枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。

大進生昌が家に①

 中宮大進の平生昌の家に、中宮(定子様)がお出ましになるっていうんで、東側の門は四つ足の門に改築して、そこから御輿がお入りになるのね。
 北の門から、お付きの女房たちの車は、警護スタッフがいないから、そのまま入れるだろうなと思ってて。だからヘアスタイルが決まってない人も、そんなにはセットしなくても、建物に車を付けて降りられるわ、ってあなどってたら、檳榔毛(びろうげ)の車みたいな大型車なんか、門が小さくって、つっかえてしまって入れなかったから、いつもの敷物(筵道)を敷いて降りなくちゃいけなくて、それ、すごく憎ったらしくて腹立ったんだけど、どうしましょ! 殿上人(幹部スタッフ)から一般のスタッフまで、詰所の側に立って見てるのも、すごく癪に障るんですよね!

 で、定子様の御前に参上して、事の次第を申し上げたら、「いくら気を遣わずにいいっていうこの屋敷にしても、人は見るものでしょ? どうしてそんなに気が緩んでたの?」ってお笑いになるの。
 「でも、それは知り合いばかりですから、すごくおしゃれにし過ぎてたら、かえって驚く人もいるでしょう。でも、これほどのお屋敷なのに車が入らない門があろうとは…。主人の生昌様がお見えになったら、笑いものにしてあげませんとねw」なんて言ってたら、生昌が「これを(中宮様に)差し上げてください」って、硯なんかを御簾に差し入れられたのね。
 「ちょっと、みっともないでしょう!? どうしてあの門はあんな狭く作ってらっしゃるんですか?」って言ったら、笑って、「家のサイズは、身の程に合わせてございますので…」と返答。「でもね、門だけ立派に作る人もいるでしょう?」って言ったら、「わ、怖わっ」って驚いて、「それは于定国のことでしょう? かつて中国の歴史や漢文の学問を学ばれた方でもなかったら、わかりそうもないことでございますよ。私はたまたまこの分野をやらせてもらったので、これくらいだったら理解はできてるんですけど」って言うのね。
 「そのお勉強も大したことないんじゃ? 門からは筵道を敷いて歩いて入ったんですけど、みんな、ヘコんだところにはまったりして、大騒ぎしたんですからね!」と言ったら、「雨が降ってましたので、そういうこともございますでしょう。はいはい、ほかにもおっしゃられてないこともおありでしょう…。ってことで、失礼いたします」って帰っていったんです。
 定子様からは「何事ですか、生昌がすごく怖がってたわね」とお聞きになったの。「いえいえ、車が入らなかったことを言っておりましたのですわ」って申し上げて、戻ってまいったのです。


----------訳者の戯言---------

まず、この段、訳し始めたんですけど、全然意味がわからなくて、頭に入ってこない。
なぜか。もちろんそもそもの私の理解力の無さという根本的理由はあるんですが、やはりこの話の背景がわかってないとどうも理解しがたいんですね。

で、まずはその背景を。

大進(だいじん/たいしん/たいじょう)というのは何?ということですが、これ、当時の役職の一つで、妃の世話を行うために設置された部署「中宮職」の官職の一つだそうです。で、この中宮大進をやってたのが平生昌(なりまさ)っていう人でした、と。そんな高い位ではないみたいですね。まあ、朝廷を会社に例えたら次長とか課長とかくらいのイメージでしょう。

枕草子を読もうという方ならならご存じだとも思いますが、そもそも、一条天皇中宮・定子の父というのは、摂政関白内大臣藤原道隆という人だったそうです。つまり、天皇に次ぐ権力者ですわね。が、この父が病気で亡くなった後、後を継ぐかと思われていたのが息子、つまり定子の兄の藤原伊周だったんですが、父・道隆の弟、つまり伊周の叔父・藤原道長と主導権争いをすることになってしまいます。
その結果、政争に敗れたのは藤原伊周のほう。失脚して大宰府への左遷が決まる、と。でも途中で病気の母がまだ残ってる京都に密かに戻るんですね。

で、このことを知って藤原道長に密告した人物の一人が、ここで登場する大進・平生昌という人なんだそうですね。

ということは、平生昌っていう男、元々は作者・清少納言が敬愛する定子の兄・藤原伊周の政敵・道長にヨイショするヤな奴だろうよっていうキャラですね。
で、平惟仲っていう兄もいるんですが、この人も嫌なタイプで、道隆の死後、中関白家(藤原道隆の家)が衰退するだろうなーという兆しを嗅ぎ取って、巧みに道長に取り入って、長徳2年(996年)には道長のスタッフとして権中納言に昇格、998年には中納言にまでなりました。
改元して長保元年(999年)には一条天皇中宮・定子の中宮職の長官である中宮大夫を兼務したんですが、落ち目の中関白家と関わるのが嫌だってことで、半年で辞任しています。権力に媚びへつらう非常に嫌ーな兄弟、なワケですね。

清少納言枕草子を書いたのは1000年頃と言われていて、この段の逸話があったのが999年だそうです。
そもそも清少納言が定子の元に出仕したのが、993年、27歳の時、一条天皇中宮であった定子はその時17歳。定子は13歳くらいで3歳年下の一条天皇に入内してますから、相当な早婚です。しかも天皇からしたら、ちょっとお姉さんなんですね。

聡明で活発な才女の清少納言。他方、定子は天皇のお気に入りのお妃様であり、心優しく聡明な美少女。清少納言は定子を敬愛し、定子も気鋭の私設秘書・清少納言に大きな信頼を寄せるという、相思相愛の関係にあったと見られているようですね。


そして、この段の話です。
これ、話としては宮(=中宮・定子)が出産のために平生昌の家に入るときのこと、なんですね。

今言うと大問題なのですが、当時は出産は「穢れ」ということで宮中では許されてなかったらしい。で、本来、実家に戻るというのが習わしだったそうなんですが、定子の実家は火事で焼失してしまってたそうです。政争で敗れた家ですからね。ま、このお話の時には兄たちは許されてはいたようなんですけど。実家は再建されてなかったんでしょう。

実は定子は、兄の藤原伊周が左遷させられるとなった時、一度出家してるんですね。

話が逸れるんですが、藤原伊周と弟の隆家ですが、ヤンチャというか、武闘派というか、自分の彼女を花山上皇一条天皇の先代)に寝取られたと誤解して襲撃したらしい。
もちろん、本人たちは否定したらしいですけどね。で、これを政争の具にされたわけです。ですから、伊周も悪いっちゃあ悪いんです。上皇に弓引いちゃダメでしょう、そりゃあ。自業自得ですね。脇が甘いです。

定子はお兄様たちのあおりをかなり食ってますね。このあたりから中関白家が没落したのも藤原伊周・隆家兄弟に原因大ありでしょう。

で、一条天皇が強く望んだとはいえ、いったん出家したのに再入内するというのは、異例中の異例。これは貴族たちからもかなり顰蹙を買ったらしくて、定子に対する風当たりも強かったようですね。

とまあ、そのような状況もあって、中宮職の長官でもなく「大進」っていう中途半端な役職の人の家での出産という事態になった、というのが、この段の前提です。

では、詳細。

檳榔毛(びろうげ)の車というのはビラビラで飾った、豪華仕様の大型車です。
筵道っていうのは筵(むしろ)、つまり敷物ですね。「上達部(かんだちめ)」はすでに何回か出てきましたけど、宮中の幹部たる貴族のことだそうです。

「于定国」というのは、「う ていこく」という中国の人だそうです。国の名前ではありません。この人の父は裁判が公平だったので有名になって、生きているうちから祠が作られるほどだったとか。で、住んでいる里の門を再建するときに、「門は立派な車も通れるように大きくしてほしい。私は公平な裁判で陰徳をつんでいるから、子孫が立派な車に乗れるくらい出世するだろう」と言ったそうです。という逸話。
「蒙求」という中国のことを学ぶ教科書的な本に出てくる「于公高門」という故事だそうです。もちろん当時この本は日本でも読まれてたらしい。

進士っていうのは、中国の歴史や漢文の学問、学科。今回のネタもそこそこの勉強をしてないとわからないでしょうね。

清少納言自身が「門だけをデカく作った」故事を知ってて、さらっと皮肉を言った小自慢。
平生昌をちょい怖がらせちゃったわ、早々に退散させちゃったヨという、快感、面白話。
生昌が「于定国」の名前を出して中途半端な知識自慢をしてきたことに対する嘲り、イジり。(もうちょっとスマートな言い方できへんのかいな!的な)

しかし、定子様はさすが寛大というか心優しいというか、さすがだわ!と礼賛。

というお話でしょうか。いやいや、この段まだまだ続きます。
長げーよ。


【原文】

 大進(だいじん)生昌(なりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。北の門より、女房の車どももまた陣の居ねば入りなむと思ひて、頭つきわろき人も、いたうもつくろはず、寄せて降るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びらうげ)の車などは、門小さければ、さはりてえ入らねば、例の、筵道(えんだう)敷きて降るるに、いとにくく腹立たしけれども、いかがはせむ。殿上人、地下なるも、陣に立ち添ひて見るも、いとねたし。

 御前に参りて、ありつるやう啓すれば、「ここにても、人は見るまじうやは。などかはさしもうちとけつる」と笑はせ給ふ。「されど、それは目なれにて侍れば、よくしたてて侍らむにしもこそ、おどろく人も侍らめ。さてもかばかりの家に、車入らぬ門やはある。見えば笑はむ」など言ふほどにしも、「これ参らせ給へ」とて、御硯などさし入る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。などその門、はたせばくは作りて住み給ひける」と言へば、笑ひて、「家のほど、身の程に合はせて侍るなり」といらふ。「されど、門の限りを高う作る人もありけるは」と言へば、「あな、おそろし」と驚きて、「それは于定国がことにこそ侍るなれ。古き進士などに侍らずは、承り知るべきにも侍らざりけり。たまたま此の道にまかり入りにければ、かうだにわきまへ知られ侍る」と言ふ。「その御道もかしこからざめり。筵道敷きたれど、みな落ち入りさわぎつるは」と言へば、「雨の降り侍りつれば、さも侍りつらむ。よしよし、また仰せられかくる事もぞ侍る。まかり立ちなむ」とて往ぬ。「何事ぞ、生昌がいみじうおぢつる」と問はせ給ふ。「あらず。車の入り侍らざりつること言ひ侍りつる」と申して下りたり。