枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

関白殿、二月二十一日に⑤ ~君など、いみじく化粧じ給ひて~

 姫君なんかが、ばっちり綺麗にお化粧をなさって紅梅のお着物を誰にも負けまいと着ていらっしゃって、三番目の姫君は御匣殿(みくしげどの)や中(二番目)の姫君よりも大柄な感じがして、奥方とかってでも申し上げた方がよさそうなのよね。
 関白殿(道隆)の奥方もいらっしゃったの。御几帳を引き寄せて、新参の女房にはお姿をお見せにならないから、いい気持ちはしないの。


----------訳者の戯言---------

御匣殿(みくしげどの)というのは、この時は中宮定子の妹君でしたね。定子は長女で、二番目の娘が原子と言い、この段の話の翌年三条天皇東宮時代(居貞親王)の后になりました。「淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど」の淑景舎(しげいしゃ)その人です。

ここで三の御前と出てきたのは三女の頼子で、後に敦道親王の后になった人だそうですね。

この時代は中務省の内蔵寮(くらりょう)という役所で朝廷の金銀、財宝や衣服なんかを倉庫に収納したり管理したそうですが、そこが調進する以外に、天皇の衣服などの裁縫をする所があって、これを「御匣殿」と言ったらしいです。また、この御匣殿の女官の長(別当)のことを御匣殿と呼んだらしいんですね。この時、この四女はまだ子どもです。生年不詳なんですが、大きくても11歳とか12歳とかで、もう少し小さいかもしれません。それで御匣殿の別当なんですから、いくらなんでもどーなのそれ?とは思います。権力者の子弟がいかに出世したかということです。

で、この御匣殿別当が女御(にょうご)や東宮妃などになることもあったのだそうです。定子の妹の御匣殿はこの時はもちろんそうではありませんでした。
ただ、定子が若くして亡くなった後、妹の御匣殿は3人の遺児(甥や姪たち)の母代りとなったそうです。皇子女たちの世話をしているうちに、皇后定子を失った一条天皇の心を捉え、やがて寵を受け懐妊したといいますが、やはり身重の時に亡くなったのだそうですね。

さて、サブい親父がやってきたかと思えば、定子の妹たちもやってきたということですね。ばっちりメイクして、紅梅の衣装で、頑張っておしゃれして。という感じでしょうか。関白の娘たちですからね、当然なのでしょうけれど。
それにしてもこの段は、紅梅の着物やら、紅梅の紙とか、やたら紅梅が出てきます。「すさまじきもの」という段で清少納言も述べていましたが、紅梅の咲く2月頃には紅梅色がいかしてるけど、花が終わった後は「すさまじ(ガッカリ…)」ということになるんですね。逆に言うと、この時季(2月上旬)は紅梅しかないよね!!ぐらいの感じかと思います。

現代だとすると、ちょうど今の時期はハロウィン前ですから、黒とオレンジを使ったり、秋口ですからパープルやスモーキーな色を使いようになります。クリスマスが近くなるとクリスマスカラ―(緑+赤)をアクセントにしたりとかですね。


姉妹の中でも特に三女の妹は貫禄があったのでしょう。今なら中学生ぐらいの年だと思いますが。ぼる塾のあんりみたいなイメージです。奥方のような…ってそれdisってません??

 

母親は母親で御几帳(みきちょう=ついたて)を引き寄せて隠れてしまってますしね。何か気に入らないことでも??


というわけで、なんかいろいろ困った感じの家族でもあります。
⑥に続きます。


【原文】

 君など、いみじく化粧じ給ひて、紅梅の御衣ども、おとらじと着給へるに、三の御前は、御匣殿、中の姫君よりも大きに見え給ひて、上など聞こえむにぞよかめる。

 上もわたり給へり。御几帳引き寄せて、あたらしう参りたる人々には見え給はねば、いぶせき心地す。

 

 

関白殿、二月二十一日に④ ~御文は、大納言殿取りて~

 帝のお手紙は大納言殿(伊周=道隆の長男=定子の兄)が受け取って関白殿にお渡しになると、関白殿は上包みを引き解いて、「拝見したいお手紙ですね。お許しがいただけるなら、開けて読んでみたい」っておっしゃったんだけど、「さすがにそれは危っかしいと思っておられるんでしょうね。帝にも畏れ多いことだしね」ってお渡しになるのを、定子さまはお受け取りになっても広げようともなさらないでいらっしゃるお心づかい、それは誰にでもできることではないわ。
 御簾の中から女房がお使いの者に敷物をさし出して、三、四人御几帳のところに座ってるのね。「あっちに行って、お使いの者にご褒美の用意をしよう」と関白殿がお立ちになった後、定子さまはお手紙をお読みになるの。ご返事は紅梅の薄様の紙にお書きになって、お召物の同じ紅梅の色にいい感じでフィットしてるんだけど、やっぱりこういうのをご推察申し上げる人は他にいないんじゃないかな?って思うと、残念だわ。
 「今日のは特別に」ってことで、道隆さまのほうからお使いの者に褒美をお出しになるの。女の装束に紅梅の細長が添えてあるのね。肴なんかもあるから、お使いを酔わせたいとは思うけど、「今日は大切なことの担当者でございます。わが君、どうかご容赦ください」って、大納言殿にも申し上げて席を立ったわ。


----------訳者の戯言---------

「細長」というのは、「袿(うちき/うちぎ)」に似てるんですが、が大領(おおくび)(=衽(おくみ))がなく、細長い形をしており、小袿(こうちき)の上に着てふだん着とする衣だそうです。
で、その、そもそもの袿ですが、主に女性が着る長い上着で、男性が中着として着用する場合もあるらしい。どっちかというとカジュアルウェアのようです。

小袿(こうちき)というのも、平安時代以降の女房装束で、所謂十二単 (じゅうにひとえ) の略装です。唐衣と裳の代わりに表着 (うわぎ) の上に着たものなんですね。準正装で、日常着でもあったようです。今で言うとスーツではなく、ワンピースみたいな感じでしょうか。
それにしても着ますね。いつも思いますけど重ね着しすぎです、平安時代。エアコン無いから寒いんでしょうけど、それにしてもですよ。夏はどやねんという話です。ただ、レイヤードスタイルならではのオシャレ感はありますね。


宮中からやってきた式部の丞なんとかっていう人は帝からのお手紙を持って来たんですね。もちろん后の定子宛てのやつです。
それを見たいんだけど、やめとくわーという父・道隆。当たり前じゃボケ!!と私などは思いますが、まずそれを堂々と言ってしまう道隆の厚顔無恥さ。共感性羞恥心に苛まれます。
しかも。それを受け取って読まずにキープする定子が何やら尊い感じに書かれていますが、それは当然であって、デリカシーのカケラも無い我が親父にあきれ果て、今開けたらオヤジに絶対読まれる、ヤベーし。と思ったのは普通の感覚ですよ。

さすがにようやくオヤジも気づいたのか、席を外します。

定子さまのいかしてるセンスとか、もっとみんなわかってていんじゃね? 実はそういうのわかってるのって私たちしかいないんじゃない??という、清少納言おなじみの小自慢が入ってくるという展開です。
式部の丞は仰せつかった仕事ですから、お酒は断って当然だと思いますよ。むしろ出す方が悪い。非常識ですね。
⑤に続きます。


【原文】

 御文は、大納言殿取りて殿に奉らせ給へば、引き解きて、「ゆかしき御文かな。ゆるされ侍らば、あけて見侍らむ」とはのたまはすれど、「あやふしとおぼいためり。かたじけなくもあり」とて奉らせ給ふを、取らせ給ひても、ひろげさせ給ふやうにもあらずもてなさせ給ふ、御用意ぞありがたき。

 御簾の内より女房褥(しとね)さし出でて、三四人御几帳のもとにゐたり。「あなたにまかりて、禄のことものし侍らむ」とて立たせ給ひぬるのちぞ、御文御覧ずる。御返し、紅梅の薄様に書かせ給ふが、御衣の同じ色に匂ひ通ひたる、なほ、かくしもおしはかり参らする人はなくやあらむとぞ口惜しき。今日のはことさらにとて、殿の御方より禄は出させ給ふ。女の装束に紅梅の細長添へたり。肴などあれば、酔はさまほしけれど、「今日はいみじきことの行事に侍り。あが君、許させ給へ」と、大納言殿にも申して立ちぬ。

 

 

関白殿、二月二十一日に③ ~御前にゐさせ給ひて~

 関白(道隆)殿は定子さまの御前にお座りになって、お話などなさるの。定子さまのご返事ときたら理想的で素晴らしいのだから、そのご返事を実家の人なんかにちょっとでも見せたいなって思いながら拝見してたのね。関白殿は女房たちをざっとお見渡しになって、「中宮は、どんなことを思っていらっしゃるのだろう。こんなに美しい女性たちを並べてご覧になるっていうのは羨ましい。一人もイケてないルックスの女子なんていないもの。ここにいるのはみんないいとこの家のお嬢さんだからね。すばらしいよね。しっかり目をかけてお仕えさせなさったらいいよ。それにしても、みなさんこの中宮さまの性格を、どんなものかおわかりになって、こんなにたくさん集まっていらっしゃるのかな? 中宮がどんなにケチで倹約なさる人かっていうと、私は彼女がお生まれになった時からずっとしっかりお仕えしてるんだけど、まだおさがりのお着物一つだっていただいたことがないんだ。どうして陰口なんか申しあげるだろう?? ハッキリ申し上げるよ」なんておっしゃるのがおかしくて女房たちが笑ったら、「本当のことなんだよ。バカじゃないかと思ってこんなふうにお笑いになるのが、恥ずかしいよ」とかおっしゃってるうちに、宮中から式部の丞なんとかっていう者が参上したの。


----------訳者の戯言---------

「しりう言」というのは「後言」と書くそうで、陰口のことだそうです。

「をこなり」という形容動詞です。漢字では「痴なり/烏滸なり/尾籠なり」などと書くそうです。
ばかげている。間が抜けている。という意味だそうですね。


淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど」でもいろいろチョケてた道隆ですが、ここでも言ってます。イタいです。サムいです。おもしろくなさすぎてどうしようかと思うんですが、自分でも恥ずかしいらしい。まあ自覚があるようですね。この翌年亡くなるんですけどね。なんちゅうことを。
④へ続きます。


【原文】

 御前にゐさせ給ひて、ものなど聞こえさせ給ふ。御いらへなどのあらまほしさを、里なる人などにはつかに見せばやと見奉る。女房など御覧じわたして、「宮、何事をおぼしめすらむ。ここらめでたき人々を据ゑ並めて御覧ずるこそはうらやましけれ。一人わろき形なしや。これみな家々のむすめどもぞかし。あはれなり。ようかへりみてこそ候はせ給はめ。さても、この宮の御心をば、いかに知り奉りて、かくは参り集まり給へるぞ。いかにいやしくもの惜しみせさせ給ふ宮とて、我は宮の生まれさせ給ひしより、いみじう仕(つかうまつ)れど、まだおろしの御衣一つたまはらず。何か、しりう言(=陰口)には聞こえむ」などのたまふがをかしければ、笑ひぬれば、「まことぞ。をこなりと見てかく笑ひいまするがはづかし」などのたまはするほどに、内裏より式部の丞なにがしが参りたり。

 

 

関白殿、二月二十一日に② ~殿わたらせ給へり~

 関白の道隆さまがいらっしゃったの。青鈍(あおにび)の固紋(かたもん)の御指貫(おんさしぬき)、桜襲ねの御直衣(おんなほし)に、紅のお召し物三枚ほどを、じかに御直衣に重ねてお召しになっていらっしゃるのね。中宮さまをはじめとして、紅梅の濃いのや薄い織物、固紋、無紋なんかを、仕えてる女房たちみんなが着てるから、あたり一帯がただただ光り輝いてるみたいに見えるの。唐衣(からぎぬ)は、萌黄、柳、紅梅などもあるのね。


----------訳者の戯言---------

青鈍(あおにび)」は濃いブルーグレーといった感じの色。グレー系のチノパンの色のような感じです。

「固紋(かたもん)」っていうのは、織物の紋様を、糸を浮かさないで、 かたく締めて織り出したものを言うらしいです。カッチリと模様が織り込んであるのが特徴らしいですね。

指貫(さしぬき)。袴みたいなボトムスですね。ルーズフィットで裾を絞れるようにドローコード付きになっています。

桜襲ね(さくらがさね)というのは、表地は白で、裏地が二藍(藍+紅、つまり紫系の色に染めた生地)の二つを重ねた生地です。年齢によってトーンが変わるというか、若い人は紅を濃い目にするとかもあったらしいですね。

直衣(なほし/のうし)っていうのは、当時の男性のカジュアルウェアです。正式な着物ではなく、ということでしょうか。

唐衣(からぎぬ)は、これまでにも何回か出てきましたが、十二単の一番上に着る丈の短い上着です。

萌黄色は黄緑色ですね。柳色も黄緑っちゃあ黄緑なんですが、ウグイス色に近いです。ずんだ餅みたいな色ですね。


関白の道隆が登場です。トップスは薄赤紫でシャツは紅、ボトムスは濃いブルーグレーです。なかなかいいカラーコーデですね。この頃まだ四十過ぎです。意外と若い。今の芸能人でいうとKinKi Kidsとか、V6のどっちかというと若い方(Coming Century)の森田、三宅、岡田あたりと同年代です。ほんまか!
この翌年、糖尿病でなくなったらしいです。生活習慣病、酒の飲み過ぎですね。肥満だったのでしょう(勝手な想像)。岡田准一を見習えって感じですね。

定子をはじめ女房は紅梅色の濃いのや薄いのを各々着けているようですね。
後で上着の唐衣が出てきますから、これらはおそらく裳(も/表衣の上から腰の後ろ半身のみを覆う衣)なのでしょう。

唐衣は萌黄、柳、紅梅などのカラーのものをこれまた各自着ているようです。こちらは紅梅と同色系のものと反対色の黄緑系。全体的には紅梅と黄緑で、春っぽく華やかな雰囲気でお出迎えですね。
③へと続きます。


【原文】

 殿わたらせ給へり。青鈍の固紋の御指貫、桜の御直衣に紅の御衣三つばかりを、ただ御直衣に引き重ねてぞたてまつりたる。御前よりはじめて、紅梅の濃き薄き織物、固紋、無紋などを、ある限り着たれば、ただ光り満ちて見ゆ。唐衣は、萌黄、柳、紅梅などもあり。

 

 

関白殿、二月二十一日に①

 関白の藤原道隆さまが2月21日に法興院(ほこいん/ほこのいん)の積善寺(しゃくぜんじ)っていう御堂で一切経の供養をなさるってことで、女院東三条院詮子=一条帝の生母)さまもいらっしゃるっていうから、定子さまが2月1日頃に二条の宮にお出になったの。私は眠くなったから、その様子は何も見えなかったのだけどね。
 翌朝、日がうららかに射し出した頃に起きたら、白く新しくいい感じに造った上には御簾をはじめとして、昨日新しく調度を掛けたみたい。部屋の設えも獅子や狛犬なんかがいつの間に入ってきて座ってるんだろ??っていう感じでおもしろく思うの。桜が一丈(約3.3m)ほどの高さで、すごくたくさん咲いてるみたいに階段の所にあるもんだから、ホント早く咲いたのね! 梅のほうが今盛りの時季なんじゃ?って思ってたけど、造花だったのよ。花の色艶なんか、全部まじ正真正銘本物に劣らないのよね。どんだけキツイ仕事で作ったのかしら?? 雨が降ったらしぼんじゃうんじゃないかな?って思ったら悔しいわ。小さな家が建ってたところとかを、新しくお造り直しなさったから、木立ちなんかの見どころがあるってこともないの。ただ御殿の様子は親しみやすくって、趣があるのよ。


----------訳者の戯言---------

法興院(ほこいん/ほこのいん)というのは当時、現在の京都市中京区河原町通二条上る清水町にあったという寺院。藤原兼家が別邸・二条京極邸を寺院としたものだそうです。跡地、法興院の南側にあった庭園の池の跡には法雲寺というお寺が建てられているようですね。そしてその法興院の中に積善寺という御堂があったのだそうです。

釈迦の説いた教えを文字としたものを「経蔵」、教団の規律を「律蔵」、後世の仏教徒が演繹 (えんえき) 注解したものを「論蔵」といい、この三蔵の総称を「一切経」と言うそうです。
この時は994年で、関白・藤原道隆が父・兼家を弔う法要をしたらしいです。兼家は990年に亡くなったようですが。実は道隆もこの次の年、995年に亡くなるのです。

女院(にょいん/にょういん)というのは、天皇の母や皇后、後宮、女御や内親王などに授ける尊称だそうです。かなりハイクラスというか、最上級といってもいいぐらいの女性です。
ここでは、東三条院詮子(藤原詮子)という人で、一条天皇の生母です。つまり一条天皇の父である円融天皇の女御であり、元々は道隆や道長の父であった藤原兼家の娘です。ということは、道隆の妹で道長の姉なわけです。定子からすると叔母であり義理の母ということになりますね。ややこしい。

だから、中宮定子というのは叔母さんの息子つまり従弟(一条天皇)に嫁いでいるということになるんですね。現代の法律でも従兄弟と従姉妹の結婚はもちろん可能です。
注目なのは当時、東三条院詮子が4歳年下の弟・道長を可愛がって強力に推したらしいということですね。甥の伊周よりも弟。そんなものなんですかね。そりゃそうか。
その辺のことはこの話に関係があるのでしょうか、ないのでしょうか。読み進めないとわかりません。


実家の父が主催する法要があるっていうので、寺がある二条の実家の新しい邸宅に行くという中宮・定子。なかなかいいところらしいです。しかし20日も前に行く必要ある?

さて、調べてみたところ、この年(正暦5年)の旧暦2月1日は3月15日、旧暦2月21日は4月4日です。旧2月1日(新3/15)だと桜には少し早いかもしれません。梅が見ごろか、早く咲いてたらもう散ってしまったかも?というタイミングですね。
月齢にもとづく旧暦は年によって時期が変わりますし、気象条件もその年ごとに違いますから、こういうのって読み方が難しいですね。

めっちゃ咲いてると思ったら、桜は造花でした、ということなんですか。


というわけで、先に申し上げておきますと、この段、めちゃくちゃ長いです。読み終えるのに4~5カ月ほど(もっと?)かかりそうな気がするのですね。でも少しずつですが、やっていきます。
②へ続きます。


【原文】

 関白殿、二月二十一日に法興院の積善寺といふ御堂にて一切経供養せさせ給ふに、女院もおはしますべければ、二月一日のほどに、二条の宮へ出でさせ給ふ。ねぶたくなりにしかば、何事も見入れず。

 つとめて、日のうららかにさし出でたるほどに起きたれば、白う新らしうをかしげに造りたるに、御簾よりはじめて、昨日掛けたるなめり。御しつらひ、獅子・狛犬など、いつのほどにか入りゐけむとぞをかしき。桜の一丈ばかりにて、いみじう咲きたるやうにて、御階のもとにあれば、いととく咲きにけるかな、梅こそただ今はさかりなれ、と見ゆるは、造りたるなりけり。すべて、花の匂ひなどつゆまことにおとらず。いかにうるかさりけむ。雨降らばしぼみなむかしと思ふぞ口惜しき。小家などいふもの多かりける所を、今造らせ給へれば、木立など見所あることもなし。ただ、宮のさまぞ、けぢかうをかしげなる。

 

 

御前にて人々とも、また④ ~二日ばかり音もせねば~

 二日ほど音沙汰が無かったもんだから、間違いない!ってことで、右京の君のところに、「…こういうことがあったのね。で、そんな様子ってご覧になったかしら?? こっそりどうだったかおっしゃって。…もしそんなじゃなかったら、こんなこと言ってたって絶対言いふらさないでくださいね」って手紙を送ったら、「(定子さまが)すごくお隠しになってたことなのです。私が申し上げたって絶対口にしないでくださいね」って返事があったもんだから、やっぱり思ったとおりだ!って、おもしろくって、定子さまご自身へのお手紙を書いて、またこっそりと定子さまのお屋敷の高欄に置かせたんだけど、慌てちゃってて。そのまま下に落として、階段の下にまで落ちちゃったっていうのよね。


----------訳者の戯言---------

右京の君というのは、同僚と言うか、清少納言よりも若手の女房のようです。右京といえば「相棒」ですけどね、普通は。
「~の君」と付きますからね。「君」といってもめちゃくちゃ高い位の人ではなかったようで、女房名には時々、こういう名前の人がいます。これまでにも中納言の君、宰相の君という女房が出てきました。前にも書きましたが、当時は親や夫の官職なんかから女房名をつけるという、まさに男尊女卑的社会なんですね。

高欄(こうらん)ですが、「欄干」と同じで、屋敷の周りなんかに付いてる手すりみたいなやつです。


結局のところ、例の畳を持って来させたのはやはり中宮・定子さまであったと確認。思ったとおりです。そして、お礼?の手紙を書いて高欄に置かせたけど、下に落ちちゃったようだと。

なぜ落ちたのを知っててそのままなのか、落ちた手紙がその後どうなったのか、気になって仕方ないですが、特に書かれていませんね。溶けたのか??


というわけで、この段の背景です。

関白殿、黒戸より出でさせ給ふとて②」でも出てきましたが、長徳の変より少し後、定子の父・藤原道隆はすでに亡くなっており兄・伊周が藤原道長との権力闘争にも負けて、世の中はいよいよ道長の世となりつつあります。
道長の娘・彰子が一条帝に入内し、定子は彰子に取って代わられ不遇の時を迎えている頃。まさに「この世をばわが世とぞ思ふ望月の~」と詠んだあの時代が訪れようとしています。

清少納言は定子=伊周派というか中関白家側の身ではありましたが、ご存じのとおり才知に長けており、交友関係も広かったようで、対抗勢力の一端でもある定子サロンに居ながら、道長派の面々、そして道長自身とも交流を持っていました。

道長とは付き合ってたのではないか?という説もあるぐらいですし、上にも書いた「関白殿、~」の段でも「押し」の一人であったことを匂わせています。
そのようなことから、「長徳の変」において、清少納言道長派に通じていたのではないか、という噂が流れます。意外なことに、これに清少納言は酷く傷心したのだそうですね。それで実家に帰って一時引き籠り状態になります。その時の逸話の一つが、この段だと言われているようです。非常に複雑な心境を感じますね。階段の下まで手紙が落ちたことを知ってても、そのままスルーしてしまった、というのが、当時の清少納言のメンタリティだったということなのでしょう。


【原文】

 二日ばかり音もせねば、疑ひなくて、右京の君のもとに、「かかることなむある。さることやけしき見給ひし。忍びてありさまのたまへ。さること見えずは、かう申したりとな散らし給ひそ」と言ひやりたるに、「いみじう隠させ給ひしことなり。ゆめゆめまろが聞こえたると、な口にも」とあれば、さればよと思ふもしるく、をかしうて、文を書きて、またみそかに御前の高欄におかせしものは、まどひけるほどに、やがてかけ落して、御階(みはし)の下に落ちにけり。

 

 

 

御前にて人々とも、また③ ~二日ばかりありて~

 二日ほど経って、赤衣(あかぎぬ)を着た男が畳を持って来て、「これを」って言うの。「あれは誰??慎みがないわ」なんて無愛想に言ったもんだから、そのまま置いてっちゃったのね。「どこからなの?」って訊ねさせたんだけど、「帰ってしまいました」ってことで部屋に運び込んだら、特別に御座(ござ)っていう畳のスタイルで、高麗縁(こうらいべり)なんかがすごくキレイなの。心の中では、そうじゃないかなぁなんて思うけど、やっぱりはっきりしないから、スタッフたちを出して探したんだけどいなくなってたの。不思議がっていろいろ言うんだけど、使いの者がいないので言ってもしょうがないから、届け先を間違ったんなら、向こうからまた言ってくるでしょ。中宮さまのところに事情伺いに参上したいけど、もし違ってたら嫌だしと思ったのね、でもやっぱり誰が理由もなくこんなことをするかしら?? 定子さまの仰せごとに違いないわ!ってすごくいい気持ちがしたの。


----------訳者の戯言---------

赤衣(あかぎぬ)というのは、赤い狩衣です。検非違使という治安維持担当の下級役人が警護の時に着ていた服らしいですね。

「御座(ござ)」というのは、運動会とかハイキングで昔よく使われていたあの「ござ(茣蓙)」の語源にもなったものです。
畳オモテというか、一般にはイグサなど草茎を織ることによって作られた敷物を現代では「ござ」と言いますが、元々は天皇とか皇后とか貴人の御座所(ござしょ)の畳の上にさらに重ねて敷く畳のことだったそうですね。ここに出てきたのはそれです。
御座所というのは天皇など高貴な人の居室で、「おましどころ」とも言われました。

時代を経て庶民にもこの「ござ」が広まっていったようで、実は畳が普及する以前の庶民の家ではかなり一般的な敷物になったようです。今ではフローリングにラグですが、板の間にござ、だったんですね。前述の運動会とかハイキングもですが、ござは敷物の定番だったのでしょう。今はレジャーシートしか使いませんけどね。
そして今では、フローリングなどの上に敷くためのものとして「い草カーペット」や「い草ラグ」までが出てきました。補強のために裏面をフェルトやウレタンなどで裏打ちされています。ニトリとかで買いたいですね。

なお、茣蓙(ござ)の「茣」は、ヨモギに似た草の名前だそうですが、茣蓙というのは当て字のように思います。草茎を織って作った敷物の総称として考えると納得できますね。


というわけで、紙の次は畳です。
本段の最初のほう①では「筵(むしろ)」というワードで出てきました。ここでは「畳」ですが同義語ですね。「また、高麗縁の筵青うこまやかに厚きが、縁の紋いとあざやかに、黒う白う見えたるを引きひろげて見れば、何か、なほこの世は、さらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなむなる」つまり、「高質の畳を広げて眺めてるだけで、この世は捨てたもんじゃなくて、生きてようって思える」みたいなことを定子の前で清少納言自身言ってましたから、それを定子が覚えてくれてたのではないか?ということです。

メンタルをやられて実家に引き籠っている清少納言をなんとか元気づけようとする中宮・定子。これは定子さまのお心遣いに違いないわ、うれしい…と喜ぶ清少納言
④へ続きます。オチはあるのか??


【原文】

 二日ばかりありて、赤衣着たる男、畳を持て来て、「これ」といふ。「あれは誰そ。あらはなり」など、ものはしたなくいへば、さし置きて往ぬ。「いづこよりぞ」と問はすれど、「まかりにけり」とて取り入れたれば、ことさらに御座(ござ)といふ畳のさまにて、高麗など、いと清らなり。心のうちには、さにやあらむなど思へど、なほおぼつかなさに、人々出だして求むれど、失せにけり。あやしがりいへど、使のなければ、いふかひなくて、所違へなどならば、おのづからまた言ひに来なむ。宮の辺(へん)に案内しに参らまほしけれど、さもあらずは、うたてあべしと思へど、なほ誰か、すずろにかかるわざはせむ。仰せごとなめりと、いみじうをかし。