枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

なほめでたきこと①

 やっぱりすばらしいのは、臨時の祭の時のことじゃないかしらね。舞楽のリハもすごくいいのよ。

 春は空の様子ものどかでうららかなんだけど、清涼殿の御前に掃部司が畳を敷いて、勅使は北向きに、舞人は御前の方に向いて、これらは間違って覚えてるかもしれないけど、蔵人所の衆たちが衝重(ついがさね)を持ってきて、席の前に並べてるの。楽団員たちも、そこの庭でお食事をいただく時だけは帝の御前で出入りするのよね。公卿や殿上人が代わる代わる杯をとって、最後には屋久貝っていうものでお酒を飲んで席を立ったら、すぐに「とりばみ」っていうの、これは男なんかがやったってすごくヤな感じなのに、御前の庭には女まで出て来て取るのよね。思いがけずに、人がいるとも思えない火焼屋(ひたきや)から急に出て来て、たくさん取ろうって騒ぐ者が、なかなか取れないで取りこぼしてるうちに、軽やかにささっと取っていっちゃう者には後れをとって。しかるべき保管場所として火焼屋を使って、運び込んでるのはすごくおもしろいわ。掃部司の者たちが畳を取り払うと、遅いよ!って、主殿司の役人が手に手に箒を持って、砂を馴らしていくの。


----------訳者の戯言---------

臨時の祭というのは、これまでにも何度か出てきました。清少納言はその頃のことが好きみたいですね。
臨時の祭っていうのは、例祭ではない祭のことらしいですが、一般には賀茂神社(11月)、石清水八幡宮(3月)の臨時の祭だそうです。
まいて、臨時の祭の調楽などは」という段でも、舞楽のリハーサルをやってる風景が描かれていました。あれは賀茂神社の臨時の祭の時でした。

掃部司(かもりづかさ/かにもりのつかさ/かもんづかさ/かもんのつかさ)は、宮中の掃除や設営のことをつかさどった役所だそうです。

衝重(ついがさね)というのは、食膳=食器台の一つです。四方に大きく格狭間を透かした台に折敷を重ねたもの、だそうです。

陪従(べいじゅう)は舞楽の楽人、ミュージシャンのことです。殿上人ではありませんから、通常は清涼殿で天皇の御前には出られない身分ですが、この時ばかりは出入りできたようです。

屋久貝(夜久貝/やくがい)は夜光貝(やこうがい)のことだそうです。リュウテンサザエ科の巻き貝で、食用とされたらしい。元々、屋久島から献上されたことから「やくがい」と呼ばれたそうです。

「とりばみ」というのは「取り食み」と書くそうです。宴会の料理の残りを庭に投げて、下人などに食べさせたんだそうですね。なんか嫌な感じですね。この投げられたものをそ食べる人のこともこう言ったようです。

火焼屋(ひたきや)とは、宮中で、庭火やかがり火をたいて夜を守る衛士の詰めていた小屋のことだそうです。

この段は長いので、また何回かに分けて読んでいきたいと思います。
春、とありますから、ここで描かれてるのは石清水八幡宮の臨時の祭の時のことと思われますね。清涼殿の庭でリハーサルが行われるようなんですが、その様子のようです。お食事とかもふるまわれて、「とりばみ」なんかがあったり、畳を片付けて庭の砂を馴らす様子が描かれています。

さて、この後どのようなことが起こるのでしょうか。②に続きます。


【原文】

 なほめでたきこと 臨時の祭ばかりのことにかあらむ。試楽もいとをかし。

 春は、空のけしきのどかにうらうらとあるに、清涼殿の御前に、掃部司(かもんづかさ)の、畳をしきて、使は北向きに、舞人は御前のかたに向きて、これらは僻おぼえにもあらむ、所の衆どもの、衝重(ついがさね)取りて、前どもにすゑわたしたる。陪従も、その庭ばかりは御前にて出で入るぞかし。公卿、殿上人、かはりがはり盃取りて、はてには屋久貝といふものして飲みて立つ、すなはち、とりばみといふもの、男などのせむだにいとうたてあるを、御前には、女ぞ出で取りける。おもひかけず、人あらむとも知らぬ火焼屋(ひたきや)より、にはかに出でて、おほくとらむと騒ぐものは、なかなかうちこぼしあつかふほどに、軽らかにふと取りて往ぬる者には劣りて、かしこき納殿(おさめどの)には火焼屋をして、取り入るるこそいとをかしけれ。掃部司の者ども、畳とるやおそしと、主殿の官人、手ごとに箒取りて砂(すなご)馴らす。

とり所なきもの

 取り柄のないものっていうと。ルックスが憎らしい感じで、しかも性格が悪い人。姫糊を塗りたくったもの。これって、みんなすごく憎んでるものってことだし、今さら書くのをやめるべきじゃないわよね。それと、送り火の火箸が取り柄ない、なんていうのも、何で書かないでいられるかな?? 世の中になくはないものだし、みんな知ってることなワケでしょ? だから、まじ書いちゃってても、人は見向きもしないんでしょうけど、この枕草子を、人が見るべきものだとは思ってなかったから、不思議なことも、憎ったらしいことだって、ただシンプルに思うことを書こう!って思ったのよね。


----------訳者の戯言---------

御衣姫(みぞひめ/みそひめ)は、衣服用の姫糊(ひめのり)のことだそうです。姫糊というのは、飯で作った糊なんですね。張り物、洗濯に使うものだそうです。

「あと火」というのは、葬儀の際の送り火のこと。再び戻らないようにと門前で焚いたそうです。で、それに使った火箸なんでしょうね。不吉なものとして忌み嫌われたそうで、使い道のないものとされてたらしいです。

今回は、取り柄のないもの、使い道がないっていうか、つまり、「コイツ使えねー」ってものですね。
見た目も性格も悪い人。うーん、これはまあそうですかね。当たり前といえば当たり前なんですけど。糊の件はちょっとよくわからないですね。まあ、そう思ったんでしょう。

で、最後の方、なんか、言い訳みたいなことばっかり書いてます。
こんなこと書いても、あるあるだし、みんな思ってることでしょ、斬新でもないわよね、でもこれみんなが読むと思って書いてたわけじゃないしね、自分が感じたことをただ書こうって思って書いただけなんだよね。という感じですか。
ちょっと見苦しいですね。


【原文】

 とり所なきもの 形にくさげに、心あしき人。御衣姫(みぞひめ)のぬりたる。これいみじう、よろづの人のにくむなる物とて、今とどむべきにあらず。また、あと火の火箸といふこと、などてか、世になきことならねど、みな人知りたらむ。げに書き出で、人の見るべきことにもあらねど、この草子を、人の見るべきものと思はざりしかば、あやしきことも、にくきことも、ただ思ふことを書かむと思ひしなり。

 

枕草子 平安女子のキラキラノート (角川つばさ文庫)

枕草子 平安女子のキラキラノート (角川つばさ文庫)

 

 

つれづれなぐさむもの

 退屈なのを紛らわせるものっていうと…。碁。双六。おしゃべり。三つか四つの幼児がかわいく何か言ってるの。それに、とっても小さな子どもが何かおしゃべりをして、間違ったことなんかをしちゃってる様子も。果物。男なんかで、冗談を言ったりして、よくしゃべる人が来たら、物忌みなんだけど中に入れちゃうのもね。


----------訳者の戯言---------

碁ですか。碁ってそんな昔からあったの?と思って調べたら、古い古い。平安時代よりもっと古いです。日本には7世紀に伝わったそうですね。そもそも中国のもので、春秋時代にできた?ということですから、紀元前数百年。平安時代なんてあって当たり前って話ですよ。

双六というのは、今、私たちがイメージするものとはちょっと違うようで、「盤双六」というもののようですね。バックギャモンに近いゲームと言われています。吉田兼好徒然草第百十段 双六の上手という人に」には、その達人の極意みたいなことが書かれています。

原文の「うちさるがひ」の「うち」は、「ちょっと」「ふと」「すっかり」「かなり」みたいな、いろいろな意味のある接頭語です。訳すのはなかなか難しい言葉ですよね。「さるがふ」は漢字だと「猿楽ふ」です。冗談を言う、おもしろいことを言う時に使うようです。「猿楽言(さるがふごと)」で「冗談、ジョーク」という意味になります。

まあ、退屈な時を紛らわせてくれるものはコレ!という段です。碁とか双六とかトーク、ちっちゃい子がしゃべったり、何かいらんことしたりしてるのを見て退屈しのぎにするとか、あとは、おもしろいことを言うおしゃべりな男。関西弁で言うところの「いちびり」ですね、大阪の街とかには普通にたくさんいらっしゃいます。
しかし物忌みという、不浄を避けて心身を清浄に保つべき時なのに、そんないちびり男を家に入れていいんでしょうか。

今で言うなら、碁や双六はゲーム全般に代わってますね、ネトゲとかスマホゲームとか。おしゃべりはSNSですかね、LINEとかインスタ、ツイッターかと。子どものしぐさや様子を見てると退屈がまぎれる、というのは、わかりますが、現代ならそれに加えて、ペットというか、猫さんとかわんちゃんでしょうね。果物というのは間食。今ならスナック菓子とかスウィーツですね、これを暇つぶしにしてしまうと、体がたいへんなことになってきます。先に「いちびり男」と書きましたが、YouTubeAmazonプライムですね。もちろんテレビも。
比べると、今の暇つぶしがなんと恵まれていることかと再認識できますね。

結論。
現代に生まれてよかった。


【原文】

 つれづれなぐさむもの 碁。双六。物語。三つ四つのちごの、ものをかしういふ。また、いと小さきちごの、物語りし、たがへなどいふわざしたる。菓子(くだもの)。男などの、うちさるがひ、ものよくいふが来たるを、物忌みなれど、入れつかし。

 

枕草子 ─まんがで読破─
 

 

つれづれなるもの

 手持ち無沙汰で退屈なもの。自宅じゃなく他所に移ってやる物忌み。駒が進まない双六(すごろく)。除目で官職を得られなかった人の家。雨が降ってるのは、なおさらすごく所在なげなのよね。


----------訳者の戯言---------

やることがなくて暇。とか、手持ち無沙汰、退屈とか、そういう意味です。つれづれなるままに日暮らし、と書いたのは吉田兼好ですが、まさにあれですね。

物忌みというと、災厄から免れるため、一定期間食事や行動を慎み、不浄を避けて家の中にこもることをいいます。時代的には平安時代の貴族の間で最も流行したようです。

ぽわ~んとしてる感じですか。それとも、あくびが出る感じでしょうか。ヒマ過ぎて、やることがなくて、しかも任官できないとかだし、少しイライラッとしてる感じもなくはありません。
物忌みとか除目っていうのは、そこそこの緊張感や高揚感もあるべきものですから、そこで退屈を感じるのは決して愉快ではないですからね。むしろ不快。

あまりよく知らない人の送別会になぜか呼ばれたりとかね。今の季節だと、いっしょに行った人以外誰も知らない新年会とか、ほんとにつらいです。


【原文】

 つれづれなるもの 所去りたる物忌。馬下りぬ双六(すぐろく)。除目に司得ぬ人の家。雨うち降りたるは、まいていみじうつれづれなり。

 

枕草子―付現代語訳 (上巻) (角川ソフィア文庫 (SP32))

枕草子―付現代語訳 (上巻) (角川ソフィア文庫 (SP32))

 

 

円融院の御はての年② ~それを二つながら持て~

 それを二つとも持って、急いで参上して、「こういうことがございました」って、帝もいらっしゃる御前で語り申し上げなさったのね。定子さまは、とってもさりげなくご覧になって、「藤大納言が書いた字ではないようですね。法師のでしょう。昔の鬼の仕業だと思いますわ」なんて、すごくまじめな感じでおっしゃるから、「それじゃ、これは誰の仕業なんでしょう?? 物好きな上達部や偉いお坊さまなんかだと誰がいます? あの人かしら?この人かしら?」なんて、不審がって、実のところを知りたがって申し上げなさったから、帝が「この辺で見かけた色紙にすごく似てるよね~」って、ニヤニヤなさって、もう一枚、御厨子の中にあるのを取り出してお示しになったので、「……。ああもうヤだ、こんなことしたワケをおっしゃってください。ああ、頭が痛い、どうかすぐに理由をお伺いしたいです」って、ひたすら責めに責め申し上げ、怨みごとをおっしゃり、お笑いにもなるもんだから、帝がようやくご返事して、「お使いに行った鬼童は、台盤所の刀自っていう者のところで働いてたんだけど、小兵衛がうまく言って誘い出して、やったんじゃないのかなぁ?」なんておっしゃったら、定子さまもお笑いになったもんだから、彼女、定子さまを引っ張り揺さぶって、「なんで、こんな謀りごとをなさったんです? 全然疑いもなく手を洗い清めて伏し拝み奉ったんですからね!」って、笑いながら悔しがってらっしゃる様子も、でも、とても誇らしげで愛嬌もあっていい感じなのよ。

 で、その後、台盤所でも大笑いして騒いで、局に下がって、あの使いの童を見つけ出して、立文を受け取った女房に見せたら、「その子でございましたわ」って言うの。でも「誰の手紙を、誰から渡されたの?」って聞いたら、何とも言わないで、白々しく笑って走って行っちゃったのね。藤大納言(藤原為光)は、後でこれを聞いて、おもしろがってお笑いなったのよ。


----------訳者の戯言---------

僧綱(そうごう)というのは、僧尼の統轄、寺の管理・運営にあたる僧の役職だそうです。

厨子(ずし)は、仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置する仏具の一種ということです。玉虫の厨子とかいうのを聞いたことがありますね。広い意味では、仏壇も厨子に含まれるそうです。

「あな、心憂」は「あな、こころう」と読むらしいですね。「ああ、つらい」「ああ、嫌だ」くらいの意味です。

「台盤所(だいばんどころ)」とは、「台盤を置いておく所。宮中では、清涼殿内の一室で、女房の詰め所」となっています。では「台盤」とは何ぞや? 公家の調度の一つで、食器や食物をのせる台。とのことです。食卓、お膳みたいなやつらしいです。

刀自(とじ)は、宮中の御厨子所(みずしどころ)、台盤所(だいばんどころ)、内侍所(ないしどころ)などで雑役を勤めた下級女官のことです。ここに出てきたのは、台盤所(だいばんどころ)の刀自でした。この刀自がさらに子どものスタッフを抱えていたのでしょう。

小兵衛(こひょうえ)というのは、清少納言の同僚の女房です。実はこれまでにも枕草子には2回登場しています。
一つは、「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」という庭に雪山を作ったお話なんですが、「常陸の介」というニックネームをつけた変わった女性が出てきました。これに右近の内侍が興味を持ったので、中宮定子が人となりを話したんですが、その時にモノマネをさせたのがこの小兵衛という女房でした。
二つ目は、「宮の五節いださせ給ふに」という、五節の舞姫の控室を作った!という話です。この時は藤原実方というプレイボーイにちょっかいを出された(和歌を贈られた)んですが、たじろいでしまったのか、上手く返歌を返すことができず、清少納言が代わりに詠んで返した、ということがありました。
その人です。若手の女房というか、うぶな、初々しい感じがします。

さてこの段。
天皇中宮が一緒になって、天皇の乳母であり、女房たちの中でもそこそこのポジションにある感じのベテラン女房、藤三位の局にイタズラをしちゃったという話です。

この時、天皇13歳、中宮17歳ということですから、まあ、いたずら盛りともいえますし、藤三位の局に送った和歌は、おそらく中宮定子がつくったものだと思いますね。

このお話の当時、藤三位の局は藤原道兼の室でもありました。道兼は藤原道隆の弟ですから、定子からすると叔母、つまり「おばちゃん」です。で、一条天皇の乳母、つまり母親代わりですから、一条帝からすると、ほぼ「お母ちゃん」です。
藤三位の局は生年がわかってないようですが、この逸話があったころ、帝が13歳としても、藤三位が乳母となったのが20歳だとして33歳になってるわけですから、概ね30代ではあるでしょうね。

つまり、天皇皇后夫妻とは言え、まだ13歳と17歳のお子ちゃま夫婦が、30代のよく知ってるおばちゃん(だけどキャリア女性)にいたずらしちゃった!という話なんですね。それにしてもまあ、当時の皇族のいたずらというのは、なかなか手が込んでいます。やられたほうは、まあそもそも薄々はわかっていて、「んもう、この子たちったら!!(天皇と皇后だけど)」となりますが、絶対的に上の身分なわけで、リアクションに困るというのはわからなくもありませんね。

で、藤大納言(藤原為光)は、妹の藤三位が二人の悪戯の対象になったのを後で聞いて、ウケちゃったわけですね。ま、私個人的には、そんなウケるような話でもないような気がしますけど、めっちゃウケたみたいなこと書いてます。

とまあ、それぞれの年齢とか人間関係を知った上で読まないと、この段の雰囲気はわかりにくいように思います。単に帝と中宮が女房の一人にいたずらしただけの話になってしまいますから。

なかなか微笑ましくていいとは思います。中宮定子と、定子サロンの人々がまだ幸せでふわふわしてた、ということがよくわかるのは確かですね。どの人もまあそこそこ笑っちゃってますからね。そういう意味では時代のエアを顕著に現わしてると言える段なのでしょう。


【原文】

 それを二つながら持て、急ぎ参りて、「かかることなむ侍りし」と、上もおはします御前にて語り申し給ふ。宮ぞいとつれなく御覧じて、「藤大納言の手のさまにはあらざめり。法師のにこそあめれ。昔の鬼のしわざとこそおぼゆれ」など、いとまめやかにのたまはすれば、「さは、こは誰がしわざにか。好き好きしき心ある上達部・僧綱などは誰かはある。それにや、かれにや」など、おぼめき、ゆかしがり、申し給ふに、上の、「このわたりに見えし色紙にこそいとよく似たれ」とうちほほ笑ませ給ひて、今一つ御厨子のもとなりけるを取りて、さしたまはせたれば、「いで、あな、心憂。これ仰せられよ。あな、頭痛や。いかで、とく聞き侍らむ」と、ただ責めに責め申し、うらみきこえて、笑ひ給ふに、やうやう仰せられ出でて、「使に行きける鬼童は、台盤所の刀自といふ者のもとなりけるを、小兵衛がかたらひ出だして、したるにやありけむ」など仰せらるれば、宮も笑はせ給ふを、引きゆるがし奉りて、「など、かくは謀らせおはしまししぞ。なほ疑ひもなく手をうち洗ひて、伏し拝み奉りしことよ」と、笑ひねたがりゐ給へるさまも、いとほこりかに愛敬づきてをかし。

 さて、上の台盤所にても、笑ひののしりて、局に下りて、この童たづね出でて、文取り入れし人に見すれば、「それにこそ侍るめれ」といふ。「誰が文を、誰か取らせし」といへど、ともかくも言はで、しれじれしう笑みて走りにけり。大納言、後に聞きて、笑ひ興じ給ひけり。


検:円融院の御終ての年

 

枕草子 清少納言のかがやいた日々 (講談社青い鳥文庫)

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円融院の御はての年①

 円融院の喪(諒闇)が明けた年、女房もみんな喪服を脱いだりして、しんみりとした感じで、宮中をはじめとして院にお仕えしてた人も、「花の衣に」なんて言われた時代のこととかに思いを馳せて、しみじみしてたんだけど、雨がすごく降るある日のこと、藤三位の局に、蓑虫みたいな大きな子どもが白い木に立文をつけて、「これを差し上げてください」って言ってきたから、女房が「どこからの手紙なんですか? 今日明日は物忌なんだから、蔀も上げないわよ」って、下半分閉じられたままの蔀(しとみ)の隙間から受け取って。藤三位も「これこれこういうことがありました」とはお聞きになってて、「物忌なんだから見ないわ」って、上の方に突き刺しておいたんだけど、次の日の早朝、手を洗い清めて、「さあ、その昨日の巻数(かんず)を見ましょう」って、持って来させて伏し拝んで開けたら、胡桃色っていう色紙の厚ぼったい紙でね、不思議だなぁって思いながら開けてったら、僧侶のようなとってもすばらしい字で、

これをだにかたみと思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖
(せめてこの喪服、椎柴の袖だけでもと、私は院の形見だと思って着ているんですが、都ではもう喪服を脱いで衣替えをしてしまったんでしょうか)

って書いてあったの。藤三位は、すごく情けなくって、いまいましいこと! 誰がやったんでしょう? 仁和寺の僧正の仕業かしら?とも思ったんだけど、いくらなんでも僧正はこんなことはおっしゃらないでしょうしね。藤大納言(藤原為光)が円融院の別当(長官)でいらっしゃったから、それでやったみたいね。って、そのことを帝や定子さまに早くお知らせしたいと思ったら、とても気ははやったんだけど、やっぱりすごく恐ろしいと言われる物忌をやり遂げてしまおうって思って。藤三位は、その日は我慢して過ごして、翌朝早くに藤大納言のところにこの歌の返歌を置かせてきたら、すぐにまた返歌をお返し下さったの。


----------訳者の戯言---------

天皇(または院)が崩御された時、喪に服する期間を諒闇(りょうあん)と言うそうです。天皇太皇太后、皇太后その父や母の崩御にあたり喪に服する期間、ということのようです。ここでは、一条天皇の父・円融院が亡くなり、それから1年、喪が明けた後に新しい年を迎えた時の話でしょう。

「花の衣に」というのは、僧正遍昭という人が詠んだ「みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よかわきだにせよ」(みんな人々は花のように華やかな衣に着替えてしまったけど、涙で濡れた僧衣の袖よ、どうかせめて乾いておくれ)という歌から取られた一節のようです。
僧正遍昭は、六歌仙の一人として知られていますが、とても親しく仕えていた仁明天皇が早逝してしまいます。元々は結構なプレイボーイだったらしいですが、この仁明帝の死を機に出家したそうで、その時詠んだ歌がこれらしいですね。僧衣のことを昔は「苔の衣」と言ったらしいです。袂(たもと)は「手本(たもと)」の意味で、すなわち袖を表すようです。

と、まあ、その「花の衣に」がかつて詠まれた、その頃のしんみり感を感じつつ、という状況のようですね。そういう、ある雨の日のできごとだったのでしょう。

蔀(しとみ)というのは、開口部の一種なんですが、格子を取り付けた板戸の上部を蝶番(ちょうつがい)で繋いで開けたり閉めたりしたものです。たいてい下半分が固定になってて、開けたいときには上半分を外に垂直に引っ張り上げて留めたりしてたようです。物忌の時は、蔀を上げたりしなかったのでしょうね。

藤三位というのは一条帝の乳母です。藤原師輔という人の四女・繁子という人で、藤原道兼藤原道隆の弟)の奥方の一人でもあったそうです。道兼の死後には、平惟仲の妻となりました。
平惟仲は、「大進生昌が家に①」で登場した平生昌の兄にあたります。
この藤三位という女房は、当時定子付きの上臈女房として勢力を持っていたようですね。

巻数(かんず)というのは、僧が経文などを読んだ時に、依頼によりその巻数などを書いて依頼主に送る文書のことを言ったようです。

胡桃色(くるみいろ)というのは、薄い茶色。カフェオレ色、みたいな感じです。クルミの色がこんなイメージだったのでしょうか。

椎柴(しいしば)の袖というのが和歌の中に出てきました。「椎柴」というのは、椎を染料に用いるところから、喪服の色のことをこう言ったようです。また、喪服そのものことを表す場合もあるようですね。

藤大納言というのは、「小白河といふ所は③」にも書きましたが、藤原為光という人だと考えられます。藤原師輔の子ですから、藤三位の局の兄にあたります。

えー、藤三位の局という女房のところに和歌の書かれた差し出し人不明の謎の手紙がやってきました。というお話です。内容はなんとなくdisられてるみたいで、感じ悪いよね、いったい誰やねん!と思って、ちょい考えて見たら、そうだ!お兄ちゃんの藤大納言だ!って、返歌を送りました。すると返事が返ってきたんですね。

というわけで、②に続きます。先の読めない展開ですね。


【原文】

 円融院の御はての年、みな人御服脱ぎなどして、あはれなることを、おほやけよりはじめて、院の人も、「花の衣に」など言ひけむ世の御ことなど思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位の局に、蓑虫のやうなる童の大きなる、白き木に立文をつけて、「これ奉らせむ」と言ひければ、「いづこよりぞ。今日明日は物忌なれば、蔀もまゐらぬぞ」とて、下(しも)は立てたる蔀より取り入れて、「さなむ」とは聞かせ給へれど、「物忌なれば見ず」とて、上(かみ)についさして置きたるを、つとめて、手洗ひて、「いで、その昨日の巻数こそ」とて請ひ出でて、伏し拝みてあけたれば、胡桃色といふ色紙の厚肥えたるを、あやしと思ひてあけもて行けば、法師のいみじげなる手にて、

これをだにかたみと思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖

と書いたり。いとあさましうねたかりけるわざかな。誰がしたるにかあらむ。仁和寺の僧正のにやと思へど、世にかかることのたまはじ。藤大納言ぞかの院の別当にぞおはせしかば、そのし給へることなめり。これを、上の御前、宮などにとくきこしめさせばやと思ふに、いと心もとなくおぼゆれど、なほいとおそろしう言ひたる物忌し果てむとて、念じ暮らして、またつとめて、藤大納言の御もとに、この返しをして、さし置かせたれば、すなはちまた返ししておこせ給へり。


検:円融院の御終ての年

 

枕草子 清少納言のかがやいた日々 (講談社青い鳥文庫)

枕草子 清少納言のかがやいた日々 (講談社青い鳥文庫)

 

 

五月ばかり、月もなういと暗きに② ~まめごとなども言ひあはせてゐ給へるに~

 真面目な話なんかも、私とお話しなさってたら、「植えてこの君と称す~」って吟じながらまた殿上人たちが集まってきたもんだから、彼(行成)、「殿上の間で話し合って予定してた本来の目的も果たさないで、どうしてお帰りになっちゃったのか、不思議だったんだよね」っておっしゃって。殿上人は「あんな対応に、どうやって応えたらいいんだろう? なかなか難しいですよ! 殿上でも大騒ぎになって、帝もお聞きになって、おもしろがっていらっしゃいましたよ」って言われてたわ。頭の弁(行成)もいっしょになって、この、同じ詩を何度も何度も吟じなさって、すごくおもしろかったから、女房たちもみんな、殿上人たちとそれぞれにおしゃべりなんかして、夜を明かして、殿上人たちは帰る時にも、やっぱり同じ詩を声を合わせて吟じて。左衛門の陣に入るまでそれが聞こえてたのよね。

 翌日の早朝、めちゃくちゃ早い時間帯に、少納言命婦っていう人が帝のお手紙を持って定子さまの元に参上したんだけど、このことを申し上げたもんだから、私は定子さまのお側から下がってたんだけど、呼び出されてね、「そんなことがあったの?」ってお聞きになるから、「いや、知らないんです。何なのか知らないで言っただけなので。行成の朝臣が、うまくとりなしてくださったんじゃないかしら」って申し上げたら、「とりなしたって言っても♡」って、定子さまは微笑んでいらっしゃるの。女房の誰のことにしたって、「殿上人がほめた」なんていうのをお聞きになったら、そう言われた女房のことをお喜びになるのも、すてきなのよね。


----------訳者の戯言---------

「植えてこの君と称す」という詩は「和漢朗詠集」にも撰入されている藤原篤茂という人の作った漢詩のようです。

晋騎兵参軍王子猷
栽称此君
唐太子賓客白楽天
愛為吾友

ここで殿上人たちが詠ったのは、「栽称此君」の部分でしょうか、「栽(う)ゑて此の君と称す」と吟じたわけですね。
詩の大意は、「晋の騎兵参軍だった王徽之は、竹を植えて『此の君』と呼び、唐の太子の賓客だった白楽天は、竹を愛して『わが友』と言った」というようなことです。
なるほどと思いますが、調べるのがたいへんでしたよ。

で、この段の顛末。
てっきり藤原の行成とのやりとりがまたもや延々と繰り広げられるのかと思いきや、今回は脇役というか、盛り上げ役といった役どころ。「此の君」ネタから広がって、この夜は相当盛り上がった、という自慢話です。が、最終的に定子さまを褒め称えるという話に持っていきます。
定子大好き♡という側面もあるにはあるんですが、照れ隠し、といえばかわいいけど、むしろこれ、あからさまな自慢話を中和しようという姑息なテクニックとみる方が妥当かと思うんですよね、私。


【原文】

 まめごとなども言ひあはせてゐ給へるに、「種(う)ゑてこの君と称す」と誦じて、また集まり来たれば「殿上にて言ひ期(き)しつる本意もなくては、など、帰り給ひぬるぞとあやしうこそありつれ」とのたまへば、「さることには、何の答へをかせむ。なかなかならむ。殿上にて言ひののしりつるは。上もきこしめして興ぜさせおはしましつ」と語る。頭の弁もろともに、同じことを返す返す誦じ給ひて、いとをかしければ、人々、皆とりどりにものなど言ひ明して、帰るとてもなほ、同じことを諸声に誦じて、左衛門の陣入るまで聞こゆ。

 つとめて、いととく、少納言命婦といふが御文まゐらせたるに、この事を啓したりければ、下(しも)なるを召して、「さる事やありし」と問はせ給へば「知らず。何とも知らで侍りしを、行成(ゆきなり)の朝臣のとりなしたるにや侍らむ」と申せば、「とりなすとも」とて、うち笑ませ給へり。誰が事をも「殿上人ほめけり」などきこしめすを、さ言はるる人をもよろこばせ給ふも、をかし。

 

枕草子 (21世紀版・少年少女古典文学館 第4巻)

枕草子 (21世紀版・少年少女古典文学館 第4巻)