枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

職の御曹司の西面の立蔀のもとにて② ~物など啓せさせむとても~

 中宮様に用事を申し上げるような時にだって、一番最初に取次ぎを頼んだ人(私)を尋ねて来るし、局に下がってる時でもわざわざ私を呼び出すし、局まで何か言いに来たりね、実家に帰ってる時は手紙を書いてきたり、わざわざ家までやってきたりもして「宮中に来られるのが遅くなるようなら、『頭の弁がこのように申してました』って中宮様に使者を遣わしてくださいよ」っておっしゃるの。「それ、他の人もいるんだから頼めるでしょ」なんて言って、他の人に振ろうとするんだけど、それはどうしても承服できない感じでいらっしゃるのね。

 「状況に応じて柔軟に対処して、こだわらず、何事もうまくやり過ごすのがいいことだってされてますのに」ってアドバイス的に言ってはみたんだけど、「私の本来のメンタリティですから」とキッパリおっしゃって、「改まらないのが心というものだからね」とも言われるもんだから、「それじゃ(論語の)『改めることをためらってちゃいけない』ってどういうことを言ってるんでしょうかね?」って不思議そうに聞いてみたの。すると、笑いながら、「仲良しだって、みんなからも言われてるさ。こんな風におしゃべりしてるんだから、どうして恥ずかしがる必要があるの? 顔を見せてくれてもいいじゃない」っておっしゃるのよね。
 「すっごいブスだから、『さあらむ人をばえ思はじ(そんな人は好きにはなれないのさ)』っておっしゃってた人に顔を見せるなんて、私できないわ」って言ったら、「ほんとに嫌いになっちゃうかもしれない、だったら、顔を見せないで!」って、普通にしてたらお互い顔が見えてしまうような時も、自分から目を隠して見ないようにされるから、この人は心底、嘘偽りはない、と思ってたの。で、三月の終わる頃、冬用の直衣はもう暑くて着てられないのかな、上着だけで、殿上に宿直する人もいっぱいいた頃ね。

 そんなある日の早朝、日が出てくるまで、式部さまと小さな廂の間で寝てたんだけど、奥の引き戸をお開けになって、帝と中宮さまがお出ましになったから、突然のことで起き上がれずに慌てふためいてたら、お二人、すごくお笑いになったのね。私たちは(上着の)唐衣を肌着(汗衫)の上に羽織っただけで、夜具やら何やらが埋もれてる状態のところにいらっしゃって、陣を出入りする者たちをご覧になって。殿上人が、そんな状況を全く知らずに寄って来て、御簾越しに話しかけたりもするんだけど、帝は「気づかれないようにしてね」ってお笑いになるのよ。

 そして、帝と中宮様はお帰りになられたの。「二人とも、さあどうぞ」っておっしゃったんだけど、「今、お化粧なんかしてるところなので」ってお断りして、参上はしなかったのね。お戻りになった後も、やっぱステキだよね!なんて、話し合ってたら、南側の引き戸の近くにある几帳の手(横棒)が突き出てて、それに引っ掛かって簾が少し開いたとこから黒っぽい物が見えたから、蔵人の橘則隆がいるんだろうと思って、ちゃんと見もしないで、また続けて別のことを話してたら、すっごいニコニコ顔が出てきたから、どうせ則隆でしょ、って見たら、違う顔だったの! あきれちゃって、けらけら笑って、几帳を引き直して隠れてたら、頭の弁(行成)でいらっしゃるのよ。もう顔をお見せしないつもりだったのに、すごくショック! 一緒にいた式部さまはこっち向きだったから顔も見えなかったのに。


----------訳者の戯言---------

「さて『憚りなし』とは何をいふにか」(それじゃ『(改めることを)ためらってちゃいけない』ってどういうことを言ってるんでしょうかね?)と出てきます。何のことなのかと調べました。
これ、論語に出てくる「過則勿憚改」(過ちは憚らずすぐに改めなさい)というのが出典のようですね。

「さあらむ人をばえ思はじ(そんな人は好きにはなれないのさ)」というのは、前半(このブログでは直前の記事)で「なほ顔いと憎げならむ人は心憂し」(やっぱ顔がすごく不細工な人は苦手ではあるんだけどね)と彼が言ってたことを、指してるのでしょう。ブスは好きになってもらえないんだ、って気にしてる感じですね。清少納言、ルックスにかなりコンプレックスがあったようです。

旧暦三月、というと現代の太陽暦では、概ね4月の下旬~5月前半くらい。ですから、もう冬用の服だと暑いでしょうね。直衣(なほし/のうし)っていうのは、当時の男性のカジュアルウェア。

「つとめて」は早朝のこと。ちょくちょく出てきます。
朝の時間帯を表す語については「木の花は」の段でまとめてみましたので、ご参照ください。

「式部のおもと」です。これ、女房の名前(女房名)とかと同じです。
前に「小白河といふ所は①」でも書きましたが、女房の名は「~の式部さんとこの妹さん」「~~の少納言さんとこの娘さん」「~の乳母さん」「~~の衛門さんの娘さん」的に名前がつくられたようで、たとえば紫式部は、式部省の官僚であった父(もしくは親戚)がいたから、とか、和泉式部は父が式部丞だったから、とか、赤染衛門は、父が右衛門尉であったとか、まあいろいろです。

おもとというのは漢字で「御許」と書き、ご婦人とかお方を指すようですね。「~のおもと」で「~の方、~さま」というニュアンスになります。

なので、「式部のおもと」だと、「式部の方」「式部さま」ぐらいの感じでしょうか。

まさか仲がよろしくないと言われた紫式部ではないでしょうけどね。と言っても、実はこの二人は面識はない、とされています。紫式部が「紫式部日記」で清少納言を一方的にdisってはいるようですが。和泉式部とはまあまあ仲が良かったらしいけどこちらも同僚ではなかったですし、交流があったのはたぶん後年のこと。生年がわからないので、はっきりとしたことは言えませんが、紫式部は5~10歳ぐらい年下、和泉式部は10コぐらい下だったのではないかとのことです。

唐衣(からぎぬ)は、これまでにも何回か出てきましたが、十二単の一番上に着る丈の短い上着です。
汗衫というのは、これまでも女児の上着として出てきましたが、元々は汗取り用の下着だったそうですね。アンダーウェアだったわけですが、そのうち、それを女の子用の上着にするようになり、ひいては正式に女児用上着として作るようになった、ということらしいです。
今みたいにニット、つまりカットソーのプルオーバーの下着なんてないわけですから、前開きで一重のシャツジャケット的なもの、とイメージできますね。

宿直物は「とのいもの」と読むそうです。宿直の時に使った衣服や夜具などのことです。
几帳というのは間仕切りなんですが、T字型のフレームにカーテンみたいなの(帷)を掛けたものなのです。Tの縦棒は足(脚?)で2本あります。Tの上の横棒を手と言うそうです。これが土居という台に設置されてる感じです。

さてこの段のこの部分、どういう状況かよくはわからないんですが、宿直してた女房の部屋に、早朝、いきなり帝と中宮の夫妻がやってきたと。
しかし仮にも女子の寝室ですからね、そこに入ってくるのは、帝や中宮ならOKなんすか? 理由は「陣」の様子を見学? たぶん、気まぐれなんでしょうね。やりたい放題ですね、さすが帝。おそるべし。

橘則隆というのは、当時の蔵人の一人で、清少納言の夫だった橘則光の弟だそうです。行成は蔵人頭ですから、その部下の一人ですね。清少納言橘則光とはこの頃たぶんすでに離婚してます。たぶんですけど。その辺は専門家にお任せしたほうがいいですかね、はい。

しかし平安時代の貴族というのは、仕事とかおしゃべりをする間柄でありながら、顔をはっきりと見ない見せないという関係が成立していたわけですね。ちょっと不思議な感じはします。

清少納言藤原行成の微妙な関係。はたしてどうなるのか。次に続きます。

しかし長いです。あとちょっとだ。


【原文】

 物など啓せさせむとても、そのはじめ言ひそめてし人をたづね、下なるをも呼びのぼせ、局に来て言ひ、里なるは文書きても、みづからもおはして、「おそくまゐらば、『さなむ申したる』と申しに参らせよ」とのたまふ。「それ、人の候ふらむ」など言ひゆづれど、さしもうけひかずなどぞおはする。「あるにしたがひ、定めず、何事ももてなしたるをこそよきにすめれ」と後ろ見聞こゆれど、「我がもとの心の本性」とのみのたまひて、「改まらざるものは心なり」とのたまへば、「さて『憚りなし』とは何をいふにか」とあやしがれば、笑ひつつ、「仲良しなども人に言はる。かく語らふとならば、何か恥づる。見えなどもせよかし」とのたまふ。「いみじく憎げなれば『さあらむ人をばえ思はじ』とのたまひしによりて、え見え奉らぬなり」といへば、「げににくくもぞなる。さらば、な見えそ」とて、おのづから見つべき折も、おのれ顔ふたぎなどして見給はぬも、まごころに虚言(そらごと)し給はざりけりと思ふに、三月つごもりがたは、冬の直衣の着にくきにやあらむ、袍がちにてぞ、殿上の宿直姿もある。

 つとめて、日さし出づるまで式部のおもとと小廂に寝たるに、奥の遣戸をあけさせ給ひて、上の御前・宮の御前出でさせ給へば、起きもあへずまどふを、いみじく笑はせ給ふ。唐衣(からぎぬ)をただ汗衫の上にうち着て、宿直物も何もうづもれながらある上におはしまして、陣より出で入る者ども御覧ず。殿上人の、つゆ知らでより来て物いふなどもあるを、「けしきな見せそ」とて、笑はせ給ふ。

 さて、立たせ給ふ。「二人ながら、いざ」と仰せらるれど、「今、顔などつくろひたててこそ」とて、参らず。入らせ給ひて後も、なほめでたきことどもなど言ひあはせてゐたる、南の遣戸のそばの几帳の手のさし出でたるに障りて、簾の少しあきたるより黒みたる物の見ゆれば、則隆がゐたるなめりとて、見も入れで、なほこと事どもをいふに、いとよく笑みたる顔のさし出でたるも、なほ則隆なめりとて見やりたれば、あらぬ顔なり。あさましと笑ひさわぎて、几帳引きなほし隠るれば、頭の弁にぞおはしける。見え奉らじとしつるものをと、いと口惜し。もろともにゐたる人は、こなたにむきたれば顔も見えず。

 

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

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