枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

ないがしろなるもの

 いい加減なもの。女官たちが髪をアップにしてる姿。唐絵に描かれてる革の帯の後ろ。聖(ひじり)の振る舞い。


----------訳者の戯言---------

ないがしろなり。です。「ないがしろ」は漢字で書くと「蔑ろ」で、軽蔑の蔑ですね。今は。

ただ、昔は「無きが代(しろ)」つまり「代用の必要が無い」ということで、これが「人や物事を無いに等しいくらい軽く見ること」を表す言葉として使われたようです。「蔑」は後から当てられた漢字なんですね。

本来は大切にすべき、尊重されるべき人やモノに対していい加減に扱う行為を示す、つまり「ないがしろなるもの」とは「いい加減なもの」。現代のニュアンスで言うと「テキトーなもの」「テキトーにしてる」「投げやりー」「気ぃ遣てへんわ」って感じです。無頓着というか、肯定的なニュアンスでは使ってないですね。どちらかというとdisる感じかと。


女官が髪を上げてるのがなんでダメなのかははっきりとわかりませんが、投げやりな感じなのか、だらしなく見えたのか、というところでしょうか。

唐絵というのは中国の絵で、それに描かれている着物の革帯の後ろっ側がいい加減な感じだったんでしょう。つまんない、ダセーよと彼女は思ったんでしょうね。表は綺麗なのに、裏がこれでは残念よね、と。ただ、こういうのって、たとえば私たちの洋服でも無地でシンプルなものをつまらないと言うか、ステキとするか、みたいなところありますからね。主観かと思います。

聖(ひじり)というのは、修行僧のことだそうです。諸国を行脚している僧侶。僧全般を指す場合もあります。聖って聖人のことですから、敬称だとは思うんですが、その振る舞いがいい加減、テキトーだわ、と感じたわけですね。ま、清少納言はこれまでにもあったように信仰心が薄弱ですし、僧侶をそれほどは尊敬していない風です。たしかに一般社会を超越していて、人目を気にしない、みたいな僧侶もいたのかもしれませんしね。


さて、現代においても「ないがしろにする」というのは、「あっても無いかのように侮る、軽んずる、冷たくあしらう」とかを表現するときに使います。残業して帰って来たお父さんを家族の誰も出迎えてくれず、すでにみんな寝てしまってる、とかですかね。あとは家事を「ないがしろにする」とかですね。家事子育てを放棄してスロット回しに行く主婦、みたいなのを言う時に使うでしょうか。

スルーするとか、邪険に扱うとか、そういう感じのニュアンスが強くなっています。
ですから、使うとしたら「ないがしろにしてはいけない」という風に使う感じです。仕事とか、人間関係とか、物を大切にする気持ちとか、感謝の気持ちとか、なんか道徳の教科書みたいになってきますが。そういうこと言い出すと、そんな人間ではないのに。それはそれで少し気恥ずかしくなります。
この際ですからSDGsとか語りましょうか。いえいえそんなキャラではありません。


というわけで、昔はSDGsとか考えずに生きていたみたいです。清少納言なんか気楽なもんですよ。


【原文】

 ないがしろなるもの 女官どもの髪上げ姿。唐絵の革の帯の後ろ。聖のふるまひ。