里にまかでたるに④ ~かう語らひ~
こうして語り合い、お互いに世話を焼いたりなんかするうちに、どうこうすることもなかったけど少し仲が悪くなってて、その頃、彼が手紙をよこしてきたの。「都合の悪いことなんかがあっても、やっぱりかつては夫婦だったことは忘れないで、全然別の場所に離れてたって、兄妹のような仲だと思っていただきたいですよ」って。
いつも彼が言うことは、「私を思う人なら、歌を詠んで寄こさないでもらいたい。そんなのはすべて敵だって思うよ。今から絶交!って思った時には、そうすればいい」なんて言うから、これにリプライ。
くづれよる 妹背の山の中なれば さらに吉野の河とだに見じ
(崩れてしまって妹背山の間を流れる吉野川は川に見えなくなってしまう、これと同様に、壊れた妹と兄の私たちだから、もはや、川《=彼は=兄妹としてあなた》を見ることなんてできませんわ)
って送ったんだけど、ほんとに見なかったのかしら? 返事もしてこなかったわ。
そうしてこの後、則光は五位の冠位を得て、遠江介になって赴任しちゃって、喧嘩をしたままで終わってしまったの。
----------訳者の戯言---------
最も難解なのは、原文の「よそにてはさぞとは見給へ」です。
私は上のように訳したんですが、ここは他の解釈、訳し方もあるのではないかなと思いますがいかがでしょう。
「かうぶり」は冠と書きます。位階、五位に叙せられることだそうです。
さて顛末は、清少納言、とうとう則光とは仲違いしたまま縁が切れてしまったということに。
直前の記事でも書きましたが、則光はリアリストというか体育会系というか、そういう人だったようではあります。とはいえ、歌人としての実力もいくらかはあったようで、金葉和歌集に入選しているとか、ウィキペディアにも出ていますよ。
それでもやはり、詩歌管弦よりも役人として実務家としての仕事に重きを置いた人なのでしょうね。
そのへんの人生観が根本的に違うのでしょう。
ただ、人が悪くないという印象は文章から伝わってくるし、こいうことを遠慮なく書いているくらいですから、清少納言も本当には嫌っていなかったのではないかと私、思います。
【原文】
かう語らひ、かたみの後見などする[に]中に、何ともなくて少し仲あしうなりたるころ、文おこせたり。「便(びん)なきことなど侍りとも、なほ契り聞こえしかたは忘れ給はで、よそにてはさぞとは見給へとなむ思ふ」といひたり。
常にいふことは、「おのれを思さむ人は、歌をなむよみて得さすまじき。すべて仇敵となむ思ふ。今は限りありて絶えむと思はむ時に<を>、さることはいへ」などいひしかば、この返りごとに、
くづれよる妹背の山の中なればさらに吉野の河とだに見じ
と言ひやりしも、まことに見ずやなりにけむ、返しもせずなりにき。
さて、かうぶり得て、遠江の介と言ひしかば、にくくてこそやみにしか。