枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて①

 頭の中将(藤原斉信)がいい加減な嘘っぱち話を聞いて、めちゃくちゃ私のことをdisってね、「『どうして一人の人として認めて誉めてたんだか』なんて、殿上の間でめちゃくちゃヒドいコトおっしゃってたんだ」って。そんなの聞いたりするだけでも、恥ずかしくはあるんだけど、「それがほんとのコトならともかく、そうじゃないんだから、ま、自然と思い直してくださるでしょうよ」って笑って放っておいたのね。だけど、黒戸(の部屋)の前とかを通る時だって、私の声なんかがする時は袖で顔を隠してこっちを全然見ようともしないで、ものすごく嫌がられたもんだから、こっちも何にも言わず、見もしないで過ごしてたの。そんな二月の末、すごく雨が降って暇で仕方なくって、物忌で出かけられなかった時、「『(彼女とのやりとりがなかったら)さすがに物足りないよねー。何か言ってやろうかなぁ』っておっしゃってたよ」って女房たちが話してたけど、「まさか、ンなことないでしょ」なんて答えて、一日中、自室に退いて過ごしてから、定子さまの御前に参上したら、もうご就寝してらっしゃったの。


----------訳者の戯言---------

藤原斉信という人は、かなり優秀な公卿であり定子の実家の中関白家衰退の後、藤原道長、彰子側でも重用されたようですね。しかも詩歌、管弦などにも秀でていて文化人としても当代随一と言われていた人だそうです。

「黒戸」というのは、何故「黒戸」というのか?については、兼好法師が「徒然草」に書いてます。拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の第百七十六段 宮中の「黒戸」は をご覧ください。

「物忌み」っていうのは、陰陽師が占って凶日とした日らしいです。災いを防ぐため、家に閉じこもって、来客も禁じて、おとなしくしてたらしい。そんなある「物忌の日」に村上帝と宣耀殿の女御が「古今和歌集言い当てっこゲーム」をした「清涼殿の丑寅の隅の③ ~村上の御時に~」という話がありましたね。

「さうざうし」というから、騒々しいのかと思いきや、「物足りない」「心寂しい」という意味です。漢字は「索索し」です。古典の先生なら、「ハイ、これ、テスト出ますよ~」と言うところですね。まじ、出ますから。で、高校生のみなさん、おもしろいくらいひっかるようです。

この段、結構長いです。
まずは話の出だしです。今度は頭の中将の藤原斉信とのやり取りでしょうか。どういうエピソードになるのか、楽しみです。


【原文】

 頭の中将のすずろなるそら言を聞きて、いみじう言ひおとし、「『何しに人と思ひほめけむ』など、殿上にていみじうなむのたまふ」と聞くにもはづかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてむ」と笑ひてあるに、黒戸の前などわたるにも、声などする折は、袖をふたぎてつゆ見おこせず、いみじうにくみ給へば、ともかうも言はず、見も入れで過ぐすに、二月つごもり方、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌にこもりて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひやらまし』となむのたまふ」と人々語れど、「よにあらじ」などいらへてあるに、日一日下(しも)に居暮らして参りたれば、夜のおとどに入らせ給ひにけり。


検:頭の中将のすずろなるそら言を聞きて

 

低反発枕草子

低反発枕草子

 

 

御仏名のまたの日

 御仏名の次の日、地獄絵の屏風を持ってきて、帝が中宮さまにご覧に入れて差し上げたの。これ以上ないっていうぐらいハンパなく超恐怖でね。中宮さまは「これ見て、これ見てみ」っておっしゃるんだけど、「もうこれ以上見れませんー」って、めっちゃ怖すぎで、小部屋に隠れて寝ちゃってたの。

 その日は雨がすごいどしゃ降りで、しかも暇だったから、帝が殿上人を上の御局(みつぼね)にお召しになって、詩歌や管弦のお遊び会を開催したのね。特に少納言の(源)道方が弾く琵琶はすごくすっごくいいの。(源)済政の筝、平行義の横笛、中将の源経房の笙の笛とかもいかしてるのよ。で、一通り演奏して、琵琶を弾き終わったところで、大納言の藤原伊周が「琵琶、声やんで、物語せむとする事おそし」って朗誦なさったものだから、私、隠れて寝てたんだけど、起きて出ていって、「やっぱ(地獄絵を見ないで済まそうとした)仏罰は怖いんだけど、すばらしいものに惹かれる気持ちって抑えられないんでしょうよねー」って言ったら、みんなに笑われちゃったんだよね。


----------訳者の戯言---------

御仏名。また聞きなれないものが出てきました。正式名称?は「仏名会(ぶつみょうえ)」らしいです。仏名懺悔ともいうそうですね。過去・現在・未来の三世、八方上下計十方の国にいらっしゃる三千ないし十万の仏の名を唱え礼拝するのだとか。当時は12月19日から3日間、宮中で行われたそうです。一万三千仏画像を掲げて、地獄絵の屏風を立てて、唱礼するとかいうことです。

ちょうどGWも終わりで、今年は天皇陛下の即位があったばかりです。退位即位ともにいろいろな行事があったようで、詳しくは知らないのですが、公式行事以外は「神事」なのだと思います、たぶん。
で、平安時代にはこの段のように宮中で堂々と仏教の法要が行われていたんですね。天皇、皇族というのは神道の本家本元であるはずなのですが、それでも宮中で堂々と仏教の法要が行われました。飛鳥時代にしろ奈良時代にしろ、聖武天皇をはじめとして、仏教を大いに奨励した天皇も昔からいらっしゃったようですから、それ自体さほど違和感はありません。日本は宗教の混合に寛容であり、以前も書いたように、特に神仏習合が古くから行われていました。帝というものはこの国にあるものは須らく肯定するという、そういう存在なのだとも思います。

ですから、今も内親王ICUで学んでいらっしゃるし、現皇后陛下は雙葉、上皇后陛下は聖心、といずれもキリスト教系です。このように時代時代で皇族が神道以外の宗教と深くかかわるのはアリなのだと思います。特に明治以降は仏教よりキリスト教のほうが関係が深いようですね。と言っても、私たち庶民もなんですけどね。クリスマス、初詣、お葬式、結婚式、ハロウィン、全部宗教が違ったりします。あ、話が大きくそれました。

さて、「御遊び」「御遊(ぎょゆう)」というのは、概ね中世古代には詩歌・管弦や舞などをして楽しむことを言ったようですね。
今回は宮中の名プレイヤー勢ぞろいでライブが始まったわけです。さすが帝、雨で暇だとこんな無理も通ります。

「琵琶、声やんで、物語せむとする事おそし」というのは、白居易の「琵琶行」の一節「琵琶声停欲語遅」(琵琶ノ声停ンデ語ラント欲スルコト遅シ=琵琶の演奏が終わっておしゃべりしたいなって思ったのに返事がない)を踏まえた上での朗誦(声を出して唱えること)です。
藤原伊周中宮定子の兄。これまでも何度か出てきました)、もちろんこの漢詩を知っていたということで、これは一般教養なのか、それとも博識なのかは私わかりませんが、それがキッカケとなって清少納言、再登場と。もちろん、この漢詩知っているゾという前提です。例によっていつもの知識自慢が入っています。

まあ、そういうインテリ的なやらしい部分を垣間見せつつも、「ちょっとヘタレでかわいいワタシ」をうまく表現しましたね、清少納言。してやられたり。


【原文】

 御仏名のまたの日、地獄絵の御屏風とりわたして、宮に御覧ぜさせ奉らせ給ふ。ゆゆしう、いみじきこと限りなし。「これ見よ、これ見よ」と仰せらるれど、「さらに見侍らじ」とて、ゆゆしさにこへやに隠れ臥しぬ。

 雨いたう降りてつれづれなりとて、殿上人上の御局に召して御遊びあり。道方の少納言、琵琶いとめでたし。済政筝の琴、行義笛、経房の中将笙の笛などおもしろし。ひとわたり遊びて、琵琶ひきやみたるほどに、大納言殿、「琵琶、声やんで物語せむとすること遅し」と誦じ給へりしに、隠れ臥したりしも起き出でて、「なほ罪はおそろしけれども、もののめでたさはやむまじ」とて笑はる。

 

 

ここちよげなるもの

 気持ちよさげにしてるものっていうと、卯杖を携えた法師。御神楽の人長。神楽の振幡とかを持ってる人。


----------訳者の戯言---------

卯杖の法師って何?
で、まず卯杖です。「正月初の卯の日に、魔よけの具として用いる杖」とデジタル大辞泉にありました。
柊(ひいらぎ)・桃・梅・柳などの木を5尺3寸(約1.6メートル)に切り、2~4本ずつ合わせて上部を紙で包み、五色の糸で巻いて束ねたもので、ヤブコウジ、ヒカゲノカズラ、ヤブラシなどをつけて飾った、とあります。そして、宮中では六衛府などからこれを朝廷に奉り、で、御帳の四隅に立てて魔除けにしたらしいです。また、献上する時は「卯杖のほがひ」という寿詞(よごと)を奏したそうです。

宮中以外でも、卯杖を携え、「卯杖のほがひ」を唱えて京の街を回る法師がいたそうですし、熱田神宮では呪文を唱えながら、「卯杖の舞」を舞う神事も行われていたようですね。

私が通常訳の元にしている「三巻本」テキストでは漢字で「法師」と書かれていましたが、もう一つ私が見た「能因本」のテキストのほうは、「ほうし」と仮名で書かれていて、これを「捧持」として、「卯杖を持つ役割の舎人」との訳し方もできるかもしれません。

次に、御神楽の人長とは?
御神楽とは、内侍所御神楽ともいい、毎年宮中で行なわれるそうです。神楽歌を独唱、斉唱することが主体ですが、もちろん楽器による伴奏があります。全体を人長が統率し、「韓神」と「其駒」という曲では、この人長がサカキの枝に輪のついた採物を持って舞いも舞うのだそうです。
指揮者兼、バンマス兼、ボーカル兼、パフォーマーという感じですか。EXILEのATSUSHIがパフォーマーもやるような感じですか? 否、指揮者の佐渡裕が歌ったり踊ったりするような感じでしょうか。
と、書いていて思い出しましたが、マイケル・ジャクソンですね。MJは、楽器のマルチプレイヤーでしたし、実際に全曲こういうことをやっていましたね。ダンサーであり、舞台監督でもありました。人長とは格が違い過ぎますね。

原文で「神楽の振幡」と出てきましたが、「振幡」というのがよくはわかりません。
ただ、「能因本」のほうを見てみると、「心地よげなるもの」の段で「御霊会の振幡」という一節が出ています。(なお、「能因本」ほか枕草子の4系統の写本については「説経の講師は①」の解説部分をご覧ください)

ということですから、「振幡」は神楽、または御霊会で使ったものであることは確かでしょう。
御霊会というのは「祇園御霊会」であろうと考えられ、これが祇園祭の前身なのだそうです。で、まあそういう祭り行列の先頭で「振幡」を持った人を「気持ちよさげにしてるもの」と書いてるんですね。

そもそもなんですが、「ここちよげ」というのはどういう印象をあらわしているのでしょう。
内容から考えると、「誇らしげ」「得意げ」であり、少々「自信に満ちて」「颯爽としている」感じもあり、「実力以上の姿を誇示できて気持ちよくなっている感」も複雑に入り混じったりします。
今回だけでなく、をかし、ありがたし、めでたし、らうたし、あはれetc.いろいろ出てきますが、そういう感覚を当時と共感するのはなかなか難しいもの、とつくづく思います。


【原文】

 ここちよげなるもの 卯杖(うづゑ)の法師。御神楽の人長(にんぢやう)。神楽の振幡(ふりはた)とか持たる者。


検:心地よげなるもの

 

あなたを変える枕草子

あなたを変える枕草子

 

 

あぢきなきもの

 しょーもないもの。わざわざ自分から思い立って宮仕えに出たのに、気持ちが塞いじゃって、お勤めが面倒だなぁって思うようになってるヒト。養子の顔が不細工なの。気が進まない人を、無理やりお婿さんにしておいて、思ってたのと違うわぁ、って嘆いてるのもね。


----------訳者の戯言---------

「あぢきなし」はご存知の方も多いと思いますが、思うようにならない、おもしろくない、つまらない、という意味のようです。今の「味気ない」という感じではなさそうですね。

養子のことを昔は「取り子(とりこ)」と言ったらしいです。

けど、顔のこと言うかなーと思います。以前、藤原行成とのやりとり(「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて②」)の中で、自分のことを「すっごいブスだから、『さあらむ人をばえ思はじ(そんな人は好きにはなれないのさ)』っておっしゃってた人に顔を見せるなんて、私できないわ」と卑下していた本人なんだから、こんなこと言っちゃあいけません。

しかしまあ、度々出てはきますけど、当時からルックスというのは重要な要素ではあったようです。よく、「御簾越しの恋」とか言いますけど、最終的には顔を合わせますからね。やっぱりそうなんですね。


【原文】

 味気(あぢき)なきもの わざと思ひ立ちて宮仕へに出で立ちたる人の、物憂がり、うるさげに思ひたる。養子(とりこ)の顔憎げなる。しぶしぶに思ひたる人を、強ひて婿取りて、思ふさまならずと嘆く。


検:味気なきもの

 

 

職の御曹司におはします頃、木立など

 職の御曹司に定子様がいらっしゃった頃、木立なんかはずいぶん古びてて、建物の様子も高くてね。ひと気がなくって、もの寂しいんだけど、なんとなくいい感じなの。母屋は鬼が棲みついてるって言われてるから、間を置いて南側にスペースをつくって、南の廂の間に御帳を設置して、さらにその外側に出ている又廂の部屋に女房たちが控えてるの。

 近衛の御門(陽明門)から左衛門の陣(建春門)に参上される上達部の先払いの者たちの声は、殿上人のは短くって、私たち、大前駆(おおさき)、小前駆(こさき)って名前をつけて、掛け声を聞いては騒いでるのね。毎度毎度のことだから、その声をみんな聞き分けて、「これは誰?」「あれは?」なんて言って、また、「違うわ」とかって言ったら、人を使って見に行かせたりなんかして、言い当てた人は「やっぱ、そうでしょ」なんて言ってるのも面白いの。

 月がまだ空に残ってる有明のころ、とっても深く霧が立ち込めてる庭に女房たちが下りて、歩いてるのをお聴きになって、中宮さまも起きられたのね。で、中宮の御前にいる女房たちがみんな外に出てきて、庭に下りて遊んでたりするうちに、だんだん夜も明けていくの。

 「じゃあ、左衛門の陣(建春門)に行ってみましょう」って行くと、「私も私も」ってついてくの、で、そんな時、大勢の殿上人の声で「なにがし一声秋(いっせいのあき)」と謡いながらやって来る音がするもんだから、逃げ帰って、何もなかったようにお話をするのよ。「月をご覧になっていらっしゃったんですね」なんて、感心して歌を詠む人もいたりして。

 夜も昼も、殿上人が絶え間なくやって来るの。上達部でさえ帝のもとに参内される時、特別急ぐ用事がない場合は、こちらへも必ず参上なさるのよ。


----------訳者の戯言---------

職の御曹司(しきのみぞうし)というのは、「中宮職」の庁舎のことだそうです。「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて①」にも書きましたね。
中宮職中務省に属する役所で、皇后に関する事務全般を司っていたらしいです。

原文の「おはします」というのは、「いらっしゃる」「おられる」ですが、かなり高い尊敬の意をあらわす言葉です。帝、皇妃(中宮など)、親王、姫などに使われることが多いようですが、このシチュエーションから考えると、中宮・定子様というのがわかるようになっている、ということらしいですね。

だいぶ前に「大進生昌が家に」という段があって、当時の状況をざっくりと書きました。「中宮職」についても少し触れています。「大進」生昌はその役所の役付き職員の一人でした。

長徳の変」のあおりを受け後遺症的に謹慎状態だった定子が、その謹慎期間が明けた直後、「職の御曹司」に長期滞在していた時期があるようです。その時のことなのですね。だから、これは周知のことであり、これを前提に、描かれた段、ということになるでしょうか。

「廂」というのは「ひさし」のことで、母屋の外側に付加されてる部屋だそうです。これまでにも何度か出てきましたね。すぐ前の段の「細殿」も廂の間の一つでした。

「御帳」ですが、ま、高貴な方のお屋敷で、主がメインに居る場所のようですね。「御帳台」とか「御帳の間」などとも言うらしいです。
中に台があって、そこに寝転んだり、座ったりしてるそうですから、リビングのソファみたいなものと思っていいかもしれません。「帳」というカーテンが四方に垂らされています。拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の第百三十八段の解説文のところに図がありますのでご参照ください。

「又庇」は寝殿造りで、母屋の外側の庇からさらに外方に設けた庇だそうです。「孫庇」とも言うらしいですね。

「上達部」は、摂政・関白・太政大臣左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議、および三位以上の人の総称です。所謂「公卿」で、宮中の幹部貴族と言っていいかもしれません。

「前駆(さき)」というのは、当時は先払い、先追い、あるいは警蹕などといって、それなりのポジションの人が道を通ったりする時に、スタッフが声を上げて、道を空けるために人払いをしたらしく、それをこうも書いたようです。

有明」というのは、夜か明けても月が残ってる朝。です。

近衛の御門=陽明門(ようめいもん)は、平安京大内裏の外郭十二門の1つで、左衛門府が警固を担当したそうですが、門内に左近衛府の建物があったため「近衛御門」と呼ばれたそうです。なぜ、そんなことになっているのかはよくわかりませんけど、歴史的にいろいろあったのでしょう。大内裏の東側にありました。

左衛門の陣=建春門(けんしゅんもん)平安宮内裏外郭七門の一つで、東面の門。左衛門府の役人の詰め所があったので「左衛門の陣」とも言われたのだそうです。因みに「職の御曹司」は内裏の外郭の外側にありました。建春門から見ると道を隔てて北東方向、比較的近くにあったようです。

和漢朗詠集に下のような漢詩があり、これを吟じていたのでしょう。源英明という人の作らしいです。

池冷水無三伏夏(池冷やかにして水に三伏の夏無し→池の冷たい水には、三伏の夏も無い)
松高風有一声秋(松高うして風に一声の秋有り→松の木の高いところを吹く風に、秋の声を聞くようだ)

三伏」というのは、一年で最も暑い時期のことなのだそうです。調べてみたので詳しく書きますと、夏至以後の3回目・4回目と立秋以後の最初の庚の日をそれぞれ初伏・中伏・末伏とし、この三つを合わせて三伏と言うのだそうです。ただ、その日取りの決め方はいくつかあるようですね。

さて本題です。
前述のとおり「長徳の変」を経て、謹慎的期間が明けた直後、「職の御曹司」に長期滞在していた時期、この段はその時の様子を書いているようです。

ここでは、とてもにぎやかな様子が描かれていて、定子さまのいらっしゃる「職曹司」に多くの幹部貴族が参上している、とも書かれていますが、実は定子の実家である中関白家は例の事件「長徳の変」で、凋落しつつあるのは否めない頃。対して藤原道長の娘・彰子が入内するのが、この段に描かれている日々とほぼ同時期であり、実権はすでに道長に移っている時代でありました。
もしかすると、定子さまが輝く時代ももうすぐ終わるのでは、と思いながら過ごしてた、そんな日々の、束の間の楽し気なできごとをピックアップしました的な段なのです。はしゃいでる感じもあったりしますが、清少納言のカラ元気とも見え、そう考えると、少ししんみりもするのです。


【原文】

 職の御曹司におはします頃、木立などのはるかにものふり、屋のさまも高う、け遠けれど、すずろにをかしうおぼゆ。母屋(もや)は鬼ありとて、南へ隔て出だして、南の廂に御帳立てて、又廂(またびさし)に女房は候ふ。

 近衛の御門より左衛門の陣に参り給ふ上達部の前駆ども、殿上人のは短かければ、大前駆・小前駆とつけて聞き騒ぐ。あまたたびになれば、その声どももみな聞き知りて、「それぞ」「かれぞ」などいふに、また「あらず」などいへば、人して見せなどするに、言ひあてたるは、「さればこそ」などいふもをかし。

 有明のいみじう霧りわたりたる庭に下りてありくを聞こしめして、御前にも起きさせ給へり。うへなる人々の限りは出でゐ、下りなどして遊ぶに、やうやう明けもてゆく。

 「左衛門の陣にまかり見む」とて行けば、我も我もと<お>[と]ひつぎて行くに、殿上人あまた声して、「なにがし一声<の>秋」と誦して参る音すれば、逃げ入り、物などいふ。「月を見給ひけり」など、めでて歌よむもあり。

 夜も昼も、殿上人の絶ゆる折なし。上達部まで参り給ふに、おぼろげに急ぐことなきは、必ず参り給ふ。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

 

 

まいて、臨時の祭の調楽などは

 まして、賀茂の臨時祭の調楽(リハーサル)の頃なんかには、すごくいい感じなのね。主殿寮(とのもり/とものりょう)の役人が長い松明(たいまつ)を高く灯して、首をすくめて歩いて行くと、先が何かにつっかえそうになって。ステキなパフォーマンスで、笛を吹いて、いつもよりさらに際立ってる風の若君たちが正装して立ち止まって何かお話ししてたら、お供の警護係たちが小さく短めに主の若君たちの先払いの声を出すんだけど、それが音楽に交じって、いつもとは違っていい感じに聞こえるの。

 相変わらず戸を開けたまま帰ってくるのを待ってたら、若君たちの声で「荒田に生ふるとみ草の花」って歌うのが、今回は前より面白く感じられてね。なのに、どんだけマジメなんだろう、無愛想に歩いてくコもいて、笑っちゃうんだけど、「ちょっと待って!『どうしてこの夜(世)を捨てて、急いで行っちゃうの?』とか言うじゃないの」なんて、誰かが言ったら、気分でも悪いのかなぁ、倒れるんじゃないかっていうくらいでね、「誰かが追いかけて捕まえようとしてるんじゃないのかナ」って思うほど、慌てて出てっちゃうコもいるようなのね。


----------訳者の戯言---------

いきなり出だし「まいて、」とか書いてますから、何かなーと思ったら、前の段の続きのようです。
お祭りの舞楽のリハをやってたようですね。
「遊び」というのは、ここでは、管弦や舞などをして楽しむこと、の意味と考えられます。

主殿寮(とのもり/とものりょう)は「主殿司こそ」という段で少し書きました。宮中の雑務全般を司った役所です。

原文に出てくる「料に追ひたる」ですが、ここでの「料」は、目的、理由、~のため、といった感じでしょうか。

君達が「荒田に生ふるとみ草の花」と謡ってる様子がイケてるわ~ということですね。「荒田」という古謡、風俗歌(風俗/ふぞく)だそうです。

荒田に生ふる 富草の花 手に摘みれて 宮へまゐらむ なかつたえ
とか、
荒田に生ふる富草の花 手に摘みれてや 宮へ参らむや 参らむや
と謡われたらしいですね。「荒れた田に生える稲の花を手で摘んで宮に参ろう!」という歌詞ですね。なかなかポジティブないい歌詞です。なわけないですね。富草というのは「稲」の古名だそうです。「なかつたえ」というのがイマイチ何かよくわかりませんが。

今で言うと学園祭の準備してる時、的な感じでしょうか。高校にしても、大学にせよ、オケ部や吹奏楽部がパート練習をしたり、演劇部がリハをしたり、どこかのグループは何か大きな絵を描いていたり、造形物を作っていたり、中には関係なく体育会のコたちは学内でトレーニングしていたりもするのですが、そんなことをひっくるめて、いつもと違う独特な雰囲気の中、テンション上がり気味の人びとetc.
そういうシーンを描きたかったのかなぁ、とは思いますが、私はそれほどうまく描けてるとは感じませんでした。私が勝手にハードル上げているのかもしれません。すみません。


【原文】

 まいて、臨時の祭の調楽などは、いみじうをかし。主殿寮の官人、長き松を高くともして、頸は引き入れて行けば、先はさしつけつばかりなる<に>[と]、をかしう遊び、笛吹き立てて、心ことに思ひたるに、君達日の装束して立ちどまり、物言ひなどするに、供の随身どもの前駆を忍びやかに短かう、おのが君達の料に追ひたるも、遊びにまじりて常に似ずをかしう聞こゆ。

 なほ明けながら帰るを待つに、君達の声にて、「荒田に生ふるとみ草の花」とうたひたる、このたびは今少しをかしきに、いかなるまめ人にかあらむ、すくずくしうさしあゆみて往ぬるもあれば、笑ふを、「しばしや。『など、さ夜を捨てて急ぎ給ふ』とあり」などいへば、心地などやあしからむ、倒れぬばかり、もし人などや追ひて捕らふると見ゆるまで、まどひ出づるもあめり。


検:まいて臨時の祭の調楽などは

 

内裏の局、細殿いみじうをかし

 宮中の女子スタッフの部屋、局の中では特に「細殿」がとってもすばらしいの。上の蔀を上げてあるので、風がいっぱい吹き込んできて、夏でもすごく涼しいのよね。冬は雪や霰(あられ)なんかが風といっしょに降り込んでくるのもとってもいい感じ。狭くって、子どもなんかがやって来てる時には、都合は悪いんだけど、屏風の中にそっと座らせておけば、他の局みたいに大声で笑うことなんてできないから、とってもいいのよね。

 お昼なんかは、油断しないで気遣いしておく必要はあるの。夜は(男の人が来るかもしれなくて??)なおさら気を抜けなくて、それはそれでとってもテンションが上がるわね。靴の音は一晩中聴こえるんだけど、その足音が立ち止まって、指一本だけで戸を叩くと、「あの人だナ」って、すぐわかるのがいいのよ。
 ずっと長いこと叩いてて、反応もなかったら、寝てしまったんじゃないかなって思うんだろうけど、それもムカつくから、ちょっと身体を動かして衣擦れの気配をさせたら、「あ、起きてるんだな」って思うんじゃないかしら。冬は火桶にそっと立てるお箸の音だって控えめにしてるくらい、って、彼氏もわかってるんだけど、ドンドン叩いて。声に出しても言うんだけどね、物陰から滑り寄って、その声を聞く時もあるの。

 また、大勢の声で詩を朗読したり、歌を歌ったりする時には、戸は叩かなくても先に開けるから、ここに来ようって思ってなかった人も立ち止まっちゃう。
 入って座る場所もなくって立ったまま夜を明かすっていうのも、それはそれでおもしろそうなんだけど、几帳の帷子はすごく鮮やかで、その裾の端が重なって見えててね。直衣の背中がほころんで開いちゃってる若君たちや、六位の蔵人は青色の衣を着て、我が物顔で遣戸のところに身を寄せて立つなんてこともできなくって、塀の方に背中をつけて、袖を合わせて立ってるのも、これまたチャーミングなのよ。

 それから、ボトムスの指貫はすごく濃い色、上着の直衣は鮮やかな色で、いろんな衣を下からちらつかせてるお洒落な男子が、簾を押し入れて、体半分、中に入っている様子は、外から見たらすごくいかしてるんだけど、彼がきれいな硯を引き寄せて手紙を書き、もしくは鏡を借りてセルフチェックしてる様子だって、全部いい感じなの。

 三尺(1m弱)の几帳を立ててるんだけど、横木と布の間に少しだけ隙間があって、外で立っている人と室内にいる人が話す時に、ちょうどこの隙間が二人の顔のところにちょうどにぴったりなのもいいわ。身長が高かったり、低かったりする人なんかだと、どうなのかしら。でも、普通サイズの人はそうやってぴったり合うみたいなのよね。


----------訳者の戯言---------

細殿に人あまたゐて」という段でも書きましたが、殿舎の廂の間で、細長いものを細殿(ほそどの)と言ったようです。仕切りをして、女房などの居室(局)として使用したらしいとのこと。

蔀(しとみ)というのは、開口部の一種なんですが、格子を取り付けた板戸の上部を蝶番(ちょうつがい)で繋いで開けたり閉めたりしたものです。たいてい下半分が固定になってて、開けたいときには上半分を外に垂直に引っ張り上げて留めたりしてたようですね。

「寝入りたりとや思ふらむとねたくて」と原文にあります。「ねたくて」はもちろん「寝たくて」ではなく「妬くて」です。「妬し」で「癪に障る」とか、「忌々しい」とかの感じでしょうか。

つま(褄)というのは、端(つま)とも書きます。物の端っこの部分を言うそうです。

殿上人というのは、六位蔵人まででした。殿上人、六位蔵人については、「説経の講師は①」の「訳者の戯言」の中ほどに詳しく書いていますので、よろしければご参照ください。
蔵人は青色の服を着てたらしいです。で、別名「青色」とも呼んだらしいですね、蔵人のことを。「四月 祭の頃」の段では、蔵人を目指してる人が、この日ばかりはと蔵人の青色の服を真似て着たとありましたね。
で、「四月 祭の頃」でも書いたんですが、この「青色」って実はブルー系じゃないらしい。「麹塵(きくじん/きじん)」と言われる色で、カーキというか、薄い濁った緑、という感じです。「淵は」という段でも書きましたが、当時は「青」というと白と黒の間の広い範囲の色で、主としては青・緑・藍をさしていたらしいですね。

おしゃれというのは、やはり世を問わず、カラーコーディネート力が重要要素なのだということですね。濃淡、そして清色と濁色を上手く合わせて、さらに複数のレイヤードという上級コーデ。立ち居振る舞いもスマートという、いかした男子がいたのでしょう。

この段は、清少納言たちが暮らしている「局」のあった「細殿」の様子をいろいろと紹介しています。

男の人が訪ねてくる時の描写は、自分ちに来た時のことなのか、それともご近所の他の女房のところに来た時に聞こえた音や声なのか、いまひとつ主語がはっきりしないのでわかりにくいですね。
私は清少納言自身の体験談が主なのだと思いますが、途中でふと我に返り「かげながらすべりよりて聞く時もあり」とだけ付け加えて、他人事のように表現したのだと勝手に解釈しています。ま、いろいろなケースがあって、それをアレンジしたんでしょうけど。

で、そりゃあ今の感覚で言っちゃいけないのはわかるんですが、お屋敷ならいざしらず、細殿を間仕切りで仕切った、寮みたいなところに住んでる女性のところに男性が通って睦事をするというのもどうかと思います。色んな音とか声とかダダ漏れでしょう。君たちはいいのかそれで。防音性能はレオパレス以下だと思う。


【原文】

 内裏の局、細殿いみじうをかし。上の蔀あげたれば、風いみじう吹き入りて、夏もいみじう涼し。冬は雪、霰などの風にたぐひて降り入りたるも、いとをかし。せばくて、童べなどののぼりぬるぞあしけれども、屏風のうちに隠しすゑたれば、こと所の局のやうに、声高くえ笑ひなどもせで、いとよし。

 昼なども、たゆまず心づかひせらる。夜はまいてうちとくべきやうもなきが、いとをかしきなり。沓の音、夜一夜聞こゆるが、とどまりて、ただおよび一つして叩くが、その人なりと、ふと聞こゆるこそをかしけれ。

 いと久しう叩くに音もせねば、寝入りたりとや思ふらむとねたくて、少しうちみじろぐ衣のけはひ、さななりと思ふらむかし。冬は火桶にやをら立つる箸の音も、忍びたりと聞こゆるを、いとど叩きはらへば、声にてもいふに、かげながらすべりよりて聞く時もあり。

 また、あまたの声して詩誦じ、歌などうたふには、叩かねど、まづあけたれば、ここへとしも思はざりける人も立ちどまりぬ。

 入るべきやうもなくて立ち明かすもなほをかしげなるに、几帳の帷子いとあざやかに、裾のつまうちかさなりて見えたるに、直衣の後ろにほころび絶え透きたる君達、六位の蔵人の青色など着て、うけばりて遣戸のもとなどにそばよせてはえ立たで、塀のかたに後ろおして、袖うちあはせて立ちたるこそをかしけれ。

 また、指貫いと濃う、直衣あざやかにて、色々の衣どもこぼし出でたる人の、簾をおし入れて、なから入りたるやうなるも、外より見るはいとをかしからむを、清げなる硯引き寄せて文書き、もしは鏡乞ひて見なほしなどしたるは、すべてをかし。

 三尺の几帳を立てたるに、帽額の下ただ少しぞある、外の立てる人と内にゐたる人と物いふが、顔のもとにいとよくあたりたるこそをかしけれ。たけの高く、短かからむ人などや、いかがあらむ。なほ世の常の人はさのみあらむ。

 

枕草子 ─まんがで読破─

枕草子 ─まんがで読破─