枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

殿などのおはしまさで後④ ~御返り参らせて~

 ご返事をを差し上げて、少し日にちが経ってから参上したんだけど、どうなのかな?っていつもよりは気後れしちゃって、御几帳に半分隠れて侍ってたんだけど、
「あそこにいるのは新人さんなの?」
なんてお笑いになって、
「憎ったらしい歌だけど、こういう時には、こうやって言うのももっともだなって思われてね。だいたい、あなたの顔を見ないと、少しの間だって心が慰められることがないのよ」
なんておっしゃって、前と変わってるご様子はなかったの。

 子どもに教えられたことなんかを申し上げたら、すごくお笑いになって、
「そんなことがあるのね! あまりにもよく知ってて侮ってる古歌なんかは、逆にそういうことあるのよ」
なんておっしゃって、そのついでに、
「なぞなぞ合わせをしたんだけど、味方じゃなくて、相手側の、なぞなぞ通の人が『(こちら)左側の組の1番には私が出題しましょう。そう思っててくださいね』なんて請け負って、そう言うからにはダメダメな問題を出したりはしないだろうナって、みんな頼もしく思ってよろこんで。みんなが各々になぞなぞ問題を作り出して、それを選定する時にも、『1番の問題の出題だけは、私に任せて残しておいて。私が言うんだから、絶対悔しい思いはしないからって!』って言うの。なるほどそうかも、って思ってるうちに、その日が近くなってきたのね。『やっぱりなぞなぞ問題の言葉をおっしゃって。思いがけずに同じのが被っちゃうこともあるかもだし』って言ったら、『そんなら、私は知りません! もう期待しないで』なんて、ご機嫌が悪くなっちゃって、不安なままで、その日になって、みんな敵味方各々男女が分かれて座って、審判なんかもたくさん並んで座ってて、いざ勝負するんだけど、例の左の1番の人、めちゃくちゃもったいぶった自信たっぷりの様子は、いったいどんなコトを言い出すんだろ?って思われたから、左組の人も、右組の人も、みんな落ち着かない感じで見守ってたんだけど、『なぞ、なぞ』って言い出すあたり、憎いくらいなのよね。で、『天に張り弓』って言ったの(なんと簡単!!) 右の人は、これは(勝てるしぃ)すごく面白い!と思ったんだけど、左の人は頭真っ白になっちゃって、みんな、憎らしく、かわいげもなく、あっち側に味方してわざと負けさせようとしたんだ!なんて、一瞬思ったんだけど、右サイドの人が『全然つまんない、ばかげてる!』って笑っちゃって、『やあ、全然わかんない』って口を引き下げて、『知らないことー』って、ふざけたしぐさをしたら、勝ち点を入れられてしまったの。『それ、全然おかしいでしょ、このなぞなぞ知らない人って誰かいる? いないでしょ! 点を取られるいわれないでしょうに!』って抗議したんだけど、『知らない、って言ったからには、どうして負けにならないことがあるでしょ? 当然負けでしょ!』って、次のも、その次のも、この人がみんな論破して勝たせたの。よく人が知っていることなのに、思い出せないっていう時は、こんなものよね。『どうして知らないなんて言ったんでしょ!?』って、後で恨まれたそうよ」
なんていう、お話しなさったら、お側に侍ってる女房たちはみんな、
「そう思ったでしょうね。残念な答えでしたよね。左サイドの人の気持ちからしたら、最初にこのなぞなぞ問題(天に張り弓!)を聞いた時には、どんなに憎ったらしかったでしょうけど??」
とかって、笑うの。これは、忘れてたからじゃなくって、ただみんなが知ってることだからこそ起きたハプニングなんだけどね。


----------訳者の戯言---------

原文に「なぞなぞ合しける」とありますが、当時「謎謎合はせ」という遊びがありました。左右の二組に分かれて、「謎」をかけ合い、それを解き合う遊びだそうですが、何なんでしょう。暇な貴族がやって遊びなんでしょうか。

原文にある「方人」(かたひと/かたうど)は、味方の人のことだそうです。

「りょうりょうじかりける」という表現が出てきます。終止形は「りょうりょうじ」ですが、「心配りがゆきとどいている。知性的である。」といった意味だそうです。

見証(けんそ/けんぞ/けんじょ)という語が原文にありますが、これは通常、碁、双六、蹴鞠などに立ち会って勝負をジャッジすることだそうです。または、その人、つまり審判員ですね。場合によっては単に見物人、を指すこともあるらしいです。

で。
「天に張り弓」ってなんやねん。という話です。
「張り弓」というのは「弦を張った弓。また、その形のもの。」とコトバンクに書いてありましたが。
つまり、「天に張った弓ってなーんだ?」というなぞなぞ問題。答えは(たぶん)「七日の月」です。ま、誰でもわかる問題です。

旧暦7日の月を「弓張月」と言うんですね。
新月と満月のちょうど真ん中の月です。ほぼ半月ですから、「弦を張った弓」の月なんですね。

このように、月にまつわる和語はいろいろあります。

新月は朔(ついたち)、14日めの月は宵待月、十五夜はもちろん満月、望月。
十六夜は、いざよい、と読むのですが、これは「いざよう」という動詞から来ています。元々は「猶予う」で「いざよう」と読んだそうですね。ためらう、という意味です。
ただし実際の天体の活動と暦は微妙にずれることがあります。朔、つまり月と太陽が地球から見て同一方向に並ぶ瞬間が含まれる日を1日とすることから、旧暦の15日が満月ではないこともあるらしいんですね。

さて十六夜の月は、十五夜の満月よりいくぶん遅く昇ります。これを昔の人は、月がためらってる、と感じたんでしょうね。

実は先日、ある人に月のことを語った時、いざよい、っていう言葉好き、というようなことを話しました。
というか、「『いざよい』っていう言葉が好き」なんて異性に言って、その意味合いなんかを語ったりしたら、言われた人は見直すだろうね、好意アップ間違いないよね、と。

そんなことに使ってはいけませんか? いいですよね。

この段は、当時の政治的背景にはじまり、清少納言中宮・定子の百合系かと見まがうようなやりとり、そして、清少納言のど忘れ、さらに定子様が語りまくるという展開。いろいろあって結構おもしろかったです。長かったので疲れましたが。


【原文】

 御返り参らせて、少しほど経て参りたる、いかがと例よりはつつましくて、御几帳にはた隠れて候ふを、「あれは新参(いままゐり)か」など笑はせ給ひて、「にくき歌なれど、この折は言ひつべかりけりとなむ思ふを。おほかた見つけでは、しばしもえこそ慰<さむ>まじけれ」などのたまはせて、かはりたる御けしきもなし。

 童に教へられしことなどを啓すれば、いみじう笑はせ給ひて、「さることぞある。あまりあなづる故事(ふるごと)などは、さもありぬべし」など仰せらるる、ついでに、「なぞなぞ合しける、方人にはあらで、さやうのことにりやうりやうじかりけるが、『左の一はおのれ言はむ。さ思ひ給へ』など頼むるに、さりともわろきことは言ひ出でじかしと、たのもしくうれしうて、みな人々作り出だし、選り定むるに、『その詞(ことば)をただまかせて残し給へ。さ申しては、よも口惜しくはあらじ』といふ。げにとおしはかるに、日いと近くなりぬ。『なほこのことのたまへ。非常に、同じこともこそあれ』といふを、『さば、いさ知らず。な頼まれそ』などむつかりければ、おぼつかなながら、その日になりて、みな、方の人、男・女居わかれて、見証(けんそ)の人など、いとおほく居並みてあはするに、左の一、いみじく用意してもてなしたるさま、いかなることを言ひ出でむと見えたれば、こなたの人、あなたの人、みな心もとなくうちまもりて、『なぞ、なぞ』といふほど、心にくし。『天に張り弓』といひたり。右方の人は、いと興ありてと思ふに、こなたの人はものもおぼえず、みなにくく愛敬なくて、あなたによりてことさらに負けさせむとしけるを、など、片時のほどに思ふに、右の人、『いと口惜しく、をこなり』とうち笑ひて、『やや、さらにえ知らず』とて、口を引き垂れて、『知らぬことよ』とて、さるがうしかくるに、籌(かず)ささせつ。『いとあやしきこと。これ知らぬ人は誰かあらむ。さらにかずささるまじ』と論ずれど、『知らずと言ひてむには、などてか負くるにならざらむ』とて、次々のも、この人なむみな論じ勝たせける。いみじく人の知りたることなれども、おぼえぬ時はしかこそはあれ。『何しにかは、知らずとは言ひし』と、後にうらみられけること」など、語り出でさせ給へば、御前なる限り、「さ思ひつべし。口惜しういらへけむ。こなたの人の心地、うち聞きはじめけむ、いかがにくかりけむ」なんど笑ふ。これは忘れたることは、ただみな知りたることとかや。

 

新版 枕草子 上巻 現代語訳付き (角川ソフィア文庫 (SP32))