枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

二月、官の司に

 二月に太政官の庁舎で、定考(こうじょう)っていうことをするようなんだけど、どんなことなのかしら。孔子肖像画なんかをお掛けしてお祀りするらしいんだけどね。聡明って言って、帝にも中宮さまにも、奇妙な形のものなんかを器に盛って差し上げるの。


----------訳者の戯言---------

「定考」というのは、文字を転倒して「こうじょう」と読むらしいです。「じょうこう」と読むと「上皇」と音がおんなじなので、ひっくり返したっていうんですね。昔の人の考えることはよくわかりませんね。まあ、どっちでもいいんですが。

「定考」は実は8月にあったらしいです。何か昇進する候補者を選んだそうですね。2月にあったのは、候補者を集めて大臣とかが面接みたいなのをした「列見」というもののようです。どっちがどうなのか、よくわからないんですが、清少納言もよくわからないのでしょう。清少納言ともあろう人が、そんなことあるのかと思いますが、この段、なんか怪しいんですよね。

定考について調べてみたんですが、孔子の絵を掛けて祀ったっていうようなことは見当たらないんです。「聡明」というのもどうもよくわからない。奇妙なものを天皇中宮に差し上げたようですが、よくわかりません。行き詰まりです。

で、ネットで「枕草子 聡明 孔子」と検索したところ、この段のいろいろな現代語訳がありました。さすがgoogle先生。拝見したところ、どうやら「釈奠」という行事の供え物が「聡明」だということらしいです。

「釈奠(せきてん/しゃくてん)」というイベントはたしかにあり、「孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式のこと」とウィキペディアにありました。当時、2月と8月の上旬の丁(ひのと)の日に、大学寮で孔子やその10人の弟子の肖像を掛けて祭った儀式だそうで、どうも彼女、この2月の「釈奠」もごっちゃになってるようですね。「定考」と「列見」と「釈奠」が混ぜこぜになってます。

で、「聡明」というのは「釈奠」の時に供える鹿や猪の肉・米・餅などのことだという訳や注釈は多いんですが、これについては結局、裏付けがとれませんでした。「孔子肖像画を掛けて祀る」イベントで「聡明」というものを差し上げる、ということは、実は枕草子にしか書かれてないようなんですね。
なので、はっきりとはしないわけです。ごぞんじの専門家の方がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいと思っています。お願いします。

結局、わかったようなわからないようなモヤモヤ感のある段ですね。そもそも清少納言が、適当なことを書いているわけで、これで解れと言われても、困りますよ。しっかりしてよー、と言いたいですね。1000年も前の人に今さら言っても仕方ないんですが。


【原文】

 二月、官の司に定考(かうぢやう)といふことすなる、何事にかあらむ。孔子(くじ)などかけたてまつりてすることなるべし。聡明とて、上にも宮にも、あやしきもののかたなど、かはらけに盛りてまゐらす。

 

 

七日の日の若菜を

 正月七日の日の若菜を、六日に人が持ってきて騒いで、取っ散らかしたりしてたら、見たこともない草を子どもが取ってきたのを、「これは何て言う草なの?」って聞いたら、すぐには答えないで、「さぁ??」なんて、お互いに顔を見合わせて、「耳無草(みみなぐさ)って言います」って言う子がいたから、「なるほどー、だから聞いても知らない顔をしてたのね」って笑ったら、またとってもかわいい菊が生え始めたのを持ってきたから、

つめどなほ耳無草こそあはれなれあまたしあればきくもありけり
(いくら摘んでもやっぱ耳無草は可哀想なものだよ、たくさんの草花の中には聞く耳を持った“菊”もあっただろうにね)

って言ってやりたいけど、またこんなジョークも子どもたちには分からないでしょうね。


----------訳者の戯言---------

正月七日に若菜を食べるというイベントです。今は七草がゆとか言いますが、あれですね。元々は古代中国のものらしく、七種の若菜を羹(あつもの/熱く煮た吸い物)にして食べると邪気を払い、年中無病でいられるという俗信があって、その辺から由来するもののようです。

もちろん日本でも古くは飛鳥時代からこの風習はあったらしいし、平安時代も続いていたようです。今も似たようなのがあるくらいですから、ずっと続いてるのでしょう。
正月七日には宮中の行事で「白馬の節会」というのがあるんですが、これは公式行事。「七日の日の若菜」はもっと一般に広く行われてたんでしょうね。
この段でもそんな風な書き方がされていますが、「若菜摘み」は、野外での遊楽でもあったようですね。七草というのは今も、せり、なずな、ごぎょう、はこべ、ほとけのざ、すずな、すずしろ、なんですが、これは昔から変わってないようです。栄養分、薬効もあって、お正月におせち料理で胃に負担のかかったところで、胃を休めたり、栄養のバランスを正すという意味もあるようで、所謂「生活の知恵」的なものとして続いている側面もあるようです。

さて、実際には「ミミナグサ」は「耳無草」ではなくて、「耳菜草」と書くそうで、短い毛の生えた柔らかそうな葉の形をネズミの耳に例えてこう呼んだそうですね。食べられる草、すなわち菜なので「耳菜草」という名前になったようです。で、清少納言がそれを知っていたのか、知らなかったのかはわかりませんが、「耳無草」だったら聞こえないんじゃん! 対して、「聞く」ことができる「菊」!!!どーだっ!って面白話にしようとしたんですね。

ん?そんな話なの? …ま、そんな感じです。
しかし今回の相手は、子ども。掛詞なんて子どもには理解できませんし、オヤジギャグやアメリカンジョークも通じません。ましてや和歌自体興味なしです。HIKAKINやはじめしゃちょーなら子どもにウケるんですけどね、絶対。ま、平安時代なのでYouTubeは無いんですけどね。


【原文】

 七日の日の若菜を、六日人の持て来さわぎ、取り散らしなどするに、見も知らぬ草を子供の取り持て来たるを、「何とかこれをばいふ」と問へば、とみにも言はず、「いさ」など、これかれ見あはせて、「耳無草となむいふ」といふ者のあれば、「むべなりけり。聞かぬ顔なるは」と笑ふに、またいとをかしげなる菊の、生ひ出でたるを持て来たれば、

  つめどなほ耳無草こそあはれなれあまたしあればきくもありけり

と言はまほしけれど、またこれも聞き入るべうもあらず。

 

図説 王朝生活が見えてくる! 枕草子 (青春新書インテリジェンス)

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  • 出版社/メーカー: 青春出版社
  • 発売日: 2015/07/02
  • メディア: 新書
 

 

九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の

 九月の頃、一晩中明け方まで降った雨が、今朝は止んで、朝日がすごく鮮やかに射しはじめたんだけど、庭の植え込みの露がこぼれるほどに濡れかかってるのがとっても素敵な感じ。透垣(すいがい)の羅文(らもん)や軒の上なんかに張り巡らした蜘蛛の巣が破れて残ってるのに雨がかかったのが、白い玉を貫いてるみたいに見えるのは、すごく風情があっていいのよね。

 少し日が高くなると、萩なんかがすごく重たそうになってて、露が落ちると枝が揺れ動いて、人が手を触れもしないのにさっと上の方に跳ね上ったりするのも、とってもおもしろい…って、言ってきた色々なことが、他の人の心には全然おもしろくないんだろうかななぁ、って思うのが、またおもしろいのよね。


----------訳者の戯言---------

旧暦9月ですから、今の10月くらいの気候です。ちょうど気候のいい時ですね。

原文の「けざやかに」というのは、「けざやかなり」=「はっきりしている。きわだっている」の連用形です。

透垣(すいがい)というのは、板か竹で、少し間をあけて作った垣のことだそうです。羅文(らもん)は、立蔀や透垣の上部に、細い木や竹を二本ずつ菱形に組んで飾りとしたものをこう言ったそうですね。

清少納言、最後のところで、まどろっこしいことを書いてますが、自分が「おもしろい」って感じてるいろいろなことを、他の人たちは「全然おもしろくない」って思ってる、それがまたいいのよね。と、そういう状況を楽しんでいるようです。着眼点が独特、つまり、目のつけどころが違うでしょ、とのアピールでもあり、表現者としての矜持としては、アリかと思います。


【原文】

 九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前栽の露はこぼるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。透垣の羅文(らもん)、軒の上などは、かいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに雨のかかりたるが、白き玉を貫きたるやうなるこそ、いみじうあはれにをかしけれ。

 少し日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、枝うち動きて、人も手触れぬに、ふと上(かみ)ざまへあがりたるも、いみじうをかしと言ひたることどもの、人の心にはつゆをかしからじと思ふこそ、またをかしけれ。


検:九月ばかり夜一夜降り明かしつる雨の

 

日本の古典をよむ(8) 枕草子

日本の古典をよむ(8) 枕草子

 

 

関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて② ~中納言の君の~

 中納言の君が、誰かの命日っていうことで、神妙にお勤めをなさってたんだけど、「その数珠を、ちょっとの間、お貸しください。お勤めをして、(関白殿みたいに)立派な身の上になりたいものですから」って借りようとしたら、女房たちは集まって笑うんだけど、それでもやっぱりそれ(道隆さまにあやかるの)ってすごくすばらしいことよね。定子さまがお聞きになって、「仏様になったなら、父(関白殿)にあやかるよりいいでしょうに」って、微笑んでいらっしゃるのがまた素敵だなって、そのご様子を見させていただいてたの。大夫殿(道長)がひざまずかれたことを、何度も何度もお話し申し上げたら、「例のあなたの大好きなあの人ですものね」ってお笑いになったけど、まして、もしこの後の彼の出世をご覧になったとしたら、なるほど当然のこと、ってお思いになったでしょうね。


----------訳者の戯言---------

おわかりの方も多いと思いますが、中納言の君というのは、男性でなく、清少納言の同僚の女房だそうで、実は前に一度登場しています。
ねたきもの」という段だったんですが、急ぎの縫い物があって、「命婦の乳母」っていうワガママっ娘が、ちゃんと縫えてないのに、もう終わっちゃった!って席を立ってしまって、縫い直してよ~って言っても言い訳なんかしてやんないもんだから、代わりに他の女房が仕方なくやり直した、と。そういう話でしたが、そのやり直した側の女房の一人が「中納言の君」でした。

この中納言の君という人は、定子の父・藤原道隆の叔父・藤原忠君という人の娘だそうですから、道隆の従妹ということになります。源俊賢正室でもあります。話が逸れますが、源俊賢は当時のエリート、やり手でもあったようです。ちょっと前にも登場し男前としてはしょっちゅう出てくる感のある藤原斉信歌人としても超有名な藤原公任三蹟の一人でもある藤原行成と並んで「一条朝の四納言」の一人とされています。

二月つごもり頃に」という段には、藤原公任源俊賢が登場しました。公任が清少納言のもとに「少し春ある心地こそすれ」という下の句を送ってきて、何とか上の句を書いて送り返した…という話でしたね。

藤原行成は「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて」で、少女漫画か!?とも、じゃれ合っているのか?とさえ、思えるようなやりとりをした書の上手い年下のイケメンです。

話を戻します。
前の記事①で、自分のことを「老いぼれ」と呼んだ道隆ですが、実はまだ40代はじめです。中納言の君もベテラン女房と言ってもまだまだ、若いですよ。石田ゆり子原田知世菊池桃子もオーバー・フィフティですからね。関係ないですか。

そんな道隆関白殿にいちばん勢いのあった頃、自嘲と言うか謙遜と言うか、ああいう言い方をしたまでなワケで、つまり実際は、枕草子では道隆=定子さまの栄華を極めた頃のことを描いていて。しかし、この文章を書いてるのは彼らが亡くなって中関白家が凋落した後、清少納言が回顧しながらであるとすれば、かなり心境は複雑であると推察されます。

特にこの段では、定子から、藤原道長清少納言の「お気に入りの人」であることをぽろっと指摘されてます。それまでにも彼女が漏らしていたのか、それらしい様子があって気づかれちゃったのかはわかりませんけど、すでに道長栄華の時代になった後に、このことを彼女は書いたわけですね。そういう意味でこの段は、非常に興味深いです。私でもそう思うのですから、専門家などはかなり注目ではないでしょうか。すでにしてるんでしょうね。私、今さら何言ってるの?という感じだと思います、はい、すみません。

定子さまは父の弟(つまり叔父)だけどまだ下っ端の道長をやたら推してくる私(清少納言)に余裕の笑顔で「例のあなたのオキニね」程度の返しをしたんだけど、今はこんな時代になって、と書く清少納言道長は思い人ではあったけど、中関白家凋落を招いた張本人なわけです。

清少納言の心中やいかに。しかしこれ、どうしようもないんじゃないかと思いますね、当時の女子は。ま、当時「道長派なんじゃねーの?」とか清少納言もいろいろ言われたらしくて、実家に引き籠ったりも(ニート??)したとか、時代に翻弄された女性の一人であった、と考えると私もちょっと印象変わりますね。「春はあけぼの~」とか言ってる能天気な女子という認識、違うのかもと思ったりします。

関係ないけど、脳天気? 能天気か?と思って調べてみたところ、どっちも使うようですね。古くは「能天気」が多かったらしく、昭和以降「脳天気」が使われるようになったらしいです。テレビ、新聞は今も「能天気」だそうです。ただ、私の感覚では「脳天気」のほうがしっくりきますね。脳の中がオメデタイ感じでいいじゃんと思います。カタカナで「ノーテンキ(。・ω・。)ノ♡」でもいいですかね。


【原文】

 中納言の君の、忌日とてくすしがりおこなひ給ひしを、「賜へ、その数珠しばし。おこなひして、めでたき身にならむ」と借るとて、集まりて笑へど、なほいとこそめでたけれ。御前に聞こしめして、「仏になりたらむこそは、これよりはまさらめ」とて、うち笑ませ給へるを、まためでたくなりてぞ見奉る。大夫殿のゐさせ給へるを、かへすがへす聞こゆれば、「例の思ひ人」と笑はせ給ひし、まいて、この後(のち)の御ありさまを見たてまつらせ給はましかば、ことわりとおぼしめされなまし。

 

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

 

 

関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて①

 関白殿(藤原道隆)が黒戸よりご出発になるということで、女房が隙間なく侍っているのを、「ああ、素敵な女房たちだ、この老いぼれをどんなにか笑ってるだろうかね」って、かき分けて出てこられたから、戸口に近いところにいる女房たちが色々な袖口で御簾を引き上げたら、権大納言藤原伊周)が道隆さまのお靴を取ってお履かせ申し上げてるの。とても重々しくて、美しくて、装いはちゃんとした感じで、下襲の裾を長く引いてね、そこがまるで狭いような風に控えていらっしゃるの。まあすばらしい、大納言ほどのお方に靴をお取らせになるとはね、って見てたのよ。
 
 山の井の大納言(藤原道頼)や、さらにその下のご兄弟、その他の人々が、黒いものをまき散らしたみたいに藤壺の塀の際から登花殿の前まで座って並んでて。関白・道隆さまはほっそりと上品な感じで、腰の刀の装着具合をお直しになって、少し立ち止まっていらっしゃったんだけど、宮の大夫殿(藤原道長)が清涼殿の戸の前に立ってられて、弟だし、まさかひざまずいたりはしないだろうな、って思ってたら、関白様が少し歩き出されると、すぐにひざまずかれたのは、やはりどれだけ前世で善行を積まれた結果なんだろうって拝見したの、とってもすばらしかったわ。


----------訳者の戯言---------

関白殿は言うまでもなく藤原道隆。何度も登場していますから、今さらですが、中宮定子の父親です。で、権大納言藤原伊周。道隆の息子で、定子の兄でしたね。

黒戸というのは、清涼殿の北側の廊にあった細長い部屋で、歴代天皇の位牌や念持仏・仏具などが安置されており、天皇が必要な時に黒戸の内側で経典を読んだり、念仏を唱えたり、臨時の法会や加持祈祷が行われることもあったそうです。光孝天皇(830-887)がご即位された後も料理をなさってた部屋だったため、薪の煤で戸が黒くなっていたらしいです。

山の井の大納言と呼ばれていたのは、藤原道頼という人。伊周や定子の異母兄弟です。その他、道隆の子どもたちについては「淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど⑨」の「訳者の戯言」にいろいろと書いていますので、ぜひご覧ください。

「宮の大夫(だいぶ)」というのは、中宮職(ちゅうぐうしき)の大夫、つまり長官、トップです。そもそも中宮職というのは、律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所とのこと。当時、後に権勢をふるう藤原道長(道隆の弟で彰子の父)がこの職にあった、ということですね。

例によって、関白殿(藤原道隆)一家を褒め称える段のようです。後に伊周の政敵となる道長も登場していますね。この文章が書かれたのは、すでに道長の天下になりつつあった頃で道隆は亡くなり道長と伊周の政争もあった後だと思いますが、清少納言の文章を読む限りは、あまりそういった生々しい話は感じられません、枕草子のここまでの段も含めてですが。

定子の実家である中関白家の人々を礼賛はしますが、定子のライバルであった彰子の父(道長)をdisったり、道長派と思われる公卿なんかに敵意を表わしたりもしないんですね。私も枕草子を読み始めた頃は、道長派や彰子にかなり敵意を持ってるんじゃないかと思ってたんですが、意外と公平な感じです、表面的には。
前にも書いたかもしれませんが、自身、道長とはいい仲だったと噂もありますしね。ただ、その真偽はわかりませんし、中関白家を没落の道に追いやったのは道長ですからね、時とともに心持ちも変化するのかもしれません。

というわけで、②に続きます。


【原文】

 関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて、女房の隙(ひま)なく候ふを、「あないみじのおもとたちや。翁をいかに笑ひ給ふらむ」とて、分け出でさせ給へば、戸口近き人々いろいろの袖口して御簾引き上げたるに、権大納言の御沓取りてはかせ奉り給ふ。いとものものしく清げに、よそほしげに、下襲の裾(しり)長く引き、所せくて候ひ給ふ。あなめでた大納言ばかりに沓取らせ奉り給ふよと見ゆ。山の井の大納言、その御次々のさならぬ人々、黒きものを引き散らしたるやうに、藤壺の塀のもとより登華殿の前までゐ並みたるに、細やかになまめかしうて、御佩刀(はかし)など引きつくろはせ給ひ、やすらはせ給ふに、宮の大夫(だいぶ)殿は戸の前に立たせ給へれば、ゐさせ給ふまじきなめりと思ふほどに、少し歩み出でさせ給へば、ふとゐさせ給へりしこそ、なほいかばかりの昔の御おこなひのほどにかと見奉りしこそ、いみじかりしか。

 

平安ガールフレンズ

平安ガールフレンズ

 

 

八幡の行幸のかへらせ給ふに

 帝が石清水八幡宮への行幸からお帰りになられる際に、女院の桟敷の向こうに御輿を停めてご挨拶なさったのなんか、とってもすばらしくて、そんな帝というお立場にもかかわらず、かしこまってご挨拶されるのが、かつてこの世では聞いたことないくらい素敵で、ほんと私、涙が溢れ出て顔のお化粧も全部とれてスッピンになっちゃって、どんなにか見苦しいことでしょう。
 帝の宣旨のお使いとして、宰相の中将、斉信(ただのぶ)が女院の桟敷へと参上なさったのも、すごくいい感じに思えたわ。随身がわずかに4人、そして立派な装束をしっかりとまとった身の引きしまった馬副(うまぞい)で白くメイクを施してる者だけを連れて、二条の大路の広くてキレイな道を、見事な馬を速く走らせて急いで参上、少し離れた場所で馬から下りて、側の御簾の前に侍っていらっしゃったりしたのもすごく素敵なの。女院のご返事を承って、また帰って帝の元に参上し、御輿のところで申し上げる様子なんかは、言うまでもないくらいすばらしいのよね。

 さて、帝が御前の内をお通りになるのを、ご覧になってらっしゃるだろう女院のお気持ちをお察ししたら、舞い上がってしまう心地でしょう、って思えたわ。こういう時には、長々といつまでも泣いてて、笑われちゃうの。身分が高くない人でさえ子どもが立派になるのはとてもすばらしいことで、こんな風に女院のお気持ちをご推察申し上げるのは、畏れ多いことではあるのだけれど。


----------訳者の戯言---------

前段の最後に「めでたきことを見聞くには、まづただ出で来にぞ出で来る(すばらしいことを見聞きしたりすると、すぐに涙がどんどん溢れ出てくるの)」という一文がありましたが、それを受けてのお話(つづき?)でしょうか。

行幸は帝が出かけること全般です。もちろん、帝=一条天皇ですね。女院というのは、以前の天皇の奥さん、つまり皇后だった人。ここでは一条天皇の母、東三条院藤原詮子という人です。

宣旨というのは、勅令を伝達する文書だそうです。これを持って伝達する役目を仰せつかったのが、「宰相の中将」でした。参議で、かつ近衛府の中将を兼ねた藤原斉信という人です。「かへる年の二月廿余日」「頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて」の主人公として出てきました。「里にまかでたるに」や「無名といふ琵琶の御琴を」にもちらちらっと登場しています。
おしゃれで、美男子、機転が利いて、インテリジェンスもあって、モテモテなナイスガイ。藤原公任藤原行成源俊賢とともに一条朝の四納言と称された、エリートでもあるのです。
例によって清少納言藤原斉信のスマートなイカした振る舞いも書かずにはいられなかったのでしょう。

随身は少し前の段でも出てきました。貴人の警護担当、SPです。

馬副(うまぞい)。馬に乗った貴人に付き添っていく従者のことをこう言ったそうです。

天皇という立場でありながら、生母とは言え、かしこまってご挨拶される様子に感動!涙が止まらなくって…みたいな話です。女院の気持ちを察すると…テンションあがるでしょうね、とも。一般人でも子どもが立派になるとうれしい、でもレベル違うし畏れ多いけど。的な趣旨です。

こういうので、メイクぐしゃぐしゃ、スッピン状態でみっともないけど泣きまくりの私です、と自嘲しながらも、こういうステキなことに感動するステキな私という自画自賛になってしまっています。


【原文】

 八幡の行幸のかへらせ給ふに、女院の御桟敷のあなたに御輿とどめて、御消息申させ給ひしなど、いみじくめでたく、さばかりの御ありさまにてかしこまり申させ給ふが、世に知らずいみじきに、まことにこぼるばかり化粧じたる顔みなあらはれて、いかに見苦しからむ。宣旨の御使にて斉信の宰相の中将の御桟敷へ参り給ひしこそ、いとをかしう見えしか。ただ随身四人、いみじう装束きたる、馬副(むまぞひ)の細く白くしたてたるばかりして、二条の大路の広く清げなるに、めでたき馬をうちはやめて急ぎ参りて、少し遠くより下りて、傍(そば)の御簾の前に候ひ給ひしなど、いとをかし。御返り承りて、また帰り参りて、御輿のもとにて奏し給ふほどなど、いふもおろかなり。

 さて、うちのわたらせ給ふを見奉らせ給ふらむ御心地、思ひやり参らするは、飛び立ちぬべくこそおぼえしか。それには長泣きをして笑はるるぞかし。よろしき人だになほ子のよきはいとめでたきものを、かくだに思ひ参らするもかしこしや。

 

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子

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はしたなきもの

 きまりが悪いもの。別の人を呼んだのに、私だわ…って思って出てった時。物なんかをいただく時だったらもっとバツが悪いわね。たまたま他人の噂話なんかしてdisってたのを、小さい子どもが聞いてて、当の本人がいるのにそれを話し出しちゃうのも。

 悲しいことなんかを人が話し出して、泣いたりしてるのに、ホントすごくかわいそう!なんて聞きながらも涙がすぐ出てこないのも、めちゃくちゃきまり悪いわ。泣き顔を作って、悲しげな雰囲気を演出したって、全然上手くはいかないのよ。すばらしいことを見聞きしたりすると、すぐに涙がどんどん溢れ出てくるのにね。


----------訳者の戯言---------

「はしたなし」は、きまりが悪い、ばつが悪い、という意味だそうですね。不似合いなとか、中途半端な、とかの意味もあるらしいです。漢字で書くと「端なし」だそうです。

「呼ばれたと思って出てったら、お前じゃねーよ」だった話、「子どもは空気読めねーよな」っていう話、「カワイソーと思ってても、必ずしも涙が出てくるわけではなーい」という話です。

最後のは、別にいっしょになって泣かなくてもいいのに、と思います、はい。自然体でいいと思うんですけどね。
たとえば、家族のお葬式でも、泣かない人は泣かないものです。それを薄情とは思いませんし。バツ悪いとも思いませんけどねぇ。清少納言バツは悪い、いくら装ってもだめよね、というメンタリティです。んー。


【原文】

 はしたなきもの こと人を呼ぶに、我がぞとてさし出でたる。ものなど取らするをりは、いとど。おのづから人の上などうち言ひ、そしりたるに、幼き子どもの聞き取りて、その人のあるに言ひ出でたる。

 あはれなることなど人の言ひ出でうち泣きなどするに、げにいとあはれなりなど聞きながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし。泣き顔つくり、けしき異(こと)になせど、いとかひなし。めでたきことを見聞くには、まづただ出で来にぞ出で来る。

 

桃尻語訳 枕草子〈上〉 (河出文庫)

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