枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

御前にて人々とも、また② ~さてのち、ほど経て~

 で、その後しばらくして、心から思い悩むことがあって実家に戻ってた頃、定子さまがすばらしい紙20枚を包んで、下さったの。お手紙には「早く戻っておいでなさい」なんて書いてらっしゃってて。「この紙は前にお聞きになってられたことがあったので…。良い物じゃないから、寿命経も書けないでしょうけど」って書いていらっしゃるの、すごくいい感じ。自分が忘れてしまってたことを覚えててくださったのは、普通の人でもぐっとくるのにね。ましてや中宮さまなんだからいい加減にはしておけないわ。心が乱れてしまって申し上げる方法も思いつかないから、
「かけまくもかしこき神のしるしには鶴の齢となりぬべきかな(声に出して言うのも畏れ多い神…紙!のおかげで鶴の寿命まで生きられるんじゃないかしら)―――大げさ過ぎるのでしょうか?とでも、お受け取りいただければ」とお返事申し上げたの。
 台盤所の雑仕(ぞうし)がお便りのお使いとして来てたのね。青い綾の単衣(ひとえ)を褒美として取らせたりして後、実際にこの紙を草子に作ったりして騒いでたらイヤな心持ちも紛れる気がして、おもしろいもんだわって心の中で思うの。


----------訳者の戯言---------

「これは聞こし召しおきたることのありしかばなむ」という表現がわかりづらいですが、どうも中宮の定子が誰かに書かせている、つまり代筆であるためにこういう表現になってるようですね。

寿命教というのは、正式名称「仏説一切如来金剛寿命陀羅尼経」もしくは「金剛寿命陀羅尼経」のことだと思います。密教の経典で、普賢延命のを主眼とする内容で構成されているそうですね。現世利益のお経だと言えるかと思います。そういうありがたいお経を書くにはちょっと役不足な紙ですよ、という謙遜でしょうか。


「かけまくもかしこき~」というのは、神社とかで神主さんが唱える祝詞(のりと)の一種、というか、冒頭に唱えられる祓詞(はらえのことば/はらえことば)のそのまた最初の部分です。
祓詞というものは「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神…」(かけまくもかしこきいざなぎのおほかみ…)と始まるのですが、「かけまくもかしこき」で、「声に出して言うのも畏れ多い」という意味だそうです。で、本来の祓詞のままですと、~伎伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ~)と続くわけですが、清少納言はそのまま「神」と続けます。「神」と「紙」を掛けているわけですね。しょぼいダジャレみたいですが、許してやってください。


そして「鶴」です。平安時代にすでに長寿とされていたのか?と思い、調べましたが、古い中国(紀元前百数十年頃)の書物から来ているようで、前漢武帝の頃、淮南王劉安が学者を集めて編纂させた思想書淮南子」に「鶴寿千歳、以極其游、蜉蝣朝生暮死、尽其楽(鶴は千歳を寿命として、その遊びを終わらせ、蜉蝣(かげろう)は朝に生まれて暮に死ぬが、その楽しみを尽くす)」とあるところから「鶴寿千歳」→「鶴は千年」と言われるようになったと考えられているようですね。
つまり平安時代には余裕で、鶴は千歳まで生きるのだーと言われていたことがわかります。

鶴が他の動物と比較して寿命が長いのは確かなようですが、実際の寿命は動物園での飼育でも50~80年、野生では30年くらいと言われているようです。千年というのはちょっと大げさですね。本気にすんなって話ですが。


「台盤所(だいばんどころ)」とは、「台盤」を置いておく所です。宮中では、清涼殿内の一室で「女房の詰め所」となっています。「台盤」は公家の調度の一つで、食器や食物をのせる台のことです。食卓、お膳みたいなやつですね。

「雑仕」というのは、内裏や院・女院・公卿の家に仕える女性の召使いのこと。ウィキペディアには「身分の高いほうから並べると女官―女孺―雑仕の順となる」とありましたので、一番下のポジションということになります。


メンタルやられて実家に引き籠ってる時、中宮定子が前言ったことを覚えててくれて、素敵な紙を送ってもらって、どうやら少し気分アゲな清少納言。ミヒマルGT?古っ!
③へと続きます。


【原文】

 さてのち、ほど経て、心から思ひみだるることありて里にある頃、めでたき紙二十を包みてたまはせたり。仰せごとには、「とくまゐれ」などのたまはせで、「これは聞こし召しおきたることのありしかばなむ。わろかめれば、寿命経もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、いみじうをかし。思ひ忘れたりつることをおぼしおかせ給へりけるは、なほただ人にてだにをかしかべし。まいて、おろかなるべきことにぞあらぬや。心もみだれて、啓すべきかたもなければ、ただ、

 「かけまくもかしこき神のしるしには鶴の齢(よはひ)となりぬべきかな

あまりにやと啓せさせ給へ」とて参らせつ。台盤所の雑仕ぞ、御使には来たる。青き綾の単衣取らせなどして、まことに、この紙を草子に作りなどもて騒ぐに、むつかしきこともまぎるる心地して、をかしと心のうちにおぼゆ。

 

 

御前にて人々とも、また①

 定子さまの御前で他の女房たちとも、また、定子さまがお話しなさるついでなんかにも、「世の中が腹立たしくて、嫌になって、少しの間も生きてられる気がしなくって、ただどこでもいいから、どこかに行ってしまいたい!って思ってても、普通の紙ですごく白くてキレイなのに、上等の筆、白い色紙、陸奥国紙(みちのくにがみ)なんかが手に入ったら、格別に慰められて、どうであれ、このまましばらく生きててもよさそうだな、なんて思えるの。それに、高麗縁(こうらいばし/こうらいべり)の筵(むしろ)の青く細かく厚く編んでて、その縁の紋がすごく鮮やかで黒く白く見えてるのを広げて見たら、やっぱりこの世は絶対思い捨てることができそうにないんだって、命までも惜しくなってしまうわ」って申し上げたら、「とっても、ちょっとしたことで慰められるのね。『姨捨山の月』はいったいどんな人が見たのかしら?」なんてお笑いになったの。控えてる女房も、「すごく簡単な息災の祈りみたいね」なんて言うのよ。


----------訳者の戯言---------

陸奥国紙(みちのくにがみ/陸奥紙/みちのくがみ)は高級和紙です。ついこの前も出てきました。

「高麗縁の筵」というのは?何?ということで、まず高麗縁ですが、高麗端とも書くようです。読み方は「こうらいべり」または「こうらいばし」だそうです。
というわけで、高麗縁というのは畳の縁 (へり) の一種なのですが、どんなのかというと、白地の綾に雲形や菊花とかの紋を黒く織り出したものらしいですね。紋にも大小があって、親王や大臣など上のほうの人は大紋、公卿とかは小紋のものを使ったそうです。

当時は「筵(むしろ)」に縁をつけたものを「畳」と言ったわけで、筵も畳もニュアンス的にはほとんど同じなんですね。もちろん厚みはありますが。ここでは筵と言っています。当時の部屋は板張りで、必要に応じてそれを敷いたんだそうです。
平安時代、畳は貴重品で、天皇や貴族の屋敷だけで使われていました。また、身分で畳の大きさ、厚さ、縁の生地や色が定められていたそうです。

帝、院、三宮(皇后・皇太后太皇太后)は繧繝縁(うんげんべり)。親王や高僧、摂関や将軍などの臣下でも「准后」(准三宮)という称号が与えられると三宮扱いになるため、繧繝縁を用いたようです。親王、大臣は大紋の高麗縁、公卿は小紋の高麗縁だったらしいですね。

ちなみにお雛様は繧繝縁の畳に座っています。仏像なども繧繝縁のようですね。


さて「姨捨山の月」です。

古今和歌集に詠み人知らずでこのような歌があります。

わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
(私の心を慰めることはできません、更級の姨捨山に照る月を見ていたら)

更級(さらしな)というのは、今の長野県にあった(ある?)地名です。「更級日記」の「更級」ですね。
私は蕎麦の中でも、特に更科そばが好きなのですが、これに使われているのが更科粉というのですね。信州ですから。そばの名産地として更級郡、今の長野市からしいですが、その地名があり、それに因んで付けられたと。更科(さらしな)と書きますけれど、漢字を当てるのは結構昔からいい加減というか、ラフなので実はどっちもアリなんですよね。

で、その更級にあった姨捨山(おばすてやま)。月の名所でもあったらしいです。
そして先ほど書いた「更級日記」ですね。菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)という人が書いた日記文学で、それに前述の古今集の「わが心~」の歌を本歌取りした歌が出てくるらしいんですね。これ↓です。

月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
(月も出ていない暗闇の夜、姨捨山=年老いた独り身のわたくしのところ に、あなたはどうして訪ねておいでになったのですか)

日記の終盤、夫と死別し、子供達も独立し、年老いて、と言っても50代だったそうですが、京都郊外の山里で一人暮らす彼女を甥が尋ねて来てくれました。そのことを、姨捨山に捨てられた老人に例えて詠んだのがこの歌だそうです。で、この歌自体には「更級」というワードが出てこないし、更級日記のすべてを通して「更級」という言葉は出てこないらしいですね。本歌取りした元歌のほうに「更級や」と出てくるのみなのだそうですね。なのでタイトルも後世の人が「更級日記」と名付けたというのが有力な説なのだそうです。

ちなみに夫・橘俊通の最後の赴任地は信濃国であったそうです。月、そして姨捨という連想にはそのようなことも影響していたかもしれません。

誤解の無いように書いておくと、「更級日記」作者の菅原孝標女は「枕草子」よりは後の人(1006年生まれ)ですから、本段に更級日記の内容が反映されているという事はありません。多少ヲタ気質のある人で、少女時代「源氏物語」をめっちゃ読んで、あの世界に憧れていたらしいです。特に「源氏物語」でも最後のほうの「宇治十帖」のメインのヒロイン「浮舟の女君」所謂「浮舟」押しだったようですね。というか、自己投影していたのかもしれません。「浮舟の女君」は薫と匂宮に想われて…三角関係に悩む悲劇のヒロインだそうです。


更級日記」について書き過ぎました。すみません。戻ります。
姨捨山の月」ですね。で、本歌取りもされている先の歌「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」ですが、歌物語の「大和物語」にも取り上げられています。

ざっくり言うと、ある男が、妻にそそのかされて、親のように養ってきた伯母を山(姨捨山)に捨ててきたものの、家に帰って、山の上にある月を眺めながら、悲しい思いに沈んでしまって、伯母を連れて戻ったという話だそうです。

詳しく書くと。
信濃の国の更級という所に、男が住んでいました。
若いときに親が死んでしまったので、伯母が親のように若い時から付き添って世話をしていたんだけれども、この男の妻の心は、結構つらいことが多くて、この姑が年をとって腰が曲がっているのをいつも憎ったらしく思ってて、男にもこの伯母が意地悪くろくでもないなんて言って、昔とは違っておろそかに扱うようになったと。
で、この嫁、厄介がって、なんでくたばらねーんだよって、男に告げ口して「山奥に捨てちゃってください」と責め立てたんですね。
男も、責め立てられるのに閉口して、もうそうしちゃおうって。月夜に、「寺でありがたい法会があるから、見に行きましょ!」って、すごく喜んで背負われたんだそうです。
で、高い山の峰まで行って、下りて来られそうもない所に置いて逃げて来てしまったと。「これこれ」と呼ばれても、返事もしないで逃げてね。
で、家に戻って、冷静になってみると、そそのかされてこんなことやっちゃったけど、やっぱ長い間母親のように一緒に暮らしてたの思ってすごく悲しくなってきて、この山の頂上から月もこの上もなく明るく出てるのを見たら、一晩中眠れず、まじ悲しくて。(再度になりますが)

わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て
(私の心を慰めることはできません、更級の姨捨山に照る月を見ていたら)

と詠み、また山に行って連れ戻ったそうです。それからはこの山を姨捨山と言ったそうなのですね。

という話です。長くてスミマセン。
もちろん年老いた伯母さんのことも大切ですが、どうも奥さんのほうも精神的に辛いのではないかという気がしてなりません。パニック障害であるとか、ストレス性疾患のような気がします。今なら心療内科に行って診てもらうレベルだと思います。鬼嫁的な感じで描かれていますが、実は根本的な問題はそこにあり、彼はそのへんも配慮してあげなければいけないかと考えられます。
逸れまくりましたが。
というわけで、姨捨山ですけれども、今は正式には冠着山(かむりきやま)という山なのだそうです。長野県千曲市東筑摩郡筑北村にまたがる山で、標高1252メートル、おおよそ長野盆地南西端に位置するとのことでした。

古今集が905年、大和物語が951年頃のものですから、清少納言はどちらも読んでいたのでしょう。古い歌のようですから、もっと前から有名だったかもしれませんし、説話のほうも共通認識はあったかもしれません。

そういうわけで、これを前提に定子が「姨捨山の月」はどんな人が見たのかしら??と言ったのですね。


落ち込んで澱んでた気持ちが、ちょっとしたことで洗われて正気を取り戻せたわ、定子さまや同僚たちもよかったじゃん♡って、同意してくれて…。といったところでしょうか。
②に続きます。


【原文】

 御前にて人々とも、また、もの仰せらるるついでなどにも、「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥国紙など得つれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめりとなむおぼゆる。また、高麗縁(ばし)の筵(むしろ)青うこまやかに厚きが、縁(へり)の紋いとあざやかに、黒う白う見えたるを引きひろげて見れば、何か、なほこの世は、さらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなむなる」と申せば、「いみじくはかなきことにもなぐさむなるかな。『姨捨山の月』は、いかなる人の見けるにか」など笑はせ給ふ。候ふ人も、「いみじうやすき息災の祈りななり」などいふ。

 

うれしきもの④ ~ものの折に衣打たせにやりて~

 何かの折に着物を打たせにやって、どうだろうかな??と思ってたら、きれいになってきたの。挿櫛(さしぐし)を磨かせたら美しくなったのも、またうれしいわ。他にもうれしいことはいっぱいあるでしょ!?

 何日も何か月も病気がひどくて苦しんでたのが治ったのもうれしいわね。それが愛する人の場合なら、自分のことにもましてうれしいの。

 中宮さまの御前に女房たちみんながぎっしり座ってたから、後から参上した私は少し遠い柱のところなんかに座ってたんだけど、すぐにお見つけくださって「こちらへ」っておっしゃるものだから、みんなが道をあけて、すごく近くにお呼び入れくださったのはうれしいことだったわ。


----------訳者の戯言---------

挿櫛(さしぐし)というのは、髪を結ってから、髪の乱れを整えたり、髪に挿して飾りに用いる櫛です。「解き櫛」「梳き櫛」に対し「飾り櫛」とも言うそうですね。比較的目が細かく、アクセサリー的な要素が強いもので、櫛かんざし、櫛型かんざしなどと呼ばれます。今も日本髪に使われるアイテムのようですね。

病気が治ったら、うれしいです。たしかに。久々に共感しましたよ、清少納言。けど、病気が治る件については先にも書いてたような…。やはり彼氏の病気が治るのはよほどうれしいんですね。繰り返し書いてます。先進医療が無かった時代ですから、病気が治るというのは大きなよろこびのあるできごとだったのでしょう。

しかしやっぱりシメは、定子さまに気に入られてる私!という小自慢がついつい出ます。
思いのまま、素直に、無邪気に書いてるという好意的な解釈をする人もいるようですが、これだけたくさんの本を読んで豊富な知識を持ってる30歳もとっくに過ぎた大人ですからね、もう少しおひかえ気味でもいいようなものですけどね。
ま、うれしかったんでしょうね。

というわけで、「うれしいもの」をかなりランダムに書き連ねた段。ここまででございます。


【原文】

 ものの折に衣打たせにやりて、いかならむと思ふに、きよらにて得たる。刺櫛(さしぐし)磨(す)らせたるに、をかしげなるもまたうれし。「また」もおほかるものを。

 日頃、月頃しるきことありて、悩みわたるが、おこたりぬるもうれし。思ふ人の上は、わが身よりもまさりてうれし。

 御前に人々所もなくゐたるに、今のぼりたるは、少し遠き柱もとなどにゐたるを、とく御覧じつけて、「こち」と仰せらるれば、道あけて、いと近う召し入れられたるこそうれしけれ。

 

 

うれしきもの③ ~陸奥国紙~

 陸奥国紙(みちのくにがみ)や普通の紙でも、いいのをGETした時。こっちが恥ずかしくなるくらいすごい人に歌の上の句や下の句を尋ねられた時、すぐに思い出したのは我ながらうれしいわ。いつも覚えてる歌も、人から尋ねられたら、きれいさっぱり忘れちゃってることが多いのよね。
 急ぎで探してる物が見つかったのも(うれしい)。

 物合(ものあわせ)や何やかやの勝負事に勝ったのは、どうしてうれしくないことかしら? うれしいに決まってるじゃない! また、自分はイケる!とか思ってドヤ顔になってる人を、引っかけてやりこめた時。女同士よりも、相手が男のほうがいっそううれしいの。これの仕返しを絶対してやろうって思ってる??って、いつも意識しちゃってる感じなのもおもしろいんだけど、すごくさりげなく何にも思ってない風で、油断させたままで過ごしてるのもまたおもしろいわ。
 憎ったらしい者がひどい目にあうのも、罰があたるかも??とは思いながらも、またうれしいの。


----------訳者の戯言---------

陸奥国紙(みちのくにがみ/陸奥紙/みちのくがみ)。陸奥紙として、「心ゆくもの」という段でも出てきてましたね。当時から高級和紙で、檀紙というもののようです。


物合(ものあはせ)というのは、対戦ゲーム的なものでしょうか。といっても、今もパラリンピックやってますが、スポーツ的なものとは違うようですね。文化会系のやつというか、物自慢とか目利きというか、センスを競ったり、テクニックやスキルを競ったりもしたようです。団体戦のようですね。

左右二組に分かれて課題の品物などを持ち寄らせて、審判を立てて何回戦かを戦って、左右チーム総合の勝敗を決めるものだとか。
で、歌合、絵合、貝合、鳥合(闘鶏)、花合(花の優劣を競う)、小鳥合(小鳥の品評会)、虫合、前栽合、扇合、琵琶合など。かなりの分野でやってたようですね。
貝合というと、蛤の貝殻で神経衰弱みたいなのをやる、というのが有名ですが、珍しい貝を出し合って優劣を決める貝合もあったようで。そっちのです。
琵琶合というのは、琵琶の伝来、形状、音色なんかを競ったようですね。楽器として。物合ですから、演奏の腕を競うのではなくあくまでも「モノ」なんですね。他に季節の行事として、菖蒲の根合、菊合、紅梅合などもあったそうです。

菖蒲の根合(あやめのねあわせ)というのは、菖蒲の草を持ち寄り、その根の長さを競うらしいです。根ですよ根。けれど、ほんとうは地下茎らしいです。レンコンみたいなとこですかね。ちなみにジャガイモやサトイモは地下茎、サツマイモやヤマイモは根が発達したものらしいです。
節は五月にしく月はなし」の段でも菖蒲の根が出てきましたが、根にしろ地下茎にしろそういうのをありがたがったのですね。そもそも菖蒲が邪気払いのもので、葉より地下茎のほうがさらに香りが強いから、パワーがあるとしたんでしょう。
で、「栄華物語」の「根合」の巻には一丈三尺もあったのが書かれているそうです。4m近いですね。デカすぎじゃん。持って帰ってくるのがたいへん過ぎますよ。

さて、この「菖蒲の根合」は現在も、京都の上賀茂神社の5月5日の賀茂の競馬(くらべうま/きそいうま)の日に行われてるということです。5月5月というのは端午の節句なんですが、植物で言うと菖蒲の節句なんですね。で、平安時代、5月に災害とか縁起の悪いことが多かったということもあって、まじないのために競馬が開催されました。今のJRAの前身です(嘘)。 
そもそもは宮中の武徳殿というところで行われていたんですが、宮中から外に移そうという話になって、名乗りを上げたのが石清水八幡宮上賀茂神社であったと。で、これを「菖蒲の根合」で決めることになりました。まあ決め方が優雅と言うか、遊びじゃん。で、上賀茂神社に決まりました!と。で、今も午前中に菖蒲の根合わせをやって、午後に競馬をやるようです。
今や神事ですから、天下泰平、五穀豊穣を祈願するものであって、どちらも本気度は低いようですね。競馬の本気のやつを求める方はJRAに行ってください。淀ですね。春の天皇賞です。

逸れましたが「物合」。まず左方と右方のチームメンバーを決めます。
だいたいは各チームのスポンサーとなる大貴族が、親類縁者・家臣など関係者の中からその道に優れた人を抜擢するそうです。歌合などでは、一般の貴族であっても和歌の腕がよければ選ばれて見いだされるみたいなこともあったようなので、身分低めの参加者の中には文字どおり命がけで歌を考えるような人もいたらしいです。

左方のチームカラーは暖色系(当時は紫から橙色まで)で、大きな物合のイベントではアシスタントの女童たちの衣装や品物を包む紙とかも赤紫から紅の色合いでデザインを統一。右方のチームカラーは寒色系(当時は黄色から青紫まで)で、同じく凝ったデザインにして競ったらしいです。赤チームと青チーム的な感じですね。

審判(判者)を選ぶのもたいへんで、審美眼がある、目利きであるのはもちろん、判定書に必要な書道や文章、和歌とかに精通した人が選ばれたらしいです。
両チームにはチーム代表で解説や進行を担当する「頭」や、応援担当の「念人」が選出されることもあったらしいです。キャプテンとかチアリーダーみたいなのですね。

スポンサーがいて、それぞれの名手(プレイヤー)が選ばれ、チームカラーのユニフォームやグッズが用意され、アシスタントもいて、レフェリーは一流、チアリーダーもいるというね。もうほとんど今のプロスポーツみたいな感じです。


さて、清少納言は勝負事には勝ちたい人なんですね。しかも女同士よりも男性に勝ちたいと。なかなかの負けず嫌いです。しかも、憎んでる人の不幸を喜ぶというトンデモな人、それが清少納言
このままでいいのか清少納言。次の④で汚名を濯がないと。


【原文】

 陸奥国紙(みちのくにがみ)、ただのも、よき得たる。はづかしき人の、歌の本末問ひたるに、ふとおぼえたる、われながらうれし。常におぼえたることも、また人の問ふに、清う忘れてやみぬるをりぞ多かる。とみにて求むるもの見出でたる。

 物合(ものあはせ)、何くれと挑むことに勝ちたる、いかでかうれしからざらむ。また、われはなど思ひてしたり顔なる人謀り得たる。女どちよりも、男はまさりてうれし。これが答(たふ)は必ずせむと思ふらむと、常に心づかひせらるるもをかしきに、いとつれなく、何とも思ひたらぬさまにて、たゆめ過ぐすも、またをかし。にくき者のあしきめ見るも、罪や得らむと思ひながら、またうれし。

 

 

うれしきもの② ~遠き所はさらなり~

 遠いところはもちろん、同じ都の中ででも離れてて自分にとって大切だって思ってる人が病気だって聞いて、どうなんだろ?どうなんだろ?って心配して嘆いてる時、良くなったよってことを、人づてに聞くのはすごくうれしいわ。

 好きな人が人に褒められて、高貴な人なんかが立派な人物だとお思いになって、そうおっしゃるの。
 何かの時、もしくは、誰かとやりとりした歌が評判になって、和歌集なんかに書き入れられるの。私のコトとしてはまだ経験ないけどやっぱり想像しちゃう。

 そんなに親しくない人が口にした古い歌なんかで、知らなかったのを教えてもらったのもうれしいわ。後で、何かの本の中なんかで見つけた時はただもうおもしろくって。この歌だったんだわ!って、その歌を口ずさんでた人のことを素敵に感じるの。


----------訳者の戯言---------

原文にある打聞(うちぎき)というのは、「聞いたことば、聞いたまま書きつけること」だそうですが、「和歌集」のこともこう言ったようです。

大切な人の病気が治ったという知らせ、好きな人に対する評価が高いこと、詠んだ歌が高評価で和歌集に撰入される、といったことのうれしさですね。

そして、知らなかった詩歌を教わった時のこと。誰かにいかしたYouTubeチャンネルを教えてもらった時の感じですね。うーんちょっと違いますか。誰かのTikTocを教えてもらって見たけど、YouTubeもやってる人で。YouTube見たらさらにさらにめっちゃハマった、みたいなー? TikToc教えてくれた人まじリスペクトー的な感じです。


カテゴライズされておらず、思いついたまま書いてる感じ。まとまりがないまま③へ続きます。


【原文】

 遠き所はさらなり、同じ都のうちながらも隔たりて、身にやむごとなく思ふ人のなやむを聞きて、いかにいかにと、おぼつかなきことを嘆くに、おこたりたる由、消息聞くも、いとうれし。

 思ふ人の、人にほめられ、やむごとなき人などの、口惜しからぬ者におぼしのたまふ。もののをり、もしは、人と言ひかはしたる歌の聞こえて、打聞などに書き入れらるる。みづからのうへにはまだ知らぬことなれど、なほ思ひやるよ。

 いたううち解けぬ人の言ひたる故き言の、知らぬを聞き出でたるもうれし。後にものの中などにて見出でたるは、ただをかしう、これにこそありけれと、彼の言ひたりし人ぞをかしき。

 

 

うれしきもの①

 うれしいもの。
 まだ読んでなかった物語の第一巻を読んで、すごく続きを読みたい!って思ってて、残りの巻を見つけたの。でも、がっかりするようなのもあるんだけどね。

 誰かが破り捨てた手紙をつなぎ合わせて見るんだけど、その続きを何行も続けて読めたの。
 どうなるんだろ??って思う夢を見て、怖っ!てドキドキしてたら、何でもないって夢判断してくれてたの、すごくうれしいわ。

 身分の高い方の御前に、女房たちがたくさん侍ってる時に、昔あったことであっても、今お聞きになって世間で噂になってることでも、お話しになる時、私のほうをご覧になりながらおっしゃったのはすごくうれしかったわ。


----------訳者の戯言---------

誰かが破り捨てた手紙をつなぎ合わせて見る、って。いいのか?? わざわざそんなことするって…正直引きますわ。バラバラのやつつなぎ合わせるんだぜ。ストーカーじゃん。
しかも続きを何行も続けて読めたらうれしい、ってどーよ。

すみません、言葉が荒くなりました。

夢ですが、当時は見た夢の内容によって、その夢の意味や、吉凶を判断したらしいですね。それを「夢解き」と言ったそうです。また、それをする人のことも「夢解き」と言ったらしいですね。平安時代は、夢に見たことが実現するとも信じられてたみたいで、結構盛んに夢解きが行われたらしいです。
科学的根拠はわかりませんが、フロイト的なものでしょう。

最後のところは、ライブとかに行って、押しがこっち見て歌ってくれたーとかいう感じでしょうか。違いますか。


とりあえず、「うれしいもの」を集めてみますと。けれど内容が。ショボいというか、器小っちゃいというか、そんな感じでした。②に期待しましょう。


【原文】

 うれしきもの まだ見ぬ物語の一を見て、いみじうゆかしとのみ思ふが、残り見出でたる。さて、心劣りするやうもありかし。

 人の破(や)り捨てたる文を継ぎて見るに、同じ続きをあまたくだり見続けたる。いかならむと思ふ夢を見て、恐ろしと胸つぶるるに、ことにもあらず合はせなしたる、いとうれし。

 よき人の御前に、人々あまた候ふをり、昔ありけることにもあれ、今聞こしめし、世に言ひけることにもあれ、語らせ給ふを、われに御覧じ合はせてのたまはせたる、いとうれし。

 

 

大蔵卿ばかり

 大蔵卿(藤原正光)ほど耳ざとい人っていないわ。ホント、蚊のまつ毛が落ちるのさえもお聴きつけになるほどだったの。

 職の御曹司の西側に住んでた頃、大殿の新中将(源成信)が宿直で、お話なんかしてたら、側にいる女房が「この中将に扇の絵のことを言って」って囁くもんだから、「今に、あの方が座席をお立ちになったらね」って、すごくひそやかに小声で言ったのを、その女房でさえ聞こえないで「何です?何です?」って耳を傾けてくるっていうのに、大蔵卿は遠くに座ってて、「憎らしいね。そんなことおっしゃるなら、今日は席立たないですよ」っておっしゃったのは、なんでお聞き取りになれたんでしょ??って呆れちゃったの。


----------訳者の戯言---------

大蔵卿(おおくらきょう/おおくらのかみ)というのは、大蔵省の長官のことです。今で言うと財務省。で、トップは財務大臣ですから麻生太郎ですかね。
違います。
当時の大蔵卿は藤原正光という人で、ノンフィクション作家にいそうな名前ですが、中宮定子の父・道隆とは従兄弟の関係にあたる人でした。
正光、耳が良かったんですね。この前の声を聞き分ける人もそうですが、くだらないことに感心してます清少納言。無駄な能力かと思います。それに、蚊のまつ毛~のくだりは、上手いこと言うたった感があって、どうだかなーですね。それほど面白くもないと思います。

で、場所ですが、またもや職の御曹司の西面です。「職御曹司(しきのみぞうし)」というのは「職曹司」のこと。「中宮職」の庁舎をこう言いました。一般に「御曹司」は高貴な人の私室だそうです。これが転じてエエトコの子のことを「御曹司(おんぞうし)」と言うようになったらしいですが。
中宮職中務省に属する役所で、皇后に関する事務全般をやっていたところらしいです。

前にも書いたことがありますが、「長徳の変」のあおりを受け後遺症的に謹慎状態だった定子が、その謹慎期間が明けた直後、「職の御曹司」に長期滞在していた時期があって、その時のことのようです。


「大殿の新中将」は前段で登場した「成信の中将」と同一人物です。大殿(おおとの)というのは藤原道長のことで、その猶子(ゆうし)であった新しい中将、それが源成信であるということです。人の声が聞き分けられる人ですね。猶子っていうのは、義理の親子関係なんですが、一般には家督や財産とかの相続、継承を目的にはしないらしいです。その点で養子とは違っていて、子の姓は変わらず、仮親が後見人みたいな存在になるようです。お互いにメリットがあるので親子になる、という関係なのでしょう。

で、その成信。今回も登場はしましたが、特に何かをしているわけではありません。宿直でその場にいた、というだけですが、前回書いたとおり女子たちには人気で、憧れの存在ですから、女房からすると直に話しかけるのも照れくさい感じなんでしょう。
で、そんな時、成信サマにも大蔵卿の藤原正光にも聞こえないようにと女子同士でやりとりしてたヒソヒソ話。

あたかも終業時刻頃オフィスで「あの方が帰ったらね」と、課長が帰ってしまうのを待ちながら小声で話す課員のごとくです。それを聞きつけた大蔵卿・藤原正光。「おたくらなめてます?ワシ、帰らんもんね」としょっぱい対応されたと。

年齢的には藤原正光が40代のオッサン、源成信クンは二十歳前後のぴっかぴかイケメンですから、女子としては早くオッサン帰ってくれたら成信サマとみっちりお話しできるのにィ、って感じです。

「んもう、あのオヤジ耳よすぎー」という話でした。


【原文】

 大蔵卿ばかり、耳とき人はなし。まことに、蚊の睫(まつげ)の落つるをも聞きつけ給ひつべうこそありしか。

 職の御曹司の西面に住みしころ、大殿の新中将宿直にて、ものなど言ひしに、そばにある人の、「この中将に、扇の絵のこと言へ」とささめけば、「今、かの君の立ち給ひなむにを」と、いとみそかに言ひ入るるを、その人だにえ聞きつけで、「何とか、何とか」と耳をかたぶけ来るに、遠くゐて、「にくし。さのたまはば、今日は立たじ」とのたまひしこそ、いかで聞きつけ給ふらむとあさましかりしか。