方弘は、いみじう人に笑はるるものかな
方弘(まさひろ)はすごく人に笑われる人なのよ。親なんかはなんて思って聞いてるかしらね。
方弘ときたら、お供をしている者の中からとってもデキる人を呼び寄せて、「どうしてこんな者に使われてるんだい? どう思ってるの?」なんて言って、笑うの。
衣装に関してはすごく得意にしてる家だから、彼は下襲の色、袍なんかも、人よりはいいものを着てるんだけど、「これは別の人に着せたいんだよね」なんて言うのね。
ほんと、言葉遣いなんかもおかしいのよ。郊外の実家に宮中での宿直用荷物を取りに人を遣わす時だって、彼が「男二人で行きなさい」って言うんだけど、「一人で行ってきます」って言われて。「おかしな奴だなあ、たった一人で二人分の物をどうやって持ってくるんだよ。一升瓶に二升入るかな? 入らないでしょ!」って言ったの、何を言ってるかわかる人っていないだろうけど、めちゃくちゃ笑っちゃう。
誰かの使いがやってきて、「お返事を早く!」って言ったら、「あれれ、憎ったらしい男だなあ。どうしてそんなに慌てるの? 竈(かまど)に豆でもくべてるの? この殿上の間の墨と筆は何者が盗んで隠したんだろう、ごはんや酒なら欲しがる人もいるんだろうけどな」って言うの、またみんな笑うのよね。
帝のお母様(女院)がご病気になられて、方弘が帝のお使いとしてお見舞いに行って帰って来た時、「女院の殿上には、誰々がいましたか?」って人が尋ねたら、「あの人、この人、」って4、5人ほど答えるもんだから、「他には誰がいました?」って聞いたら、「そうだね、去ってっちゃった人もいたからね」っていうの、笑うのもなんかイケナイことかも、なんだけどね。
人がいない時に近寄ってきて、「あなた様、お話ししたいことがあります。『まずあなたに』って人がおっしゃってたことですから」と言うから、「一体何ごと?」って、几帳のところまで近づいたら、『《むくろごめ》(体ごと)お寄りください』って言うべきところを『《五体ごめ》(体全体で)』と言っちゃった、ってまた笑われたのよ。
除目の真ん中の日(2日め)、方弘が灯火に油をさすのに灯台の下の敷物を踏んで立ってたんだけど、新しい油単(ゆたん)だったから、足袋がすごくよくくっついたのよね。それで歩いて帰ったから、そのまま灯台が倒れちゃったの。足袋に敷物がくっついて行ったもんだから、ほんと大地が震動したみたいだったわ。
蔵人頭が席にお着きにならない限り、殿上の間の台盤(食卓)には誰も着席しないのね。それなのに彼ったら豆を一盛、そっと取って小障子の後ろで食べてたもんだから、小障子を引っ張って丸見えにして、めちゃくちゃ大笑いしたの。
----------訳者の戯言---------
方弘(まさひろ)というのは「殿上の名対面こそ」にも登場した源方弘という人。当時、蔵人の一人だったようです。今回は主人公です。
原文の「美々し」(びびし)は、「美しい、華やかだ、立派だ、見事な」という意味だそうです。
原文で「『もの』いとよくする」という表現が出てきます。「もの」ですからね「もの」。範囲広すぎです。
つまり、形のあるモノです。雑貨、装飾品、衣服、道具、食べ物、楽器など形のある存在全てといっていいでしょうけど、前後の文脈で判断しなければいけません、とのこと。ここでは衣服のことと考えられます。ま、わかりやすい「もの」で良かったです。
で、さらに言うと、物事とか、人、場所なんかを「もの」と言う時もあるらしい。もうこうなると、何でもアリです。これまた前後の文脈から解釈するしかありません。「もの」が出てきたときは要注意ですね。
「むくろごめにより給へ」と言うべきところを「五体ごめにより給へ」と言ってしまったというんですね。
「むくろごめ」は、「からだごと」。「五体ごめ」は、「からだ全体。全身」ということです。うーん、ほぼおんなじだと思うんですけど。私はどっちでもいいんですけどね。ダメなんですか、そうですか。
除目(じもく)っていうのは、時々出てくるんですが、官人を任命する儀式だそうで、特に「春の除目」というのが1月に行われたらしいです。ウィキペディアによると「諸国の国司など地方官である外官を任命した。毎年、正月11日からの三夜、公卿が清涼殿の御前に集まり、任命の審議、評定を行った」とのこと。3日間あったわけで、この段ではその中日(2日め)の出来事のようです。
油単(ゆたん)というのは、油をひいた単(ひとえ)の布または紙だそうです。灯台や台盤などの下に敷いて床が汚れるのを防ぐもの、とのこと。
襪(したうづ/しとうず)というのは、足袋的なものだそうですが、指は分かれてないらしい。布製でしょうけど、むしろソックスみたいな感じかと思います。
ここで重要なのは、源方弘という人のボケが天然なのか、お笑い芸として秀逸なのか、という点にあるでしょう。すなわち、笑われているのか、笑わそうとしているのかということですね。たいていの人は「笑われている」と解釈しているようですが。
前は私も、天然キャラと書いたんですが、実はよくよく読んでみると、自虐ネタ、ボケ、体張ってのお約束、と、この人、「笑われてる」というよりむしろ意図的に「笑わせてる」ようにも、私は感じました。いえ、実際はどうかわからないんですけどね。
「淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど」では、藤原道隆が「猿楽言(さるがうごと)」という「冗談」を言って笑わせてたようですが、やはりアマチュアレベルでした。
もちろん、身分としては、中流貴族であって、清少納言的には高評価の対象ではないのでしょうが、おもしろさ的にはレベルの高い、源方弘のプロフェッショナルな「笑い」を清少納言が注目しているようにも思えるのがこの段です。
いずれにしても、清少納言がおおむね方弘に好意的な書き方をしているのはいいと思いました。
【原文】
方弘(まさひろ)はいみじう人に笑はるる者かな。親などいかに聞くらむ。供にありく者のいと美々しきを呼びよせて、「何しにかかる者には使はるるぞ。いかがおぼゆる」など笑ふ。ものいとよく為(す)るあたりにて、下襲の色、袍(うへのきぬ)なども、人よりよくて着たるをば、「これをこと人に着せばや」などいふに。げにまた言葉遣ひなどぞあやしき。里に宿直物取りにやるに、「男二人まかれ」といふを、「一人して取りにまかりなむ」といふ。「あやしの男や。一人して二人が物をばいかで持たるべきぞ。一升瓶(ひとますがめ)に二升(ふたます)は入るや」といふを、なでふことと知る人はなけれど、いみじう笑ふ。人の使の来て、「御返り事とく」といふを、「あな、にくの男や。などかうまどふ。竈(かまど)に豆やくべたる。この殿上の墨・筆は何者の盗み隠したるぞ。飯、酒ならばこそ人もほしがらめ」といふを、また笑ふ。
女院悩ませ給ふとて、御使に参りて帰りたるに、「院の殿上には誰々かありつる」と人の問へば、「それかれ」など、四五人ばかりいふに、「また誰か」と問へば、「さて往ぬる人どもぞありつる」といふも、笑ふも、またあやしきことにこそはあらめ。人間(ひとま)により来て、「わが君こそ。ものきこえむ。まづと人ののたまひつることぞ」といへば、「何事ぞ」とて、几帳のもとにさしよりたれば、「むくろごめにより給へ」と言ひたるを、「五体ごめ」となむ言ひつるとてまた笑はる。
除目の中の夜、さし油するに、灯台の打敷を踏みて立てるに、あたらしき油単に襪(したうづ)はいとよくとらへられにけり。さしあゆみて帰へれば、やがて灯台は倒れぬ。襪に打敷つきて行くに、まことに大地震動したりしか。頭着き給はぬ限りは、殿上の台盤には人もつかず。それに、豆一盛りをやをら取りて、小障子の後ろにて食ひければ、引きあらはして笑ふこと限りなし。