枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

宮仕人の里なども①

 宮仕えしてる人の実家なんかも、親が二人とも揃ってるのはすごくいいの。人がしょっちゅう出入りして、奥の方でたくさんの人の色々な声が聞こえて、馬の音なんかして、すごく騒がしいくらいなんだけど、それは悪いことじゃないわ。だけど、ナイショにしてても、公然だったにしても、「実家に戻ってらっしゃるってコト、知らなかったし」とか、また「いつ宮中に戻って来られるの?」とかって、顔を出しにやってくる男子もいるのよ。

 好意を持ってくれてる男子なら、そりゃ来ないはずないわよね。門を開けたりしたら、やたらと騒がしくて大げさな感じになっちゃって、えー夜中までー??なんて、家の者みんなが思ってる様子。まったくもって気に入らないわ! (家人が)「門のカギはきっちりかけたの?」なんて聞いたら、「今はまだ客人がいらっしゃいますから」とかっていう使用人がちょっと迷惑そうな感じで返事するんだけど、(家人は)「じゃ客人がお帰りになったら、早く閉めて! この頃は盗人がめちゃくちゃ多いからね。火事も心配だし!!」なんて言うんだけど、かなり不快で。それ、聞いてる男子(彼氏??)だってまだいるんだからね!


----------訳者の戯言---------

大御門(おおみかど)というのは、初めは皇居の門のことを言いました。文字からしてそうですよね。ですが、そのうち、貴族や武士のお屋敷の門も、大御門というようになったんだそうです。

さて本題。
里帰り、実家に帰ってる女官の話です。当然ですがまあ、エエトコの子女ですね。
で、実家帰りしていても、男性が言い寄って来るんですね、モテモテの女の子のところには。
女心としてはうれしいんです。女子としては、想って実家まで来てくれる人をあんまり拒否りたくはない、というか、ロマンスの可能性あればウェルカムなんでしょうね。
なのに、親兄弟とか使用人とかは「えー深夜までいるのーめんどくせー」って感じなんですね。しかも、「お客さん帰ったら、とっとと戸締りしてね、盗っ人とか不審火とかコワイし~」って、お客さんからしたら、感じ悪っ!て思いますよ。

都(みやこ)の人ですからね、これ、わざと聞こえるように言ってませんか? 今、よく言われる「ぶぶ漬けでも」とか「お茶でも」っていうのと、ルーツは同じなのではないですか。
今の京都人をちょっと連想してしまいましたが。
そして②に続きます。


【原文】

 宮仕人(みやづかへびと)の里なども、親ども二人あるは、いとよし。人しげく出で入り、奥のかたにあまた声々様々聞こえ、馬の音などして、いとさわがしきまであれど、とがもなし。されど、忍びても、あらはれても、「おのづから出で給ひにけるをえしらで」とも、また、「いつか参り給ふ」など言ひに、さしのぞき来るもあり。

 心かけたる人、はたいかがは。門(かど)あけなどするを、うたてさわがしうおほやうげに、夜中までなど思ひたるけしき、いとにくし。「大御門(みかど)はさしつや」など問ふなれば、「今まだ人のおはすれば」などいふ者の、なまふせがしげに思ひていらふるにも、「人出で給ひなば、とくさせ。このごろ盗人、いとおほかなり。火あやふし」など言ひたるが、いとむつかしううち聞く人だにあり。

  

 

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)

  • 作者:清少納言
  • 発売日: 1962/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

女のひとりすむ所は

 女性が一人で住むところは、すごく荒れていて、屋根付きの築土塀とかだってカンペキに整ってなくて、池なんかあるところにも水草が生えてて、庭なんかも蓬が生い茂るっていうほどじゃないけど、ところどころ砂の中から青い草が見えて、寂しそうなくらいのほうが情緒があって素敵だわ! しっかりしてる感じで、体裁よく手入れが行き届いてて、戸締りは厳重にして、キッチリしてるの、逆にめっちゃキモッて思うのよね。


----------訳者の戯言---------

汚部屋女子。

築土(ついじ)というのは、屋根付きの土塀だそうです。
前に「人にあなづらるるもの」という段がありました。端的に言うと「人に馬鹿にされるもの」で、そこに「築土のくづれ」と出てました。
清少納言的には、築土塀が崩れてるのは、馬鹿にされるものではあると。しかしこの段では、女性の一人暮らしの場合はOKと? ややこしい人です。

むしろ女子の一人暮らしの場合は、荒れてて、ケア出来てない感じのほうが好ましいようですね。
逆にあんまりキッチリしてる女子はアカンらしいです。ちょっと抜けてるくらいのほうがいい、ということでしょうか。ま、それも一理はあるんですけれどもね。なんか疲れるしーということですか。
想像ですが、もしかすると清少納言自身、苦手だったのかもしれません、整理整頓とか。自己正当化?

というわけで、「汚部屋女子」ですが、「メシマズ女子」とどっちがいいか?という究極のアンケートをしたところ、「メシマズ女子」の方がまだマシとした男子が88%だったらしいです。
清少納言的には気に入らないと思いますが、現実はそういうもんですよ。


【原文】

 女の一人住む所は、いたくあばれて築土(ついひぢ)なども全(また)からず、池などある所も水草ゐ、庭なども蓬に茂りなどこそせねども、ところどころ砂(すなご)の中より青き草うち見え、さびしげなるこそあはれなれ。ものかしこげに、なだらかに修理(すり)して、門(かど)いたく固め、きはぎはしきは、いとうたてこそおぼゆれ。

六位の蔵人などは

 六位の蔵人なんかは、こんなコト、心に思い描くべきもんじゃないわよね。
 ……五位に叙せられて、どこかの国の権の守(ごんのかみ)や、大夫(たいふ)とかに…っていう人が、板葺きの狭っくるしい家を持って。また、小檜垣(こひがき)なんていうのを新しくしてね、駐車場には牛車を止めて、その前の近くに一尺(約30cm)ほどになる木を植えて、牛を繋いで草なんか食べさせるの、全然ダメダメだわよ。
 庭をすごくキレイに掃いて、紫色の革で伊予簾を掛け渡して、布障子を張らせて住んでるのね。夜は、「門をしっかり閉めといて!」なんて指示してるの、全然将来性も感じられなくって、気に入らないわ。

 親の家、舅(嫁の実家)はもちろんのこと、叔父や兄なんかの住まない家、そういう適当な人がいないなら、自然とできた仲のいい、気心の知れた受領が任国に行ってる間、空く家、それもなければ、院や皇女のお子様たちの空いてるお屋敷がたくさんあるんだから、そこに仮に住んだりしてね、いい官職を得るのを待ってから、いつの間にかいいお屋敷を探しあてて、そこで暮らしてる、っていうのがいいのよ。


----------訳者の戯言---------

六位の蔵人(六位蔵人)というのは「めでたきもの」にも書きました。
五位の蔵人(五位蔵人)の次の位で、普通は五位まで昇殿が許されるんですが、蔵人だけは六位でも殿上に上ることが許されてたので、「殿上人」と呼ぶことができました。特別扱いだったというか、天皇の側近として名誉な職とされていたのです。

ただ、六位の蔵人(六位蔵人)になると、その後は6年経つとほぼ自動的に五位にはなるものの、蔵人の定員オーバーで「蔵人の五位」という存在に実質的には降格する人もいました。そうなると、それまでは殿上人だったのが、「地下人(じげにん)」になってしまうんですね。その辺については「説経の講師は①」の解説部分にも書いていますのでご参照いただければと思います。
もちろん、五位の蔵人(五位蔵人)になる人もいたでしょうし、地方の国司の守(受領等)になる人もいたでしょうし、蔵人の五位(=大夫)に甘んじてた人もいたのでしょう。
この段では、そういう、六位の蔵人を経て、「五位」になった人のことを言ってるようですね。

小檜垣。檜垣というのは、檜 (ひのき) の薄板を網代 (あじろ) に編んでつくった垣根のことだそうですが、これの小っちゃい版かなと思います。

紫革は紫色の皮革で、伊予簾(いよす)は伊予産の篠竹で編んだ上等のすだれ。インテリアに高級品を使ってたんでしょうね。

障子というのは、当時は襖(ふすま)、衝立、屏風などの総称だったようですが、おおむね襖障子のことを言ったようです。さらに白布を張りつけた襖障子のことを、布障子と言ったようで、墨絵が描かれているものが多かったらしいです。これも高級品なのでしょう。

院は、言うまでもなく上皇、前の天皇のことです。
宮腹とは、皇女の子として生まれることだそうですね。要するに、帝の娘の子どもたちです。

というわけで。
六位蔵人というのは、名誉ある将来有望な職業なわけです。なのに、こじんまりとした家建てて、外構を小ぎれいにして、ちっちゃいガレージにミニバンとか置いて、プチ高級インテリアなんか飾って、その割に小心で、戸締りちゃんとやっとけ、とか小うるさい感じなの、やーね。ガレージにミニバン、は違いますが。

せっかくいい感じのエリートコースだったのに、器小さすぎ!と、disっているのでしょう。
たしかに。わからなくもないです。

そんなチマチマするよりさ、親兄弟とか親戚とか知り合いとか、他にもいいお屋敷いっぱいあるでしょうに、そういうとこで暮らしながら、もっと上をめざしましょ! で、いい官職GETして、ステキな豪邸見つけて、いつの間にか住んでる!っていうのがいいのよねー。いかしてるよねー。
と、清少納言的庶民からの成り上がり方美学。ほんまか。


【原文】

 六位の蔵人などは、思ひかくべきことにもあらず。かうぶり得てなにの権の守、大夫などいふ人の、板屋などの狭き家持たりて、また、小檜垣(こひがき)などいふもの新しくして、車宿りに車引き立て、前近く一尺ばかりなる木生(お)ほして、牛つなぎて草など飼はするこそいとにくけれ。

 庭いと清げに掃き、紫革して伊予簾かけわたし、布障子(ぬのさうじ)はらせて住まひたる。夜は「門(かど)強くさせ」など、ことおこなひたる、いみじう生ひ先なう、心づきなし。

 親の家、舅はさらなり、をぢ、兄などの住まぬ家、そのさべき人なからむは、おのづから、むつまじくうち知りたらむ受領の国へいきていたづらならむ、さらずは、院、宮腹の屋あまたあるに、住みなどして、官(つかさ)待ち出でてのち、いつしかよき所尋ね取りて住みたるこそよけれ。

 

 

女は

 女なら、内侍典(ないしのすけ)。内侍。


----------訳者の戯言---------

内侍典(ないしのすけ)というのは、内侍司(ないしのつかさ)という役所の典(すけ)。次官です。

内侍司というのは、帝の近くに侍って、勅旨(帝のお言葉)を官人などに伝えたり、宮中の礼式等を司ったりした、女性だけの役所です。天皇の秘書役とも言うべき重要な役職で、ここのスタッフにはインテリで有能な女性が多く任命されたようですね。 幹部にはもちろん、摂関家など家格の高い家の子女が任命されました。

長官は尚(かみ)、次官は典(すけ)、第三等官は判官(じょう)と言いました。
ここで清少納言が最初に出してきたのは、次官の典(すけ)ということなんですね。
別の表記として、尚侍(かみ/ないしのかみ/しょうじ)、典侍(すけ/ないしのすけ/てんじ)、掌侍(じょう/ないしのじょう/しょうじ)というのもあります。意味は同じで、ものによってはこう書かれている場合も多いです。

元々、内侍尚=尚侍(ないしのかみ)はこの役所のトップで、帝の奏請・伝宣(直接お言葉を賜って伝える仕事)はこの尚侍だけが仰せつかっていた仕事だったそうです。つまり、直接、帝のお側に侍るオシゴト。で、次第に尚侍というポストは后妃的な存在になっていったらしいです。ま、すぐ側にいるということは、そういうことか。
それで有名無実化したというか、そんなら、まどろっこしいことせずにダイレクトに后妃になればいいじゃん。というわけでしょうか、実際、平安後期以降、内侍尚は任命されてないらしいです。

で、本当のお役所仕事、つまり実務は、内侍典=典侍(ないしのすけ)がやるようになりました。この役所の実質的な管理職トップとなったわけですね。

が、またもや。
典侍も后妃的な存在、つまり側室の一人になっていくんですね。どういうこと? やっぱ、近くで働いてるとそういうことになるのね。やらしいわね。というか、帝の「お相手をする」、あるいは場合によっては「側室となる」ことも「お役目」であった、とするほうが正しいのかもしれません。
実際のところ、典侍や権典侍以外にも掌侍(権掌侍)、命婦までは手をつけられることはそこそこあったらしく、側室にもなったらしいです。帝ですからね、そういう女官も、場合によっては女官以外でも望めばまあまあ好きにできていたのでしょうね。

で、まじめな話。平安中期以降は、典侍=側室というのも、半ば公然のことになっていったようです。
清少納言の頃は、実質的な実務トップ→側室に移行する、そのちょうど過渡期に差しかかる頃だったのではないかと思います。

実際、明治天皇までは側室がいらっしゃいました。そしてそれは、公にはやはり典侍という女官の形をとっていました。明治天皇の皇后にはお子様ができず、大正天皇の生母は早蕨典侍(さわらびのすけ)、本名は柳原愛子という方だったそうです。やはりこの方のほかにも何人かの典侍(権典侍)もいたそうですね。

大正天皇より今に至る天皇陛下まではもちろん一夫一婦で、側室はいません。このことが、皇位継承問題を複雑にしている、という視点もありますが、それを語り出すと行数がとんでもないことなるので、別の機会に。

というわけで、結局、内侍司の上位2つのポストは后妃化しました。長官は任命自体がなくなり、次官は側室の代名詞にもなっていくわけです。
そして、後年にかけて、本当に実務をちゃんとやるのは、内侍司の判官=掌侍(ないしのじょう)ということになるのです。このポジションにある人は、実際に実務をしっかりやったらしいですね、当時は。(もちろん、帝に気に入られると手をつけられることはあったらしい)定員は正官4名、権官2名の計6名。もちろん才能のある人が多かったようです。
この掌侍(ないしのじょう)は、カミとかスケとかジョウとかは付けずに単に「内侍(ないし)」とも呼ばれていました。

清少納言の言うとおり、女性がその能力を発揮する仕事というと内侍!というのも、妥当だったのかもしれません。


【原文】

 女は 内侍のすけ。内侍。

 

 

法師は

 法師というと。律師。内供(ないぐ)。


----------訳者の戯言---------

律師というのは、徳が高く人々から慕われる僧侶に対する尊称としても使われたそうですが、僧侶の位の名前でもあります。僧正が最高位、その次が僧都なんですが、さらにそれに次ぐ位が律師だそうですね。僧位(僧階)っていうのは、そもそも徳や学識に応じて与えられたものらしいですが…。

まず、最高位の僧正(そうじょう)。最初は一人だったそうですが、まもなく複数となり、大僧正とか権僧正とかの階級ができ、数が十数人とかになったらしいです。従二位相当だったとか。朝廷で言うと左大臣、右大臣クラスですから、かなりのポジションです。
次の僧都(そうず)も同じで、律令制の位階で言うと正三位に相当する役職です。これもはじめは定員一人だったらしいですが、まもなく複数となり、大僧都権大僧都少僧都権少僧都などもできたそうです。正三位というのは、大納言に相当する位ですから、これまたかなりの高位ですね。

しかし、みんなどんだけ肩書とかポストが好きなんや!って話ですよ。お坊さんなのに。

で、律師に戻ります。先にも書いたとおり僧都のさらに次です。五位にも相当するクラスだそうですね。この階位でも貴族と同じレベルということですね。律令制における五位は、前段でも書いたとおり、殿上に上る資格もある、所謂、貴族。大夫(たいふ)とも言われた階位でした。つまり律師も結構高いクラスの、まずまずの高僧だと位置づけられそうですね。たぶん、ですが、僧正とか僧都とかは、ほとんどおじさんやおじいちゃんだったんでしょうけど、律師はまあまあ若い人だったんではないでしょうか。キラキラした若き高僧に、清少納言も注目したのだ、と思うのですが、いかがでしょう?

ちなみに、藤原道隆の四男、定子の弟で法名を隆円と言った人は、「僧都の君」と言われました。たしか、まだ十代ぐらいで若かったと思います。やはりセレブリティの子弟は、お坊さん業界でも昇格が早かったんでしょうかね。

おおむね今は、僧階というのは僧籍を得てからの年数で昇格していくそうです。修行の年数ということではあるらしいんですが。けど何か年功序列的な印象も少しあります。何だかなー。

しかも、ですよ。宗派、大学によって多少違うようですが、だいたい、仏教系の大学なんかでそれなりの教科を履修すると、大卒で「権大僧都」とか、大学院卒で「大僧都」とか、高校卒や専卒だと「権少僧都」というふうに、僧階が決まってくるらしいです。
仏教系大学の仏教系学部に入ると、普通に僧都にはなれるんですね。そんなもんか! めっちゃカンタン~。

律師というと、昔は貴族レベルでしたが、むしろ今は下っ端です。高校卒や専卒時点で律師よりも上なんですから。大学入ったらすぐ1年で僧都なんですから。清少納言も嘆くことでしょうね。

さて、続いて。
内供(ないぐ)というのは、内供奉(ないぐぶ)のことを短縮形で言ってます。
内供奉は、宮中の内道場に仕えて、御斎会 (ごさいえ) という法要の時に読師を勤めたそうですね。内道場っていうのは宮中の仏教修行所で、内寺とも言ったらしいです。
また、加持祈祷(かじきとう)のため、僧侶が夜間、貴人のそばに付き添うのを当時は夜居(よい)と言ったんですが、天皇の夜居を勤めたのも、この内供奉だったそうですね。

現代に生きる私たちからすると、御所の中で仏教行事をやる、ということ自体、違和感はあるんですが、それはさておき、内供奉は10人いて十禅師とも呼ばれたそうです。諸国から高僧が選抜されたということですから、ま、仏教界の最高峰、ドリームチームというところでしょうか。そりゃあ素敵だったんでしょうね。

ただ、清少納言は、「説経の講師は①」でも、お説教を聞くなら顔がいかしてるお坊さんがイイ!みたいなこと書いてましたし。信心は浅いし、ミーハーっぽいところもあるんですよ。ほんま、見かけとか、肩書きとか、大好きなんでね。悔い改めてほしいですね。


【原文】

 法師は 律師。内供(ないぐ)。

 

枕草子 いとめでたし! (朝日小学生新聞の学習読みもの)

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  • 作者:天野慶
  • 発売日: 2019/09/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

大夫は

 大夫(たいふ)は……。式部の大夫。左衛門の大夫。右衛門の大夫。


----------訳者の戯言---------

大夫(たいふ)というのは、五位以上の男性官吏のことを言います。一種の敬称です。
「上達部は」の段で出てきた「春宮の大夫」のような官職としての「大夫」は「だいぶ」と読みます。単に五位を意味する場合には、先にも書いたとおり「たいふ」と濁らないんですね。ややこしいな。すぐ忘れそうです。

式部の大夫(たいふ)は、式部省の第三等官である丞(じょう)で五位に叙せられた人のことを言うのだそうですね。
本来は六位相当の三等官の「丞」なんですが、式部省は朝廷の中でも重要性の高い役所だったこともあって、特別に従五位下に叙せられるケースがしばしばあったとか。で、それ、かっこいいわ~ということなのでしょう。

左衛門と右衛門は、それぞれ左衛門府右衛門府という役所です。平安宮には当然ですが塀があり門――陽明門、朱雀門もなど、いくつかあったんですが、さらに内側に役所の建物やお屋敷、当然帝のおはします「内裏」もありました。衛門府は、この大内裏の門の内外の警備を司ったそうです。

その左衛門府右衛門府の第三等官、尉(じょう)=判官(じょう)は、従六位下正七位上が相当だったわけですが、この尉に特別に五位の人がなった場合、あるいは尉が特別に五位の位階を得た場合、「左衛門大夫」「右衛門大夫」と敬意をもって呼んだ、ということらしいですね。つまり、この二つもいかしてる、ということなんでしょう。

ということで、次第に大夫は五位の通称となっていったらしいです。少し前に書きましたが、五位というのは、貴族かどうかのボーダーラインでもあります。で、「大夫」はさらに転じて身分のある人へ敬称、または人の名前の一部として使われるようにもなったというわけですね。
五位は貴族の位の中ではいちばん下ではありましたが、一般の武士や庶民にとっては、名誉なことでしたから、正式な五位ではなくても、名誉ある称号として、大夫(太夫と書くことが多い)を使うようになったのだそうです。呼び方としては、だいたい今は「たゆう」と言います。

今でも、社長!とか、大先生!とか、師匠!とか言う昭和時代のおじさんいるでしょう? それに似ていますか? ちょっと違いますか。

神社の神主さんのことも太夫と言いますし、たとえば、江戸時代に、浄瑠璃では竹本義太夫という有名人もいました。義太夫節とかいうのも、浄瑠璃ですよね。そのほかにも、江戸時代の遊郭や花街で、トップクラスの遊女、芸妓にナントカ太夫という人がよく出てきます。ドラマとかで。あれもこの流れで名付けられたんですね。

今の花街に太夫という人はいなくなったそうですが、唯一、京都の島原(今は下京区西新屋敷)の「輪違屋(わちがいや)」というお茶屋さんには、今も芸妓さんの上位としての太夫がいらっしゃるそうです。浅田次郎の「輪違屋糸里」という小説の舞台になったところですね。この小説の主役は後年「桜木太夫」になった糸里という女の子なんですが、話自体はフィクションのようです。桜木太夫は実在した人だそうですが。
1年ぐらい前に映画化もされたと聞きましたが、見逃しました。前に上戸彩主演でドラマ化もあったようなんですが、それもちょっと見逃しましたね。機会があれば見てみたいと思います。

また、話がそれました。

女官の場合、五位以上の人に対しては、大夫でなく「命婦(みょうぶ)」と言います。つまり、女性を「太夫」と呼ぶのは、そもそもが違うのです。というのは、言いがかりですね。転じての用法ですから、別にいいんです。
そういえば、「うへに候ふ御猫は」という段で「命婦おとど」という名前の猫が出てきたのを思い出しました。一条天皇が可愛がったらしいですが、殿上に上がるには原則、位階「五位以上」というのが条件でしたから、この猫さんに五位を与えたんですね。しょうもないジョークですけど。一条天皇もまだ二十歳すぎぐらいのお子ちゃまでしたから、許してあげましょう。

と、いうわけで、「大夫」ベスト3発表でした。これ、当時はそれなりにおもしろかったのでしょうか。


【原文】

 大夫は 式部の大夫。左衛門の大夫。右衛門の大夫。

 

 

権の守は

 権の守(ごんのかみ)でいいのは…。甲斐。越後。筑後。阿波。


----------訳者の戯言---------

さて、国司、特にその長官である守(かみ)の権官「権の守」です。
上達部は」の段でも書きましたが、藤原氏をはじめとして、大臣経験者のいるセレブリティの子どもたちは、一定の年齢になると、その実力とは別に、自動的に官位が与えられるのが普通でした。けれど、官職には定員があって、権官というポストを増やしていったというんですね。
で、国司の「権の守/権守」の場合には実際に国守を補佐する人、単に名目上だけのものもあったらしいです。

ひとつ前の段にも書きましたが、実際には地方に赴任せず、都にいたままの国司の守もいたようですね。これを「遙任」と言いました。で、代わりにナンバー2の「権守」が受領として活躍(蓄財?)したこともあったようです。ここはその例なのでしょう。

甲斐は今の山梨県、越後は新潟県筑後は福岡県の南部、阿波は徳島県です。
甲斐といえば甲斐路というブドウです。越後は越後製菓のかきもち、おせんべいですね。高橋英樹の。筑後はよくわかりませんが、久留米とかが含まれるらしいところです。ラーメンですか? 阿波は阿波踊りですが、食べ物では、すだち、阿波尾鶏という鶏、鳴門金時、徳島ラーメンも好きですし、大野海苔の味付海苔、最近は「すだち練りとうがらし」も絶品です。と、ここだけやたら詳しいのは、実は私、徳島県の出身で、書きすぎましたね。すみません。

しかし。
この4つの国がなぜピックアップされてるのかいまいちわかりません。当時は国が、大国、上国、中国、小国に分けられてて、ここに書かれているのはいずれも上国に属する国ではあります。ですが、上国は全国に35もありましたし、都からの近さとか広さもバラバラなので、そのメリットが不明なんですよね。
知り合いが行ったんですか? 個人的なイメージですか? 清少納言も、何でなのか書いといてくださいよー、と思います。


【原文】

権の守は 甲斐。越後。筑後。阿波。