うへに候ふ御猫は③ ~暗うなりて~
あたりが暗くなって、ご飯をあげても食べないから、結局翁丸ではない犬だって結論に達してね、翌朝早く定子様が髪をセットして、お顔を洗うもんだから、私、参上して、鏡をお持たせになってご覧になるためお側に侍ってたら、犬が柱のところにいるのを見つけて。「かわいそう。昨日は翁丸をひどく叩いたものね。死んじゃったそうだけど…哀しいわね。今度は何に生まれ変わったのかなぁ。どんなにか辛かったでしょう…」ってつぶやいたら、そこにいたその犬が震えわなないて、涙をポロポロこぼすの、すごくびっくりしちゃった。
やっぱり、翁丸だったんだね。昨夜は自分のことを隠して、耐えてたんだろうって、哀れなだけじゃなく、それに加えて、素敵に思えることこの上なくて。鏡を置いて、「あなたは翁丸なの?」って聞いたら、地面に突っ伏して、大きく鳴いたの。
定子さまがすごくお喜びになって。右近内侍を呼び寄せて、「こうこうこういうわけなのよ」っておっしゃったら、女房たちもみんなにぎやかに笑って、その騒ぎを天皇もお聞きつけになって、定子さまの部屋に来られたのね。
「驚きだね、犬にだってこんな心があるもんなんだね」って、お笑いになっられて。
天皇のお付きの女房たちもこれを聞きつけて、集まってきて翁丸の名前を呼んだら、そのたび跳ね回るのよ。「でもまだ、顔なんか腫れてるものね。手当てをしてあげないと」って私が言うと、「とうとうこの犬が翁丸だってことを白状したわね」なんて笑うもんだから、源忠隆がこれを聞きつけて、台所の方から、「本当ですか。翁丸が見つかったって! 拝見させていただきます」って言ってきたから、「あら、ひどい。絶対そんな犬いないですわ」ってスタッフに言わせたら、「とは言っても、私が見つけてしまう時もございますでしょうし。そんなに隠しおおせることはできないでしょう」と言うのね。
こうして翁丸は帝から許されて、元通りに戻ったの。でも、犬がカワイソがられて震えて泣き出すのなんて、今まで聞いたこともないくらい、素敵で感動しちゃったわ。人間なら人から言葉をかけられて泣いたりすることはあるんだけどね。
----------訳者の戯言---------
内侍というのは前にも出てきましたが、帝の側室(候補)もいる、女性だけの部署「内侍司」の女子職員です。ここでは「右近内侍」という人が登場していますね。これは固有名詞。一条天皇のスタッフだった女官の一人の名です。
「内侍司」には側室がいるというだけではなく、もちろん色々な仕事もありました。今で言うなら、秘書課、総務課、庶務課あたりの役割だったのではないかと思います。
内侍司には尚侍という長官(カミ)が2名、典侍(スケ)という次官が4人、その下に掌侍(ジョウ)が6人いたそうです。
内侍司も最初のうちは、トップの尚侍(カミ)やナンバー2の典侍(スケ)も所謂女官だったらしいですが、このあたりの人はそのうち皇妃に準ずる立場、つまり側室、妾となったそうですね、実質的には。ってことは、実際に中心となってこの部署の仕事をしたのは掌侍(ジョウ)ということでしょうか。
で、さらにこまごまとした雑用をした女孺(にょじゅ/めのわらわ)というスタッフが100人いたらしいです。
さて本段。賢い犬の話です。
っていうか、正直、虐待がかわいそう過ぎて、後半、なかなか頭に入ってこない。
今の常識からすると、一条天皇も、源忠隆らもオカシイ人でしかないですね。
犬に感動するより先にそっちだろ!と思います。特に一条天皇ね。自分が「シバいて捕まえて流刑にせい!」って言っておいて、最後には「驚き! 犬にもこんな心があるものなの」と、しれっと言うメンタル。
しかし、いくらやりたい放題でも、さすがに清少納言も天皇批判はできません。
巧みに「犬に感動した話」に持っていってます。
官僚が安倍首相に忖度するようなもんですね。
この記事を最初に書いたのが2018年ですから、まだ安倍政権時代で、森友問題、加計学園問題、それに伴う公文書改ざんの問題などが露呈していた頃です。この後さらに「桜を見る会」の問題なども出てきました。安倍さんは亡くなりましたが、ああいう権力者への忖度、というのはまじで非常に大きな問題がありましたね。もちろん統一教会との癒着もどうかと思いました。(2023/8/1追記)
【原文】
暗うなりて、物食はせたれど、食はねば、あらぬものに言ひなしてやみぬる、つとめて、御けづり髪、御手水など参りて、御鏡を持たせさせ給ひて御覧ずれば、候ふに、犬の柱もとにゐたるを見やりて、「あはれ、きのふ翁丸をいみじうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身にこのたびはなりぬらむ。いかにわびしきここちしけむ」とうち言ふに、このゐたる犬のふるひわななきて涙をただ落しに落すに、いとあさまし。さは、翁丸にこそはありけれ。昨夜は隠れ忍びてあるなりけりとあはれにそへて、をかしきこと限りなし。御鏡うち置きて、「さは、翁丸か」と言ふに、ひれ伏していみじう泣く。
御前にもいみじうおち笑はせ給ふ。右近の内侍召して、「かくなむ」と仰せらるれば、笑ひののしるを、上にも聞こしめして渡りおはしましたり。「あさましう、犬などもかかる心あるものなりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房なども聞きて、参り集まりて呼ぶにも、今ぞ立ち動く。「なほこの顔などの腫れたる。物のてをせさせばや」と言へば、「つひにこれを言ひあらはしつること」など笑ふに、忠隆聞きて、台盤所の方より、「まことにや侍らむ。かれ見侍らむ」と言ひたれば、「あな、ゆゆし。さらにさるものなし」と言はすれば、「さりとも、見つくるをりも侍らむ。さのみもえ隠させ給はじ」と言ふ。
さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき。なほあはれがられて、ふるひ泣き出でたりしこそ、よに知らずをかしくあはれなりしか。人などこそ人に言はれて泣きなどはすれ。
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