枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

五月ばかり、月もなういと暗きに①

 五月頃、月もなくてとても暗い夜、「女房はいらっしゃいます?」って大勢の声で言ってたもので、定子さまが「出てって見て来て。いつもと違って、あんな大声で言ってるのは誰なのかしら?」っておっしゃるから、「その声は誰ですか? すごく大げさで目立ちまくってるのは?」って言ったの。すると、何にも話さず、御簾を上げて、カサカサッと、差し入れてきたのは、呉竹だったのね。「あれれ、この君だったのね」って私が言ったのを聞いて「さてさて、これをすぐ殿上に行って報告しよう!」って、式部卿の宮の源中将と、他の六位蔵人たちが来てたんだけど、帰って行っちゃったのよね。

 頭の弁(藤原行成)はそのまま留まっていらっしゃったの。「不思議なんだけど、みんな行っちゃったよ。御前の庭の竹を折って、歌を詠もうとしてたんだけど、『同じことなら、職の御曹司に参上して、女房たちを呼び出してね』って来たんだけど、呉竹の名をめちゃくちゃ早く、すぐに言われて、退散しちゃったのはかわいそうだね。いったい誰の教えを聞いて、人が普通知りようもないようなことを言うのよ?」なんておっしゃるから、「竹の名前だなんてこと知らないのに。失礼だって思われたのかしら?」って言ったら、「ほんとに、それ、知らなかったんだろうかなぁ??」なんておっしゃるのよね。


----------訳者の戯言---------

呉竹。竹の一種。別名、淡竹(はちく)。葉が細かくて、節が多い。庭などに植えたそうです。清涼殿の前庭にも植えてあったらしいですね。呉(ご)というのは昔の中国の国名の一つです。歴史上は何回もできたりなくなったりしたようですね。呉越同舟の呉ですね。中国から来た竹ということなのでしょう。

「この君」というのは竹のことなんだそうです。竹の別名なんですね。よくわかりませんが。
と思って調べたら、中国の故事でした。中国晋代の書家・王子猷の書に「一日不可無此君=何ぞ一日も此の君無かるべけんや」というのがあるそうです。王子猷は竹をものすごく愛していたらしく、「此の君無しでは1日も暮らせない」という意味で書いたそうです。

頭の弁(藤原行成)はもう登場しすぎですね。またお前かよ、という感じです。
行成が清少納言の見識、知識の深さを褒めると、「え、そんなこと知らなかったわ」と、わざとらしく謙遜する清少納言。行成、清少納言アネキのことを好きすぎるんでしょうかね。それをまたまんざらでもないような感じでいなす清少納言。まあ、微笑ましいといえば微笑ましいし、またも小自慢かよと思えばそうだし。という話でした。

これを踏まえた上で?②に続きます。


【原文】

 五月ばかり、月もなういと暗きに、「女房や候ひ給ふ」と声々して言へば、「出でて見よ。例ならず言ふは誰(たれ)ぞとよ」と仰せらるれば、「こは誰(た)そ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」と言ふ。ものは言はで御簾をもたげて、そよろとさし入るる、呉竹なりけり。「おい、この君にこそ」と言ひたるを聞きて「いざいざ、これまづ殿上に行きて語らむ」とて、式部卿の宮の源中将、六位どもなどありけるは往(い)ぬ。

 頭の弁はとまり給へり。「あやしくても往ぬる者どもかな。御前(ごぜん)の竹を折りて、歌詠まむとてしつるを、『同じくは職(しき)に参りて女房など呼び出できこえて』とて来つるに、呉竹の名をいととく言はれて往ぬるこそ、いとほしけれ。誰(た)が教へを聞きて、人のなべて知るべうもあらぬ事をば言ふぞ」など、のたまへば、「竹の名とも知らぬものを。なめしとやおぼしつらむ」と言へば、「まことに、そは知らじを」など、のたまふ。

 

 

マンガでさきどり枕草子 (教科書にでてくる古典)

マンガでさきどり枕草子 (教科書にでてくる古典)

 

 

頭の弁の、職に参り給ひて② ~さて、逢坂の歌はへされて~

 そのあと、逢坂の歌には圧倒されて、返歌もできないままになっちゃったの。かなりダメよね。「でさ、あの手紙は殿上人がみんな見ちゃったんだよね」っておっしゃるから、「ほんとに私のことを思ってくれてたんだって、それを聞いてよくわかりましたよ♪ 素晴らしいことを人に伝えないのは、やりがいが失せちゃうもんだもの。でも反対に、見苦しい歌は拡散しちゃうと辛いでしょうから、あなたのお手紙はきっちり隠して、他人には絶対見せてございませんわよ! ってね、私たちお互いを思いやる気持ちを比べたら、まさにおんなじでしょ?」って言ったら、「そんな風にものごとをよく解ってるみたいに言うのが、やっぱ他の人とは違うって思うんだよね。『よく考えもしないで、まずいことしてくれちゃったわねぇ』なんて、普通の女子みたいに言うのかな、って思ってたよ」なんて言って、お笑いになるもんだから。「それは何で? こっちが喜びの気持ちを言いたいくらいですよ!」とか言ったのね。
 「私の手紙を隠してくださってるって、それもまたやっぱりしみじみ、うれしいことなんだよね! (そうじゃなかったら)どれだけ憂鬱で辛かっただろう?? これからも、そんな感じでお願いしたいですかね…」なんておっしゃって、その後、(源)経房の中将がお越しになって、「頭の弁があなたをすごく褒めていらっしゃるのを知ってます? 先日の手紙に、あったことなんかを書いていらっしゃってて。わたしの好きな人が、人に褒められるのは、とてもうれしいんですよね」なんて、真面目におっしゃるのも、気分がいいわね。
 「うれしいことが二つになってね! 彼が褒めて下さったのに加えて、あなたが好きな人の一人に入れてもらえてるなんて!」って言ったら、「それ、珍しがって、今初めて聞くみたいに喜ばれるんだね!?」なんておっしゃるのよね。


----------訳者の戯言---------

経房(つねふさ)の中将というのは、源経房という人のことらしいです。お姉さんが藤原道長の奥さんです。てことは、後の権力者・道長の義理の弟。定子の兄伊周をはじめ、実家・中関白家としてはライバル関係にあたるはずですが、意外とこの頃は中関白家にも近かったようです。

清少納言のモテモテ自慢、続きます。行成に続いて、源経房もですか。源経房は、「御仏名のまたの日」にも登場。笙の笛が上手かったらしい。「里にまかでたるに①」にもちらっと出てきます。

というわけで、男子たちの出してくるちょっかいに対して、リップサービスも交えながら余裕の対応をする清少納言、という図式。
ま、これも、一種の自慢話なんですけれども。


【原文】

 さて、逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。「いとわろし。さて、その文は、殿上人みな見てしは」とのたまへば、「まことにおぼしけりと、これにこそ知られぬれ。めでたきことなど、人の言ひつたへぬは、かひなきわざぞかし。また、見苦しきこと散るがわびしければ、御文はいみじう隠して、人につゆ見せ侍らず。御心ざしのほどをくらぶるに、ひとしくこそは」といへば、「かくものを思ひ知りていふが、なほ人には似ずおぼゆる。『思ひぐまなく、あしうしたり』など、例の女のやうにや言はむとこそ思ひつれ」など言ひて、笑ひ給ふ。「こはなどて。よろこびをこそきこえめ」などいふ。「まろが文を隠し給ひける、また、なほあはれにうれしきことなりかし。いかに心憂くつらからまし。今よりも、さを頼みきこえむ」などのたまひて、のちに、経房の中将おはして、「頭の弁はいみじう誉め給ふとは知りたりや。一日の文に、ありしことなど語り給ふ。思ふ人の人にほめらるるは、いみじううれしき」など、まめまめしうのたまふもをかし。「うれしきこと二つにて、かのほめ給ふなるに、また、思ふ人のうちに侍りけるをなむ」といへば、「それめづらしう、今のことのやうにもよろこび給ふかな」などのたまふ。


検:頭の弁の、職に参りたまひて

 

枕草子 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)

枕草子 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)

  • 作者:長尾 剛
  • 出版社/メーカー: 汐文社
  • 発売日: 2018/11/21
  • メディア: 単行本
 

 

頭の弁の、職に参り給ひて①

 頭の弁(藤原行成)が、中宮職の庁舎に参上されて、私とお話しなんかなさってたんだけど、そのうち夜もすっかり更けてしまったの。「明日は御物忌だから、籠ってないといけないし、丑の刻にまでなったらまずいだろうなー」って、宮中に参内なさったのね。

 早朝になって、蔵人所の紙屋紙(かうやがみ/かんやがみ)を重ねて、「今日は心残りがすごくある気がするのね、オールナイトで昔の話をして夜を明かそうかなって思ってたんだけど、ニワトリの鳴き声に催促されちゃって」って、すごくたくさんの言葉をお書きになってるの、立派な文字の書面でね。ご返事として、「すごく夜の深い時間帯に鳴いたニワトリの声は孟嘗君のやつかしらねぇ??」って差し上げたら、折り返しで「『孟嘗君のニワトリは、函谷関を開いて、三千の食客がかろうじて逃げ去ることができた』ってあるけど、これは逢坂の関のことですよ」って返事が来たから、

「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関はゆるさじ(夜が深いうちにニワトリの鳴き真似をして騙そうとしても、逢坂の関は絶対に通させないでしょうね!)
…しっかりとした関守がいますからね」

って差し上げたの。すると、またすぐに返事があって、

「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか(逢坂は人が越えやすい関だから、ニワトリが鳴かなくても関の戸を開けて待つっていうんですよね)」

って書いてきた手紙を、いちばん最初のは僧都の君(隆円)がすごく額を摺り付けるように拝み倒して自分のものになさったの。で、後の二つは定子さまの手元に収められたの。


----------訳者の戯言---------

頭の弁=藤原行成も、すでに何度も登場しましたのでおなじみですね。少し前にも「頭の弁の御もとより」で、清少納言にしょーもないプレゼント(?)を送ってきた彼です。

丑の刻というのは、今で言うと午前2時を中心とする約2時間で、真夜中です。テレビ番組で言うと、深夜アニメや海外ドラマ、ローカルのエンタメ情報番組、TVショッピングなどをやっている結構深い時間帯ですね。と言っても、まだまだこれからーっていう人も多いでしょう。朝まではまだまだたっぷり時間あります。でも次の日、御物忌なんでねー、そろそろ行かないとねー、って感じです。

紙屋紙(かうやがみ)というのは、朝廷の機構の一つとしてあった図書寮に付属する紙すき所「紙屋院」で漉かれた紙だそうです。つまり、国立の製紙工場で作った紙、というような意味でしょうか。

孟嘗君(まうさうくん/もうしょうくん)は中国の戦国時代の政治家。名将とされているようで戦国四君の一人とも言われています。

ここでの故事は、彼が秦の追手から逃れようとしていた時に、夜中に国境の函谷関までたどり着いたんだけど、関は夜間は閉じられてて、朝になって鶏の声がするまでは開けないルールだったそうです。で、孟嘗君の部下(食客というらしい)の一人が物真似の名人だったらしく、名乗り出て、ニワトリの鳴きまねをすると、それにつられて本物のニワトリも鳴きはじめたと。これで開けられた函谷関を抜けて、秦を脱出することができたというものです。

「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」という故事成語がありまして、「つまらない才能」とか「つまらない特技でも、何かの役に立つ」という意味なんですが、このことから来てたんですね。ふわっとしか知らなかったので勉強になりました。

ちなみに「狗盗」っていうのは、犬のようにすばしっこい泥棒のことのようです。この関を越える前に、実はもう一つ事件があったらしいんですね。孟嘗君は秦に幽閉されていたんですが、秦王の寵愛する侍女(寵姫)が欲しがった白い狐の毛皮を、犬のように盗みがうまい者(これも食客の一人)に盗ませて、この寵姫に贈ることによって釈放を許された、と。で、この二つ、ニワトリと犬を合わせて「鶏鳴狗盗」というわけです。

逢坂の関。京都と滋賀県の大津の間の逢坂山にあった関所です。昔だと山城国近江国の国境です。畿内の東端という位置付けだったらしいです。「逢ふ」という言葉と掛かっている名称のため、男女のめぐり逢いを示唆したり、この関を越えることが男女の結ばれる意味をあらわしたりもするようですね。

僧都の君」は隆円という人で、藤原道隆の四男、中宮定子の弟です。「無名といふ琵琶の御琴を」に出てきました。

結局のところ、藤原行成の書いたすばらしい筆跡の手紙を手にしたのは、僧都の君=隆円と定子でした。

「今日は残りおほかる心地なむする。夜を通して、昔物語もきこえあかさむとせしを、にはとりの声に催されてなむ」
の書は、定子さまの弟(僧都の君=隆円)がゲト。

「『孟嘗君のにはとりは、函谷関を開きて、三千の客(かく)わづかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり」
「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか」
この二つの手紙は、中宮定子に渡されたとのことです。

さてこの段、斉信に続いて行成。清少納言のモテモテ自慢ですか?

「ニワトリの鳴き声がしたからー」とか彼が言ってきたから、「それ、孟嘗君の部下がニワトリの鳴きまねしたやつー?」と軽く返したら、「いやいやそっちの関じゃなくて、逢坂の関(男女交際)の話なんだけど」とちょっかいを出してくる行成、しかし「鳴きまねをしても逢坂の関は絶対に通させないだろうし。だってしっかりとした関守がいるから」(何かちょっかいだしてきても、私ガード固いんだからねー)と清少納言、これに対して行成の返事は「いえいえ逢坂の関なんてのは簡単に通れるのよ、ニワトリが鳴かなくっても開けて待ってるんだから!」と。

なお清少納言の詠んだ「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関はゆるさじ」は小倉百人一首に撰入されています。

さて、このやりとりの顛末は??
②に続きます。


【原文】

 頭の弁の、職に参り給ひて、物語などし給ひしに、夜いたうふけぬ。「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなむ」とて、参り給ひぬ。

 つとめて、蔵人所の紙屋紙(かうやがみ)ひき重ねて、「今日は残りおほかる心地なむする。夜を通して、昔物語もきこえあかさむとせしを、にはとりの声に催されてなむ」と、いみじうことおほく書き給へる、いとめでたし。御返りに、「いと夜深く侍りける鳥の声は、孟嘗君(まうさうくん)のにや」と聞こえたれば、たちかへり、「『孟嘗君のにはとりは、函谷関を開きて、三千の客(かく)わづかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり」とあれば、

  夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ

心かしこき関守侍り」と聞こゆ。また、たちかへり、


  逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか

とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、取り給ひてき。後々のは御前に。

 

新編日本古典文学全集 (18) 枕草子

新編日本古典文学全集 (18) 枕草子

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1997/10/24
  • メディア: 単行本
 

 

故殿の御ために② ~わざと呼びも出で~

 わざわざ呼び出したりして、会う度に「何で私とマジで親密に語り合ってくださらないのかな? さすがに私を嫌いだと思ってるわけじゃない、ってことはわかってるんだけど、すごく疑問に思ってるんだ。こんなに何年も経ってる懇意の知人同士が、よそよそしいままの関係で終わるってことないんじゃない? 私が殿上なんかに日中いないことになったら、あなたとのこと、何を思い出にしたらいいんだろうよね?」っておっしゃるから、「もちろん、それは難しいことじゃないんだけど、もしそうなっちゃった後には、あなたをお褒めすることができなくなるのがヤなんですよね。帝の御前なんかでも、自分の役目だと思ってあなたをお褒め申し上げてるのに、どうしてそんな関係になっちゃうことなんてできます?? ただ、私のことをお想い下さってればうれしいんです。だって、もしそんな仲になっちゃったら、バツが悪くって、自分の悪い心も前面に出てきちゃって、あなたのコト、良く言うこともできにくくなっちゃうでしょうからね!」って言ったら、「どうしてだよ?? それだけ親密な人が、他人の評判以上に褒めるケースだってあるだろうにさ!!」っておっしゃるもんだから、「それ、憎ったらしく思わなけりゃいいんですけどね。私は、男でも女でも、親密な関係の人を大切に思って、贔屓にしたり、褒めたり、人がちょっとでも悪いことを言ったら腹を立てたりするのって、情けなく思えるのよ」って言ったら、「頼りがい無いよなあ」っておっしゃるの、すごくおもしろいわね。

 

----------訳者の戯言---------

やはり、①からの流れから、頭の中将、藤原斉信との関係を描きました、清少納言
藤原斉信、グイグイ来てますが、彼女的には、いやいや、そういう関係になっちゃうと正当な評価として、あなたのことを褒めることもできなくなるしー。とかわします。

意外とマジメというか、こんなモテモテ男前のエリートに言い寄られて、どうしてそれほどまでにクールに、スクエアに対応できるのか?清少納言。プレイボーイに弄ばれるのを嫌ったのか、実は男性としては好みではなかったのか、いろいろ想像はできますが、書いてるのは後日なわけですから、やはり結果的に何も無かったのだろうと私は推察します。
もったいない。もったいないオバケ(死語)が出ますぞ。

よくあるのが、会社とかで自分の彼女(愛人)とかを優遇するオヤジ。あ、昭和のドラマですね。まあ、そこまでじゃなくても、そういう関係になると、感情が邪魔をして公平な評価ができにくくなるの、やっぱよくないんじゃね。って言ったら、「いやー、それ、キミ的には認められないんだー」って言うしかない男。けどま、そんな反応の彼もおもしろいんだけどね、と余裕です。

そう、この段は乙女じゃなくて、あえてクールを装うキャリア女性という役どころを選ぶ清少納言、と言うのが妥当かと思います。


【原文】

 わざと呼びも出で、逢ふ所ごとにては、「などか、まろを、まことに近く語らひ給はぬ。さすがににくしと思ひたるにはあらずと知りたるを、いとあやしくなむおぼゆる。かばかり年ごろになりぬる得意の、うとくてやむはなし。殿上などに明暮なき折もあらば、何事をか思ひ出にせむ」とのたまへば、「さらなり。かたかるべきことにもあらぬを、さもあらむ後には、えほめたてまつらざらむが口惜しきなり。上の御前などにても、やくとあづかりて、ほめ聞こゆるにいかでか。ただおぼせかし。かたはらいたく、心の鬼出で来て、言ひにくくなり侍りなむ」といへば、「などて。さる人をしもこそ、よそ目(<よそ>め)より他(ほか)にほむるたぐひあれ」とのたまへば、「それがにくからずおぼえばこそあらめ。男も女も、けぢかき人思ひ、方(かた)引き、褒め、人のいささかあしきことなどいへば腹立ちなどするが、わびしうおぼゆるなり」といへば、「たのもしげなのことや」とのたまふも、いとをかし。

 

新版 枕草子 下巻 現代語訳付き (角川ソフィア文庫 (SP33))
 

 

故殿の御ために①

 今は亡き道隆さまのために毎月10日、定子さまはお経や仏像などをご供養なさってたんだけど、9月10日には職の御曹司(中宮職の庁舎)でそれを行われたの。上達部や殿上人がとてもたくさんいてね。清範(せいはん)が講師で、そのお説法がまあ、すごく悲しい内容だったから、特別ものごとの無常観と深くは関わってないような若い女房たちでさえ、みんな泣いてしまったの。

 このイベントが終わって、お酒を飲み、詩を朗誦したりしてたら、頭の中将の(藤原)斉信の君が、「月秋と期して身いづくか(月は秋になると美しく見られるけど、それを愛でた人はどこに行ってしまったたんだろう)」っていう歌を詠われたのが、とてもとても素晴らしかったわ。どうして、そんな歌を思い出されたのかしら。

 定子さまがいらっしゃるところに、人をかき分けて参上したら、立ち上がっていらっしゃって、「素晴らしいわね。ほんと、今日のためにって特別に用意して詠ったんでしょうね」っておっしゃるから、「まさにそれ、申し上げようって、見物も途中でやめて参上したんですよ! 私もやはり!すごくいい素晴らしい歌だって思いました」って申し上げたんだけど、「あなたは、なおさらそう思ってるんでしょうね」っておっしゃるの。


----------訳者の戯言---------

清範(せいはん/しょうはん)は、当時の清水寺別当、トップだった僧侶だそうです。文殊の化身と言われてたり、説教の名手でもあったらしいです。
ちょうど、「今年の漢字」が発表される時期で、毎年清水寺貫主(住職)が揮毫するんですが、今の住職が森清範という人で、偶然同名のようですね。ちょうどこの記事を書いてるのが「今年の漢字」の発表の日で、ニュースで見ました。でなければ、貫主の名前など知らなかったでしょうからね。(ちなみに『2019年の漢字』は『令』でした)
いや、どうでもいいネタなんですが。

斉信の君が詠ったという「月秋と期して身いづくか」の歌は菅原文時という人の作だそうです。菅原道真の孫らしいですね。
下のような漢詩で、「和漢朗詠集」に収められています。

金谷醉花之地    
花毎春匂而主不歸 
南樓嘲月之人
月與秋期而身何去
(金谷に花に酔ふ之地、花春毎に匂ふて主帰らず、南楼に月を嘲つ之人、月秋と期して身いづくにか去る)

上にも書きましたが、4行目の「月與秋期而身何去」を書き下すと「月秋と期して身いづくにか去る」という風になります。
意味は「月は秋になると美しく輝くけど、それを愛でた人はどこに行ってしまったんだろう??」という感じです。これが、すごくよかったよねーと、中宮定子と清少納言が共にベタ誉め、となりました。

で、最後に言った「あなたは、なおさら~~」っていうのは、その詠った本人があのステキな頭の中将、斉信さまだからでしょ、っていう含みがあるようです。たぶん。

というわけで、②に続きます。

はっきり言って、漢詩とかやめてほしいですね。出典とか意味を調べるのが結構たいへんなんですよー。


【原文】

 故殿の御ために、月ごとの十日、経、仏など供養(くやう)せさせ給ひしを、九月十日、職の御曹司にてせさせ給ふ。上達部、殿上人いとおほかり。清範、講師にて、説くこと、はたいとかなしければ、ことにもののあはれ深かるまじき若き人々、みな泣くめり。

 果てて、酒飲み、詩誦しなどするに、頭の中将斉信の君の、「月秋と期して身いづくか」といふことをうち出だし給へりし、はたいみじうめでたし。いかで、さは思ひ出で給ひけむ。

 おはします所に、わけ参るほどに、立ち出でさせ給ひて、「めでたしな。いみじう、今日の料に言ひたりけることにこそあれ」とのたまはすれば、「それ啓しにとて、もの見さして参り侍りつるなり。なほいとめでたくこそおぼえ侍りつれ」と啓すれば、「まいて、さおぼゆらむかし」と仰せらる。

 

 

などて、官得はじめたる六位の笏に

 「どうして官位を得たばかりの六位の人の笏(しゃく)に、職の御曹司(中宮職の庁舎)の東南の隅の屋根付き土塀の板を使ったんでしょ?? それなら、西や東の板も使ったらいいのにー」なんてことを言いだして、
「つまんないことをイロイロねー。着る物とかにいい加減な名前なんかをつけるのは、とっても変! 着物の中で『細長』っていうのは、ま、そう言ってもいいわ。でも何ですか!!『汗衫(かざみ)』は『尻長』って言いなさいよ!」
「男の子が着てるみたいにね♡ でもどーゆーこと!? 『唐衣』は『短衣(みじかきぬ)』って言いなさいよね!!」
「てか、あれは外国の人が着るものだからねー」
「『袍(うへのきぬ)』とか『上の袴』は、ま、そう言ってもいいでしょう。『下襲(したがさね)』もまあOK。『大口』も長さよりは口が広いから、それでいいかしらね!」
「『袴』はすごくつまんない。『指貫』はどうしてそう言うの? 足の衣、って言うべきでしょ! もしくは、ああいう物は袋って言いなさいよねー」
なんて、いろんなことを言い争って、ののしり合ってて、「ああ、もう、うるさいわねー。今はいいわ。寝ましょうね」って言ったら、それに応えて、夜居の僧が「それは全然よろしくございません。やはり一晩中でも語りつくしなさいませ!!」って、怒り口調で声高に言ったのは、おもしろいってことに加えて、ビックリもしちゃったわ。


----------訳者の戯言---------

笏(さく/しゃく)というのは、束帯のとき威儀を正すために持ってた長さ1尺2寸 (約 40cm) の板状のもので、ドラマとか昔の絵とかでも見たことあるやつです。「こつ」ともいうらしい。

職の御曹司は何度も出てきていますが、中宮職の庁舎のことです。

築土(ついひじ)は築土塀(ついじべい)のことだそうです。この築土塀というのは屋根付きの土塀でした。

着るものの名前に難癖つけたりして面白がってる感じですね。
何でチョッキがベストやねんとか、ズボンのことをパンツっていうの、どうよ?みたいな。
ジャンパーなの?ジャケットなの?ブルゾンなの?ブレザーなの?とかね。
TシャツとポロシャツはまあいいけどYシャツはどうかな?とか。
アンクルはOK、サブリナもOK、的な。あるいは、フレアーはフレアーでいいけど、ギャザーはちょっと、みたいな。etc.

言いたいこと、言いまくってます、女房たち。根拠のない、言いがかり、みたいなやつですね。今でも全国の社員食堂や休憩室、飲み屋さんとかで、交わされてる他愛もないおしゃべり的な、非建設的な会話。確かにつまらないネタも多いですが、面白いのも結構あったりします、はい。私も嫌いではありません。

夜居の僧(よいのそう)というのは、「はづかしきもの」の段にも出てきました。「夜居」は加持祈祷(かじきとう)のため、僧侶が夜間、貴人のそばに付き添っていることをこう言ったそうです。「はずかしきもの」では、「目覚めがいい夜居の僧」っていうのは、こっちが恥ずかしくなるくらい立派すぎ、というニュアンスでした。

で、最後は、もうええわー、やめさせてもらうわー。となるんですが、すると、突然登場の夜居の僧の謎のダメ出し。たしかにびっくりしますわ。

で、もう一つびっくりなのが、あの、聖徳太子が持ってるような「笏」を屋根付き土塀のどこかから調達した板で作るということ。なぜに? そんなリサイクルみたいなことするんですか? もっと立派なものだと思っていたのに。


【原文】

 「などて、官得はじめたる六位の笏に、職の御曹司の辰巳の隅の築土(ついひぢ)の板はせしぞ。さらば、西東(ひんがし)のをもせよかし」などいふことを言ひ出でて、「あぢきなきことどもを。衣などにすずろなる名どもをつけけむ、いとあやし。衣のなかに、細長はさも言ひつべし。なぞ、汗衫は尻長といへかし」「男童(をのわらは)の着たるやうに、なぞ、唐衣(からぎぬ)は短衣(みじかきぬ)といへかし」「されど、それは唐土の人の着るものなれば」「袍(うへのきぬ)、うへの袴は、さもいふべし。下襲よし。大口、またながさよりは口ひろければ、さもありなむ」「袴、いとあぢきなし。指貫は、なぞ、足の衣とこそいふべけれ。もしは、さやうのものをば袋といへかし」など、よろづの事を言ひののしるを、「いで、あな、かしがまし。今は言はじ。寝給ひね」といふ、いらへに、夜居の僧の、「いとわろからむ。夜一夜こそ、なほのたまはめ」と、にくしと思ひたりし声高(こはだか)にて言ひたりしこそ、をかしかりしにそへておどろかれにしか。

 

枕草子(上) (講談社学術文庫)

枕草子(上) (講談社学術文庫)

 

 

頭の弁の御もとより

 頭の弁(藤原行成)のところから、主殿司(とのもりづかさ)が絵みたいなものを、白い色紙に包んで、梅の花がきれいに咲いたのに付けて持って来たの。絵なんだろうかな?って急いで受け取って見たら、餅餤っていうものを2個並べて包んでたのね。添えられてた立文には、解文(げもん)の書式で、

進上 餅餤一包
例に依て進上如件(しんじょうくだんのごとし)
別当 少納言殿

って、月日を書いて、「みまなのなりゆき」名義で最後に「この男は自ら参上したいと考えてはいるんですが、昼はルックスがイケてないってことで参上しないようです」って、すごくきれいな字で書いていらっしゃるの。
 定子さまのところに参上してお見せしたら、「すばらしい字で書いてあるわね。おもしろくできてるじゃない」なんてお褒めになって、解文はそのままお取りになったのね。「返事はどうしたらいいでしょう? この餅餤を持って来た時には、使いに褒美なんかを取らせるんでしょうか。知ってる人がいればいいんですけど」って言ったら、それをお聞きになって、「(平)惟仲(これなか)の声がしてたわね。呼んで聞きなさいよ」っておっしゃるから、部屋の端に行って、「左大弁(平惟仲)にお話ししたいんです」って、侍に呼ばせたら、すごくきちんとした服装でやって来たの。
 「違うの、私用なんです。もしかしたら、この弁や少納言なんかのところに、このようなものを持って来る下部(しもべ)とかに、何か渡したりすることがありますか?」って言うと、「そういうことはしなくても大丈夫です。ただ受け取って食べるだけですよ。どうしてそんな事をお聞きになるんです? もしかして、上官の誰かからお貰いになったんですか?」と聞いてきたから、「どうでしょう??」って答えて、(頭の弁への)返事をすごく赤い薄様の紙に「自分で持ってこないで下部に持って来させるのは、とっても冷淡だと思われてしまいますわよ」って、立派な紅梅に付けてお送りしたら、彼がすぐにいらっしゃって、「下部が参りました、下部が参りました」っておっしゃるから、出てったら、「あのような手紙ですから、適当に歌を詠んで送ってこられると思ってたら、本当にイカした文章が書かれてました。女子でちょっとでも自分には教養があると思ってる人たちは歌を詠みたがるんですよね。でもそうでない女性のほうが話しが通じるんです。私なんかに歌を詠んで送ってくる人は、かえって無粋なんですよ」なんておっしゃるのよ。
 「則光とか成康?みたいだなって笑って終わった、そのことを、彼が帝の御前に人々が大勢いた時にお話しになったら、『上手いこと言ったもんだなぁ』って帝もおっしゃってましたよ」って、後で他の人が私に教えてくれたの。みっともない自慢話でしかなくて笑っちゃうんだけどね。


----------訳者の戯言---------

頭の弁。以前も出てきましたが、藤原行成のことです。頭というのは蔵人頭のこと。弁(弁官)というのは、朝廷の最高機関「太政官」の事務官僚で四位五位相当の官だそうです。この二つを兼任しているのが「頭の弁」で、当時この任に就いていたのが、三蹟の一人、能筆家としても有名な藤原行成です。「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて①」に登場、清少納言とじゃれ合うかのようにやりとりを交わした年下の多才なインテリ、エリートでもあります。

主殿司(とのもりづかさ)は、天皇の車、輿輦、帷帳に関すること、清掃、湯浴み、灯火、薪炭なんかをつかさどる役所の職員です。

餅餤(へいだん/べいだん)は、中国から来た唐菓子で、鵝(がちょう)や鴨の子、雑菜などを煮合わせたものを餅で挟んで四角く切ったものだそうです。これ、お菓子でしょうか? どっちかというと、サンドイッチとかハンバーガーとか、あるいは肉まんとか、そういう感じのものな気がします。
少し前の段「正月に寺にこもりたるは④」にも書きましたが、昔は食事以外の食べ物を「菓子」と言ったんですね。果物とか木の実とか。ですから、餅餤のようなスナック的なものも菓子なのでしょう。

「立文(たてぶみ)」というのは、書状の形式の一つで、書状(本文を書いた書面)を「礼紙(らいし)」という別の紙で巻き包み、さらに白紙の包み紙で縦に包み、余った上下を裏側に折るものです。正式で儀礼的な書状の包み方らしいですね。

解文(げもん/げぶみ)というのは、元々は解(げ)とも言い、律令制度において、下の役所から上の役所に出す公式な文書だそうです。

「みまなのなりゆき」は架空の人物の名前です。藤原行成がこれウケるやろな、と狙って書いたわけですが。
任那というのはご存じのとおり、6世紀頃朝鮮半島にあった国の名前です。
「なりゆき」は行成をひっくり返しただけですね。例えば福山雅治という名前の人が、「りゅうきゅうはるまさ」とか「そびえとはるまさ」とか名乗ってウケようとする感じですか。違いますか。そもそもそんなのでウケませんし。寒いだけですし。
ちなみに任那帰化人は古事記の中で「額有角人」とされているそうです。知識人の間では、任那=角のある人という共通イメージもあったのかもしれませんね。もちろん、本当に角のある人がいたわけではありません。
先ほどの例で言うと「いっかくはるまさ」「アルミラージはるまさ」とかでもいいんですが、こうなるともはやワケがわからなさすぎて、ツッコミようもなくなります。

平惟仲は「大進生昌が家に①」に出てきた平生昌の異母兄です。「訳者の戯言」にも書きましたが、なかなかの曲者のようですが、この頃はすでに50代。ベテラン公卿という役どころだと思います。そもそもは俊才だったそうで、この人は「寛和の変」という政変の裏で暗躍した人でもあります。後に道長に近づいたようですが、元は道隆派の一人でした。「寛和の変」について詳しくは「小白河といふ所は④」にあります。この人はこの人でいろいろなドラマがあるようですね。

則光は橘則光です。清少納言の元夫で兄妹のように付き合っているという男性ですね。「里にまかでたるに」という段にメインで登場しました。この段の顛末、「里にまかでたるに④」をご覧いただくとおわかりいただきやすいかもしれません。

「なりやす」は「成康」という人のことらしいですが、詳しいことはわかりませんでした。「雪国」の人(ノーベル文学賞)ですか? はい、つまらないのでスルーでいいです。
しかしまじで成康って誰?と思います。藤原でも源でも平でも橘でもありません。大江も小野も該当なしです。「成安」名でも見当たりません。まあ、そういう、和歌とか送られても…っていう「橘則光」的な人がいたんでしょう。

で、この返事の何がそんなに良かったのかというと、とっさに「餅餤」に「冷淡」で返したのがイカしてる、ということらしい。「へいだん」と「れいたん」のダジャレなんですが、機転が利く、アドリブが上手い、という評価なのでしょうか。しかもそれを自慢? 私の、というか現代のセンスでは全然ダメですね。
ただ、あの三蹟の一人の藤原行成が、結構しょーもないことしてた、というほうがおもしろかったです。それはなかなかよかったです。


【原文】

 頭の弁の御もとより、主殿司、ゑなどやうなるものを、白き色紙につつみて、梅の花のいみじう咲きたるにつけて持て来たり。ゑにやあらむと、急ぎ取り入れて見れば、餅餤(べいだん)といふ物を二つ並べてつつみたるなりけり。添へたる立文には、解文(げもん)のやうにて、

進上 餅餤一包
例に依て進上如件
別当 少納言殿

とて月日書きて、「みまなのなりゆき」とて、奥に、「このをのこはみづからまゐらむとするを、昼は形わろしとてまゐらぬなめり」と、いみじうをかしげに書い給へり。御前(ぜん)に参りて御覧ぜさすれば、「めでたくも書きたるかな。をかしくしたり」などほめさせ給ひて、解文は取らせ給ひつ。「返り事いかがすべからむ。この餅餤持て来るには、物などや取らすらむ。知りたらむ人もがな」といふを、きこしめして、「惟仲(これなか)が声のしつるを。呼びて問へ」とのたまはすれば、端に出でて、「左大弁(=惟仲)にもの聞こえむ」と侍して呼ばせたれば、いとよくうるはしくして来たり。「あらず、わたくし事なり。もし、この弁、少納言などのもとに、かかる物持て来る下部(しもべ)などは、することやある」といへば、「さることも侍らず。ただとめてなむ食ひ侍る。何しに問はせ給ふぞ。もし、上官のうちにて得させ給へるか」と問へば、「いかがは」といらへて、返り事をいみじう赤き薄様に、「みづから持てまうで来ぬ下部はいと冷淡なりとなむ見ゆめる」とて、めでたき紅梅につけて奉りたる、すなはちおはして、「下部候ふ。下部候ふ」とのたまへば、出でたるに、「さやうのもの、そらよみしておこせ給へると思ひつるに、美々しくも言ひたりつるかな。女の少し我はと思ひたるは、歌よみがましくぞある。さらぬこそ語らひよけれ。まろなどに、さること言はむ人、かへりて無心ならむかし」などのたまふ。「則光、なりやすなど笑ひてやみにしことを、上の御前に人々いとおほかりけるに、かたり申し給ひければ、『よく言ひたり』となむのたまはせし」とまた人の語りしこそ、見苦しき我ぼめどもをかし。

 

春はあけぼの (声にだすことばえほん)

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