子ども(つまり孫)が神武天皇であると伝えられています。

神話というのは、現実を反映しているものでもあるんですね。
兄弟ゲンカに形を借りていますが、弟の山幸彦はヤマト国の主要勢力、兄・海幸彦は南九州の地方勢力(隼人とか熊襲と言われます)を暗示しています。結果的には山幸彦が勝利して服従させるというところに落ち着く、つまり政治的に討伐、平定となったことを示唆しているのですね。

また話がそれました。

このように神話でも重要な位置づけにある「玉の井」、つまり現在の鹿児島県にある玉の井が、ここに書かれた玉の井であるとも考えられます。さすがに清少納言も見てはないでしょうけど。
ま、玉の井については、他説もたくさんありそうです。諸説の一つとして解釈いただければと思います。


逢坂の関は、歌枕でもあり、この枕草子でも何度も出てきます。また、関の清水、関水、という語も和歌には幾度も出てきており、やはりこの近くに湧き水があったのはたしかなようです。掘削した井戸ではなく「走り井」です。いずれにしても逢坂関はとても有名ですから、ご存じの方も多いと思います。いまさら私が解説するまでもないかと思いますので、簡単に留めておきます。


そして、山の井です。これは安積山の近くにある「山の井」を根拠に考えるのが妥当なようですね。

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
(安積山の姿が映って見える山の井のような、浅い心で、あなたのことを思ったりしてないのに)

これは万葉集編入されている歌で、安積山、山の井は福島県にある歌枕となっています。この歌はいくつかの逸話、物語を残しているようです。

一つは、葛城王という人に関する言い伝えです。葛城王は7~8世紀頃、奈良時代に活躍した皇族、親王でした。後に臣下に下って橘諸兄と名乗ったそうですね。この葛城王陸奥国に派遣された時、国司たちのもてなしがあんまりよくなかったので、ちょい機嫌を悪くしたそうなんです。で、お酒を注ごうとしても拒否。大人げないですね。この時、以前采女(うねめ)だった雅びやかな女性がいて、左手に盃、右手に(山の井から汲んだ)水を持って、王の傍らでこの歌を詠んだとか。それで王の心がなごんで、酒宴が盛り上がったとさ。結構単純です。ていうか、好みだったのかもしれません。女っつーのは♪ですね。
ちなみに采女っていうのは、貴人の身の回りで食事なんかの雑事を行った下級の女官だそうです。

そして実は「大和物語」という歌物語にも、この和歌が出てきます。

昔、美しい娘をもつ大納言がいて、その娘を、帝に嫁がせようと大切に育ててたらしい。お話ですけどね。けれども、大納言にお仕えしていた内舎人(うちとねり/うどねり)が、このお嬢様のあまりの美しさに、恋煩い、ほんとに病気にもなろうかというところまでになって、ある日このお嬢様をさらって、 馬に乗せて陸奥に逃げたのだそうです。お嬢様の気持ちは?と思うのですが、そこはそれ、フィクションですから、相思相愛ってことなんでしょう。
ちなみに内舎人というのは、帝や貴人の身辺警護を担当したスタッフだそうです。当時はそんなに身分も職位も高くはありませんでした。

で、安積山という所に庵(いおり)をつくって、男はそこでお嬢様と暮らしていました。男は時々里に出ては食料を入手して帰り、妻となったお嬢様に食べさせていたそうです。

で、そうこうするちに身籠ったらしいです。そして、ある時、男が物を求めに出かけてしまったまま、3、4日帰ってこなかったので、待ちこがれて外に出て、近くにある山の井に行って、姿を映してみると、以前とは別人のように見苦しくなってたんですね。かつて美貌を誇ったお嬢様はやつれてひどい容貌に変わってしまいました。こんな姿になった私、もしかすると捨てられてしまったのかもしれない。
そこで、戻らない彼を想って詠んだのがこの歌でした。再度、記しておきます。

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
(安積山の姿が映って見える山の井のような、浅い心で、あなたのことを思ったりしてないのに)

と、木に書いて身重の彼女は自殺してしまったんだそうです。そこに男が帰ってみると、妻が死んでいると。それを見て、男もやりきれなくなって、後追い自殺をしてしまいます。っていう、悲惨なお話。
清少納言は「山の井」が「浅い心」の例えにされているのを不思議がっているんですね。それ、言いがかりじゃね、って感じでしょうか。それとも、他の理由があるんでしょうか。それは清少納言のみぞ知るってことで。


さて、飛鳥井です。当時流行った催馬楽に「飛鳥井」というのがあります。催馬楽というのは今で言う歌謡曲とかJ-POPですね。馬子唄ですから、馬を曳く時に歌った一種の労働歌でもあったのでしょう。
「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(みもひ)も寒し、御馬草(みまくさ)もよし」と謡われていたようです。「飛鳥井に泊まるのだー、(掛け声~や、おけ)日蔭もあるし、水も冷たくてきれい、馬に食べさせる草もばっちり」という感じの歌です。
で、飛鳥井がどこにあるか調べました。

一つは、京都市上京区にある白峯神宮というところにあるという説。今もあります。白峯神宮のオフィシャルウェブサイトにも書かれていました。
もう一つは、奈良の明日香村にある飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)にも飛鳥井があるという説。こちらはオフィシャルサイトがありませんが、境内の井戸の横に説明書きが掲示されています。
つまり、どちらも自説をプッシュ。なので、どちらが正解かは謎。


千貫の井は、調べてみましたが、これ!という明確な説はわかりませんでした。ただ「東三条院の敷地内にあった」とする説はあるようです。現存しないので何とも言えませんが。ちなみに東三条院は現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあったそうです。Googleマップで見ますと、東西にわたる押小路通りと南北を貫く釜座通りの交わるところ、ストリートビューではたしかに西北の角に「東三条院址」の碑と立て札のようなものが見られました。

東三条院摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸でした。なので、この人は通称・東三条殿とも呼ばれたそうです。兼家は、ご存じのとおり清少納言が仕える中宮さま=定子の父・道隆の、さらにお父さんにあたる人ですね。


少将の井は、かつて京都市中に存在した名井、とウィキペディアに書かれています。現在の京都市中京区烏丸通竹屋町下ルというところらしいです。
先の東三条院のところでも、出てきましたが、京都ではタテヨコの通りで住所をこういう風に表すんですよね。だからやたらと住所が長いし、とてもわかりにくいんです。全くメンドクサイ地域ですよね。京都の人は「何でやの?わかりやすいやん」と言いますが、他都道府県の者からすると、通りの名前など全部は覚えてないし、サクッと町名でシンプルに表してほしいということなんです。
と言っても、彼らは譲りませんけどねぇ。京都以外の人を見下してますから。ものごとを相対化できない人々なのでしょう。

と、京都人をdisるのもほどほどにして。少将井町という町名はたしかにあります。
Googleマップで見ると、現在の京都御所のやや南西、京都新聞の本社があるあたりのようですね。


桜井。
松ヶ崎というエリアにある湧水であるという説があるんですが、末刀岩上神社の北、宝ヶ池へ至る道のあたりに井泉があり、それが桜井(水)であるということです。近くにある湧泉寺の墓参に供える水ともされていて、この井泉は聖域ともされているようですね。これも一説に過ぎないと思いますが。どのような場所なのか、土地勘がないので詳細はわかりませんが、いかにも清涼な感じがします。

今も京都市上京区桜井町というところがあり、こちらにあったという説もあるようです。由来はこの地にあった桜井基佐(もとすけ)という人のお屋敷の井戸だったということです。ただ、桜井基佐という人は室町時代の人ですから、かなり後です。地名が先なのか人名が先なのか? 悩ましいところですね。ちなみに今は、ここに首途八幡宮という神社があるようです。今出川通りの少し北、西陣と言われるエリアです。


后町(きさきまち)の井というのは、后町の廊のわきにある井です。后町は宮中の常寧殿の別名で、きさいまちとも読みます。
常寧殿は平安京内裏十七殿の一つで、皇后・女御の居所でした。五節舞(ごせちのまい)が行われたところでもありました。五節殿とも言うそうです。五節舞については、「宮の五節いださせ給ふに」の段に詳しく書いています。その日の様子もその段をお読みいただくと、わかりやすいかもしれません。

その常寧殿の傍に、ええ感じの井戸があったのでしょうね。


というわけで、「井は」の段。このたぐいの段は、思っている以上に調べものが多く、書くことも多くなるのでいつも面倒なんですよね。あ、自分で脇道に逸れてるんですか。すみません、自業自得ですね。2、3行の文章に数日かかってしまいます。しかも、一説に過ぎない、信ぴょう性も定かではないネタにしかたどり着けません。ま、そもそも、自己満足的な読み方です。どぶろっくでも聴いて自分を慰めることとしましょう。


【原文】

 井は ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。山の井、などさしも浅きためしになり始めけむ。飛鳥井は、「みもひもさむし」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少将井。櫻井。后町(きさきまち)の井。

 

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

  • 作者:清少納言
  • 発売日: 1962/10/16
  • メディア: 文庫