枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

思はむ子を

(かわいいって)思うような子どもを僧侶にするなんてことは、まったく心苦しいものよ。ただ木っ端やなんかみたいに思われてるのは、すごく気の毒。精進料理のかなり粗末なものを食べ、居眠りするくらいのことでもね。

 若い僧侶は心惹かれるものも、めちゃくちゃあるだろうしね。女の子なんかがいるところだって、どうしてだか忌み嫌うみたいに、覗き見したりもしないのでしょ。そんなことだって、ごちゃごちゃ言われちゃうんだもの。
 ましてや、修行僧なんかはすごく苦しそう。疲れて眠り込んだりしたら、「居眠りばっかりして」なんてdisられちゃう。すごく窮屈だし、その辺どう思うんだろうね。

 でも、これは昔のことのみたい。今はもっと気楽な感じよね。


----------訳者の戯言---------

子どもを僧侶にするっていうのは、かわいそうだよ、って話ですね。
たしかにたいへんそうだ。今の仏教系大学の学生はまあまあ楽しそうですが。

ちなみに徒然草第一段には、この枕草子からの引用として次のように書かれています。

法師ばかり羨しからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。(お坊さんほどうらやましくないものはないね。『人には木っ端みたい思われるんだよ』と清少納言も書いてるけど、そのとおりさ)

吉田兼好自身が僧侶ですから。自虐です。

それでも子どもをお坊さんにしたい親というのはいつの時代にもいるようで、同じく徒然草第百八十八段に、ちょっとお説教臭いエッセイが収められていました。よろしければご一読ください。


【原文】

思はむ子を法師になしたらむこそ心苦しけれ。ただ木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進もののいとあしきをうち食ひ、寝ぬるをも。若きものもゆかしからむ。女などのあるところをも、などか忌みたるやうにさしのぞかずもあらむ。それをもやすからずいふ。まいて、験者などはいと苦しげなめり。困じてうち眠れば、「ねぶりなどのみして」などもどかる、いとところせく、いかにおぼゆらむ。

これはむかしのことなめり。今やうはやすげなり。