枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

月は

 月は、有明の月が東の山ぎわに細い形で出てる時が、すごくしんみりといい感じなの。


----------訳者の戯言---------

有明」というのは有明月。有明の月ですね。以前も書きましたが、夜が明けても残ってる月のことを言います。また、夜が明けても月が残ってる朝、それを「有明」と言ったりもします。

では清少納言の言うこの月は、実際いつ頃のどんな月なのか。
夜明け頃に山ぎわに見えた細い月というのは、所謂「明けの三日月」です。夕方に見える本当の三日月ではなく「旧暦二十七日前後の月」なんですね。
このように「有明月」というのは概ね、旧暦二十六日以降、夜明け(有明)の空に昇るものを言うようです。

が、広い意味で言うと旧暦十六日から朔日(ついたち)までの朝方に見える月の総称であったりもします。まじややっこしいですが、夜が明ける頃の月には違いないですからね。
月の後半の朝、つまり日の出の頃に、空が晴れていれば、西の空だろうが、南のど真ん中だろうが、東の空であろうが、どこかに月は出ているものです。それが有明の月だよと言われればそうかなぁと理解しておきましょう。


月に関して言えば、以前も書いたのですが、十六夜(いざよい)というのが私的にはなかなか好きな言葉です。これ満月の翌日の月なんですが、月の出というものは日を追うごとにおよそ50分ずつ遅くなっていくので、15日に比べると16日目は月が出てくるのを猶予う(いざよう=ためらっている)ようだとして「十六夜(いざよい)」となると。なかなか情趣のある言葉です。
で、それ以外にもいろいろあるんですね、月の名称表現というのは。ということで、少し書いてみます。

たとえば、十六夜の次の日、17日は「立待月(たちまちづき)」です。さらに月の出が遅くなって、「まだかなまだかなー」と立って待つからなのだそうですね。
19日はもっと遅くて、寝ながら待つから「寝待月(ねまちづき)」、20日目は夜も更ける頃なので「更待月(ふけまちづき)」とか言うらしいです。

というわけでして、清少納言的には「明けの三日月」、とくに完全に欠けて無くなり新月になる寸前の細い月、まさに消えかけているかのような儚げな姿の月が、しみじみ感があっていいのよね。と。


花鳥風月、雪月花などというように、日本では、月というのは太陽や星よりも愛でられる存在で、しかも暦のベースにもなっている有用なものでもありました。
それにしては意外とあっさりとしてますね、清少納言

一方かの兼好法師は、かなりの月好きであったようで、「徒然草」にも月について言及した文章がときどき出てきます。
第二十一段では「嫌なことがあっても月を見たら和むよね」と書いていますし、第三十二段では知人と夜明けまで月を見て歩くといったことをしていますしね。第百三十七段では、花は盛りだけ、月は雲がかかってないのだけがいいのかな?いやいや違うでしょ、みたいなことまで言及しています。さらに第二百十二段では「秋の月はこの上なく素晴らしくって、この違いがわからない人っていうのはまったく情けないよね」と言い切っているくらいです。やはり清少納言とは視点が違うのがわかります。

 

【原文】

 月は 有明の東の山際に細くて出づるほど、いとあはれなり。