枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

三月ばかり、物忌しにとて

 三月頃、物忌をするために臨時の宿として人の家に行ったんだけど、木々がそんなに目立っていいのが無い中で、柳とは言っても普通の柳みたいに優美じゃなくて葉っぱが広く見た目も感じ悪くってね、「…じゃないもの、でしょ??」って言ったら、「こういうのもあるわよ」とか言うもんだから、

さかしらに柳の眉のひろごりて春のおもてを伏する宿かな
(小賢しく柳の眉が広がってるもんだから、春の面目丸つぶれの家だなぁ)

って思えたの。
 その頃、また同じ物忌をするために、同じようような別の家に退出したら、二日目のお昼頃、すごく退屈な気分でいっぱいになって、今すぐにでも定子さまのところへ参上したい気がしてた時、中宮様からお手紙が届いてすごくうれしい気持ちで読んだの。浅緑色の紙に宰相の君がすごくきれいな字で書いていらっしゃるのね。

「いかにして過ぎにしかたを過ぐしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな
(どうやって、あなたが来る前、あなたがいない過ぎた日々を過ごしてたんでしょ?? あなたがいなくて日々の暮らしを過ごすのがつまんない昨日今日なの!)

と、定子さまがおっしゃってます」
(宰相の君から私、清少納言への)私信「今日すでに千年も経った気持ちなんだから、明日の明け方にはね、早く来てくださいね」

って書いてあるの。この宰相の君のおっしゃることさえうれしい感じなのに、まして定子さまの歌の趣旨なんておろそかにできるわけない気持ちだから、

「雲の上も暮らしかねける春の日を所がらともながめつるかな
(定子さまの宮中での暮らしを辛くなっていらっしゃる春の日を、私のほうはというと場所が場所だけにぼんやり過ごしてましたよ)」

(私、清少納言から宰相の君への)私信「今夜のうちにも少将になっちゃうんじゃないかなって思います」

って書いて、明け方に参上したら、「昨日の返歌の『(暮らし)かねける』はたいへん良ろしくないわね。めちゃくちゃ悪口言っておいたわよ」っておっしゃるの、すごくつらいわ。ほんと、そのとおりだから…。


----------訳者の戯言---------

宰相の君は定子サロンの同僚女房です。というか中宮付きの上臈女房でした。清少納言からすると先輩と言っていいかもしれません。宰相の娘だから「宰相の君」です。宰相というのは参議のことで、唐名でこう呼ばれました。朝廷の最高機関である太政官の官職です。「宰相の君」の父親は菅原輔正で、この人はあの菅原道真のひ孫になります。当然というかなんというか北野天満宮に縁があり、死後ここに祀られました。そのため北野宰相とも呼ばれたということです。

清少納言が詠んだ「雲の上」ですが、昔から、雲の上→ものすごく高いところ→手が届かない場所→宮中 と喩えられていました。

「暮らしわづらふ(暮らしを寂しく思う)」と定子が言ったのを清少納言が「暮らしかねける(暮らしが辛くなる)」という感じで返してきたことに、「ちょっと言い方キツイんじゃね? 言い過ぎだったんじゃね?」と中宮・定子がdisったという展開。最終的に清少納言は凹み気味となりました。先日の「雪のいと高う降りたるを」の「香炉峰の雪」のくだりでは、相当マウントとってきましたから、その反動のようにさえ思えます。
が、これ実は、私は「叱られちゃったよ、てへぺろ。」だと思うんですよね。こんなに定子さまと本音を言い合える仲アピール。しかも、お互いになかなか上手に詠めました、と言わんばかりに、しっかり歌を3首書いてます。
定子さまにもヨイショしつつ自分アピールも十分。世の中、清少納言にしてやられてますよ。


【原文】

 三月ばかり、物忌しにとて、かりそめなる所に、人の家に行きたれば、木どもなどのはかばかしからぬ中に、柳といひて、例のやうになまめかしうはあらず、ひろく見えて、憎げなるを、「あらぬものなめり」といへど、「かかるもあり」などいふに、

さかしらに柳の眉のひろごりて春のおもてを伏する宿かな

とこそ見ゆれ。

 その頃、また同じ物忌しに、さやうの所に出で来るに、二日といふ日の昼つ方、いとつれづれまさりて、ただ今もまゐりぬべき心地するほどにしも、仰せごとのあれば、いとうれしくて見る。浅緑の紙に、宰相の君いとをかしげに書い給へり。

いかにして過ぎにしかたを過ぐしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな

となむ、わたくしには、「今日しも千歳の心地するに。あかつきにはとく」とあり。この君ののたまひたらむだにをかしかべきに、まして仰せごとのさまはおろかならぬ心地すれば、

雲の上も暮らしかねける春の日を所がらともながめつるかな

わたくしには、「今宵のほども、少将にやなり侍らむとすらむ」とて、あかつきにまゐりたれば、「昨日の返し、『かねける』いとにくし。いみじうそしりき」と仰せらる、いとわびし。まことにさることなり。

 

 

陰陽師のもとなる小童べこそ

 陰陽師のところにいる小さな子どもはめちゃくちゃ物知りなのよね。お祓いなんかをしに出かけたら、陰陽師が祭文(さいもん)とか読むのを、人はただ適当に聞いてるだけなんだけど、さっと走ってって、「酒、水をかけなさい」とも言ってないのにやってのける様子が、ルールが解ってて少しも主人に余計な言葉を言わせないの、うらやましいもんだわ! そんな子がいたらいいなぁ、使いたいな、とさえ思うの。


----------訳者の戯言---------

祭文(さいもん)というのは、神を祀るときに読む文だそうです。本来は祭の時に神様に対して祈願や祝詞(のりと)として用いられる願文だったそうで、後には芸能化したようですが、平安時代の祭文には陰陽道の色彩の濃いものも多いらしく、祭文読みは陰陽師がやることも多かったようですね。


「ちうと」という副詞がハテナ??だったので、考察してみました。調べてもみました。以下その経緯です。

まず「ちと」の音便変化か何かではないかと考えました。無理がありますが。
「ちと(些と)」とは「少し(少々)」「わずかに」「かすかに」「しばらく」を意味する副詞です。リアルではあまり使いませんが、今でも特にネットスラングというか、意図的に古っぽい言い方として使うケースがありますね。実は古く、鎌倉時代以降使われてきたようですが、平安中期には見当たりませんでした。

もしかすると写本をつくった時「ふと」を読み違えた、あるいは写し間違えたという可能性はないか?とも考えました。
「ふと」は「思いがけず」「不意に」を表す副詞ですが、「さっと」「すばやく」の意もあります。
したがって、誤記の可能性はありそうですが、三巻本の手書き原本を見ていないので何とも言えません。残念。
ちなみに能因本での表記は「ちそと」でした。「ちそと」という副詞はどの辞書にもありません。それどころか、「ちそと」という言葉が古今あたってもどこにも一つも見当たらないんですね。これこそ誤写でしょう。


結局振り出しに戻ってしまいました。
と、思っていたところ、「精選版 日本国語大辞典」に載っているという情報をLINEオプチャでいただきました。

ちゅう
[1] 〘副〙 (多く「と」を伴って用いる。古くは「ちう」と表記)
① 動作が滞らないで行なわれるさま、すばやいさまを表わす語。さっ。ぱっ。
※枕(10C終)三〇〇「祭文など読むを、人はなほこそ聞け、ちうと立ち走りて」
(以下略)

つまり、「ちゅうと(ちうと)」と使われるケースの多い副詞、ということです。ただ、今回調べた限りではこの枕草子の記述以外にはやはり一つも出てきませんでした。「多く『と』を伴って用いる」と書かれていますが、きわめて少ない用例、あるいは枕草子以外にはないのかもしれない語です。略称「日国大」と呼ばれ、日本で最大規模の国語辞典である「日本国語大辞典」ですが、この語を執筆した人に聞いてみたいくらいですね、他にどの作品、文献で使われてるのか。

私も「ちうと」「ちゅうと」「ちふと」もちろん「ちふ」「ちゅう」でも調べていましたが、たどり着けませんでした。非常にレアなケースだと思います。
私が先に書いた「ふと」→「ちうと」の転記ミス説もあながち否定できなくもないなぁなどと思いつつ、名だたる先達の国語学者たちが編纂した「日国大」を裏付けとして「さっと」と訳しました。というのが今回の論考です。そんな大そうなものではありませんか??


ということで。
本段の主旨は、利発で、事の次第、手順なんかを熟知していて、タイミングよく機敏に動いてくれるスタッフがいるといいわぁ。という、結構単純な話です。陰陽師のところで教育済みの子をスカウトするといいのかもしれません。中途採用でキャリアのある有能な人材採用。今ならデューダビズリーチですね。

 

追記です。
萩谷朴『枕草子解環』(1981-1983)という解説書にこのような記述があるようです。
--------------------------------------------------
「ちうと」 
 す早く、こまめに動き廻る動作を形容する擬態・擬声の言葉としては、チロの方が適切であるし、三巻本第二類イに「ちらと」「ちゝと」「ちくと」とあり、能因本・前田本に「ちそと」とあることからして、「ちろと」からの本文転化も考えられないことではないが、『梁塵秘抄』巻二雑八十六首の中に、
  御厩の隅なる飼ひ猿は  絆離れてさぞ遊ぶ  木に登り  常葉の山なる楢柴は  風の吹くにぞちうとろ揺るぎて  裏返る
とある。「ちうとろ」は、恐らく「ちうとそ」の本文転化であって、そのチウは、『枕草子』のこの本文個所における「ちう」と同じ擬態語であると思われるから、やはり「ちうと」という副詞句の存在を認めておく。クルクルと動くことにおいては、陰陽師に召し使われる少年も、風に吹かれて裏返る楢の葉も同じだからである。
--------------------------------------------------
とのことでした。

「本文転化」というのは、わかりやすく言うと、上にも書いている「転記ミス」です。写本を作る際、字形や字母の類似から、別字のように書いてしまうことがあります。これを転化、本文転化と言うそうです。
このように「ちうと(ちゅうと)」が「クルクルッとすばやく」の意であるだろうと唱えた学者はいたわけです。「さっと」「俊敏に」という意味にも解釈できますね。


【原文】

 陰陽師のもとなる小童べこそ、いみじう物は知りたれ。祓などしに出でたれば、祭文など読むを、人はなほこそ聞け、ちうと立ち走りて、「酒、水いかけさせよ」とも言はぬに、しありくさまの、例知り、いささか主にもの言はせぬこそうらやましけれ。さらむ者がな、使はむとこそおぼゆれ。

 

 

雪のいと高う降りたるを

 雪がすごく高く降り積もってるのに、いつもみたいにじゃなく格子を下ろしたまま炭櫃(すびつ)に火を熾して、お話をしながら集まっていたら、「少納言香炉峰の雪はどうなのかしら?」っておっしゃるもんだから、格子を上げさせて御簾を高く上げたら、定子さまがお笑いになる。
 女房たちも、「その文言(香炉峰の雪)はみんな知ってて、歌とかにだって詠ってるけど、思いもよらなかったわ。やっぱりこの中宮さまに仕えるなら、そうあるべきなのでしょうね!」って言うの。


----------訳者の戯言---------

炭櫃(すびつ)とは、床(ゆか)を切って作った四角の炉。囲炉裏のことをこう言ったようです。一説には部屋に据えつけた角火鉢のこととも。


香炉峰(こうろほう)の雪です。難しい漢字で「香爐峯の雪」と書いたり、「香爐峰の雪」と書く場合もあります。漢文は「爐」を使っている場合が多いかもしれません。
白居易(雅号は白楽天)の書いたこういう詩があるそうです。これが元ネタなんですね。

日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香爐峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故郷何獨在長安

書き下すと、

日高く睡り足りて、なお起くるに慵(ものう)し
小閣(しょうかく)に衾(しとね)を重ねて寒を怕(おそ)れず
遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き
香爐峰の雪は簾を撥(かか)げてみる
匡廬(きょうろ)はすなわちこれ名を逃るる地
司馬はなお老いを送る官たり
心泰(やす)く身寧(やす)きは是れ帰する処
故郷何ぞ独り長安に在るのみならんや

現代語に訳すとこうなります。

日は高く上ってて睡眠は十分とったんだけど、それでもまだ起きるのが億劫なんだ。
小さな庵で布団を重ねて寝てるから、寒さは気にならないけどね。
遺愛寺の鐘は枕を傾けて聴いて、香爐峰の雪は簾(すだれ)をはね上げて眺めるのさ。
匡廬(きょうろ=廬山)は、まさに名誉からのがれる土地。
司馬はやっぱり老後を送る官としてはぴったりだしね。
心も身も安らかになれる所が、すなわち人(私)が最終的に行き着く場所なんだよ。
帰る故郷がどうして長安だけだっていうの? そうとは限らないでしょ!


白居易楽天)は8~9世紀、唐王朝の時代、詩人であり、朝廷においては秀才の官人でもありました。ところが、ある暗殺事件について上申書を出したところ、越権行為として左遷されてしまいます。その赴任地が江西省九江市でした。九江の南西、廬山にある山で、形が香炉に似ているのが香炉峰です。
白居易香炉峰の麓に草庵を新築し、東の壁にその時の悠々自適な心境を書いた、それがこの詩なのだそうです。
「司馬」というのは官名なのですが、彼が生きた唐代には地方官の閑職でした。まさに中央から地方に飛ばされて就くような職です。官職にこだわって朝廷のある都・長安に帰らなくても…という心境ですね。


というわけで、この詩の「香爐峰の雪は簾をはね上げて眺める」という部分です。
共通認識を持っていさえすれば「香炉峰の雪は?」と言っただけで、「簾を上げる」という行動ができるわけです、と。タイムリーでウィットに富んだ対応ができたことで、中宮は喜ぶし、周りからは賞賛されるし、清少納言も鼻高々です。例によって小自慢ですね。

というわけで、この「香炉峰の雪」は「女性が機知に富んでいること」のたとえにも使われてきたらしいです。
私自身今回、徳冨蘆花の「不如帰(ほととぎす)」にこのような文があることを知りました。

「浪子は幼きよりいたって人なつこく、しかも怜悧(りこう)に、香炉峰の雪に簾を巻くほどならずとも、三つのころより姥に抱かれて見送る玄関にわれから帽をとって阿爺の頭に載すほどの気はききたり」

ただ、私は「『女性が』機知に富んでいる」という部分には拒否感があります。別に性別どっちでもいいやん、って話ですからね。現代のジェンダーレス社会、ダイバーシティとかインクルーシブとかの考え方に全く対応していません。もちろん清少納言は関係ないのですが、後世これを「たとえ」にした人が時代遅れなんですね。昔の人でしょうけど。


この段は、清少納言清少納言自身をきわめて清少納言らしく描いた段と言えるでしょう。だからなのかGoogleで検索してもめちゃくちゃ多くの記述が見られます。元ネタの白楽天のこの七言律詩との相乗効果もあるのかもしれません。
中宮定子も登場しますし、非常に枕草子らしい段です。


【原文】

 雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして、集まり候ふに、「少納言よ、香炉峰の雪、いかならむ」と、おほせらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ。

 人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそ寄らざりつれ。なほ、この宮の人には、さべきなめり」と言ふ。

 

 

節分違へなどして夜深く帰る

 節分違えなんかをして深夜に帰るのは、どうしようもなく寒くて耐えきれなくて、顎なんかが全部落ちてしまいそうなんだけど、かろうじてたどり着いて火桶を引き寄せたら、火が大きくて一切黒いところもなくて、見事に燃えてるのを細かい灰の中から掘り出したのはすごく面白いのよね。
 また話なんかしてて火が消えそうなのを気がつかないで座ってたら、他の人がやって来て炭を入れて火を熾すのはめちゃくちゃ憎ったらしいわ。でも炭を周りに置いて中の火を囲ってるのはいいの。全部外側に火をかき除けて炭を重ねて置いた上に火を置いたのはすごく不愉快よね。


----------訳者の戯言---------

「節分違へ」というものがあったそうです。当時は「節分」のことは「せちぶん」と言いました。

「方違へ」というものもありましたね。これまでにも何度か出てきたかと思います。「かたたがえ」と読みますが、目的地の方角の縁起が良くない時に、前の日に別方角へまず出向いて一泊してから目的地へ行く行き方なんですね。邪気払いということですが、めんどくさいことをやっていたものです。
物忌みとか祈祷とか厄除けとか、そういうものが朝廷をあげて大っぴらに行われてた時代ですから、公私ともにスピリチュアルというかオカルティックというか、結構そういう生活をしていたんだなと今さらながら思います。

「方違え」は陰陽道に基づいてやってたらしいですが、天一神(なかがみ)とか太白神(たいはくじん/ひとひめぐり/一日巡/ひとよめぐり)とか金神(こんじん)、王相(王神と相神)などの方角神(遊行神)という存在がありました。行く方角がその神様のいらっしゃる方角(方塞がり)に当たると災いを受けると信じられていたんですね。


そういうわけで参考のため、いくつかの方角神(遊行神)とそれに伴う「方塞がり」の主なものを記しておきます。少し細かいことを書きますから、以下は読み飛ばしていただいてもよろしいかと思います。

まず、天一神(なかがみ)です。
天一神は己酉(つちのととり)の日から6日間、丑寅(北東)の隅に滞在し、次に卯(東)に5日間、というように動きます。丑寅、辰巳(南東)、未申(南西)、戌亥(北西)の4隅に各6日間、卯、午(南)、酉(西)、子(北)の四方には各5日間滞在するとされました。そして、癸巳(みずのとみ)の日に天上に行き、天上に16日間滞在するので、この間はどの方角にも自由に行けることになっていたそうです。
つまり時計回りに6、5、6、5、6、5、6、5、16の60日で1サイクルだったわけですね。

太白神(たいはくじん/ひとひめぐり)は四方四隅の八方を八日で一巡します。天一神とは違って毎日居場所が変わるわけですね。せわしないなぁ。で、一巡した後二日間は天に上るとされています。

金神(こんじん)は、年ごとにいる方角が変わります。十干十二支の「十干」で決まるんですね。
念のため十干をざっと書きますと、甲(こう/きのえ)・乙(おつ/きのと)・丙(へい/ひのえ)・丁(てい/ひのと)・戊(ぼ/つちのえ)・己(き/つちのと)・庚(こう/かのえ)・辛(しん/かのと)・壬(じん/みずのえ)・癸(き/みずのと)です。
乙巳の変とか、壬申の乱とか、戊辰戦争とか、甲子園球場とかありますね。これらはそれぞれ年をあらわしています。

余談ですが、乙巳の変は「いっしのへん」と読みます。645年、仲良し二人組の中大兄皇子中臣鎌足が共謀して蘇我入鹿を暗殺しちゃいました。そう、かの有名な「大化の改新」のはじまりです。ところで二人が仲良くなったのは蹴鞠だったと言われています。サッカーのリフティングみたいなやつですね。プライベートで共通の趣味があるというのは強いです。釣りバカ日誌みたいなものですか。違いますか。
しかし。この事件を契機として、それまで強権的な政治を行っていた蘇我氏が衰退し、日本が独立した中央集権国家として歩みはじめたわけですから、日本史の中でも特に重要な見逃すことのできない歴史的事件ではあります。
中臣鎌足が帝の側近として力を持ち、藤原氏の始祖となったのも大きかったですね。枕草子の登場人物の7割ぐらいは藤原氏の人ではないか?と思うぐらいですから。
ちなみに甲子園は球場がオープンした年から命名されています。

金神は元々は祟り神なんだそうです。甲および己の年は午・未・申・酉、乙と庚の年は辰・巳、丙と辛の年は子・丑・寅・卯・午・未、丁と壬の年は寅・卯・戌・亥、戊と癸の年は子・丑・申・酉の方角に在しています。すなわち忌むべき方角ということになるわけです。
ただし、年中この方角が塞がったままではなく、金神が動く(遊行する)数日間は遊行先の方角以外はセーフとなります。また年に4回(4日)、間日と言ってオールフリーになる日もあったそうです。
金光教という宗教がありますが、その元になったのが金神なのだそうですね。これまた余談ですが、近年は金光大阪という高校が甲子園に出ています。新興宗教系の学校ではかつてのPL学園とか天理高校とかスポーツの強い学校が時々ありありますね。

王相というのは、王神と相神のことです。それぞれに季節ごとに所在の方角が変わります。
五行思想では四季と方位が対応しているんですね。春は東、夏は南、といった具合です。たとえば春には木気が活性化して王になります。このため東に王が存在します。夏には火気が活性化、秋には金気が活性化で西に王が来ることになります。
相というのは次に活性化しつつある状態で、もう少ししたら王になるものを言います。なので、位置的には王の隣の方にいることになります。
季節ごとに避ける方角が変わる。つまり王相の場合、その方位は王相の神の勢いが強すぎるため避けるべき、とされたわけです。

というわけで、昔は行ってはいけない方角がめちゃくちゃたくさんあったんですね。上に書いた以外にも方角神はありますし、これら全てを考慮していたら、まじで行けるところなんてある? どっこも行けないんじゃね?って感じのように思います。日にちもかなり限定されるでしょうしね。だからそれをかいくぐるために「方違え」をしたのでしょうか。


さて、「方違へ」にずいぶん行数を取ってしまいましたが、ようやく「節分違へ」に戻ります。

節分というのは季節の移り変わる時、つまり立春立夏立秋立冬の前日のことです。特に立春の前日(2月3日であることが多い)を指して言うことが多いんですが、本来は1年に4回あるわけですね。この節分の夜に方違えをする習慣があったようで、この段は立春の前日の節分のことのようです。
節分を旧暦の大晦日である、と言う人もいますが、それは違います。
このブログをお読みいただいている方はおわかりだと思いますが、立春二十四節気の一つで太陽の動きに基づくものです。旧暦は月の満ち欠けに依るものですので、重なることや日の近いことはありますが全く別の暦に遵っています。

そこで「節分違へ」です。
平安時代には節分の日に恵方の方角にある家で宿泊するという風習がありました。むしろ「方塞がり」の逆バージョンと言ってよいでしょう。悪い方に行かないためのものではなく、良い方に行くというポジティブワークですね。

節分には豆まきをやりますが、これは平安時代のこの習慣も少し反映されています。
時代が下って室町時代ぐらいになると、この「節分違へ」の行事が簡略化され、恵方の家に行くのではなく家の中の恵方に当たる部屋に移動するという形になりました。節分の度に別の家に行くのは大変ですしね。知り合いとかがどこにでもいるとは限りませんし、ホテルとかもないですから。
で、その部屋の変更に際して、移る部屋に入る前に豆を撒いて厄払いをする、というのがあるにはあったようです。

「節分違へ」とは別に、追儺(ついな)や鬼遣(おにやらい)という宮中行事もありました。これらは当初、年越しの儀式として大晦日に実施されましたが、豆を撒くというものではなく、お祓いをする感じだったようですね。ただ、これらは時季的に近かったため混同され、次第にミックスされていったようです。

日本では昔から穀物や果実には「邪気を払う霊力」があると考えられていて、豆を撒くことで豆の霊力により邪気を払うということが行われました。また、京都・鞍馬に鬼が出た時、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目(魔目=まめ)に投げつけたところ鬼を退散させることができた(魔を滅する=魔滅=まめ)などの例もあり、邪気を払い、一年の無病息災を願う行為に繫がったという説もあります。
一見ダジャレのように思いますが、日本は言霊というものが信じられている国ですから、それもまたありなんということなのでしょう。


このように日本人は節分という行事がことのほか好きなようですね。厄を落としたいという気持ちがきっと古今老若男女誰にでも共通してあるのでしょう。廃れるどころかさまざまな習慣が生まれ、定着しています。これだけ古い行事であるのに、廃れることなく形を変えて生き続けているのは珍しいように思います。

恵方巻」などというのもかなり新参の習慣であって、全国的にやるようになったのは1980年代以降のものなんですね。盛んになったのはわずかここ20~30年くらいのものです。そもそも大阪で一部のお寿司屋さんやスーパーで「丸かぶり寿司」と言ってマイナーにやってたものにセブンイレブンが目をつけて「恵方巻」として全国展開した、コンビニのマーケティングブランディングに則ったもの。それがメジャーになったのですから、私などはイワシやヒイラギなんかのほうがまだ伝統行事っぽいと思うのです。

大阪ではセブンイレブンの全国展開よりも少し前、おそらく1970年前後だと思いますが、明治~大正頃から大阪の花街で行われてたらしいという俗習を元に、心斎橋か道頓堀だかで海苔屋さんの組合とお寿司屋さんの組合が合同で、丸かぶり寿司、つまり巻き寿司を節分に食べよう!という販売促進イベントをやりました。これがバレンタインデーにおけるチョコレートや土用丑の日における鰻と同様、セールスプロモーションの一環であったのは間違いありません。
個人的には1980年代の半ばに大阪のお寿司屋さんの店頭で「丸かぶり寿司ご予約承ります」のポスターを見かけ、「あ、そういう風習もあるのか」としか思いませんでしたから、その程度のものであったのは事実です。かなりローカルでマイナーなものだったと言えるでしょう。

そのプロモーションの元となったのは、大阪の花街、新町や堀江あたりの遊郭、お座敷かなにかで船場の旦那が芸妓さんか遊女さんに「この巻き寿司丸かぶりしてみ、ええことあるで、縁起ええんやで」とか言って食べさせ、チップをあげる、くらいの余興だったのではないかと推察されます。だとすると、棒状のものを丸被りさせるという、ビジュアル的にも卑猥で下品極まりないお遊びなわけです。(個人的には、卑猥なものや下品なものが必ずしも嫌いというわけではありません)
もちろん諸説ありますし、私の調べた中での推論ではあるのですが、出所からしてけっして上品とは言えない恵方巻なるものを「厄払い」などと言いながら、まるで古くからの由緒ある風習であるかのように全国の家庭で子どもたち共々ありがたがってやるのもなんだかなー、というのが私の気分なのです。いいのか?それで。
というかそもそも。巻き寿司を切らずに一方向を見ながら無言で食べて美味しいのか? 私なら食べやすいサイズに切ってリラックスして楽しく食べますよ。そのほうがずっと美味しいですから。
ま、言葉や文化というのは移ろい行くもの、というのも私の持論ではありますが。

節分について熱くなって語り過ぎました。悪い癖です。


「顎が落ちる」というと、食べたのがめちゃくちゃ美味しい!ってことを表す比喩表現です。慣用句ですね。「ほっぺたが落ちる」ともよく言います。
しかし当時は寒い時に顎が落ちそうになったそうです、清少納言が言うには。ほんまか? むしろ、寒い時は「耳がちぎれそう」だと思いますよ。昔の人の感じ方はよくわかりません。


当時から木炭はあったらしいです。よく火が熾って燃えてるのがいい、というのはわかります。不完全燃焼が無ければ一酸化炭素中毒もおこさないので安全ですしね。
しかしそれにしても清少納言、炭の置き方、火の熾し方に細かいです。どーでもええがな。と思いました。


今回はついつい横道にそれまくって長くなってしまいました。申し訳ありません。最後までお読みいただきありがとうございます。


【原文】

 節分(せちぶん)違(たが)へなどして夜深く帰る、寒きこといとわりなく、頤(おとがひ)などもみな落ちぬべきを、からうじて来着きて、火桶引き寄せたるに、火の大きにて、つゆ黒みたる所もなくめでたきを、こまかなる灰の中よりおこし出でたるこそ、いみじうをかしけれ。

 また、ものなど言ひて、火の消ゆらむも知らずゐたるに、こと人の来て、炭入れておこすこそいとにくけれ。されど、めぐりに置きて、中に火をあらせたるはよし。みなほかざまに火をかきやりて、炭を重ね置きたるいただきに火を置きたる、いとむつかし。

 

 

坤元録の御屏風こそ

 坤元録(こんげんろく)の御屏風はいかしてるって思うわ。漢書の屏風は雄々しい感じだって評判なのよ。月次(つきなみ)の御屏風もいい感じなの。 


----------訳者の戯言---------

「坤元録(こんげんろく)」というのは、中国・唐代に編纂された地誌(地理書)ですが、日本にも伝えられこれに基づいた漢詩、つまり屏風詩が詠作され、それが書かれた屏風があったということなんですね。その詩歌が良かったのか、書が良かったというのでしょう。

「坤元」というのは「大地の徳」のことらしいです。
そもそもこの言葉は中国の「易経」という古代中国の書物に書いてあるものでした。「易経」というのは占いの理論と方法を説いてるとか、自然と人生の変化の道理を説いたものだとか、簡単に言うと哲学とか宇宙観、倫理観なんかが盛り込まれた書物なんだそうですね。思想書でもあり、指南書でもあるというか。そういう結構有名なものです。

至哉坤元 萬物資生 乃順承天
至れるかな坤元、萬物資(と)りて生ず、乃(すなわ)ち順(したが)ひて天を承(う)く。
(大地の徳はなんて素晴らしいもの! 天の徳を承って結びついて、全てのものはそれを源として生まれてくるのです。)
というようなことが「易経」に書かれていました。

余談ですが、この真ん中あたりの「萬物資生」の「資生」があの化粧品メーカーの資生堂の社名の元になったんだそうですね。資生堂ってもともとは薬局だったんですよね。まさにこのフレーズを社是?として創業したそうなのです。店は今も本社のある銀座だったそうですね。関係ありませんが。


漢書」というのは中国・前漢の歴史書だそうです。「漢書の屏風」はこれより題材を得て描かれた絵の屏風だと考えられているそうです。


月次(つきなみ)の御屏風というのは、「月次絵(つきなみえ)」の描かれた屏風です。
「月次絵」というのは、1年12か月の年中行事や風俗を自然の景趣を背景にそれぞれ順に描いた絵。中国風の唐絵(からえ)に対してこちらは日本独自のもの(大和絵)の主要なジャンルの一つとされていて、障子絵や屏風絵によくされたそうです。


というわけで、この段はいかしてる屏風のことを言ってます。屏風にもいろいろあったのでしょうね。屏風というのは、「風を屏(ふせ)ぐ」という言葉に由来するらしいです。「屏」という字には、しりぞける、おおう、というような意味もあるようで。歴史は古いようですが、平安時代の屏風はあまり確認されていないらしいです。ですから、ここに書かれたものもビジュアルとしてどんなものかはよくわかりませんでした。できれば見て、それほどでもねーな、ぐらいのことは言ってみたかったです。残念。


【原文】

 坤元録(こんげんろく)の御屏風こそをかしうおぼゆれ。漢書の屏風は雄々しくぞ聞こえたる。月次(つきなみ)の御屏風もをかし。

 

 

神のいたう鳴るをりに

 雷がものすごく鳴る時、雷鳴の陣はめちゃくちゃ物々しくて恐ろしい雰囲気なのよ。左右近衛府の大将、中将や少将なんかが清涼殿の御格子の下に参じていらっしゃるの、すごく気の毒だわ。で、雷が鳴り終わったら、大将がお命じになって「下りろ」っておっしゃるの。


----------訳者の戯言---------

「神」が「鳴る」から(鳴らすから?)カミナリなんですね。神鳴り。
雷神(雷様)は、現代では空想上のものとされていますが、昔は本当に神が鳴らすと信じられていました。雷は神の怒りだとか本気で思っていたようです。
せめておそろしきもの」(もんのすごく恐ろしいもの!!)という段でも書いてます。清少納言的には夜に鳴る雷が怖いよ~ということでした。


雷(いかずち)という言い方もありますね。
いかずちの「いか」は「たけだけしい」「荒々しい」「立派」などを意味する形容詞「厳し(いかし)」の語幹で、「ず(づ)」は助詞の「つ」からの変化です。「ち」は「みずち(水霊)」や「おろち(大蛇)」の「ち」など、霊的な力を持つもの、あるいは鬼や蛇、恐ろしい神などを表す言葉であったようですね。つまり「厳(いか)つ霊(ち)」です。
自然現象の中でも特に恐ろしく、神と関わりが深い、畏怖の対象と考えられていたことから、「いかづち」と言ったわけですね。
古代はこの「いかづち」もしくは「なるかみ(鳴る神)」という語が主流でした。

そして、「雷鳴(かみなり/かんなり/らいめい)の陣」です。
大きな雷が3回鳴ると、かの時代は近衛の大将とか中・少将が弓矢を持って清涼殿に陣を作ったらしい。そして、その他の殿舎にも他の役所の役人が陣を整えたりしました。
この「雷鳴の陣」というものが立てられるようになったのは、醍醐天皇(在位897~930年)の時のことらしいです。紫宸殿に落雷があったらしく、相当怖かったのでしょう。
ちなみに「ことばなめげなるもの」という段でも「雷鳴の陣」が出てきましたね。

さて。先にも書いたとおり、古代は「いかづち」という語が主に使われていましたが、「かみなり」のほうは中世以降に広く使われるようになった言葉だと言われています。この平安時代の頃は過渡期だったのかもしれません。


「いとほし」というのは、一般には現代語で言う「かわいい」とされている語ですが、元々は「気の毒」「かわいそう」という意味合いがあるようで、この時代は「気の毒な」と訳すケースも多いです。
そもそも弱い者、弱ってる者を見て辛い感情とか、困った、という気持ちです。現代の「愛おしい」というのは、この同情?が愛情に変わった感じだと思います。


というわけで。
今でこそ雷鳴ったくらいで陣を立てて帝を警護、ってどんだけ雷怖がってるねん、とは思いますが、当時はみんな雷にビビりまくってたようですね。清少納言もそうですが、帝も怖いんですね。誰も科学的根拠を知らないですから。
そして駆り出される近衛府の幹部たちが気の毒。って話です。一般の夜警スタッフだけでなく、やはりトップからして参上せねばなりませんから、今なら国家公安委員長警察庁長官とか警視総監とかが来ないといけない感じでしょうか。


そういえば上賀茂神社の正式名称が「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」だということを以前書きました。ご祭神は「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」とか「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」と言います。
賀茂別雷命」は今から2600年以上前、日本ではまさに神代の昔でしたが、神社の背後にある神山(こうやま)にはじめて降臨されたそうですね。
「雷」というワードが入ってるので雷神と思われそうですが実は違います。むしろ雷を別ける、つまり「雷除け」で信仰を集めたのがこの神様でした。先にも書きましたが、昔の人々にとって天災の代表的なものの一つだった落雷を除ける存在です。雷をもコントロールする強大な力を持つ、とされてたわけなんですね。
上賀茂神社は近年では雷から転じて「電気を司る神様」として、電力や鉄道、機械、電機、電子、果てはIT関連など幅広い企業からの参拝もあるのだそうです。

余談でした。


【原文】

 神のいたう鳴るをりに、雷鳴(かみなり)の陣こそいみじうおそろしけれ。左右(さう)の大将、中・少将などの御格子のもとに候ひ給ふ、いといとほし。鳴りはてぬるをり、大将仰せて、「おり」とのたまふ。

きらきらしきもの

 光り輝く威厳のあるもの。近衛府の大将が帝の先払いをしてるの。孔雀経の読経。御修法(みずほう)。五大尊の御修法もね。御斎会(ごさいえ)。蔵人の式部の丞が白馬節会の日、大庭(おおば)を練り歩くの。その日には靭負(ゆげい)の佐(すけ)が、禁制の摺衣(すりぎぬ)を破らせるのよ。尊星王の御修法。季の御読経。熾盛光の御読経。


----------訳者の戯言---------

「きらきらし」は「煌煌し」と書きます。「光り輝いている、威容がある」という形容詞ですが、擬態語、オノマトペの「キラキラ」となんとなく合致しています。「きらきらし」というのは威厳がある、威光がある、威儀正しいという感じです。枕草子でもこれまでに、特に読経の様子とかに「きらきらし」という形容詞が使われていましたね。
日本語にはこういう語が意外とあって、「スベスベ」は滑滑。これが「滑滑し」となると「ぬらぬらし、ぬめぬめし」と読む場合もあります。オールスター感謝祭のローション相撲みたいな感じでしょうか? 平安時代にローションは無かったと思いますが。
このほか「ツヤツヤ」は艶艶、「フサフサ」は総総、「ヒラヒラ」は片片、という具合です。
日本語ならではという気がしますね。音とか質感を文字にしたのか、言葉が先にあってそれが擬音・擬態語化したのか、どちらなのかは定かではないですが。


まず、近衛大将の前駆(せんく/ぜんく/せんぐ等)が、威容があってよろしいということなんですね。想像ですが帝の前で馬に乗って、かっこよかったのだと思います。晴れ舞台ですね。


孔雀経というのは、正式には仏母大孔雀明王経というお経です。孔雀明王という仏法の守護尊の神呪、修法などを説いたもので密教とともに伝来しました。
ちょっとびっくりするんですが、孔雀(クジャク)という鳥は毒蛇を食べるらしいんですね。インドでは、キングコブラとか、そういった毒蛇に多くの人々が被害を受けたため、蛇の天敵であるクジャクが神聖視されるようになり、ヒンドゥー教で女性神(マハー・マユーリー)として神格化されたのだそうです。これが仏教に採り入れられて「孔雀明王」となり、蛇毒をはらうだけでなく、あらゆる病災を除き天変地異を鎮める、ってことでこれを本尊とする修法が行われたのだそうですね。
不動明王をはじめとして、明王というのは忿怒(ふんぬ)の面相をしていることが多いのですが、孔雀明王の面相は明王にはめずらしい慈悲相です。優しい顔をしています。


御修法(みずほう)というのは、特に、毎年正月八日からの七日間、天皇の健康や国家の安泰などを祈って、宮中の真言院(しんごんいん)で行われた修法の行事のことだそう。
修法というのは一般に密教で成仏や現世の利益などのため、壇を築いて法具や供物をととのえ、本尊や曼荼羅の前で経典や儀軌の説に則って作法を修することだそうです。真言や陀羅尼を唱え、心を仏の境地に集中するのだとか。俗に加持祈祷と呼ばれるものですね。修法にもいろいろあるようですが、ただ「御修法」とだけ言う場合は、この正月八日からの宮中のものを指すようです。


五大尊というのは、密教の五大尊明王五大明王のことです。不動明王を中心に降三世(ごうざんぜ)、軍荼利(ぐんだり)、大威徳、金剛夜叉の四明王。この五大明王を1明王ごとに中央と東南西北の別壇にまつり、五つの壇を連ねて修法を行いました。これが五大尊の御修法です。ちなみに先にも書きましたが、明王というのは忿怒の面相、怖い顔をしています。大日如来の命を受けて仏教の教えに従わない者たちをコワイ形相で教化するというわけですね。


御斎会(ごさいえ/みさいえ)。正月8日から7日間、大極殿(のちに清涼殿)に高僧を集め、金光明最勝王経を講義させるという、国家の安泰と五穀の豊作を祈願した法会が行われました。結願の日には帝の御前で経文の論議「内論議」が行われたそうです。先に出てきた「御修法」が密教のもので、こちらは顕教のものです。

では顕教とか密教とか言うけど何なの?どう違うの?という話です。ご存じの方も多いと思いますが、ざっくり言うと、
顕教衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え
密教=真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え
ということです。真言宗の開祖・空海がこのように教えました。空海の言ったことですから当然密教が優位という事なんですね。相対するものであることは間違いないですが、宮中では共存していたわけです。


式部省というのは朝廷の中でも重要な役所でした。文官の人事や宮中行事儀礼を司ったり、役人の養成機関である大学寮を統括したりということで、式部省の管理職にもスタッフにも深い見識が求められてたようすね。朝廷内でも力のある役所という位置づけであったようです。
蔵人というのは兼務をする人も多かったようで、式部の丞が六位蔵人を務めることもありました。六位蔵人で式部大丞または式部少丞を兼職した者は、特に昇殿を許されたために「殿上の丞(てんじょうのじょう)」とも言われたそうです。

白馬節会(あおうまのせちえ)というのは、正月七日に帝が白馬を見て一年の邪気を祓う儀式なんだそうですね。
青馬というのは白または葦毛の馬だそうです。もともはと青馬と書いていましたが、平安中期から白馬と書くようになったらしいです。読み方は「あおうま」のままです。

大庭というのは、宮中の紫宸殿の前面(南)の庭のことです。


靫負の佐(ゆげいのすけ)というのは、「衛門府(えもんふ)」の次官。衛門の佐(すけ)のことです。衛門府のことを訓読みで「ゆげひのつかさ」と言ったらしいですね。「ゆぎおひ(靫負ひ)」→「ゆげひ」のようです。靫というのは弓を入れる容器なのだそうです。なるほど。
通常、衛門府の官人は検非違使を兼任しました。ということで衛門府権佐が検非違使佐を兼任したのですね。
このケースは舎人とかの下級職員とかが禁制の着物であった摺衣(すりぎぬ)を着ていて、検非違使佐(衛門府権佐)がこれを咎めて、その摺衣を破らせたというシーンのようです。

以前も書いたことがあるのですが、当時は「禁色(きんじき)」という、朝廷で一定の地位や官位等の人以外には禁じられた服装がありました。今なら立派なパワハラですが、着て良い特定の色や生地の質なんかが決められてたらしいです。ここで出てきた「摺衣」はダメだったようですね。摺衣というのは文様を彫り込んだ木版の上に布を置いて、これに山藍の葉を摺り付けて作る生地で作ったもののようです。

ま、ノーネクタイのオフィスカジュアルとはいえ、ダメージデニムやタンクトップを着て会社行ったら課長に叱られる、みたいなものでしょうか。ちょっと違いますね。国の法律みたいなものですから。破り捨てないといけのも仕方ないのかもしれませんね。


尊星王(そんしょうおう)とは、北極星を神格化したものといわれ、国土を守護し、災厄を除き、福寿を増益するという菩薩なのだそうです。尊星王法などと称する修法をよく行って国の安穏を祈願したそうですね。


季御読経(きのみどきょう)。宮中で毎年春秋の二季、2月と8月に大勢の僧侶が大般若経を読経する儀式だそうです。


熾盛光(しじょうこう)の御読経は、天変兵乱等の災厄を除くために、「熾盛光大威徳消災吉祥陀羅尼」という陀羅尼を読んだそうです。熾盛光というのは熾盛光仏頂如来のことです。大日如来仏頂尊なんですね。仏頂というのは文字どおり仏の頭の頂のことで、肉髻(にっけい=頭頂部の椀状の盛り上がり)というのが仏様の頭にありますが、あれが神格化したものだそうです。不思議です。偉大な仏の智慧と光を発せられているそうです。


きらきらしきもの。キラキラっていうよりも、もう少し重いというか、威厳がある感じですね。仏教行事を多く挙げています。しかし清少納言の場合、信心というより、いかしてるかどうかが重要な判断基準です。


【原文】

 きらきらしきもの 大将(だいしやう)の御前駆(みさき)追ひたる。孔雀(くざ)経の御読経。御修法。五大尊(ごだいそん)のも。御斎会(ごさいゑ)。蔵人の式部の丞(ぞう)の白馬(あをむま)の日大庭練りたる。その日、靫負(ゆげひ)の佐(すけ)の摺衣(すりぎぬ)破(や)らする。尊星王の御修法。季の御読経。熾盛光(しじやうくわう)の御読経。