枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

七月ばかりいみじう暑ければ①

 七月の頃になっても、めちゃくちゃ暑いから、家のあちこちを開け放って夜を明かすんだけど、月のキレイに見える頃、不意に目覚めて外を見たら、とっても素敵に感じるんですよね。月が出てなくて真っ暗なのもまたいい感じなの。有明の月はもう言葉にするのも愚かなくらい、素敵なのよね。

 とってもピカピカできれいな床板の部屋の端に、ま新しい畳を一枚敷いて、三尺の几帳を部屋の奥の方に押しやってるのは、なんか違う感じ。几帳はそもそも外向きの出入口側に立てるべきものなんだけどね。奥のほうが気になるんでしょうか。

 恋人は帰ってしまったのでしょうか、裏がとっても濃くて表は少し色褪せた風の薄色の衣、じゃなければ、元々光沢がある濃い色の綾織で、まだそんなには柔らかくなってないのを、頭の方まで被って寝ているの。
 香染の単衣、もしくは黄色の生絹の単衣、紅の単衣、袴の腰紐がすごく長く、衣の下から引き出されたまま着てるっていうのも、まだ衣が解けたまま、っていうことなんでしょう。

 衣から出てる髪はまとまっててしかもふわっとボリュームがあるから、その長さもなんとなくわかるの。で、またどこからか、朝方になってとっても霧が立ち込める中、二藍の指貫、あるかないかの色の香染の狩衣、白い生絹に紅色が透けてるのが、艶っぽくて、霧でかなり湿ってしまったのを脱いで、ヘアスタイルもちょっとぼさぼさに乱れてるし、烏帽子を無理してかぶってる感じも、だらしなく思える人が…。


----------訳者の戯言---------

有明(ありあけ)というのは、「まだ月があるうちに夜が明けること」だそうです。明るくなってきた空に、うっすら白い月が浮かんでいる様子ですね。

几帳は今で言うところのパーテーション。衝立です。

薄色」は単に薄い色を指すのではなく、色の名前です。やや赤みのあるとても薄い薄紫です。ここに書かれているようにまるで褪せた色のようでもあります。

香染は丁子で染めたもので、薄い茶色です。以前出てきた「香色」よりは濃いですね。カフェラテの色ぐらいの感じ。同じ丁子で染めても媒染剤というものを使うと「香染」の濃さが出るらしい。

前にも書きましたが、狩衣はインフォーマル、カジュアル系です。

ふくだみたる。というのは、ぼさぼさになる、とか、けばだつという意味です。そういえば「すさまじきもの」で、手紙の紙がぼさぼさになってて…というくだりがありましたね。

ちょっと、後半を読んでいない時点では、なんか異様な感じです。今の感覚から言うと、セキュリティ、そんな無防備でいいのか?とも思うくらいですね。もちろんハード部分だけではなくて、この女子、メンタル的にもだらしない感じしかしないです。

それとも、あえてアンニュイな感じを味わう段なのですか。最後に出てきた男も何か怪しいですしね。

当時はこんなもの、これが常識的範疇にあった、むしろ当時の情緒であった、と、たぶん言われるんでしょうけどね。もしそうなら、平安貴族などというもの、これについては良いセンスではないな、と私、思います。

そんなことを感じつつ、後半に続きます。


【原文】

 七月ばかりいみじう暑ければ、よろづの所あけながら夜もあかすに、月の頃は寝おどろきて見出だすに、いとをかし。闇もまたをかし。有明、はた言ふもおろかなり。

 いとつややかなる板の端近う、あざやかなる畳一枚(ひとひら)、うち敷きて、三尺の几帳、奥の方におしやりたるぞあぢきなき。端にこそ立つべけれ。奥の後ろめたからむよ。

 人は出でにけるなるべし、薄色の裏いと濃くて、上は少しかへりたるならずは、濃き綾のつややかなるが、いとなえぬを、かしらこめに引き着てぞ寝たる。香染の単衣、もしは黄生絹の単衣、紅(くれなゐ)の単衣、袴の腰のいとながやかに、衣の下よりひかれ着たるも、まだ解けながらなめり。

 外(そと)のかたに髪のうちたたなはりてゆるらかなるほど、長さおしはかられたるに、またいづこよりにかあらむ、朝ぼらけのいみじう霧り満ちたるに、二藍の指貫に、あるかなきかの色したる香染の狩衣、白き生絹に紅のとほすにこそはあらめ、つややかなる、霧にいたうしめりたるを脱ぎ、鬢の少しふくだみたれば、烏帽子のおし入れたるけしきも、しどけなく見ゆ。


検:七月ばかりいみじう暑ければ 七月ばかりいみじうあつければ

小白河といふ所は④ ~朝座の講師清範~

 朝の説経の講師、清範は、ステージの上も光りに満ちた気がして、ものすごく素晴らしかったわ。でも暑さがとんでもない上に、やりかけてて今日置いたままにできない仕事をそのまんまにして来たから、私はほんのちょっとだけ聞いて帰ろうとしてたんだけど、次々と車が続いてて、会場から出る術もなかったのよね。朝の部が終わったから、やっぱり出て行こうって、前に並んでる何台かの車に声をかけたら、近くに駐車してた車が、私が出ていくのがうれしいのかな、どうぞどうぞ早く早く、って車を引き出してスペースを空けてくれたんだけど、その様子をご覧になって、老上達部の皆さんは、すごく騒々しく笑って、私が帰ってしまうことを咎められるの。でも、それはあえてスルーして、無理やり狭っ苦しいところから抜け出したら、権中納言(義懐)さまが「いやいや、帰っちゃうのもいいもんさ」って微笑まれたのは、とっても素敵なお気遣いだったわ。でも、そんな言葉もしっかりと耳にとどめる間もなく、暑さで朦朧としながら出ていって、人を遣わして「(こう暑くては)あなた様も五千人の中に入るかもしれませんよね」とだけ伝えて、帰ってきたの。

 八講の初日から最終日まで、ずっと駐車してた牛車があったんだけど、人が近寄って来る様子もなく、まったく、ただただ意外に思うくらい、絵みたいに動かずに過ごしてたのね。それが珍しく、素晴らしいって、義懐さまは心惹かれたのかしら、車の主はどんな人なんだろう、どうやったらその人のことを知ることができるんだろうと、尋ね回ってるって。それをお聞きになって、藤大納言(藤原為光)さまなんかは「何がすばらしいのかねえ。全然気に入らないよね。普通じゃない者に違いないさ」って、おっしゃったの、おかしかったわね。

 さて、その月の二十日過ぎ、中納言(義懐)さまが出家なさったのは、悲しいことでした。桜なんかが散ってしまうのはさすがに世の常としても。「おくを待つ間の」とは言われるけど、そんなことも言えないくらいに、義懐さまは立派なお姿でいらっしゃいましたわね。


----------訳者の戯言---------

清範というのは、この日、朝の部の講師をやったお坊さんなんですね。調べると962年生まれなので、986年にはまだ24、5歳。ある意味、今のアイドルに近い物を感じますね。実際、人気あったらしいです。

鎌倉時代に仏教の新興宗派が出てきた頃には、アイドルお坊さんによる、仏教イベントに関わる国家的事件「承元の法難」というのがあったそうです。詳しくは、拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の第二百二十七段 「六時礼賛」は をご覧いただけると詳解しています。興味のある方はご覧ください。

原文に出てくる「しきなみに」です。漢字で「頻並みに」と書くようです。頻繁、頻度の「頻」ですね。「あとからあとから続くさま」を表すそうです。ここでは渋滞の様子を表していますね。

「かしがまし」は「囂し」と書くそうです。知らん。見たことないっす、こんな字。聞いたこともないし、もちろん書いたこともない。まあ、古語ですから当然ですか。と思って調べると、谷崎潤一郎の小説には出てくるらしい。「雨蛙の啼くのが前よりも繁く、囂しく聞える」とね。さすが文豪、小説家。現時点では金田一秀穂と林先生なら知ってるかも。プレバトの俳句の先生とかね、今、日本でこの字を書けるのはそのあたりぐらいでしょう。私、明日には忘れている自信あります。

うるさい、騒々しいという意味ですね。今、わざわざ「囂しい」という語を使う必要性がないんですよね。そりゃあ廃れます。仕方ないです。言葉とはそういうものだ。

いらへ。漢字では「答へ」「応へ」だそうです。意味はまあそういうことなんでしょうね。

さて、「五千人の中に入る」です。これは「五千起去」という故事があり、それに基いて言った言葉のようですね。ウィキペディアには次のように書かれています。

法華経』「方便品第二」において、釈尊が大事な教えを説こうとした時、その会座にいた5000人の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、すなわち男女の出家・在家修行者たち)が、すでに妙果(悟り)を得ていると自惚れていたために聞こうとせずに起立して去ったことを「五千起去」、「五千上慢」などという。

なるほど、これは当時としては、一般常識的なことだったのでしょうか。ただ、二十歳前の女子が、中納言やってる27、8のお兄さんに「(こう暑くては)あなた様も五千人の中に入るかもしれませんよね」って返すのが、まあ、清少納言清少納言たる所以なんでしょう。生意気っちゃあ生意気です。
ただ、清少納言藤原義懐は遠縁だったとか、清少納言の才覚を買っていて、出仕の際に世話をしたとかの説もあり、何らかの知り合いだった可能性はあります。

「おくを待つ間の」は、「白露の置くを待つ間の朝顔は見ずぞなかなかあるべかりける」という昔の和歌から来ています。
「白露がついて消えるまでの間だけの朝顔なんか見なかったほうがよかった」という訳になるでしょうか。意味は「はかない美しさなんて、かえってむなしくて悲しいだけなので見たくない」ということでしょう。

本題です。

何の予備知識もないまま読み進めてきましたが、意外な方向に話が進みました。
ナンパの話かと思っていたんですけど、私。少しびっくりしたというか、あれれという感じですね。

この段、確認してみると「寛和の変」という政変の数日前のことでして。言うなれば、「クーデター前夜の出来事」的なお話でした、なんと。

詳しくはお調べいただくといいのですが、当時の花山天皇の伯父だったのが、この段の主人公・藤原義懐。もっと書くと、この段でちょいちょいチャチャを入れてくる大納言の藤原為光という人は義懐の妻の父、つまり義父だそうですね。義懐の妻の妹(つまり為光の娘)の、し(漢字はりっしんべんに氏)子という人が、花山天皇の女御にもなっていたりして、このグループはかなり親密な感じです。もちろん、藤原義懐花山天皇の気鋭の側近です。実は花山天皇はこの頃、まだ17歳ぐらいでした。

ちなみに、花山天皇は「かざん天皇」と読みます。お間違えないように。

花山天皇は「し子」というこの女御を寵愛したんですが、早くに病気で亡くしてしまいます。17歳で「寵愛」ですからね17で。どうしましょ。さておき、このことで出家を考えはじめた花山天皇、右大臣・藤原兼家の陰謀で本当に出家してしまいます。(実行部隊は息子の道兼)で、これによって、側近中の側近だった藤原義懐も出家せざるを得ない状況に追い込まれる、と。これが「寛和の変」と呼ばれているものです。

藤原兼家の娘・詮子は円融天皇の女御であり一条天皇の母です。藤原兼家は、このクーデターで天皇になった一条天皇の祖父というポジションに至った、ということになります。公には「摂政」となりこれでカンペキな権力を手に入れたわけですね。

実は、この陰謀の首謀者・藤原兼家は、この段にも出てきている三位の中将=道隆(つまり中宮・定子の父)の父親でもあります。実行部隊長の道兼は道隆の弟。はたして藤原道隆はこの陰謀を知っていたのでしょうかね。

いずれにしても、これを経て藤原兼家以降、摂関は世襲となりました。後から考えると、歴史的にもすごく重要なポイントだったのですね。もう少し細かく言うと、道隆の後、弟・道長がさらに体制を固め、以後ずーっと、子孫にまで権力を保持していった、ということになります。

後年起こる、道隆の息子・伊周と道長の覇権争いについては、大進生昌が家に①にも余談として少し書きました。そこにも花山上皇が登場してましたね。そう、伊周・隆家兄弟が襲撃した事件です。

ちなみにこのイベントの会場主(タイトルの「小白河といふ所」の家長・藤原済時)は、あの村上天皇との「古今和歌集当てっこゲーム」で圧勝した宣耀殿女御=藤原芳子のお兄さんです。今回のストーリーとはあんまり関係ないですが、この人はどちらかというと、反・兼家派。でも道隆とは飲み友達で親密だったらしい。清涼殿の丑寅の隅の③ ~村上の御時に~ 参照。

とまあ、ややっこしい関係、いろいろな因縁がありすぎる当時の社会。読んでいる方は結構疲れます。バックグラウンドを把握するのも大変ですし。これだけ調べても、ごくごくほんの一部しかわかりようがないですからね。

だいたい長いし。

清少納言的には、自分の仕える家の側の陰謀によって、キラキラ素敵だった義懐お兄さまが第一線から一転して出家、僧侶になってしまったあの日あの頃のことを思い出して書いているのが、このお話。立ち位置も心情的にも微妙です。当然、陰謀や政変については具体的に触れてはおらず、これがギリギリの表現かと思います。
それでも、敢えてこれを書いたのは、やはり義懐へのシンパシーが強く残っていたからだと思います。あの頃淡い恋心に近いものもあったのかもしれません。
とすると、私的にクライマックスは、「帰っちゃうのもいいもんさ」「あなた様も五千人の中に入るかもしれませんよね」のやりとりです。

いずれにしてもこの段、エネルギー使いましたよ。次もまあまあ長いです。では。


検:小白河といふ所は

 

 

現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)

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小白河といふ所は③ ~後に来たる車の~

 後で来た車は、停めるスペースがないから、池の方に寄せて停めたんだけど、藤原義懐さま、それをご覧になって、(藤原)実方さまに「状況をうまく伝えられる使者を一人寄こしてよ」ってオーダーしたところ、どんな人だかを人選して連れておいでになったのね。「何て声掛けるのがベストなんかな」って、近くに座ってる人たちで相談して、結果、どう声掛けたのかは聞こえなかったのだけど。で、そのメッセンジャー的な人(使者)が入念に用意してから、その牛車のところに歩いて行ったのね。義懐さまは、またそれを見てお笑いになるのよ。メッセンジャー氏が牛車の後方部分に近づいて何か言ったんだけど、それからかなり時間が経ったもんだから、「歌なんか詠んでるのかなぁ。兵衛府の次官(実方)殿、返歌考えといてよ」なんて笑って、早く返事を聞こうとそこにいる人たちは、年長の上達部まで、みんなが車のほうに注目してらっしゃるのよ。ホント、そんなトップクラスの方々までそれを凝視してるのは面白いできごとだったわ。

 返事を聞いたのか、使者(メッセンジャー)クンが少し歩いてきたところで、車の女子が扇を差し出してまた呼び戻したもんだから、歌の文字とかを言い間違えたんだとしても、こんな風に呼び戻すかなぁ? 呼び戻さないよねぇ、って。時間かかっちゃったんだから、元々そうだったトコはもう直さなくてもいんじゃない?って思ったの。
 使者クンが近くまで戻ってくるのも待ちきれず、「どうだった?」「どうだった?」って、みんなお聞きになって。でも彼は何にも言わず、権中納言(義懐)さまにまず先に申し上げないと、って近づいてって、テンション高めな様子で報告したの。三位の中将(藤原道隆)さまが「早く言いなさい。あまり考えすぎて、言い間違えるんじゃないよ」っておっしゃったんだけど、「これもまぁ同じような(言い間違えみたいな)ものでございます」って答えたのは、聞こえたの。

 藤大納言(藤原為光)さまは誰よりも熱心に覗き込んで、「何て言ってきたの?」っておっしゃるから、三位の中将(藤原道隆)さまが「とてもまっすぐな木を無理やり曲げようとして折っちゃった、的な~」って申し上げられたもんだから、大納言さま、爆笑されて、それに反応して、みんな何気にどっと笑ったその声、車にまで聞こえたかしらね。

 中納言(義懐)さまが「じゃあ、呼び戻される前は何て言ってたの? これは変更後のでしょ」ってお聞きになったら、「長いこと立っておりましたが、何もございませんでしたから、『では戻りましょうかね』と帰ろうとしたら、呼ばれまして」とか言うの。「いったい誰の車なんだろう、知ってらっしゃる?」なんて不思議がられて。「じゃ、次は歌を詠んで送ろかな」とか、おっしゃってるうちに、講師が来られたので、みんな静かに座って、講師の先生のほうだけを見てるうちに、あの牛車はかき消されるように、いなくなってしまったの。
 下簾なんかは今日おろしたてのように見えて、濃い色の単襲に二藍の織物、蘇枋の薄物の上着、そして牛車の後ろ側にも模様を刷り出した裳をそのまま広げて垂らしたりなんかして。誰なんでしょうね…? いったいまたどうしたのかしら?(でもこんな風に消えるようにいなくなるのが)中途半端な返事をするより、実は「もっとも」だと感じられて、かえってすごくいいんじゃないかしら、と思うのよね。


----------訳者の戯言---------

この段の主人公、中納言藤原義懐のアクション開始です。本領発揮と行くのでしょうか。

「顕証」というのは、はっきりしているとか、際立っているという意味だそうです。トップクラスの方々、お偉方、という感じかもしれません。

藤大納言。誰ですか?
調べてみました。私がネットで見つけたのは、藤原忠家藤原為光、藤原公通の3人でした。が、たぶん、「藤大納言」なんて、もっとたくさんいるんじゃないかと思います。通称でしょ。藤原だらけですものね、当時の貴族。その中で大納言になった人なんて相当数いるはずですからね。
フィクションですが、「源氏物語」にも出てきているぐらいです。(『右大臣の四の君』の兄)
源氏物語には、モデルはいたとしても一応架空の人物しか登場しませんから、実在人物の固有名詞は出てきません。そこに出てくるわけですから、「藤大納言」すでに普通名詞化してる感じですね。

で、ここでは年齢(生没年)から考えて、藤大納言=藤原為光という人、とするのが正解だと思います。

「いとなほき木をなむおしをりためる」を、私、「とてもまっすぐな木を無理やり曲げようとして折っちゃった、的な~」と訳してるんですが、意味としては、「そのままだと正当でちゃんとしたものだったのに、無理やり技巧を凝らそうとして失敗作になったんじゃね?」というイメージだと思います。

下簾。「牛車の前後の簾の内側にかけて垂らす二筋の長い布。多くは生絹を用い、端が前後の簾の下から車外に出るように垂らし、女性や貴人が乗る場合に、内部が見えないように用いたもの」だそうです。長細い、カーテンみたいなやつですね。

単襲(ひとえがさね)は当時の女性の衣です。「裏をつけずに、袖口・裾などの縁を撚って仕立てた単衣(ひとえぎぬ)を数枚重ねること。女性が夏季に用いた」とのこと。

二藍はよく出てくる色です。「過ぎにし方恋しきもの」の解説部分を参照いただければと思います。
蘇枋は一つ前の記事「小白河といふ所は② ~少し日たくるほどに~」の解説部分にも書きました。

裳というのは、「腰から下につけ、後ろへ長く引いた衣装」なんだそうですね。

ここの部分の最後のところが、また難解でした。訳しにくい。あれこれ考えた末行きついたのが、この訳です。原文のテイストもある程度生かせてると思うのですが、いかがでしょうか。

さて、ナンパ師・義懐、ナンパ失敗の巻です。

しかし、顔も見ずに女子をナンパしたわけですね。もちろん当時、貴族の恋愛初期段階は御簾越しに、歌を交わすことなんかで盛り上がるというのが、恋愛の過程にあって、男女ともに、教養とか、センスとか、そういうものがかなり重要な要素だったということはわかります。

しかし、とはいえ。仮にナンパが成功したとしても、「あちゃー」っていうことも当然あるはずですからね。

まあ実は結構ライトにこういうことやってるんだということがわかりました。メッセンジャー使ってねぇ。彼も大変ですね。で、周りのお偉方も興味津々という。一応この人たち、国政をつかさどってるトップクラスの政治家や役人たちですからね。
しかもそのナンパ師をステキだわと思う女子(清少納言)もいて、さらに、その清少納言ときたら、ナンパされた女子に対しても、そのナンパの拒否り方をかなり高評価するという展開。意外性盛りだくさんです。

では、この段の顛末④に続きます。


【原文】

 後に来たる車の、ひまもなかりければ、池に引きよせて立ちたるを、見給ひて、実方の君に、「消息をつきづきしう言ひつべからむ者一人」と召せば、いかなる人にかあらむ、選(え)りて率ておはしたり。「いかが言ひやるべき」と、近うゐ給ふ限りのたまひあはせて、やり給ふ言葉は聞こえず。いみじう用意して車のもとへ歩みよるを、かつ笑ひ給ふ。後(しり)の方によりていふめる。久しう立てれば、「歌などよむにやあらむ。兵衛の佐、返し思ひまうけよ」など笑ひて、いつしか返りごと聞かむと、ある限り、おとな上達部まで、みなそなたざまに見やり給へり。げにぞ顕証の人まで見やりしもをかしかりし。

 返事聞きたるにや、少しあゆみ来るほどに、扇をさし出でて呼びかへせば、歌などの文字言ひあやまりてばかりや、かうは呼びかへさむ、久しかりつるほど、おのづからあるべきことはなほすべくもあらじものを、とぞおぼえたる。近う参りつくも心もとなく、「いかに」「いかに」と、たれもたれも問ひ給ふ。ふとも言はず、権中納言ぞのたまひつれば、そこに参り、けしきばみ申す。三位の中将「とくいへ。あまり有心すぎて、しそこなふ」とのたまふに、「これもただ同じことになむ侍る」といふは聞こゆ。

 藤大納言、人よりけにさしのぞきて、「いかが言ひたるぞ」とのたまふめれば、三位の中将「いとなほき木をなむおしをりためる」と聞こえ給ふに、うち笑ひ給へば、みな何となく、さと笑ふ声、聞こえやすらむ。

 中納言、「さて呼びかへさざりつるさきは、いかが言ひつる。これやなほしたること」と問ひ給へば、「久しう立ちて侍りつれど、ともかくも侍らざりつれば、『さは帰り参りなむ』とて帰り侍りつるに、呼びて」などぞ申す。「誰が車ならむ、見しり給へりや」などあやしがり給ひて、「いざ、歌よみて、この度はやらむ」などのたまふほどに、講師のぼりぬれば、みなゐしづまりて、そなたをのみ見るほどに、車はかい消つやうに失せにけり。下簾など、ただ今日はじめたりと見えて、濃き単襲(ひとへがさね)に二藍の織物、蘇芳の薄物のうは着など、後(しり)にも摺りたる裳、やがてひろげながらうちさげなどして、何人ならむ、何かはまた、かたほならむことよりは、げにときこえて、なかなかいとよしとぞおぼゆる。


検:小白河といふ所は③

 

 

こころきらきら枕草子 ~笑って恋して清少納言

こころきらきら枕草子 ~笑って恋して清少納言

 

 

小白河といふ所は② ~少し日たくるほどに~

 少し日が昇ってきた頃、三位の中将、っていうのは後の関白殿(藤原道隆)のことなんだけど、香色を使った薄手の二藍の直衣、同じく二藍の織物の指貫、濃い蘇芳の下袴、張りのある白い単衣のとっても鮮やかなのをお召しになって、歩いて入られたのは、こんなに軽やかで涼しげな人たちの中だと、暑苦しい感じではあるんだけど、すごくすごく素晴らしく見えたのです。
 朴(ほう)の木、塗骨など、骨の種類は変わってても、赤い紙を張ったのを、みんな一様に使ってらっしゃるのは、撫子がたくさん咲いてるのにすごくよく似てるの。
 まだ講師も参上してないうちに、懸盤を持ってきて、何かしら載っけてるのかな、お食事をするんでしょうね。

 中納言藤原義懐(よしちか)さまのお姿は、いつもよりいっそう素敵でいらっしゃるの、この上なくって。みんな色合いも華やかで、とっても香り立ってて、どの方が上回ってるとも言えない中、帷子を中に着てはいるんだけど、それをまるで、ただ直衣一枚だけを着てるかのように着こなしてて、ずっと停まっている牛車の方を見つめてて、何か話しかけてらっしゃるのを、いかしてると思わない人はいなかったでしょうね。


----------訳者の戯言---------

藤原道隆というのは、言うまでもなく中宮定子の父です。が、定子はこの時はまだ一条天皇に入内はしていません、ていうか、天皇はまだ花山天皇の時代です。ですので、「後の関白殿」なわけですね。これ書いたのはたぶん、10年以上後でしょうから、道隆は関白となり、その後すでに亡くなっていたのではないでしょうか。それでも、さすが、定子様に仕える身、道隆をヨイショしておくことは忘れません。というか、清少納言は定子様大好き!ですから、これが結構自然なのかもしれないんですがね。

香色というのは、今で言うベージュ系の色です。丁子や香料の煮汁で染めた色なのだそうです。そんなベージュの薄い生地の、二藍の色の直衣?ということでしょうか。何だそれ。どっちの色?

そもそも二藍というのは、藍の上に紅花を染め重ねた青紫です。二藍という名前も、昔は紅のことを「紅藍」と書いて「くれない」と読んだから、藍+紅藍=二藍なんですね。なるほど。

そこであくまで私の推論ですが、「香のうすものの二藍の御直衣」は「香色(または丁子)を使った薄手の二藍色の生地の直衣」となります。つまり、紅花単色の代わりに香色を使って二藍にしたのではないかと思うのです。省きますが、私の検証の結果、C80+M70+Y40くらいの紫です。ほんまかいな。

蘇芳。これは簡単です。蘇芳という植物で染めた黒味を帯びた赤色です。インド・マレー原産のマメ科の染料植物とか。

さて、塗骨というのは、漆塗りをした扇などの骨のことだそうです。朴木の自然木のまんまのやつとか、この漆を塗ったやつとか、各種あったのですね。

「懸盤」。はじめて見ましたよこんな単語。「かけばん」と読むそうです。「食器をのせる膳の一種。入角折敷(いりずみおしき)形の盤に,畳ずりのある四脚置台をとりつけるのが通形。脚間を格狭間(こうざま)形に大きくくり抜いた四脚が,弧を描いて盤面より外に大きく張り出し,安定した形姿を示すのが特徴的である」とコトバンク(出典は世界大百科事典)に出ていました。いろいろ小難しいのでごくごく簡単に言ってしまうと脚付きのお膳ですね。簡単すぎますか。すみません。
雛飾りのセットにもついているらしく、ググって、画像を見るといっぱい出てきます。

中納言藤原義懐という人が登場しました。どうやらこの人がこの段の主人公らしいです。
調べてみると、藤原伊尹という人の子ども(5男)で、姉が花山天皇の母、ということは、天皇外戚関係にある家の人です。花山天皇の伯父さんにあたる人ですね。
当然、出世もとんとん拍子で、蔵人頭→参議→権中納言となっています。中納言と紹介されていますから、この八講は986年のことのようですね。
この時、義懐は27、8歳です。生まれ育ちもよく、エリートで、センスがいい、年格好もいちばんいい時かもしれません。
ちなみに清少納言はこの時二十歳前後でしょうか。

権官。権中納言、とか、中納言やら大納言やらの官職名に「権」が付いたりします。これ、「仮」という意味らしいですね。各々定員が決まってるんだけれど、各種大人の事情によって増やさないといけない場合に「権」の付いたポジションを設けたということです。ただ、権が付いてる人は実権が無いのかというと、そうでもなく、付いてない方が実は「名前だけの人」の場合もあったりして、どっちが実力者なのかは、権の有無で判断はできない、ということです。

この枕草子の原稿が書かれたの、いつなのか、よくはわかりませんが、たぶん西暦1000年前後でしょう。
しかし、そんな前(986年)のこと、細部にわたってよく覚えているなーと思います。清少納言、侮りがたし。目の前で起きていることみたいに書いているのは、結構すごいです。今だったら動画撮っとくんですけどね、当時はスマホ無いですからね。

……。

次に続きます。


【原文】

 少し日たくるほどに、三位の中将とは、関白殿とぞきこえし、香(かう)のうすものの二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃き蘇芳の下の御袴に、はりたる白き単衣のいみじうあざやかなるを着給ひて、あゆみ入り給へる、さばかりかろび涼しげなる御中に、暑かはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見え給ふ。朴、塗骨など、骨は変はれど、ただ赤き紙を、おしなべてうち使ひ持(も)たまへるは、撫子(なでしこ)のいみじう咲きたるにぞいとよく似たる。まだ講師ものぼらぬほど、懸盤して、何にかあらむ、もの参るなるべし。

 義懐の中納言の御さま、常よりもまさりておはするぞ限りなきや。色あひのはなばなと、いみじう匂ひあざやかなるに、いづれともなき中の帷子を、これはまことにすべて、ただ直衣一つを着たるやうにて、常に車どものかたを見おこせつつ、ものなど言ひかけ給ふ、をかしと見ぬ人なかりけむ。


検:小白河といふ所は

 

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

 

 

小白河といふ所は①

 小白河っていうところは小一条の大将殿(藤原済時)のお屋敷なの。そこで上達部が結縁の八講を開催なさったのね。世間の人たちは、すごくすばらしいことだって、「遅れて着いた車なんかは駐車スペースも残ってないヨ」って言うもんだから、朝露とともに早起きしてね、ホント隙間もなく並んだ轅の上に、さらにまた轅を重ねて停めて。3列目くらいまでに停めれればなんとか少しお話しも聞こえるのかな、って。

 6月10日過ぎで、その暑さは今まで経験したことないほどでね。池の蓮を眺めるのだけが、とても涼しい気分を味わえるコト。左大臣、右大臣以外には、いない上達部もなくて、全員出席。みんな二藍の指貫、直衣を、浅葱色の帷子を透かして、着ていらっしゃるのよ。少し大人っぽい方は青鈍の指貫、白い袴もすごく涼しそうだわ。参議の藤原佐理なんかも、みんな若々しいスタイルで、まったく気高くていらっしゃることこの上なくって、それはそれは素敵な光景でした。

 廂(ひさし)のすだれを高く巻き上げて、長押の上に、上達部の皆様方は、奥に向かって長々と並んで座ってらっしゃるの。その隣の部屋では、殿上人や若君たちが狩衣や直衣とかを、バッチリ素敵に着てるんだけど、座るところも決められないで、あちこちウロウロしちゃってるのも、なんかすごく、カワユイのよね。兵衛府の佐(すけ)の藤原実方、侍従の長命(藤原相任)なんかは、この家の子だから、少しは出入りにもなれてるの。まだ子どもの若君なんかもすごくかわいくていらっしゃるのよね。


----------訳者の戯言---------

上達部というのは、これまでにも何度か出てきましたが、宮中の幹部貴族で、三位以上の人です。

轅(ながえ)もよく出てきますね。もう簡単に言いますけど、牛車の前の棒(柄)のとこです。他段などで何回もリンクしましたが「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の第四十四段参照。

衣についても何度か出てきたワードが多いので、覚えている方もいらっしゃるでしょう。
「指貫」は袴みたいなもの、ボトムス、パンツですね。裾を絞れるようになっています。本ブログでは「清涼殿の丑寅の隅の①」に初出となっています。
直衣は、ちゃんとした形だけどカジュアルに着れる上着、帷子は一枚物の衣で汗とり用にも着たらしいから、今で言うとアンダーウェアですね。そのシャツ的な帷子を透かす感じでジャケット(直衣)を着てるのですね。

二藍の指貫、直衣、浅葱の帷子、青鈍の指貫、のそれぞれの色についてはリンクをつけましたので、興味のある方はご覧ください。

佐理というのは、藤原佐理のことですね。三跡の一人ということは私も知っています。ちなみにあと二人は小野道風藤原行成です。

「宰相」。まあ、ちょくちょく目にする言葉ですが、これ、元々は中国の言葉なんですね。日本では律令制度で置かれた「参議」という官職。それをこう呼びました。時々あるんですけど、職名を中国名で呼ぶんですよね、カッコよかったのかなぁ当時は。経営者をCEOと言ったりとか、課長をマネージャーと言ったりとかのカッコイイ感じと同じでしょうか?違いますかね。
参議と言うのは、太政大臣、左右の大臣、納言(大、中、少)に次ぐポジションで、8人いたらしいです。ですから、まあまあのクラスですね。めっちゃ上というほどではないですが。しかしここで「(藤原)佐理」と名前が出るということは、有名人だったんでしょうね。

ところで、今さらながら、作者「清少納言」という名前です。

ごぞんじの方も多いとは思いますが、もちろんこの人、少納言だったわけではありません。
清少納言」と言うのは「女房名」でした。お仕事用の通称ですね。だいたい、少納言というのは職名ですから、名前ではありえないです、そもそもは。少納言の「藤原○○」さん、みたいな言い方しかないです本来は。もちろん女性の少納言はいませんしね。

で、この清少納言さん、清原元輔という人の娘であったことがわかっています。だから「清」が付くようですね。実名は不詳です。

だいたい、当時の女房の名前と言うのは、こんな感じだったようで。紫式部の「式部」もお父さんか兄弟が式部だったからだそうですし。賢明な方はおわかりのとおり、「~の式部さんとこの妹さん」「~~の少納言さんとこの娘さん」「~の乳母さん」「~~の衛門さんの娘さん」的に名前がつくられたようですね。
~~の部分は姓だったり、たとえば夫の赴任地の地名だったり、紫式部みたいに自分の作品の登場人物からネーミングされたり、いろいろでした。ま、ニックネーム的とも言えるでしょう。

ただ、清少納言の場合は、親族に少納言がいなかったらしく、なんでこの名前になったのかは、諸説あるようです。ここではその詳細に言及しませんが、もし興味がおありでしたら、調べてみると面白いかもしれません。

さて。
ここで出てきた「長押」というのは下の長押(下長押)ですね。引き戸がある場合は上に敷居(レール)が敷かれるとこです。構造物として柱に垂直に渡される構造物を長押と言ったんですが、今は上の長押だけを「長押」と言うことが多いみたいですね。

「若君」というのは、親王とか上流貴族の子どもたちでしょうかね。

兵衛の佐というのは、兵衛府の次官(ナンバー2)のこと。兵衛府というのは、「つわものとねりのつかさ」とも言ったそうです。御所の警備とか行幸のお供、京内のパトロールなんかもしたそうです。当時は六つの衛府(左右の近衛、衛門、兵衛)があって、各々担当する所轄があったようです。

で、その警察みたいな組織「兵衛府」の次官だったのが、藤原実方という人です。歌人としても有名だったらしい。一時期、清少納言とつきあってたこともあったんじゃないか、とも言われてるほか、他にも20人以上の女性との交際があったとされてて、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とされる説もあるぐらいの人、だそうです。この八講の時は25歳くらいではないかとされています。

で、長命の侍従って何だ?全くわかりません。
調べてみると、藤原相任という人らしいです。長命というのは幼名だそうです。侍従に任ぜられていたらしいです。

侍従というのは天皇の身の回りの世話などをする文官なんですね。蔵人所もあったので、その辺、どう分担してたのかわかりませんが、やはり次第に有名無実化して、兼任が多くなっていったようです。ただ、近世以降は宮内庁にこの特別職が定められているようですね。

藤原実方はこの家の主である藤原済時の養子でした。藤原相任は藤原済時の実子だそうです。だから、「家の子にて」となってるわけですね。

この段は長いので、いったいどういう話になるのか、楽しみではあるんですが、登場人物や官職、当時の装束等々いっぱい出てくるし、もちろん私自身語法にも疎く、調べることがありすぎて、なかなか前に進みません。ま、少しずつやっていきます。


【原文】

 小白河といふ所は、小一条の大将殿の御家ぞかし。そこにて上達部、結縁の八講し給ふ。世の中の人、いみじうめでたきことにて、「おそからむ車などは立つべきやうもなし」といへば、露とともに起きて、げにぞひまなかりける轅の上にまたさしかさねて、三つばかりまでは少し物も聞こゆべし。

 六月十余日にて、暑きこと世に知らぬほどなり。池の蓮を見やるのみぞ、いと涼しき心地する。左右の大臣達をおき奉りては、おはせぬ上達部なし。二藍の指貫、直衣、浅葱の帷子どもぞすかし給へる。少しおとなび給へるは、青鈍の指貫、白き袴もいと涼しげなり。佐理の宰相なども、みな若やぎだちて、すべてたふときことの限りもあらず、をかしき見物なり。

 廂の簾高うあげて、長押の上に上達部は奥に向きてながながとゐ給へり。その次には、殿上人、若君達、狩装束、直衣などもいとをかしうて、えゐもさだまらず、ここかしこに立ちさまよひたるも、いとをかし。実方の兵衛の佐、長命の侍従など、家の子にて、今少し出で入りなれたり。まだ童なる君など、いとをかしくておはす。


検:小白河といふ所は

 

枕草子 (新明解古典シリーズ (4))

枕草子 (新明解古典シリーズ (4))

 

 

菩提といふ寺に

 菩提というお寺で、結縁の八講が開催されたので、参詣したんだけど、ある人から「早く帰ってきてください、すごく寂しいので」と便りをしてきたから、蓮の葉の裏に、

もとめてもかかる蓮の露をおきてうき世にまたはかへるものかは
(いくら帰って来てと求めても、蓮の葉に置く露のようなありがたいお説経を聞かずに、再び浮世に帰るなんてできますかしら? できませんよね)

って書いて返したの。

 ホント、お説経がすごく尊くって、しみじみと浸れる素敵な感じだったものだから、そのまま泊まろうかなと思って、(あの家路を忘れた)湘中の帰りを待ってる家人がきっと感じた「待つ人のもどかしさ」も忘れてしまってたのよ。


----------訳者の戯言---------

菩提という寺と出てきますが、ここでは固有名詞です。所謂、一般の「菩提寺」とは違うようですね。
ウィキペディアで調べると現在全国7つの存在が記されています。もちろんその限りではないでしょうが。

結縁というのは、仏縁を結ぶために世俗の人が僧を招いて行う法華八講だそうです。八講は前の段「説経の講師は」にも出てきました。法華経8巻を朝夕1日2回×4日間、計8回講義して完了する法会のことです。

で、そもそも仏縁って何?と、ふと思います。なんとなく、わかるような気もするんですが、念のため調べてみました。「仏との間に結ばれる縁。仏の導き。」とありますね。
ですから、「結縁」というのは、私なりに解釈するなら、仏様の教えや導きを獲得する、っていうことなのでしょう。今は仏門には入れないけど、縁を結んでおこうと。

さうちう。何だそれ? で、ググってみたら、トップに出てきたのが「橋本佐内」。「さうち」にヒットしたんですかそうですか。読み方「さない」なんですけどねぇ。橋本佐内といえば、昨年の大河「西郷どん」にも出てきた人ですね。風間俊介が演ってました。

全然関係ねーよ。

もしかして「そうちゅう」かと思い、ググってみたら、曹沖と出ました。かの曹操の息子です。で故事を調べたんですが、なかなか聡明で性格もすばらしい人(子)だとわかりました。12歳で亡くなったらしいですけどね。
そういうわけで「曹沖」「泊まる」「家」というワードも関連付けてググったんですが、全然わからない。残念ですが、これも関係なしと結論しました。

仕方なく、他の訳文をあたったところ、「湘中老人」という人のことだとわかりました。専門家が言っているのでまちがいないでしょう。「湘中老人」というのが「黄老」(黄帝老子、またはその二人を祖とする道教の思想)の本が面白すぎて、読みふけってたら家への道を忘れてしまった、という故事が「列仙伝」という本に出てるらしいんですね。で、湘中老人の家族が帰宅を待ちかねていらいらすることがあったと。で、ワタクシそういう気持ちも忘れちゃったヨ、ということのようです。

これ、また例の清少納言の知識自慢ですね。「列仙伝」読んでますよ、そこに書かれてる故事、知ってますよ~的なやつです。いやぶっ込んでくるの、いいんですけど、正式名称、もしくはせめて漢字で書いといてくれよー、と思うのは私だけか?
最後の一文で数時間かかったじゃないですか。

今回は愚痴を言いながらで、すみません。次はちゃんとやります。


【原文】

 菩提といふ寺に、結縁の八講せしに、詣でたるに、人のもとより「とく帰り給ひね。いとさうざうし」と言ひたれば、蓮の葉のうらに、

もとめてもかかる蓮(はちす)の露をおきてうき世にまたはかへるものかは

と書きてやりつ。

 まことにいとたふとくあはれなれば、やがて泊まりぬべくおぼゆるに、さうちうが家の人のもどかしさも忘れぬべし。


検:菩提といふ寺に

 

これで読破! 枕草子 上

これで読破! 枕草子 上

 

 

説経の講師は③ ~そこに説経しつ~

 「どこそこで説経があった」とか「八講が開かれたのよ」なんて人が話してたら、「あの人は来てた?」「どうだった?」とかって、毎回必ず聞くのは、やりすぎだよ。でも全然参加しないっていうのもそれはそれでなんだかねぇ。身分の低いっぽい女子でも、結構聞きに行くらしいのに。だからって、最初の頃は歩いて行くことなんてなかったの。時たま、よそ行きの壺装束ファッションで、とってもきれいにメイクした人はいたみたい。でもそれもほとんどは参詣に来てたようで。説経なんかに、特別多くは行かなかったのね。
 (女子がこぞって説経に行く)最近のトレンドを、もしかつて説経の会に出てた人が長生きしてて見てたとしたら、どんなにか非難するでしょうね。


----------訳者の戯言---------

「壺装束」というのは、女性が外出したり旅行に行ったりするときの衣装、とのことです。特別な日のファッション、所謂「よそいき」ですね。

だいたい当時は、高貴な人というのは牛車で出かけたわけですから、歩いてお出かけするのは、かなりカジュアルなのだと思います。彼女が言う「身分の低い感じの女子」をはじめとして、みんな歩いて説経イベントに行くようになったのが「最近の風潮」だったのでしょう。

で、結局、清少納言は「説経会」には行くべきと思っているのか、いないのか。

ハマって度が過ぎるほど行くのはナンだけど、全然行かないのもよくないし。昔は女子はあんまり行ってなかったけど、今はこんな感じで。昔の人からしたら嘆息モノでしょうよって話ですね。割とあいまいなところに着地しています。いや、エッセイなので、それはそれでいいんですけどね。

訳者としては、なんじゃこりゃ???って感じの文が次々に出てきて、その度に立ち止まり、なかなかすんなり読めなくて、苦労した段でした。


【原文】

 「そこに説経しつ、八講しけり」など人の言ひつたふるに、「その人はありつや」「いかがは」など、さだまりて言はれたる、あまりなり。などかは、むげにさしのぞかではあらむ。あやしからむ女だに、いみじう聴くめるものを。さればとて、はじめつ方ばかりありきする人はなかりき。たまさかには、壺装束などして、なまめき化粧じてこそはあめりしか。それも物詣でなどをぞせし。説経などには、ことにおほく聞こえざりき。この頃、そのをりさし出でけむ人、命長くて見ましかば、いかばかりそしり、誹謗せまし。


検:説経の講師は

 

むかし・あけぼの 上 小説枕草子 (文春文庫)