枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

職の御曹司の西面の立蔀のもとにて①

 職の御曹司の西側にある衝立のところで、頭の弁(藤原行成)が、結構長いこと立ち話をなさってたから、さしでがましくも「そこにいるのはどなた?」って言ったら、「弁でございます」っておっしゃるの。「何をそんなにおしゃべりしてるんですか。大弁がお見えになったら、あなたを見捨ててあっちに行っちゃうでしょうに」って言ったら、大笑いして「もう、誰がそんなことまで言いふらしてるんですか。『そんなことしないでよね』って、お話ししてたんだから」って言われたのね。

 それほど目立って風流ぶったこともしなくて、ただ普通に振舞ってるもんだから、みんなはそういう表面的な部分だけ見てたようだけど、私はもっと奥深い部分の心持ちを理解してたから、「(彼は)凡人ではありませんよ」とかって、中宮様にも申し上げてて。また中宮様もそれをわかっていらっしゃってね。だからいつも「『女は自分を愛してくれる者のためにお化粧をする、男は自分を認めてくれる者のために死ぬ』っていうじゃない」ってお互いに言い合って、彼も私を理解してくれてるのよ。私たちは「遠江の浜柳」ってお互いに約束してたんだけど、若い子たちはとにかく言いにくいことなんかも、ぶっちゃけ言っちゃうもんだから、「あの方とはホント付き合ってらんないわね。他の人みたいに、歌を歌って遊んだりしないし。面白くないんだよね」なんてけなしてるの。で、彼もそれ以上に誰かれともなくおしゃべりしたりもしないのね。

 「私は、目は縦についてて、眉は額(ひたい)の方に生えてて、鼻は横向きだったとしても、ただ口元が可愛くて、あごの下から首にかけてがすっきりキレイで、声が悪くない人だったら、好きになっちゃうんだよね。とは言っても、やっぱ顔がすごく不細工な人は苦手ではあるんだけどね」とだけおっしゃるから、ましてや顎が細くて可愛くない人なんかは、不愉快に思ってね、彼を目の仇にして、中宮様にだって悪口を申し上げるの。


----------訳者の戯言---------

「職御曹司」というのは「職曹司」のこと。「中宮職」の庁舎です。どこやらのお坊ちゃん「御曹司」とは全然関係ありません。語源なんでしょうけどね。職御曹司は「しきのみぞうし」と読むらしいですが。
中宮職中務省に属する役所で、皇后に関する事務全般をやっていたところらしいです。

頭の弁。頭は蔵人頭のこと。「弁」は前の段「をのこは、また、随身こそ」で出てきた弁官です。かなり小馬鹿にしてましたけどね。細かく言うと左大弁、右大弁、左中弁、右中弁、左少弁、右少弁がいたらしいです。
「頭の弁」というのはこの二つを兼任してた人のことらしい。蔵人頭と大弁または中弁を兼ねる人がいたようなんですね。この二つを兼任している人というのは、当時(蔵人頭は一人なので)一人しかいなくて、名前を書かなくてもこれで個人を特定できたわけですね。ここで出てきたのは藤原行成だそうです。三跡の一人でもありました。

遠江の浜柳」。遠江(とおとうみ)というのは、現在の静岡県西部です。近江つまり琵琶湖に対して、浜名湖遠江としたわけですね。その遠江の浜柳とは?
これ、万葉集にある旋頭歌「あられ散り遠つあふみの跡川柳刈れ(離れ)どもまたも生ふ(逢ふ)ちふ跡川柳」からのものだそうです。恋愛の歌ですね。「いくら刈ってもまた生えてくる」という跡川の川柳、転じて「永遠に切っても切れない仲、たとえ別れても必ずまた逢える」といった意味で使われたのがこのフレーズだったらしいです。

しかし、この段で出てきたのは「浜柳」で「川柳」ではないんですよね。博学ですが、勘違いも時々ありの清少納言。はたしてわざとなのか、間違いなのか。

ところで「顎が細い」のは、よくなかったんですかね。今ならそのほうがいいような気がするんですが、やはり古代の美人は違うんでしょうか。

清少納言、今回は藤原行成を高評価。この後どういう展開になるのでしょうか。
ちなみに藤原行成が「頭弁」であったのは996年頃で、当時20代半ばくらい。まだまだ若いです。清少納言は生年が不詳ですが30代前半、おそらく6、7歳ほどお姉さんなんですよね。

次に続きます。乞うご期待。


【原文】

 職(しき)の御曹司(みざうし)の西面(おもて)の立蔀(たてじとみ)のもとにて、頭の弁、物をいと久しう言ひ立ち給へれば、さし出でて、「それはたれぞ」といへば、「弁候ふなり」とのたまふ。「何か、さも語らひ給ふ。大弁見えば、うち捨て奉りてむものを」といへば、いみじう笑ひて、「たれかかかる事をさへ言ひ知らせけむ。『それさなせそ』と語らふなり」とのたまふ。

 いみじう見え聞こえて、をかしきすぢなど立てたることはなう、ただありなるやうなるを、みな人さのみ知りたるに、なほ奥深き心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など、御前(おまへ)にも啓し、またさ知ろしめしたるを、常に、「『女は己をよろこぶもののために顔づくりす。士は己を知る者のために死ぬ』となむいひたる」と言ひあはせ給ひつつ、よう知り給へり。「遠江の浜柳」と言ひかはしてあるに、若き人々はただ言ひに見苦しきことどもなどつくろはずいふに、「この君こそうたて見えにくけれ。こと人のやうに、歌うたひ興じなどもせず、けすさまじ」などそしる。さらにこれかれに物言ひなどもせず。

 「まろは、目はたたざまにつき、眉は額ざまに生ひあがり、鼻は横ざまなりとも、ただ口つき愛敬づき、頤(おとがひ)の下・頸清げに、声にくからざらむ人のみなむ思はしかるべき。とは言ひながら、なほ顔いと憎げならむ人は心憂し」とのみのたまへば、まして頤細う、愛敬おくれたる人などは、あいなくかたきにして、御前(ごぜん)にさへぞあしざまに啓する。

 

まんがで読む古典 1 枕草子 (ホーム社漫画文庫)

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