枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

あかつきに帰らむ人は

 夜更けの頃に帰ってく人は、服装なんかはそんなにきちっとキレイにしたり、烏帽子の紐をしっかり結んだりしなくってもOKだと思うのよね。とってもだらしなくって、見苦しい姿で、直衣、狩衣なんかが歪んでたって、誰がそれを見て、笑いものにしたり、けなしたりするかしら? しないわよ。

 男の人はやっぱりそういう明け方の振る舞いこそ、いかしててほしいわね。なかなか起きられないで仕方なく渋々な様子の男子が、彼女に急き立てられて、「夜が明けちゃうわ、もう、みっともないよ」なんて言われて、嘆いてる風の様子を見たら、ホントに満たされなくって、憂鬱な気分になってるんだろうなってわかるもの。座ったままで、指貫なんか穿こうともしないで、まず女に近寄って昨晩言った言葉の続きを彼女の耳にささやいてね、何かするわけでもない感じなんだけど、帯なんかは結ぶようなのね。

 格子を押し上げて、妻戸のあるところなら、そのまま彼女をいっしょに連れてって、昼間に逢えなくて気がかりで仕方ない、ってことなんかも言葉にして、滑り出ていくような姿、見送らずにはいられなくって。その余韻、なんてステキなんでしょう!

 (そんなのとは逆に)思い出したように、めちゃシャキッと起きて、あちこち散らかしては、指貫の腰紐をゴソゴソと結んで、直衣や上着、狩衣も袖をまくり上げて、スルッと腕を差し入れて、帯をすごくきっちり結び上げ、ひざまずいて、烏帽子の紐をキュッと強く結んで、きっちりかぶり直す音がして。扇や畳紙なんかを昨晩枕元に置いてて、自然とあちこち散らかっちゃったのを探すんだけど、暗いんだからね、どうやったら見えるっていうの? 見えないよ。で、「どこ?どこ?」って、そのへん叩きまわって、見つけ出して。その扇でパタパタあおいで、懐紙をしまい込んで、「帰りますね」とだけ言うんでしょう。(やーね!)


----------訳者の戯言---------

暁(あかつき)っていうのは、暗いうちの夜明けを言うようですね。「あけぼの」よりは前でしょうか。現代語で言うと、未明というニュアンスです。どっちかっていうと深夜に近い感じです。
男女関係にオープンな時代ではあれど、明るくなって人目につくと、やっぱりみっともない感じがあったんでしょうかね。
なお、朝方を表す語については「木の花は」の段にいろいろ書いてあるので、ご覧ください。

「指貫(さしぬき)」というのは、以前から何回かも出てきていますが、裾を紐で引っ張って絞れるようになってる袴です。ドローコード付きのボトムス、とイメージしていいと思います。

「妻戸」っていうのは玄関の扉で、今で言う西洋風のドアの方式だったみたいです。引き戸ではないやつですね。引き戸は「遣戸」と言うようですね。

畳紙(たとうがみ/たとうし)というのは、結髪の道具や衣類などを包むための紙だそうです。

懐紙(ふところがみ/かいし)。「貴族は常に懐に紙を畳んで入れ、ハンカチのような用途の他に、菓子を取ったり、盃の縁をぬぐったり、即席の和歌を記すなどの用途にも使用し、当時の貴族の必需品であった」とウィキペディアに書いてありました。メモ帳でもあり、ポケットティッシュでもあり、という感じでしょうか。

今回は、彼氏が朝帰る時の様子です。イケてる男子とそうじゃない男子の比較ですね。女性誌とかの読者投稿でも出てきそうなネタです。当時の女子が読むと「あるある」かもしれないですね。
今回は当然、清少納言自身の体験を元にしているのでしょう。もしかすると多少の誇張や脚色もあるのかもしれませんが、描写が細かいし、臨場感はあります。「理想と現実」という可能性も考えられますね。

やっぱりね、女子たるもの、こういう甘い言葉とか言ってくれたり、ちょっとベタベタしてきたり、っていうのに弱いんですね。一見、ぐずぐずしてるのだって、自分と離れたくない気持ちの現れだって思えるワケで。帰る時にも名残惜しそうな雰囲気は必要です。少なくとも清少納言はそうなんでしょう。
これに対して、自分勝手なペースで、そっけないのとか、粗野な感じは嫌なのがよくわかります。その割にきちっと自分の身なりだけは整えてそそくさと帰るというのがダメなんですね。冒頭の出だしが、後半の男の行動としっかり被ってますものね。

いずれにしても、大人向けというか、教科書には絶対に載ってこない類の話です。本音が出ているので、私は面白かったですけど。

それにしても昔の服って結ぶとこ多い…。


【原文】

 暁に帰らむ人は、装束などいみじううるはしう、烏帽子の緒もと、結ひかためずともありなむとこそおぼゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ。

 人はなほ暁のありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起き難げなるを、強ひてそそのかし、「明け過ぎぬ。あな、見苦し」など言はれて、うち嘆くけしきも、げにあかず物憂くもあらむかしと見ゆ。指貫なども、ゐながら着もやらず、まづさし寄りて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、何わざするともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。

 格子おしあげ、妻戸ある所は、やがてもろともに率て行きて、昼のほどのおぼつかなからむことなども、言ひ出でにすべり出でなむは、見送られて名残もをかしかりなむ。思ひ出所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰ごそごそと結ひなほし、袍(うへのきぬ)も、狩衣、袖かひまくりて、よろとさし入れ、帯いとしたたかに結ひはてて、ついゐて、烏帽子の緒きと強げに結ひ入れて、かい添ふる音して、扇、畳紙など、昨夜枕上におきしかど、おのづから引かれ散りにけるをもとむるに、暗ければ、いかでかは見えむ、いづらいづらと、叩きわたし見出でて、扇ふたふたと使ひ、懐紙さし入れて、「まかりなむ」とばかりこそいふらめ。


検:暁に帰らむ人は

 

これで読破! 枕草子 上

これで読破! 枕草子 上

 

 

川は

 川は、飛鳥川ね。淵と瀬がはっきりと定まってなくて、どうなっちゃうんだろって想像すると、しみじみしちゃいます。それと、大井川、音無川、七瀬川ね。

 耳敏川(みみとがは)は、これまた、何を小賢しく聞こうとしてるのかって名前がおもしろいわ。そして、玉星川。細谷川。

 いつぬき川、澤田川なんかは、催馬楽とかを思い起させるのよ。名取川はいったいどんな「名」を獲得したんだろうって聞いてみたくなるわね。それと、吉野川と。

 天の川原は、「たなばたつめに宿借らむ」と、業平が詠んだっていうのが好印象だわ。


----------訳者の戯言---------

渕瀬とは。淵と瀬のことだそうです。川の深くよどんだ所と浅くて流れの速い所、です。

催馬楽(さいばら)というのは、平安時代に流行った古代歌謡だそうで、元々は庶民の歌っていたものに、雅楽の伴奏を付けたのが貴族、皇族の間で愛好されるようになった、というものらしいです。
ここで出てきた川が歌われる催馬楽があったんでしょうね。

で、川の出てくる歌だったら今でもあると思って、ネットで調べてみました。
ほとんど演歌ですね。そうでなくてもだいたいは昔の歌です。「千曲川」「長良川艶歌」(いずれも五木ひろし)、「神田川」(かぐや姫)、「矢切の渡し」(ちあきなおみ/細川たかし他)、「四万十川」(三山ひろし)、「多摩川」(スピッツ)等々といった感じでしょうか。「矢切の渡し」というのは江戸川(東京/千葉)にある矢切という渡し(松戸市)の歌ですね。

で、綾世一美という演歌歌手の人が歌っている「音無川」という歌もありました。一応歌詞は読みましたが、当然この段で出てきた「音無川」とは全然関係ありませんでした。当たり前か。

「たなばたつめに宿借らむ」は在原業平(825~880)の古今集にある歌が出典です。

狩り暮らし たなばたつめに宿借らむ 天の河原に我は来にけり
(狩りをしてて、日が暮れてしまったので、織姫に宿を借りようか、天の河原に私は来てしまったようだからね)

詞書としては、こう書かれています。

惟喬親王の供に、狩りにまかりける時に、天の川といふ所の川のほとりに下りゐて、酒など飲みけるついでに、親王の言ひけらく、狩りして天の河原に至るといふ心をよみて、盃はさせといひければよめる

意味としては、惟喬親王の狩りのお供をして、天の川っていう川のほとりに行き着いた時に、親王が、「狩りをして、天の川の河原に行き着いたことをテーマにして、歌を詠んで杯にお酒を注いでよ」とおっしゃったことを受けて詠んだ歌、ってことです。

「たなばたつめ」は「棚機女」または「棚機津女」とも書くそうで、ここでは天の川に因んでますから、織姫のことだと考えられている、とのこと。
「天の川」は河内の国(今の大阪)にある歌枕で、生駒山を源流として今の大阪府の交野市、枚方市を流れて淀川に注いでいる川です。今は「天野川」の表記です。枚方市には天之川町があるし、交野市には今も天の川伝説があるようですね。

在原業平はご存じのとおり、一般に「色好み」であると言われている人です。「伊勢物語」の主人公ですね。ま、俗説なんですけれども。
六歌仙の一人であって、ま、よい歌をたくさん詠んだ人としても知られています。天皇の流れを汲む貴族で、しかも美形であったと、そして歌の才能もすごいと。モテないわけありません。福山より、斎藤工西島秀俊より、登坂広臣やキンプリより、もっとモテますね。
なんと生涯、契ったとされる女性は3733人だそうです。1日1人としても10年以上かかります。噂ですけどね。

ですから、「たなばたつめに宿借らむ」もちょっと艶っぽい感じがします。真意はわかりませんが。
で、この歌には返歌があります。同行していた紀有常ので、これがなかなかいいんです。

ひととせに ひとたび来ます君待てば 宿かす人もあらじとぞ思ふ
(年に一度来る彼氏を待ってるんだから、(その人以外に)宿を貸す相手はいないだろうと思うよ)

と、「まあまあまあまあ、キミキミ、彼女(織姫)にまでそれいく? そこはそれ、なんぼなんでも織姫はダメでしょ」って諫めてる感じです。まあ、歌の中の話なんで、お遊び感覚なんですけどね。
紀有常(815~877)は、ウィキペディアには、性格は清らかでつつましく、礼に明るいとの評判が高かった、と書かれています。で、実は義理の親子なんですね、この二人。紀有常の娘が在原業平正室となっています。結婚した時期はよくわからないんですが、年齢的に見てこのやりとりのあった頃(860年前後)に近い時代ではと思います。

で、余談ですが、今ちょうど桜のいい時季なので在原業平の代表的な歌を一つ。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
(この世にまったく桜なんてものがなかったら、春もざわざわせずに平穏に過ごせるのになぁ…やっぱ桜には心がときめいてしまってしょうがないんだよね)

プレイボーイの業平ですから、桜=心惑わす女性、との見方もできそうです。が、当時の藤原氏の栄華と言うか、そういう物質的な、見かけの豊かさ(藤原氏)に対して、ちょっと引いてる感じにも取れます。詳細はここでは述べませんが、現に惟喬親王藤原氏の謀によって天皇に即位できていません。当時惟喬親王はまだティーンエイジャー、失意の中、河内に下って暮らしていたようです。その時にこの歌は詠まれました。先の「たなばたつめ」も同じ頃の作と言われています。業平はその親王の側近でしたからね。

他、在原業平の作品としては「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」というのが有名ですね。小倉百人一首にはこちらが撰入されていて、コミックやアニメでもおなじみ「ちはやふる」のタイトルにもなっています。そうそう、広瀬すずの実写版もありましたね。


ようやく本題です。
前の段でも書いたんですけど、飛鳥川以外は行ってないですね、清少納言。他のは名前からのイメージング作業です。それはそれでアリかもしれないし、私も似たようなことやってるわけですから否定はできないですけど、その割に何の説明もなく名前だけ書いてる川もあるんですね。
この段も臨場感はあまりないです。


【原文】

 川は 飛鳥川、淵瀬も定めなく、いかならむとあはれなり。大井河。音無川。七瀬川

 耳敏川(みみとがは)、またも何事をさくじり聞きけむと、をかし。玉星川。細谷川。

 いつぬき川、澤田川などは、催馬楽などの思はするなるべし。名取川、いかなる名を取りたるならむと聞かまほし。吉野川

 天の川原、「たなばたつめに宿借らむ」と、業平がよみたるもをかし。


検:河は

 

 

滝は

 滝は、音無の滝がいいわね。布留の滝は、法皇が御覧にいらっしゃったらしくって、すばらしいわ。

 那智の滝は、熊野にあるって言われてて、それがしみじみといい感じ。轟の滝は、名前からして、どんだけやかましくて恐ろしいんでしょうかね。


----------訳者の戯言---------

音無の滝の所在については諸説あるらしいですが、おそらく京都にあった滝のようです。
京都の大原、今の三千院の近くにある滝だそうで、当時は三千院はまだ無かったわけですが、ま、今の三千院の背後にある小野山の中腹から帯状に静かに流れ落ちる幅3~4メートルの美しい滝、とのことです。もちろん私は行ったことがないのでよくわかりません。

そもそも京都にはあまり滝が無いようで、このように大原の裏山の小野山に滝があったので、それが有名だったんでしょう。当時から「音無の滝」と呼ばれていたようです。ですから、特にどんな滝とかという説明の必要もなかったんでしょうね。

今でもこの滝は「音無の滝」と呼ばれていて、観光案内なんかにも出てきます。しかし由来は、声明(仏教音楽)の天才的なプレイヤー、ボーカリストであった聖応大師(良忍上人)が声明の練習をした滝なのだと書かれているんです。

聖応大師という人が、稽古を重ねるに従って滝の音が音律に同調して音が消えて無くなり声明の声のみが朗々と聞こえるようになった(声明を滝の音で消されないよう呪文を唱えて水音をとめたとの説もあり)とかで、その伝説によって「音無の滝」と呼ばれるようになったということらしいんですね。

しかし実は、聖応大師は生年1072年~没年1132年の人なのです。枕草子が書かれてから70年以上後の人です。
ということは「音無の滝」は、このお坊さんの出現よりも先に名付けられていたということ。この方の伝説はもちろんあるのでしょうが、名前の由来とするのは、必ずしも正しくないような気がしますね。実は清少納言だけでなく、同世代の紫式部も「朝夕に泣くねを立つる小野山は 絶えぬ涙や音無の瀧」と詠んでいますから、ま、名前の由来はかなりもっと古いと考えていいでしょう。

ついでに紹介しておくと、

恋ひわびて ひとりふせやに 夜もすがら 落つる涙や 音無の滝(藤原俊忠
小野山の上より落つる滝の名は 音無にのみ 濡るる袖かな(西行

といった歌が残っていて、藤原俊忠は1073年~1123年なのでほぼ聖応大師と同世代、西行法師は1118年~1190年の人なので聖応大師よりは45、6歳くらい若いです。藤原俊忠が聖応大師の噂を聞いてすぐに「音無の滝」を詠むというのも不自然ですから、やはり前々から「音無の滝」の名はあったとするのが妥当でしょう。これが西行の時代くらいになると、聖応大師の逸話も聞いていたかもしれませんけれどね。

次に「布留の滝」です。
布留川の上流、桃尾山にある滝なので今は「桃尾の滝」と言われ、元々は「布留の滝」という名前だったようです。奈良県天理市滝本町にあります。しかし、法皇さまがいらっしゃったから、すばらしい、というのも何だかな―と思いますね。どんだけ権威主義的なんでしょう。文筆家として少しはプライドを持ってほしいものです。

那智の滝」は、言うまでもなく、今の和歌山県那智勝浦町にある、あの滝です。熊野というのは古来から人びとが畏敬の念を抱く神秘的な場所、聖地でもありました。ここで書いてるのは、那智の滝は、熊野にある、というのがプレミアムなんですね、ということです。そんなこと書いてもいいのでしょうか。これ逆に言うと、熊野になかったら普通じゃん、ということですからね。

轟の滝。原文に「かしがましく」とあります。漢字では「囂し」と書きます。はじめて見た字です。一生書くことはないでしょう。やかましい、うるさい、という意味だそうですね。なお、「轟の滝」の所在地はわかりませんでした。

文章から察すると、実際に清少納言が自分の目で見たのは、音無の滝だけのようです。あとは伝聞とか、名前からの想像なのでしょう。名前からの印象であれこれ論評する、清少納言に非常に多いパターンです。


【原文】

 滝は 音無の滝。布留の滝は、法皇の御覧じにおはしましけむこそめでたけれ。

 那智の滝は、熊野にありと聞くがあはれなるなり。轟の滝は、いかにかしがましく恐ろしからむ。

 

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

学びなおしの古典 うつくしきもの枕草子: 学び直しの古典

 

 

よき家の中門あけて

 高貴なお屋敷の中門を開けて、白くてキレイな檳榔毛の車に、蘇芳の下簾の色あいが綺麗なのを、榻に立てかけてるのはすばらしいものだわね。五位、六位なんかの人が下襲の裾を帯に挟んで、笏のすごく白いのに扇を置いて、行ったり来たりして。それから、ちゃんと身支度をして、壺胡籙(つぼやなぐい)を背負った随身が出入りしてるのも、立派なお屋敷にふさわしいのよね。お料理担当の女性スタッフのこざっぱりと綺麗な人が出てきて、「誰々様のお供の方はいらっしゃいますか?」なんて言う様子もいい感じ。


----------訳者の戯言---------

中門というのは何かと言いますと、当時のお屋敷(寝殿造)の東西にあった門です。寝殿造りの詳細は省きますが、東西に各々「対屋」という建物があって、そこからそれぞれに南に向かって廊下が出てるんですが、その途中に門があるんですね。その門が、真ん中にある寝殿の南側の庭への出入口となったようです。

檳榔毛(びろうげ)の車については、「檳榔毛はのどかに」の段でも書きました。ビラビラで飾った豪華仕様の大型車ですね。

蘇芳というのは、蘇芳という植物で染めた黒味を帯びた赤色。インド・マレー原産のマメ科の染料植物だそうです。

「匂ひ」というのは、もちろん香りの意味もあるんですが、「色あい、色つや」みたいな意味で使われることも多いようです。前に「木の花は」の段で梨の木の花について「花びらの端に、をかしき匂ひこそ」と書かれていたのも、同様です。

榻(しぢ)は拙ブログ「徒然草を現代語訳したり考えたりしてみる」の「第四十四段 みすぼらしい竹の編戸の中から」に図がありますのでご参照ください。轅(ながえ)という、牛車の前に長く突き出ている柄の部分を置くような台ですね。

下襲というのは、今で言うとシャツ的なものですね。上着の下に着るやつです。裾がまあ長くて、「裾出し」で着こなすわけですが、後年、さらにどんどん長くなっていくようです。

笏(さく/しゃく)はご存じのとおり、束帯のとき威儀を正すために持ってた長さ1尺2寸 (約 40cm) の板状のものです。ドラマとかでもちょいちょい見かけるし、昔の絵とかでも見たことあります。あれですね。「こつ」ともいうらしいです。

胡籙(胡簶/やなぐひ)矢を差し入れて背に負う武具だそうです。壺胡籙は筒形のものだそうです。近衛の武官が儀式の時の警固に用いたそうです。
随身はたびたび出てきます。ボディガード役のスタッフです。

前の段に続いて、ある日ある場所のワンシーンを切り取ってる感じですね。

さて。
新しい元号が令和に決まりました。「初春の令月にして気淑く風和ぎ」という、万葉集の中の序、詞書みたいなのから採ったようです。大伴旅人のらしいですね。「初春のよき月に、風が和らいで」という感じですか。英訳すると「order & harmony」とか言われているそうですが、ちょっとニュアンスが違うような気もします。

で、これにちなんで、全然関係は無いですが、この枕草子が書かれた頃の元号について書いておきますね。時代はおおむね995年頃から1001年頃とされているようですから、長徳、長保(ちょうほう)あたりです。長徳は5年しかありませんでした。
前にも書きましたが、長徳2年、中宮定子の兄・藤原伊周が花山法皇を襲撃した事件がありましたね。それに起因する政変が「長徳の変」と言われています。詳細は「大進生昌が家に①」の解説部分に書いていますので興味があればご覧ください。


【原文】

 よき家の中門あけて、檳榔毛の車の白くきよげなるに、蘇芳の下簾、匂ひいと清らにて、榻にうちかけたるこそめでたけれ。五位、六位などの下襲の裾挟みて、笏のいと白きに、扇うちおきなど行きちがひ、また装束し、壺胡籙負ひたる随身の出で入りしたる、いとつきづきし。厨女の清げなるが、さし出でて、「なにがし殿の人や候ふ」などいふもをかし。

 

リンボウ先生のうふふ枕草子

リンボウ先生のうふふ枕草子

 

 

ちごは

 子どもがおかしげな弓や、ムチみたいな物とかを振り上げて遊んでるのは、すごくかわいいね。車を停めて、抱いて入れて、見ていたいくらいだもの。

 それから、車でそのまま行ったら、お香を焚いた匂いがとてもとても漂ってきたの。すごく素敵な感じなのよね。


----------訳者の戯言---------

ある日のできごと。という感じでしょうか。
たまにはこんなのもいいでしょう。私にとっても息抜きみたいなものです。


【原文】

 ちごは、あやしき弓、しもとだちたる物などささげて遊びたる、いとうつくし。車などとどめて、抱(いだ)き入れて見まほしくこそあれ。

 また、さて行くに、たき物の香、いみじうかかへたるこそ、いとをかしけれ。

 

検:ちごはあやしき弓

 

あなたを変える枕草子

あなたを変える枕草子

 

 

若き人、ちごどもなどは

 若い人や子どもなんかは、太ってるのがいいわ。受領とかの大人っぽい感じになった人も、ぽっちゃり系なのがいいわね。


----------訳者の戯言---------

受領というのは、「国司」の長官(守)だそうです。特に平安時代中期以降、任国に行かない遥任の国守に対して、実際に赴任する国守を「受領」と言いました。「ずりょう」「じゅりょう」などとも読みます。
国司には「守」「介」「掾」「目」の四等官があるんですが、これらのうち、現地赴任する国司の中の最高責任者を受領と呼ぶようになったのですね。受領は一定の租税を国庫へ納付さえすれば、それ以上の収入を私的に得ることができたようで、蓄財し、地方の権力者になっていったそうです。

まさか、受領が文字通り私腹を肥やしているから、と、皮肉っているわけではないと思いますが。

けど、ちょっと前に「雑色、随身は」で、「やっぱ若いうちは痩せてる方が…」って書いてましたやん。忘れたんか!? これぞ朝令暮改

もはや、清少納言がどんな趣味しててもいいんですけどね。


【原文】

 若き人・ちごどもなどは、肥えたる、よし。受領など大人だちぬるも、ふくらかなるぞよき。

 

えんぴつで枕草子 簡易版

えんぴつで枕草子 簡易版

 
現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)

現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)

 

 

若くよろしき男の

 若くてまずまず身分の高い男子が、身分の低い女子の名前をなれなれしく呼ぶのはよくないわね。知ってても、何さんだっけかなぁ、って、一部はうろ覚えな感じで言うのはいいんだけど。

 宮仕えしてる女子の局(部屋)に立ち寄るとき、夜なんか、そんなんじゃよくないんだろうけれどね。主殿司で呼んでもらってもいいし、主殿司がないような普通の場所なんかだったら、侍所とかにいる従者を連れてって呼ばせるのがいいわ。自分で呼んだら声がわかっちゃうからね。普通ぐらいの身分の女子や少女なんかは、自分で呼んでもいいんだけどね。


----------訳者の戯言---------

「よき」ではなく「よろしき」なんですね。
「よき」はかなり広く「良い」の意味があって、まあ、身分が高い、立派な、というくらいが一般的なんでしょうけど、「よろしき」は「まずまず、悪くない」くらいのイメージのようです。

侍=侍所です。貴人の身辺警護する従者の詰所でした。

主殿司(とのもづかさ/とのもりづかさ)は前にも出てきたように、宮中の雑務担当セクション(もしくはそのマネジャー的女性)のことです。

何やら、艶めかしい感じもある段ですが、身分の低い女子に声をかける、あるいは呼び出すといった場合の話ですね。またもや身分の高い人と身分の低い人等々のヒエラルキーの問題もはらんでいます。

という小難しい話はさておき、身分の高い男が身分の低い女子のことを、なれなれしく呼んじゃダメとか、あんまり知らんふりしろとか、夜なんかに直で呼び出したら声でばれちゃうといかんから、誰か代わりの者に呼ばせるようにしとけとか、けど、中ぐらいの身分のコとかお子ちゃまなんかだったら、自分で言っていいけど、という話です。

彼女的にというか、貴族階級的に、身分の低い女子とそういう関係になるってどーよ、という視点がまずあるような気がします。というか、別にいいんだけれど、体裁ってもんがあるでしょ、っていうね。
当時の常識ではあるのでしょうが、表向きにはそれなりの身分の者同士で言葉を交わさないといけない感じはあったんでしょう。

「はした者」というのは中ぐらいの身分の使用人のようですが、「下衆女」よりは身分的には上だったんでしょうかね? だから、直接呼んでも良かったんですかね。
「童べ」というのは子どもの召使いだと思いますが、これ肯定していいんでしょうか? 何歳ぐらいかよくわかりませんが、所謂、炉利紺でしょう。少女だったら疑われないからいいってことなのか。今のコンプライアンス感覚で言いますがそういうやつこそゲスだ。

と、いろんな意味で複雑な気持ちがしますね、一般現代人としては。
「されどよし」ですか、そうですか。


【原文】

 若くよろしき男の、下衆女の名よび馴れて言ひたるこそにくけれ。知りながらも、何とかや、片文字はおぼえでいふはをかし。

 宮仕所の局によりて、夜などぞあしかるべけれど、主殿司、さらぬただ所などは、侍(さぶらひ)などにある者を具して来ても呼ばせよかし。手づから声もしるきに。はした者、童(わらは)べなどは、されどよし。

 

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子