枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

御方々、君達、上人など

 定子さまのご家族の方々、若君さまたち、殿上人など、定子さまの御前に人がたくさんいらっしゃるから、廂の間の柱に寄りかかって、女房とおしゃべりなんかしてたら、何かの物を投げて下さったから、開けて見たら、「愛しましょうか、やめましょうか。一番じゃないのはどんな気分?」って書いてらっしゃるの。

 御前で雑談なんかをするついでに、「まったく、相手から一番に思われないって、いったい何になるのかしら、どうしようもない、だったらただすごく憎まれてひどい扱いを受けたほうがまだマシなんじゃないかなぁ。2番、3番なんかだったら死んだ方がいいわよ。やっぱ一番でいたいわよね」なんて言ったら、「一乗の法っていうことですね」とかって、女房たちもみんな笑う、例の話のつながりみたいね。

 定子さまが筆、紙なんかを下さったから、「九品蓮台の間には、下品(げぼん)といふとも」(九品蓮台の中に入れるんなら、下品(げぼん)でも十分なのです)なんて書いて差し上げたら、「やたらと気が滅入るような感じ。全然よくないわよ! 一度言い切っちゃったことは、そのまま貫くべきですよ」っておっしゃるの。「それは相手によって変わりますわ」って申し上げたら、「それがいけないの。一番愛してる人に一番愛されたいって思うべきでしょ!」っておっしゃるの、素敵だわ。


----------訳者の戯言---------

原文の「くんず」は「屈ず」です。「気が滅入る」とか、「しょげる」みたいな感じのようですね。

一乗の法。「乗」は彼岸に行く乗り物のことだそうです。「一乗」は第一の乗り物ということで、「法華経」を指すらしいです。2番、3番なんかダメ、一番でなくちゃって言ったので、これに例えて返したということなのでしょう。

「九品蓮台(くほんれんだい)の間には、下品(げぼん)といふとも」と出てきました。何だこれ。
極楽浄土には9つの階位があるとされているらしく、蓮の葉でできた台があるんだそうですね。これを九品蓮台と言うそうです。
まず上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)の3つの段階があります。それをさらに3つずつに分けて9つのレベル(上上品・上中品・上下品・中上品・中中品・中下品・下上品・下中品・下下品)に分かれているそうです。
極楽浄土の九品蓮台のどれかに往生できるんだから、「下品」でもOKですよ、ということですね。

事業仕分けで「2番じゃだめなんですか?」と言ったのは蓮舫さんですね。
桜田さんがレンポウとわざと間違えてましたが、あの人はどうなったんでしたっけ? どうでもいいですか。

でも、定子さまはやはり2番じゃだめ、っていう意見のようです。
中宮定子と清少納言の相思相愛を、清少納言自らが書いている、気持ちのいいようなそうでもないような、個人的にはあきれてスルーしてもいいくらいです。

しかし枕草子ファンにはたまらない段でしょう(たぶん)。


【原文】

 御方々、君達、上人など、御前に人のいとおほく候へば、廂の柱によりかかりて、女房と物語などしてゐたるに、物を投げたまはせたる、あけて見たれば、「思ふべしや、いなや。人、第一ならずはいかに」と書かせ給へり。

 御前にて物語などするついでにも、「すべて、人に一に思はれずは、何にかはせむ。ただいみじう、なかなかにくまれ、あしうせられてあらむ。二三にては死ぬともあらじ。一にてをあらむ」などいへば、「一乗の法ななり」など、人々も笑ふことのすぢなめり。

 筆、紙などたまはせたれば、「九品蓮台の間には、下品(げぼん)といふとも」など、書きて参らせたれば、「むげに思ひ屈(くん)じにけり。いとわろし。言ひとぢめつることは、さてこそあらめ」とのたまはす。「それは、人にしたがひてこそ」と申せば、「そがわるきぞかし。第一の人に、また一に思はれむとこそ思はめ」と仰せらるるも、をかし。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

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枕草子評釈―しっかり古典を読むための

枕草子評釈―しっかり古典を読むための

 

 

職におはします頃

 職の御曹司にいらっしゃる頃、八月十日過ぎの月の明るい夜、定子さまが右近の内侍(右近内侍)に琵琶を弾かせて端のほうにお座りになってるの。女房の誰かれは各々おしゃべりしたり、笑ったりしてるんだけど、私は廂の間の柱に寄りかかって、何もしゃべらず黙っていたら、「どうして、そんなに静かなの? 何か言って! 寂しいじゃない」っておっしゃるもんだから、「ただ秋の月の心を見ていたのです」って申し上げたら、「そうも言えるわね」っておっしゃるのよね。


----------訳者の戯言---------

右近の内侍(右近内侍)は、これまでにも出てきました。内侍というからには、後宮内侍司の女官であろうと考えらえます。一条天皇付きのスタッフなのでしょう。枕草子にはこれまでにも何度か登場しており、「うへに候ふ御猫は②」「うへに候ふ御猫は③」「職の御曹司におはします頃、西の廂にて③」「職の御曹司におはします頃、西の廂にて⑧」に出てきています。

また出ました。原文の「さうざうし(き)」です。テストに出るやつですね。騒々しいのかと思いきや、「物足りない」「心寂しい」という意味です。漢字は「索索し」。高校生のみなさん、先生の謀略にひっかからないようにしてくださいね。あと、入試の時も。

8月10日過ぎで、もちろん、これ旧暦ですから、中秋の名月の頃です。
「仲秋」は旧暦の8月のことです。元々旧暦の7、8、9月を「秋」としていまして、7月を初秋、8月を仲秋、9月を季秋(晩秋)と呼んだそうなのです。なお「中秋」は旧暦8月15日のことですから、微妙に意味が異なります。日を特定してるんですね。中秋の名月はあくまでも旧暦8月15日の夜の月ですから、満月とは限りません。ただ、きれいな月であることに変わりはありませんし、「満月」が見たければ1日や2日ずらせばいいだけです。そうすれば「仲秋」の「名月」は何日間は見られます。なぜこのようなことが起きるのか? 旧暦は月が全く見えなくなる「朔」という瞬間を含む日を毎月1日=朔日(ついたち)として作られてるからなんですね。だから15日の夜=満月とは限らず、結構ずれたりするというわけなのです。

さて、この段、面白いのでしょうか。私はそれほどでもないと思います。短いですしね。短いのは訳する者からするとありがたいからいいんですけどね。

秋の月の心を見るというのは、自らを内省する行為であり、瞑想に近いかと思います。そのため無口になってしまっていたのだというわけでしょうか。いや、単にきれいだなーと情趣を感じていただけかもしれませんが。

しかし、清少納言のことですから、ついついその裏に何があるのか?と考えてみました。
関係あるのかどうかわかりませんが、「寒山詩」というのが中国・唐の時代に著されています。詩集みたいなもので、名前を見聞きしたことのある方もいらっしゃるかもしれません。その中に次のような詩があります。一部抜粋ですが。

吾心似秋月 碧潭澄皎潔
(吾が心秋月に似たり 碧潭清くして皎潔たり)

意味は「私の心は秋の月に似てて 青緑の深い淵が清く澄みきっているようだ」という感じでしょうか。このあたりを意識していたとすれば、彼女が静かに黙ってしまっていた、というのもうなずける気はします。

この段には大したオチがありません。同様に私の戯言にもオチらしいものがなく残念です。


【原文】

 職におはします頃、八月十余日の月明かき夜、右近の内侍に琵琶ひかせて、端近くおはします。これかれもの言ひ、笑ひなどするに、廂の柱に寄りかかりて、物も言はで候へば、「など、かう音もせぬ。ものいへ。さうざうしきに」と仰せらるれば、「ただ秋の月の心を見侍るなり」と申せば、「さも言ひつべし」と仰せらる。

 

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子

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五月の御精進のほど⑥ ~夜うち更くる程に~

 で、夜が更けてきた頃、彼がお題を出して、女房に歌をお詠ませになったの。みんな躍起になって、苦心して歌をひねり出してるんだけど、私は定子さまの近くに控えてて、お話し申し上げたり、別のことばっかり言ったりしてるのを、内大臣さま(藤原伊周)、ご覧になって、「何で歌は詠まないで、そんなに離れて座ってるの? 題を取って詠んでよ」って私にお題を下さろうとするんだけど、「定子さまからこれこれこのようなお言葉をいただいて、歌を詠まなくってもいいことになってますから、考えてもないんですよ」って申したのね。「おかしな話だよね。ホントにそんなことってある? どうして中宮さまはそんなことをお許しになったのかな。全然ありえないことだよ。よし、じゃあ他の時は知らないけど、今日の夜は詠んでよ!」なんて、私に強制してこられたんけど、きれいさっぱり聞き入れないでいたら、女房たちみんなが詠み出して、その出来栄えの良し悪しをジャッジしてる時、定子さまがちょっとしたお手紙を書いて、私にお投げになったの。見たら、

元輔が後と言はるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる(かの元輔の後継者と言われるあなたなのに、今宵の歌会の仲間たちからは外れてるのよね!!)

って書いてあるもんだから、最高に可笑しくってね。めっちゃ笑っちゃったから、「何ごとなの?何ごとなの?」って大臣もお尋ねになったのよ。

その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし(元輔の子だと言われない身だったなら、今夜の歌会ではまず最初に詠みもしたんでしょうけどね)

って私、「(父の名声に)遠慮しなければ、千首の歌だって、今からでもするするっと出てくるでしょうけれど」って定子さまに申し上げたのね。


----------訳者の戯言---------

前回⑤の最後に登場したのは、内(うち)の大殿(おほいどの)、つまり内大臣藤原伊周です。定子の兄であり、すなわち道隆の子です。実はまだ若いんですね、定子とは3歳くらいしか違いませんから。一条天皇の元に妹・定子が入内し、父・道隆の権力が絶大だった時に一気に昇進して内大臣になったということですね。

この頃の政治的な事情については「大進生昌が家に①」の訳者の戯言の部分に少し書いていますから、ぜひご参照ください。

原文で「けぎよう」とあります。「気清し=さっぱりしている」の連用形「けぎよく」の音便変化で「けぎよう」になっているようです。

さて、「庚申」の夜ですから、時間もたっぷりあり、定子のお兄さんがやってきて、お題を出しての歌会になりましたと。先日からのこともあり、清少納言、私は歌詠まないわよ、というスタンスでしたが。

 

結局、詠んでますがな。


【原文】

 夜うち更くる程に、題出して、女房に歌よませ給ふ。みなけしきばみ、ゆるがし出だすも、宮の御前近くさぶらひて、もの啓しなど、こと事をのみ言ふを、大臣(おとど)御覧じて、「など、歌はよまで、むげに離れゐたる。題取れ」とてたまふを、「さる事うけたまはりて、歌よみ侍るまじうなりて侍れば、思ひかけ侍らず」と申す。「ことやうなる事。まことにさることやは侍る。などか、さは許させ給ふ。いとあるまじきことなり。よし、こと時は知らず、今宵はよめ」など、責め給へど、けぎよう聞きも入れで候ふに、みな人々よみ出だして、よしあしなど定めらるる程に、いささかなる御文を書きて、投げたまはせたり。見れば、

  元輔が後と言はるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる

とあるを見るに、をかしきことぞたぐひなきや。いみじう笑へば、「何事ぞ、何事ぞ」と大臣も問ひ給ふ。
 
 「その人の後(のち)と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし

つつむこと候はずは、千の歌なりと、これよりなむ出でまうで来まし」と啓しつ。

 

 

 

五月の御精進のほど⑤ ~二日ばかりありて~

 二日ほど経って、その日のことなんかを話し出したら、宰相の君が「どうだったのよ、『自分で摘んできた』っていう下蕨は」っておっしゃるのを定子さまがお聞きになってて、「思い出すことがそれ?」ってお笑いになって、散らかってた紙に

下蕨こそ恋しかりけれ(ふるまっていただいた下蕨が恋しいなあ)

とお書きになって、「上の句を詠んでみて」っておっしゃったのも、何だかすごく素敵だったわ。

ほととぎすたづねて聞きし声よりも(わざわざ出向いて行って聴いたほととぎすの声よりも)

って書いて差し上げたら、「すごく堂々としてるじゃないの! 何であえてほととぎすのことを書くのかしら?」ってお笑いになるから、恥ずかしくなったけど、「どうしてでしょう。歌はもう詠まないと思ってますが、何かの折、誰かが詠む時に、私にも『詠め』とおっしゃるなら、お仕えすることもできないような気持ちさえしています。和歌の文字数もわからず、春に冬の歌を詠み、秋に梅の花の歌なんかを詠むようなことをどうしてするでしょう? できませんわよね! でも、『歌をうまく詠む』って言われた家系の子は、少々他の人よりは優れてるからって『あの時の歌は、こんなでした。さすが、あの家の子孫ですもの』なんて言われたら、歌の詠み甲斐も感じるでしょうけど、全然出来がよくもないのに、それでもすばらしい歌であるかの体(てい)で、私ってすごいのよ!的な感じで、真っ先に詠んだりしたら、亡き父に対しても気の毒な気持ちになっちゃいますわ」って、真面目に申し上げたら、定子さま、お笑いになって、「それなら、あなたの思うようにしなさい。私は詠めとはもう言わないようにしますから」っておっしゃって、「すごく気持ちが楽になりました。もう歌のことは気にしないです」なんて言ったりしてる時、その日は定子さまが庚申(の徹夜)をなさるということで、内大臣様(藤原伊周)がとっても気合いを入れて準備していらっしゃったの。


----------訳者の戯言---------

「庚申(こうしん)」というのは「庚申=かのえさる」の日のことです。この日は、眠ってしまうと、人の体内にひそむ「三尸虫(さんしちゅう)」が体から抜け出して、その人が行なった悪事を天帝に報告してしまうので、寿命が縮む、とされていたそうで、それを防ぐために一晩中眠らない風習があったらしいですね。

ほととぎすを聴きに行って歌を詠まなかったのを中宮定子に叱られ、さらに今度はお題を出されて、「ほととぎす返し」をしたら、「あんなに拒否ってたのに、ちゃんとバッチリほととぎすで詠むんだ!?」と笑われたちゃった、ということでしょうか。

清少納言的には、もう、へこんでしまって「今後は歌なんか詠まないです、著名な歌人だった清原元輔の娘ですから、私なんかホントはダメなのに、いかにも凄そうな感じで期待されたり、ま、やりがいもあるのかもしれないけど、逆に亡き父とかに対して気の毒にもなったり、、、とワケのわかったようなわからんようなことをぐだぐだ言って、最後には「好きなようにしなさい」と、定子に言わせてしまいます。結果的には、してやったりということですか、清少納言

というわけで、この段の最終回⑥に続きます。私、ほんとうにまだ読んでいないので顛末がわかりません。
どのように結ぶのでしょうか? 


【原文】

 二日ばかりありて、その日のことなど言ひ出づるに、宰相の君、「いかにぞ、『手づから折りたり』と言ひし下蕨は」とのたまふを、聞かせ給ひて、「思ひ出づる事のさまよ」と笑はせ給ひて、紙の散りたるに、

下蕨こそ恋しかりけれ

と書かせ給ひて、「本(もと)言へ」と仰せらるるも、いとをかし。

ほととぎすたづねて聞きし声よりも

と書きて参らせたれば、「いみじう受けばりたり。かうだに、いかで、ほととぎすのことを書つらむ」とて、笑はせ給ふもはづかしながら、「何か。この歌よみ侍らじとなむ思ひ侍るを。ものの折など、人のよみ侍らむにも、『よめ』など仰せらるれば、えさぶらふまじき心地なむし侍る。いと、いかがは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅の花の歌などをよむやうは侍らむ。なれど、歌よむと言はれし末々は、少し人よりまさりて、『その折の歌はこれこそありけれ。さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、かひある心地もし侍らめ、つゆ取り分きたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初(さいそ)によみ出で侍らむ、亡き人のためにもいとほしう侍る」と、まめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらば、ただ心にまかせ<よ>。我[ら]はよめとも言はじ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。今は、歌のこと思ひかけじ」など言ひてある頃、庚申(かうじん)せさせ給ふとて、内(うち)の大殿(おほいどの)、いみじう心まうけせさせ給へり。

 

日本の古典をよむ(8) 枕草子

日本の古典をよむ(8) 枕草子

 

 

五月の御精進のほど④ ~さて、参りたれば~

 さて、定子さまのところに参上して、事の次第をご報告申し上げたの。行けなくて恨んでる人たちは、嫌味を言ったり、残念がったりしながらだったけど、藤侍従(藤原公信)が一条の大通りを走ったお話をしたら、みんな笑ったわ。「で、どうだったの? 歌は」って定子さまがお尋ねになったから、「これこれこういうワケでございます」って詠めなかったことを申し上げたところ、「情けないわねー、殿上人なんかがそれを聞いたら、どうして、おもしろい歌が全然無いのかしらってことになっちゃう。どうしてその、ほととぎすの声を聴いた場所で、ささっと詠まなかったんです? って言っても、ま、あんまり堅っ苦しく考えるのもいけないわ。ここでいいからお詠みなさい。ホント、しょうがないわね」なんて言われたから、おっしゃるとおり!と思って、かなり辛くもあり、いろいろ相談してたら、藤侍従がさっきの卯の花に付けて、卯の花の薄様の紙に歌を書いて送ってきたの。でもその歌は覚えてないのよね。まずこの歌への返歌をしよう、ってことで、硯を取りに局に人を遣わせたら、「さ、これで早く詠んで!」って、定子さまが硯の蓋に紙なんかを入れて、下さったのね。「宰相の君、お書き下さい」って言ったら、「やっぱり、そこのあなたがね」なんて言い合ってるうちに、空が真っ暗になって雨が降って、雷がすごく恐ろしく鳴ったから、何も覚えてなくって、ただただ怖くって、慌てふためいて、格子を下ろして回ったりしてるうちに、その返歌のことも忘れちゃったのよ。

 すごく長い間、雷が鳴って、少し止んだ頃には暗くなってたの。「今すぐ、この返事を差し上げましょう」って、取りかかったんだけど、人々、上達部とかが雷のことを申し上げに参上されたから、西向きの部屋に出て応対してたら、歌のことが紛れちゃったのよ。他の人たちもまた「名指しで歌をいただいた人がやればいいのよ」ってやめちゃったの。やっぱり、このこと(歌)には縁が無い日なんだろうって、気が滅入っちゃって、「今は何とかして、あんな風にほととぎすの声を聴きに行ったことさえ、人に聞かせないようにしなくっちゃ」って笑っちゃったのよね。「今だって、その出かけた人だけで、お話ししたら、できるはずでしょ。なのに、そうはしない気なのね」って、定子さまが不愉快そうなご様子なのも、すごくおもしろいわ。「でも今はもう興ざめになっちゃったんです」って申し上げる、と。「興ざめになった? なわけないでしょ」なんておっしゃったんだけど、そのまま終了しちゃったの。


----------訳者の戯言---------

卯の花の薄様。薄様っていうのは、言わずもがな薄い紙です。透き通るような薄い紙だったそうですから、字を書くのには2枚重ねにすることが多かったそうですね。で、その場合も上下の色を変えて面白味を出したというのですから、さすが貴族の嗜みです。季節とかによって合わせ方を選んだそうです。雅ですねー。で、「卯の花の薄紙」というのは上が白色、下が青色の重ねなんだそうですね。そのほかにも「紅葉重の薄様」「紅梅の薄様」「青柳重ねの薄様」「氷がさねの薄様」等々の重ね方があったらしい。

ここでも藤原公信、ないがしろ。せっかく歌を送ってきたのに、それ覚えてないらしいです、清少納言。さらっとスルーしていますね。というわけで、私が読んでいる「三巻本」では忘れちゃったことになってますが、実は別の写本「能因本」では、ちゃんとこの歌出ています。↓こんな感じです。

郭公鳴く音たづねに君行くと聞かば心を添へもしてまし
(ほととぎすがが鳴く音を探しにあなたが行くってこと、前もって知ってたら、私の心も一緒に添えもしたんですけどねぇ)

しかし、清少納言にとっては、あまり重要ではなさそうですね、藤原公信クン自身も彼の歌も。
しかも、清少納言が「歌詠んでないのどゆこと?」って中宮様に叱られてる時に、間が悪いというか、まるでこれ見よがしであるかのように送ってきましたね。ま、本人にそんな意図はないんでしょうけど。結局返歌もしてもらえず。不憫です。

宰相の君というのは女房の一人だと思われます。定子のライバルと言われている彰子に仕えた藤原豊子も「宰相の君」と呼ばれたそうですが、その人とは違うようですね。藤原豊子のほうは紫式部と仲がよかったらしいです。

原文の「くんず」は「屈ず」と書くようで、「気が滅入る、心がふさぐ」という意味だそうです。

中宮定子、やたら歌にこだわってますね。「ほととぎす聴いたんだから、歌詠め、歌詠め」とちょっと口うるさいです。まあそれだけ、歌を詠むのが重要なんですね、この社会。めんどくさいわー。なんて言ってはいけませんね、はい。

⑤に続きます。


【原文】

 さて、参りたれば、ありさまなど問はせ給ふ。恨みつる人々、怨じ、心憂がりながら、藤侍従の一条の大路走りつる語るにぞ、みな笑ひぬる。「さて、いづら、歌は」と問はせ給へば、「かうかう」と啓すれば、「口惜しの事や。上人などの聞かむに、いかでか、つゆをかしきことなくてはあらむ。その聞きつらむ所にて、きとこそはよまましか。あまり儀式定めつらむこそ怪しけれ。ここにてもよめ。いといふかひなし」などのたまはすれば、げにと思ふに、いとわびしきを、言ひあはせなどする程に、藤侍従、ありつる花につけて、卯の花の薄様に書きたり。この歌おぼえず。これが返し、まづせむなど、硯取りに局にやれば、「ただ、これして疾くいへ」とて、御硯<の>蓋に紙などして、たまはせたる。「宰相の君、書き給へ」といふを、「なほ、そこに」などいふ程に、かきくらし雨降りて、神いとおそろしう鳴りたれば、物も覚えず、ただおそろしきに、御格子まゐり渡し、惑ひし程に、このことも忘れぬ。

 いと久しう鳴りて、少しやむほどには暗うなりぬ。「只今、なほこの返事(かへりごと)奉らむ」とて、取りむかふに、人々・上達部など、神の事申しにまゐり給へれば、西面に出でゐて、物聞えなどするにまぎれぬ。こと人はた、さして得たらむ人こそせめとて、やみぬ。なほこの事に宿世(すくせ)なき日なめりとくんじて、「今はいかで、さなむ行きたりしとだに、人におほく聞かせじ」など笑ふ。「今もなどか、その行きたりし限りの人どもにて、言はざらむ。されど、させじと思ふにこそ」と、物しげなる御けしきなるも、いとをかし。「されど、今は、すさまじうなりにて侍るなり」と申す。「すさまじかべき事かは」などのたまはせしかど、さてやみにき。

 

ヘタな人生論より枕草子 (河出文庫)

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五月の御精進のほど③ ~卯の花のいみじう咲きたるを折りて~

 卯の花がすごくいっぱい咲いてるのを手折って、牛車の簾や側面なんかに挿して、余ったのを屋根や棟なんかに長い枝を葺いたように挿したら、卯の花の垣根を牛に掛けたみたいに見えたわ。お供の下男たちもめちゃくちゃ笑いながら、隙間に「ここがまだだ、ここがまだだ」って挿し合ってるの。

 人と会わないかなって思うんだけど、卑しい僧侶や、とりたてて言う甲斐もない身分の低い者ばっかり、それもたまたま見かけるくらいだから、すごく残念で、近くまで帰って来たけど、「このまま帰っちゃうのかな、このいかした車の様子が人の話題にのぼるくらいになってから帰りましょうよ」って一条殿のあたりに停めて、「侍従殿(藤原公信さま)はいらっしゃいますか? ほととぎすの声を聴いて、今帰るところなんです」って使いの者に伝えさせたら、使いの者が「『ただ今、参ります、しばしお待ちを、あなた様』っておっしゃってましたよ。警護担当の控室でリラックスしていらっしゃったんだけど、急いで立ち上がって、指貫をはいてました」って言うの。「待ってられないわよ」って、車を走らせて、土御門の方に出発したら、いつの間に着物を着たのか、帯は道すがら結びながら、「ちょっと、ちょっと」って追いかけてくるのよ。お供の侍3、4人ほども、履き物もはかないで走ってくるみたいなの。で、「早く行って!」って、とっても急がせて土御門に行き着いたら、ハアハア息を切らして喘ぐようにいらっしゃって、この車の様子をめっちゃお笑いになるのよね。

 「気の確かな人が乗ってるっては、到底思えないよ。ほら、下りて見て!」なんて、お笑いになったら、いっしょに走ってきた人たちも面白がって笑うの。「歌はどうです? 聞かせてくれない?」っておっしゃるから、「まず定子さまにお見せした後でね」なんて言ってたら、雨が本降りになってきたのよね。「何で他の門と違って土御門はこんな風に屋根の無い造りにしてるんだろう?? 今日はマジ憎ったらしい」なんて言って、「どうして帰ることができるかな? ここに来るまでは、ただ遅れまいとだけ思って、人目も気にしないで走って来られたんだけど、このまま奥に行っちゃうんじゃ、めちゃくちゃがっかりだよ」っておっしゃるから、「さあ、いらっしゃって、内裏に」って言ったのね。「でも烏帽子でだと、どうだろう?」「取りに行かせなさったらいいんじゃ?」なんて言い合ってたら、雨がさらに大降りになって、笠もない私たちの牛車のスタッフたちは、とにかく車を門の中に強引に引き入れたの。公信さまは、一条殿から傘を持ってきてたのを従者にささせて、振り返りながら、今度はゆーっくりと、気が進まない感じで、卯の花だけを車から取ってお帰りになるのもおもしろかったわ。


----------訳者の戯言---------

「一条殿」というのは、そういうお屋敷があったんだと思います。この当時は藤原為光の邸宅だったようですね。
為光の子がこれまでに何度も登場した藤原斉信(ただのぶ)という男前、女の子には超人気のナイスガイです。清少納言も「ちょっといいかも」と思っている男性ですね。「頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて」「かへる年の二月廿余日」をお読みいただくと、おわかりいただけると思います。
そして、ここで出てきた「侍従殿」というのが、この家の子で斉信の弟、当時の侍従だった藤原公信(きみのぶ)という人のようです。

「侍従」というのは概ね高貴な立場の人物に付き従って、身の回りの世話などをすること、またそれをする人のことを言いました。一般にはおおよそ天皇の身の回りの世話などをする文官のことを侍従と言い、ここで出てきたのは当時の帝の「侍従」であった人(公信)です。
蔵人所もあったので、その辺、蔵人と仕事をどう分担してたのかわかりませんが、やはり次第に有名無実化して、兼任が多くなっていったようです。今は宮内庁にこの特別職が定められているようですね。

清少納言から見ると、同じ名家の子だけど、斉信サマは同年代の才色兼ね備えたエリート。侍従の公信クンは10歳くらい年下のエエトコの子、って感じです、当時は。

土御門というのは、平安京大内裏外郭東面の上東門の異称なのだそうです。上西門も土御門と言いましたが、「西の土御門」と言ったとか。築地(ついじ)を切り抜いた屋根のない門であることからこう言ったようです。

烏帽子。公家は宮中出仕以外の日常これをかぶるんですね。この段では、内裏に入るにはちょっとこれでは、というような言葉が出ました。宮中では必ず「冠」をかぶったからですね。

ここでの主人公は藤原公信クンです。先にも書いたとおり、清少納言より10コくらい年下で、この時二十歳前後。ちょっとコケにしちゃった感じですね。面白がっちゃってます。清少納言も、地の文では彼の言動については基本、敬語使ってるんですが、そうではない部分も混じってたりして、誰の言動か訳しづらいところもありました。しかしこれも清少納言の彼に対する立ち位置を、図らずもあらわしているように思います。
これが、斉信サマだったら、また彼女の態度も表現も変わったんでしょうけれどね。

④に続きます。


【原文】

 卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、かたはらなどにさしあまりて、おそひ・棟などに、長き枝を葺きたるやうにさしたれば、ただ卯の花の垣根(かきね)を牛に懸けたるとぞ見ゆる。供なる男どももいみじう笑ひつつ、「ここまだし、ここまだし」とさしあへり。

 人もあはなむと思ふに、更に、あやしき法師、下衆のいふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いと口惜しくて、近く来ぬれど、「いとかくてやまむは。この車のありさまぞ、人に語らせてこそやまめ」とて、一条殿の程にとどめて、「侍従殿やおはします。ほととぎすの声聞きて、今なむ帰る」と言はせたる、使「『只今まゐる。しばし、あが君』となむのたまへる。侍に間拡げておはしつる、急ぎ立ちて、指貫奉りつ」といふ。「待つべきにもあらず」とて、走らせて、土御門(つちみかど)ざまへやるに、いつの間にか装束(さうぞ)きつらむ、帯は道のままにゆひて、「しばし、しばし」と追ひ来る。供に侍三四人ばかり、ものもはかで走るめり。「とく遣れ」と、いとどいそがして、土御門に行き着きぬるにぞ、あへぎまどひておはして、この車のさまをいみじう笑ひ給ふ。

 「うつつの人の乗りたるとなむ、更に見えぬ。猶下りて、見よ」など笑ひ給へば、供に走りつる人どもも興じ笑ふ。「歌はいかが。それ聞かむ」とのたまへば、「今、御前に御覧ぜさせて後こそ」などいふ程に、雨まこと<に>降りぬ。「などか、こと御門(みかど)々々のやうにもあらず、<この>土御門しも、かう上もなくしそめけむと、今日こそいとにくけれ」などいひて、「いかで<帰>らむとすらむ。こなたざまは、ただおくれじと思ひつるに、人目も知らず走られつるを、奥行かむことこそ、いとすさまじけれ」とのたまへば、「いざ給へかし、内裏へ」といふ。「烏帽子(えぼうし)にては、いかでか」「取りにやり給へかし」などいふに、まめやかに降れば、笠もなき男ども、ただ引きに引き入れつ。一条殿より笠持て来たるを、ささせて、うち見かへりつつ、こたみはゆるゆると物憂げにて、卯の花ばかりを取りておはするもをかし。

 

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

枕草子 上 (ちくま学芸文庫)

 

 

五月の御精進のほど② ~かくいふ所は~

 目的地は、高階明順(たかしなのあきのぶ)朝臣の家だったの。「そこも見物しましょ!」って私が言って車を寄せて下りたのね。田舎風で、よけいな装飾もなくって、馬の絵が描かれた障子、網代張りの屏風、三稜草(みくり)の簾なんかで、特別に昔の雰囲気を出してるのよ。家の様子も頼りなさげで、廊下みたいに細長くって、幅が狭くて奥行きもないんだけど、風情はあってね。ほんとにうるさく思うくらいに鳴きまくるほととぎすの声を、定子さまにお聞かせできないのは残念、あんなに来たがってた人たちを差し置いて、とも思ったりもしたわ。

 「こういう所では、こういうことを見るといいでしょうね」って朝臣がおっしゃって、稲を取り出して、若くてこざっぱりとした下女や、近所の家の娘なんかを連れてきて、5、6人で稲こきをさせたり、また、見たことないくるくる回る器具を二人がかりで挽かせて、歌を歌わせたりするのが珍しくて、笑っちゃう。ほととぎすの歌を詠もうとしてたのも忘れちゃったわ。
 唐絵(からえ)に描いてあるような懸盤でお料理が出されたんだけど、誰も見向きもしなくって、家の主人(明順朝臣)は「すごく粗末なものですけどね。こんな所に来た都の人は、下手をすると主人が逃げ出しちゃうくらい、食べ物を催促してこられるんです。なのに全然手をつけないのでは、都から来た人っぽくないですよ」なんて言って、座をとりなして、(朝臣)「この下蕨は私が自分で摘んで来たんです」なんて言ったり、(清少納言)「どうして、こんな女官なんかみたいにきっちり並んで座ってるんでしょ??」とか言って笑ったら、(朝臣)「じゃあ、懸盤から下ろしてお召し上がりくださいよ。いつも腹ばいに慣れてらっしゃる方たちですからね」って、お食事の準備で騒いでるうちに、従者が「雨が降ってきました!」って言うもんだから、急いで車に乗って。「さあ、ほととぎすの歌はここで詠みましょうよ」なんて言うんだけど、「それはまあ、そうなんだけど、道中でもいいじゃないですかぁ」なんて言って、みんな車に乗っちゃったのよね。


----------訳者の戯言---------

まず行ったのは、高階明順(たかしなのあきのぶ)の家でした。明順は定子の母(高階貴子)方の伯父にあたります。京都の郊外の別荘だったらしく、建物の造りやインテリアをあえて田舎風、カントリーテイストにしてあったようですね。

八色の姓(やくさのかばね)という制度があり、「真人」=皇族というのが最高位なんですが、その次の「朝臣」というのが、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるとされています。まあ、当時の身分制度の基礎になっていた要素の一つと言えるでしょうか。かの在原業平がたしか朝臣だったと思います。

網代」は木や竹を編んだものです。「網の代わり」と書いたわけですから、形状は想像できますね。「枕草子」には実はこれまでにも何回か出てきていて、「春の網代」なんていうのが書かれた段もありましたね。本来、冬に使うべき漁業用の仕掛けでした。「網代車」という牛車もありました。檜の薄板を網代に組んで屋形を覆った車ということでしたね。

三稜草(みくり)は、「池は」の段で出てきました。「ミクリ科の多年草。各地の池や溝などの浅い水中に生える。高さ六〇~九〇センチメートル。地下茎がある。葉は根ぎわから生え剣状で基部は茎を抱く。六~八月梢上に小枝を分け球状の白い花穂をつける。雄花穂は花軸の上部に群がってつき、雌花穂はその下部にまばらにつく。果実は卵球形で緑色に熟す。茎でむしろなどを編む。漢名、黒三稜。やがら。三稜。」となっていました。(精選版 日本国語大辞典
今回出てきた三稜草は、筵(むしろ)ではなく、簾にしたようですね。

原文にある「くるべく」は漢字では「転べく」と書きます。「くるくる回る」という意味らしいです。

「懸盤(かけばん)」は、食器をのせる台だそうですね。

下蕨は、春、草の下などに生え出た小さいワラビのことだそうです。おいしいです(たぶん)。

さて、ほととぎすの声を聴きにドライブ!の②です。
定子さまの伯父様、高階明順朝臣のお宅で、結構遠慮なくやってます、この御一行。お米を挽くとこをみせてもらったり、カントリーライフをちょっぴり体験。田舎風のお料理もね。
とかやってると、歌を詠むのを忘れてました。ほととぎすの声を聴いたら歌を詠む、というのは、当時の都の貴族においてはワンセットですから、ここで詠んでおかないとねという感じですか、いやいやまあ、車の中で詠んでもいんじゃね?という意見も。

③に続きます。


【原文】

 かくいふ所は、明順(あきのぶ)の朝臣の家なりけり。「そこもいざ見む」といひて車よせて下りぬ。田舎だち、ことそぎて、馬の絵(かた)かきたる障子(さうじ)、網代あじろ)屏風、三稜草(みくり)の簾(すだれ)など、ことさらに昔のことを写したり。屋(や)のさまもはかなだち廊(らう)めきて端近(はしぢか)に、あさはかなれどをかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりに鳴きあひたるほととぎすの声を、口をしう、御前に聞こしめさせず、さばかり慕ひつる人々をと思ふ。「所につけては、かかる事をなむ見るべき」とて、稲といふものを取り出でて、若き下衆どものきたなげならぬ、そのわたりの家のむすめなど、ひきゐて来て、五六人してこかせ、また見も知らぬくるべくもの二人して引かせて、歌うたはせなどするを、めづらしくて笑ふ。ほととぎすの歌よまむとしつる、まぎれぬ。唐絵(からゑ)にかきたる懸盤(かけばん)して、もの食はせたるを、見入るる人もなければ、家のあるじ、「いとひなびたり。かかる所に来ぬる人は、ようせずは、あるじ逃げぬばかりなど、責め出だしてこそ参るべけれ。無下にかくては、その人ならず」などいひて、取りはやし、「この下蕨(したわらび)は、手づから摘みつる」などいへば、「いかでか、さ女官などのやうに、着き並みてはあらむ」など笑へば、「さらば、取りおろして。例の、はひぶしにならはせ給へる御前たちなれば」とて、まかなひ騒ぐ程に、「雨ふりぬ」といへば、急ぎて車に乗るに、「さて、この歌はここにてこそ詠まめ」などいへば、「さはれ、道にても」などいひて、みな乗りぬ。

 

日本の古典をよむ(8) 枕草子

日本の古典をよむ(8) 枕草子