枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

円融院の御はての年①

 円融院の喪(諒闇)が明けた年、女房もみんな喪服を脱いだりして、しんみりとした感じで、宮中をはじめとして院にお仕えしてた人も、「花の衣に」なんて言われた時代のこととかに思いを馳せて、しみじみしてたんだけど、雨がすごく降るある日のこと、藤三位の局に、蓑虫みたいな大きな子どもが白い木に立文をつけて、「これを差し上げてください」って言ってきたから、女房が「どこからの手紙なんですか? 今日明日は物忌なんだから、蔀も上げないわよ」って、下半分閉じられたままの蔀(しとみ)の隙間から受け取って。藤三位も「これこれこういうことがありました」とはお聞きになってて、「物忌なんだから見ないわ」って、上の方に突き刺しておいたんだけど、次の日の早朝、手を洗い清めて、「さあ、その昨日の巻数(かんず)を見ましょう」って、持って来させて伏し拝んで開けたら、胡桃色っていう色紙の厚ぼったい紙でね、不思議だなぁって思いながら開けてったら、僧侶のようなとってもすばらしい字で、

これをだにかたみと思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖
(せめてこの喪服、椎柴の袖だけでもと、私は院の形見だと思って着ているんですが、都ではもう喪服を脱いで衣替えをしてしまったんでしょうか)

って書いてあったの。藤三位は、すごく情けなくって、いまいましいこと! 誰がやったんでしょう? 仁和寺の僧正の仕業かしら?とも思ったんだけど、いくらなんでも僧正はこんなことはおっしゃらないでしょうしね。藤大納言(藤原為光)が円融院の別当(長官)でいらっしゃったから、それでやったみたいね。って、そのことを帝や定子さまに早くお知らせしたいと思ったら、とても気ははやったんだけど、やっぱりすごく恐ろしいと言われる物忌をやり遂げてしまおうって思って。藤三位は、その日は我慢して過ごして、翌朝早くに藤大納言のところにこの歌の返歌を置かせてきたら、すぐにまた返歌をお返し下さったの。


----------訳者の戯言---------

天皇(または院)が崩御された時、喪に服する期間を諒闇(りょうあん)と言うそうです。天皇太皇太后、皇太后その父や母の崩御にあたり喪に服する期間、ということのようです。ここでは、一条天皇の父・円融院が亡くなり、それから1年、喪が明けた後に新しい年を迎えた時の話でしょう。

「花の衣に」というのは、僧正遍昭という人が詠んだ「みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よかわきだにせよ」(みんな人々は花のように華やかな衣に着替えてしまったけど、涙で濡れた僧衣の袖よ、どうかせめて乾いておくれ)という歌から取られた一節のようです。
僧正遍昭は、六歌仙の一人として知られていますが、とても親しく仕えていた仁明天皇が早逝してしまいます。元々は結構なプレイボーイだったらしいですが、この仁明帝の死を機に出家したそうで、その時詠んだ歌がこれらしいですね。僧衣のことを昔は「苔の衣」と言ったらしいです。袂(たもと)は「手本(たもと)」の意味で、すなわち袖を表すようです。

と、まあ、その「花の衣に」がかつて詠まれた、その頃のしんみり感を感じつつ、という状況のようですね。そういう、ある雨の日のできごとだったのでしょう。

蔀(しとみ)というのは、開口部の一種なんですが、格子を取り付けた板戸の上部を蝶番(ちょうつがい)で繋いで開けたり閉めたりしたものです。たいてい下半分が固定になってて、開けたいときには上半分を外に垂直に引っ張り上げて留めたりしてたようです。物忌の時は、蔀を上げたりしなかったのでしょうね。

藤三位というのは一条帝の乳母です。藤原師輔という人の四女・繁子という人で、藤原道兼藤原道隆の弟)の奥方の一人でもあったそうです。道兼の死後には、平惟仲の妻となりました。
平惟仲は、「大進生昌が家に①」で登場した平生昌の兄にあたります。
この藤三位という女房は、当時定子付きの上臈女房として勢力を持っていたようですね。

巻数(かんず)というのは、僧が経文などを読んだ時に、依頼によりその巻数などを書いて依頼主に送る文書のことを言ったようです。

胡桃色(くるみいろ)というのは、薄い茶色。カフェオレ色、みたいな感じです。クルミの色がこんなイメージだったのでしょうか。

椎柴(しいしば)の袖というのが和歌の中に出てきました。「椎柴」というのは、椎を染料に用いるところから、喪服の色のことをこう言ったようです。また、喪服そのものことを表す場合もあるようですね。

藤大納言というのは、「小白河といふ所は③」にも書きましたが、藤原為光という人だと考えられます。藤原師輔の子ですから、藤三位の局の兄にあたります。

えー、藤三位の局という女房のところに和歌の書かれた差し出し人不明の謎の手紙がやってきました。というお話です。内容はなんとなくdisられてるみたいで、感じ悪いよね、いったい誰やねん!と思って、ちょい考えて見たら、そうだ!お兄ちゃんの藤大納言だ!って、返歌を送りました。すると返事が返ってきたんですね。

というわけで、②に続きます。先の読めない展開ですね。


【原文】

 円融院の御はての年、みな人御服脱ぎなどして、あはれなることを、おほやけよりはじめて、院の人も、「花の衣に」など言ひけむ世の御ことなど思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位の局に、蓑虫のやうなる童の大きなる、白き木に立文をつけて、「これ奉らせむ」と言ひければ、「いづこよりぞ。今日明日は物忌なれば、蔀もまゐらぬぞ」とて、下(しも)は立てたる蔀より取り入れて、「さなむ」とは聞かせ給へれど、「物忌なれば見ず」とて、上(かみ)についさして置きたるを、つとめて、手洗ひて、「いで、その昨日の巻数こそ」とて請ひ出でて、伏し拝みてあけたれば、胡桃色といふ色紙の厚肥えたるを、あやしと思ひてあけもて行けば、法師のいみじげなる手にて、

これをだにかたみと思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖

と書いたり。いとあさましうねたかりけるわざかな。誰がしたるにかあらむ。仁和寺の僧正のにやと思へど、世にかかることのたまはじ。藤大納言ぞかの院の別当にぞおはせしかば、そのし給へることなめり。これを、上の御前、宮などにとくきこしめさせばやと思ふに、いと心もとなくおぼゆれど、なほいとおそろしう言ひたる物忌し果てむとて、念じ暮らして、またつとめて、藤大納言の御もとに、この返しをして、さし置かせたれば、すなはちまた返ししておこせ給へり。


検:円融院の御終ての年

 

枕草子 清少納言のかがやいた日々 (講談社青い鳥文庫)

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