枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

よろしき男を下衆女などのほめて

 相当良い身分の男を身分の低い女が褒めて、「すごくお優しい方でいらっしゃる」なんて言うと、すぐにその男のことは貶められちゃうでしょうね。disられるのはむしろ逆に良いの。身分の低い下衆に褒められるのは、たとえ女であっても全然良くないわ。また、褒めてるうちに言い間違ってしまうんだから。なんだかだよね。


----------訳者の戯言---------

物事をよくわかってないであろう身分な低い女なんかに褒められてもねー、なんだかなー、って思ってる清少納言のツイート的な話だと思います。

身分の低い、ワケわかってない者にはけなされるほうがむしろ良くて、こちとら女だって褒められても全然うれしくないしー、身分低い奴らは人を褒めてるつもりかもしんないけど、全然的外れに言い間違えるしさ!!って。
この言い草、失礼にもほどがあると思うよ。

さて、下衆というと身分の低い者、ひいては品性の下劣な者ということですね。これが「ゲスの極み」となると、さらに人として最低であるということになり、それが「乙女」となると何が何やらわかりませんが、あれはちゃんまりが友達にもらった手作りのトートバッグにプリントされてた文字をそのままバンド名にしたものらしい。意味はあんまりないようです。個人的に好きなバンドでもないんですけどね。RADよりはましかな、くらいです。ファンの方すみません。


【原文】

 よろしき男を下衆女などのほめて、「いみじうなつかしうおはします」などいへば、やがて思ひおとされぬべし。そしらるるは、なかなかよし。下衆にほめらるるは、女だにいとわるし。また、ほむるままに言ひそこなひつるものは。

 

 

をかしと思ふ歌を

 いいなって思う歌をノートに書き留めておいたんだけど、言ってどうなるものでもない身分の低い者がその歌を歌ったのは、すごく不愉快だわ。


----------訳者の戯言---------

まさに差別主義者・清少納言の最も清少納言らしいところがあらわれた一文です。いけませんね、こんなことでは。今一度コンプラを見直していただきたいと思います。


【原文】

 をかしと思ふ歌を草子などに書きて置きたるに、いふかひなき下衆のうちうたひたるこそ、いと心憂けれ。

 

枕草子

 

また、業平の中将のもとに

 また、(在原)業平の中将のところに母の皇女(伊都内親王)が「いよいよ見まく(ますます会いたい)」ってお送りになったの、すごくしみじみと素敵だったわ。それを引き開けて見た時の業平の気持ちが、自ずと思いやられるわね。


----------訳者の戯言---------

在原業平の母・伊都(いと/いつ)内親王桓武天皇の第8皇女(内親王)らしい。伊豆とも表記し、「いず」と読まれることもあるそうです。「伊登」という表記も見られました。毎度のことですが、当て字はありすぎてもはやどれが正しいのか?とかはわかりません。「いつ」の「ひめみこ」などと、和語の読み方もするようですね。
桓武天皇といえば京都に遷都した人で、明治になって東京に遷都するまでの都をここに造ったわけだから、エポックメイキングな存在の人ではあります。

そして。
「いよいよ見まく」というのは、次の歌↓なんですね。

老いぬればさらぬ別れもありといえば いよいよ見まくほしき君かな
(すっかり年をとってしまったから…避けられない死に別れがあるのでますます会いたいあなたなのですよ)


伊勢物語の84段にある在原業平の作と言われているものです。ざっくりとあらすじを書くと、こういう感じです。

 昔、一人の男がいました。身分は低いけれど母は皇族でしたよ。母は京都に近い長岡に住んでいたんだけど、男は都で朝廷に仕えてたから、母のところへ頻繁に行く事ができない。男は母にとって一人っ子で、母にはとても可愛がられてたんだけど、十二月ごろになって母から急ぎのことと手紙が届きました。男は驚いて手紙を読んだのです…。

老いぬればさらぬ別れもありといえば いよいよ見まくほしき君かな(すっかり年をとってしまったから…避けられない死に別れがあるのでますます会いたいあなたなのですよ)

 これに子(男)が、ひどく泣いて詠んだ歌↓です。

世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もと祈る人の子のため(世の中に死に別れることが無ければいいのになあ、親が千年も長生きしてほしいって神仏に祈る子どものために)


という物語。気弱になった60歳の母親が36歳の子供に会いたくて詠んだ歌だったんですね。

伊勢物語に収められてる有名なお話です。モデルが在原業平だということも一般に知られていたんですね。
清少納言も割とありきたりな感想を述べています。意外性はほぼありませんが、それでいいのでしょうか?


【原文】

 また、業平の中将のもとに母の皇女(みこ)の、「いよいよ見まく」とのたまへる、いみじうあはれにをかし。引き開けて見たりけむこそ思ひやらるれ。

 

 

小原の殿の御母上とこそは

 小原の殿のお母上って聞いたんだけど、普門っていう寺で法華八講したのを聞いて、次の日に小野殿に人々がたくさん集まって音楽を楽しんだり、詩作をしたんだけど、

薪こることは昨日に尽きにしを いざ斧の柄はここに朽たさむ
(薪を切って仏に供える法華八講は昨日で終わったから、さあこの不要な斧の柄は腐らせてゆっくりしましょう)

ってお詠みになったのは、すごくすばらしいわ。
これなんかは、聞いた話になっちゃったみたいだけどね!


----------訳者の戯言---------

小原の殿(をはらの殿)というのが何のことなのか?は、どうやら不詳らしいです。っていうか、「小原」かどうかも怪しい。
本文転化(写本の転記ミス)によるものでしょうか、「傅(ふ)の殿」という説もあって、これが当たっているとなると、「東宮傅(とうぐうのふ)」のことであって、皇太子の教育官ということになり、そうすると、当時の官職からし藤原道綱になります。その母ですから、有名な「蜻蛉日記」の作者(藤原道綱の母)とぴったり重なります。

というわけですが、とにかくその誰かの母上に関する聞いた話だそうです。
 
普門寺というのは、洛北にあったお寺のようですね。現存はしていません。小野殿というのも、普門寺の近所、洛北にあった誰かの別邸である可能性が高いようです。


法華八講というのは、法華経妙法蓮華経)の八巻を一巻ずつ八座で読誦、講讃する法会です。もう少し具体的に言うと、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、さらにこれらを聞いた受講者が教義上の質問をして講師がそれに答えたり、偉いお坊さんがその問答を判定したりするものだそうですね。

その中に「薪の行道」というものもありました。これは釈尊が前世で薪を拾い水を汲んで仙人に仕え妙法を授かったという提婆達多品(だいばだったぼん/法華経の中でも功徳の勝れた一章として重視されている)中の逸話を踏まえ、僧と参会者が薪と水桶を背負ったり捧物を捧げ持ったりして法華讃嘆(声明の一種で和語のものらしい)を謡いながら本尊の周りを右回りに巡るもので、視覚的・聴覚的な華やかさも相まって、法会のクライマックスともいうべき盛り上がりを見せたものそうです。


「遊ぶ」というのは、管弦、音楽を奏でて楽しむ感じですかね。詩歌とかも。今ならバンドのセッションをするとか、カラオケ行くとか、そういう感じかもしれません。


ちょっと上手いこと和歌にしましたって話を人づてに聞いたということです。
なんか、素晴らしい歌を詠んだってことになってますが、そんないかしてる歌なのかなぁと思います。


【原文】

 小原の殿の御母上とこそは、普門といふ寺にて八講しける、聞きて、またの日小野殿に、人々いと多く集まりて、遊びし、文作りてけるに、

  薪こることは昨日に尽きにしをいざ斧の柄はここに朽たさむ

とよみ給ひたりけむこそいとめでたけれ。

 ここもとは打聞になりぬるなめり。

 

 

右衛門の尉なりける者の

 右衛門府の尉(じょう)になった者が身分の低い男親を持ってて、人が見たら顔向けできない!って心苦しく思ってたんだけど、伊予の国から都に上るっていう時に海の波の中に落とし入れたのを、「人の心ほど情けないものはない」ってあきれてたんだけど、7月15日にお盆の供養をするということで準備を急ぐのをご覧になって、道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)が、

わたつ海に親おし入れてこの主の盆する見るぞあはれなりける
(海に親を落として死なせておいて、この人が盆の供養をするのを見ると、しみじみと身に沁みて物悲しいことだよ)

とお詠みになったのは、いかしてると思ったわ。


----------訳者の戯言---------

尉(じょう)。四等官の一つで、三番目です。三等官ですね。
律令制では長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)という四等官制がとられていました。「かみ」は最上位を表し、「すけ」はその補佐、三等官が「じょう」、さらにそれを補う四番目の管理職が「さかん」でした。

官庁、役所によって表記は違いますが、読み方はどこでも「かみ、すけ、じょう、さかん」です。
衛門府の場合は「督(かみ)」「佐(すけ)」「尉(じょう)」「志(さかん)」で、「尉」には大尉(たいじょう)、少尉(しょうじょう)がありました。
今もその名残りがあるのは軍隊→自衛隊ですね。明治時代に軍隊ができた時、四等官の名前から大尉(たいい)や中尉、少尉などが置かれました。佐から転じて大佐(たいさ)とか中佐とかもできたのですね。

それはともかく、尉(じょう)ですから、そこそこのランクの官位です。「判」つまり決裁権を持つかどうかという点で判官=尉(じょう)は、志(さかん)とは格がかなり違ってきます。概ね五位以上の家に生まれれば「判」権限を持つ判官(じょう)以上、六位以下なら「判」権限を持たない主典(さかん)以下という、出自による格差が厳然と存在していたのです。 


だから、生まれは「えせなる」親からだったとはいえ、この男性は異例ともいえる出世をした有能な人物だったと言えるでしょう。しかし、その出自を恥じて親を海に落として殺めてしまったんですね。そんなことしなくても十分評価は高かったはずなのに。


阿闍梨あじゃり)というのは、弟子の模範になるような位の高い僧侶のことだったとも言われていますが、今は真言宗の一般の僧侶が持つべき最低限の資格ともされているそうです。ここでは「先生」ぐらいのニュアンスかもしれません。

道命(どうみょう)というのは清少納言と同時代の僧侶です。父は藤原道綱。ということは、枕草子でもよく出てくる関白・道隆の異母弟の子ということになります。中宮・定子の従兄なんですね。清少納言よりは年下、定子よりは3歳ほど年上、というお坊さんです。

「わたつ海(わたつうみ)」というのは、元々「わたつみ(海神/綿津見)」→「うみ(海)」という意味になり、「み」の部分が「海」と認識され、「う」が挿入されてできたという、経緯が何がどうなってるのやらわからない語です。とにかく「海」でいいんですが。


親殺しをしたのに、自らその親のお盆の供養をしてるー、とdisった歌ですね。そしてその歌を褒めている感じでしょうか。
しかし、そもそも何が問題かというと、自分たちが身分社会、階級社会をつくって差別をしている側である、という視点が抜けていることです。道命も、もちろん清少納言も。もうどうしようもない人たちですね。


さて、この記事を書いている先日、お盆休みが終わりました。
そもそも「お盆」は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」という仏教行事(仏会)から来ている習慣です。本来は旧暦の七月十三日から4日間行われるものなんですね。旧暦に基づいていますから時季的には今の暦で8月半ばであるのは間違いではありません。最初は旧暦7月の暦に基づいてやっていたのでしょうけど、毎年日が変わるのが面倒だなということになったのかもしれません。今は現行のカレンダーの7月の13~15日からちょうど1カ月ずらした8月15日前後あたりで各企業がお盆休み、夏季休暇を設定するのが一般的になっています。これなら毎年一斉に揃えられるという利点があるのでしょう。

この時季は農耕にせよ漁などをするにせよ、一年でも最も暑さが厳しく休息が欲しい時季でもあります。先祖を今一度思い起こし供養するのはもちろん、盆踊りのような娯楽や数日の休暇を取ること、実家に戻って家族と過ごすこと。それは民の中に自然と醸しだされた生活の知恵だったように思います。


【原文】

 右衛門の尉なりける者の、えせなる男親を持たりて、人の見るにおもてぶせなりとくるしう思ひけるが、伊予の国よりのぼるとて、浪に落とし入れけるを、「人の心ばかり、あさましかりけることなし」とあさましがるほどに、七月十五日、盆たてまつるとて急ぐを見給ひて、道命阿闍梨

  わたつ海に親おし入れてこの主の盆する見るぞあはれなりける

とよみ給ひけむこそをかしけれ。

 

 

日のいとうららかなるに⑤ ~海はなほいとゆゆしと思ふに~

 海はやっぱりすごく怖いって思うんだけど、ましてや海女(あま)が獲物を捕るために潜るのは辛いことだわ。腰につけてる紐が切れたりしたら、どうしよう?っていうんでしょ? せめて男がするのならそれでもいいんだけど、女はやはり平常心ではいないでしょう。舟に男は乗って歌なんか歌って、海女の栲縄(たくなわ)を海に浮かべて動き回るの。危険だし心配だなぁっていう気持ちにはならないのかしらね。舟の上に上がろうっていう時、その縄を引くのだって。男が慌てて縄をたぐり入れてく様子って、もっともなことだわ! 舟の端を押さえて吐き出した息なんかはほんとただ見てる人でさえ涙がこぼれるくらいなのに、海に潜らせて、海の上をあちこち漂ってまわる男は、直視できないくらいあきれるほど嫌な感じだわね!


----------訳者の戯言---------

海女(あま)という仕事はかなり古いもののようで、古事記とか日本書紀にも出てくるらしいですし、万葉集にも詠まれてるそうです。

栲縄(たくなわ)というのは命綱ですね。一端を舟に、他の一端を海女の腰に結びつけた縄です。楮(こうぞ)などの皮でより合わせた縄だそうですね。楮というのは、クワ科の低木で、和紙の原料にすることが多いようです。繊維が長くてしっかりしてるので縄にも使われたということなのでしょう。

「しほたる」は漢字では「潮垂る」なんですね。「しずくが垂れる」という意味なんですが、転じて「涙で袖が濡れる」「涙をこぼす、流す」といった意味になります。

「目もあやに」というのは「目もあやなり」の形容動詞の部分「あやなり」が連用形になったものです。「きらびやかで直視できない様子」を言うことが多かったようですが、「直視できないほどひどい」時にも使ったようですね。ここでは悪い方の意味です。


というわけで、かなり海女のビジネスパートナーである男をdisってます。女に潜らせて、上って来た女はすごく苦しそうなのに男はテキトーに漂ってるばかりで…見てらんねーぐらいありえねー、と言ってますね。

たしかに。
ヒモ的なものを連想させますよね。
しかしそれにしても何故、海女は女性ばかりがやっているのか? 体力的、つまり筋力や肺活量は男性のほうが上回っているだろうに。
ということで、いろいろ調べました。

まず、①女性のほうが皮下脂肪が多く冷たい海で長時間耐えられる という説があります。実は身体的に女性向きだというんですね。たしかにそれも一理あります。
これに加えて、女性は自分の呼吸の長さをわきまえて潜水するので事故が少ないけれど、男性は無理して潜るので事故を起こしやすく、そのため潜水を禁止されたという理由もあるようです。
また、本文にもありましたが、縄を使ってパートナー引き上げる漁法は海女漁の中でも「フナド(舟人)」と呼ばれ今も残っています。筋力のある方が引き上げる役を担ったのでしょう。
さらに、体力的には劣る女性による素潜り漁は獲り過ぎを避けることができる。つまり、次の年もその次の年も綿々とその近海で漁を続けるための知恵であったとも言えます。自然に逆らわず安定して獲物を得られる方法を経験により学んでいたのかもしれませんね。

次に、②男は沖に漁に出てたくさん獲るので浅い磯で漁をするのは女性の仕事になった という説です。
漁法による分業システムですね。男性は船を操って沖に漕ぎ出しカツオ漁や網漁等を行い、女性は家事をやりながら半農半漁の生活を営み、畑仕事や沿岸部での海藻取り、潜水による魚貝類の採取に従事した。これも妥当な論拠かもしれません。

③朝廷や神社に納める神聖な鮑(あわび)を納めるのは海女の重要な仕事であった という説もあります。
そもそも鮑は100年生きると言われており古代中国より不老不死の薬として信じられ、珍重されてきました。さらにそれにより長寿の縁起物でもあるともされてきたのです。実際の寿命は15年から20年ほどだそうですが、それでもかなり長生きではありますね。

鮑は日本でも古来より親しまれ、2000年前から伊勢神宮に奉納される品の一つとされているそうです。

古事記」や「日本書紀」に登場する伊勢神宮の初代斎宮倭姫命(やまとひめのみこと)が、海女の「おべん」から鮑を差し出され、それを食べたところ、あまりの美味しさに驚き、それ以来、伊勢神宮に献上するように命じたのが始まりだそうなんですね。これに長生きの縁起物であることが相まって貴重な献上アイテムになったのは想像に難くありません。

ちなみに熨斗(のし)紙や熨斗袋の右上に付いてる長細い六角形のものがありますが、その真ん中に入ってる黄色っぽい細長いものは鮑です。お気付きのとおり、延(の)した鮑。長寿の縁起物として、こういうところに今も根付いているんですね。

海女のメッカである志摩は元々伊勢の一部の地域で、伊勢神宮天照大神が女性の神であること、また、天照大神をお祀りする斎王も女性が選ばれたように、海女も女性の役割であったという考え方があります。海女が女性である理由の一つは案外そういう理由もあったのかもしれません。

こうしてさまざまな要素が複合的に重なり、海女=女性というシステムを作って行ったのかもしれません。明文化されていない、暗黙のルールが生まれたと。そしてそれが現代まで脈々と受け継がれているのだと私は思います。


さて、前段の「うちとくまじきもの=気が許せないもの」にあった「舟の旅」の流れで書いてきたこの段。やたら舟は恐ろしいとした挙句、海女を虐待してるように見えた男をhateするという的外れな結論になってしまいました。
歴史的に受け継がれてきた海女の仕事の妥当性や重要性を見落とし、船上の男性をバディとみる濃密な信頼関係を否定する、という誤った論理展開になってしまったのは非常に残念です。


ところで、清少納言が「船の端をおさへて放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だにしほたるるに」と書いたのは、所謂海女の「磯笛」を聴いたから、だったのかもしれません。
海面に戻った時に「ピューーイッ」という口笛のような音を出す、海女さん特有の呼吸法。ハァハァするよりも、口を細めてこのように息を吹き、肺の空気を吐き出すことによって、効率的に酸素を使えるらしく、息も楽に整えられるのがこの方法らしいですね。ただ、それが切なく、物悲しく聴こえる人もいるようです。
清少納言にはむしろそのへんの情趣も描いてほしかったですね。


【原文】

 海はなほいとゆゆしと思ふに、まいて海女のかづきしに入るは憂きわざなり。腰に着きたる緒の絶えもしなば、いかにせむとならむ。男(をのこ)だにせましかば、さてもありぬべきを、女はなほおぼろげの心ならじ。船に男は乗りて、歌などうち歌ひて、この栲縄(たくなは)を海に浮けてありく、あやふく後ろめたくはあらぬにやあらむ。のぼらむとて、その縄をなむ引くとか。惑ひ繰り入るるさまぞことわりなるや。船の端(はた)をおさへて放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だにしほたるるに、落し入れてただよひありく男は、目もあやにあさましかし。

 

 

日のいとうららかなるに④ ~はし舟とつけて~

 はし舟って名付けて、すごく小さいのに乗って漕いで動き回るの、早朝なんかはとてもしみじみとしていい感じだわ。「跡の白波」はほんと、すぐ消えて行っていまうの! いい身分の人は、やっぱり舟に乗ってあちこち行くべきじゃないって思うわね。歩いて行く旅もまた恐ろしいだろうけど、それはどうしたってなんてったって、地面に足が着いてるから、すごく安心なの。


----------訳者の戯言---------

「跡の白波」というのは、「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ 漕ぎゆく舟のあとのしら浪」(世の中を何にたとえようか? 夜明けに漕いだ舟のあとに立った白波か…)という歌の最後のワンフレーズです。
「跡の白波」=「はかない情趣」を表したり「はかないもののたとえ」に使われるようですね。ここでは喩えでもなんでもなくそのまんまですが。
詠んだのは奈良時代の僧で歌人であった沙彌満誓(さみまんせい)という人。俗名は笠麻呂(かさのまろ)と言い、姓は朝臣だったため、笠朝臣麻呂(かさのあそんまろ)と表記されている場合もあります。

小さい舟で動き回るのは「あはれ」だから良い? それとも恐ろしいことだから悪いことなのか? よくわかりません。
果たしてその答えは出るのか?? ⑤に続きます。


【原文】

 はし舟とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありく、つとめてなどいとあはれなり。「跡の白波」は、まことにこそ消えもて行け。よろしき人は、なほ乗りてありくまじきこととこそおぼゆれ。徒歩路もまた、おそろしかなれど、それはいかにもいかにも地(つち)に着きたれば、いとたのもし。