枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

節分違へなどして夜深く帰る

 節分違えなんかをして深夜に帰るのは、どうしようもなく寒くて耐えきれなくて、顎なんかが全部落ちてしまいそうなんだけど、かろうじてたどり着いて火桶を引き寄せたら、火が大きくて一切黒いところもなくて、見事に燃えてるのを細かい灰の中から掘り出したのはすごく面白いのよね。
 また話なんかしてて火が消えそうなのを気がつかないで座ってたら、他の人がやって来て炭を入れて火を熾すのはめちゃくちゃ憎ったらしいわ。でも炭を周りに置いて中の火を囲ってるのはいいの。全部外側に火をかき除けて炭を重ねて置いた上に火を置いたのはすごく不愉快よね。


----------訳者の戯言---------

「節分違へ」というものがあったそうです。当時は「節分」のことは「せちぶん」と言いました。

「方違へ」というものもありましたね。これまでにも何度か出てきたかと思います。「かたたがえ」と読みますが、目的地の方角の縁起が良くない時に、前の日に別方角へまず出向いて一泊してから目的地へ行く行き方なんですね。邪気払いということですが、めんどくさいことをやっていたものです。
物忌みとか祈祷とか厄除けとか、そういうものが朝廷をあげて大っぴらに行われてた時代ですから、公私ともにスピリチュアルというかオカルティックというか、結構そういう生活をしていたんだなと今さらながら思います。

「方違え」は陰陽道に基づいてやってたらしいですが、天一神(なかがみ)とか太白神(たいはくじん/ひとひめぐり/一日巡/ひとよめぐり)とか金神(こんじん)、王相(王神と相神)などの方角神(遊行神)という存在がありました。行く方角がその神様のいらっしゃる方角(方塞がり)に当たると災いを受けると信じられていたんですね。


そういうわけで参考のため、いくつかの方角神(遊行神)とそれに伴う「方塞がり」の主なものを記しておきます。少し細かいことを書きますから、以下は読み飛ばしていただいてもよろしいかと思います。

まず、天一神(なかがみ)です。
天一神は己酉(つちのととり)の日から6日間、丑寅(北東)の隅に滞在し、次に卯(東)に5日間、というように動きます。丑寅、辰巳(南東)、未申(南西)、戌亥(北西)の4隅に各6日間、卯、午(南)、酉(西)、子(北)の四方には各5日間滞在するとされました。そして、癸巳(みずのとみ)の日に天上に行き、天上に16日間滞在するので、この間はどの方角にも自由に行けることになっていたそうです。
つまり時計回りに6、5、6、5、6、5、6、5、16の60日で1サイクルだったわけですね。

太白神(たいはくじん/ひとひめぐり)は四方四隅の八方を八日で一巡します。天一神とは違って毎日居場所が変わるわけですね。せわしないなぁ。で、一巡した後二日間は天に上るとされています。

金神(こんじん)は、年ごとにいる方角が変わります。十干十二支の「十干」で決まるんですね。
念のため十干をざっと書きますと、甲(こう/きのえ)・乙(おつ/きのと)・丙(へい/ひのえ)・丁(てい/ひのと)・戊(ぼ/つちのえ)・己(き/つちのと)・庚(こう/かのえ)・辛(しん/かのと)・壬(じん/みずのえ)・癸(き/みずのと)です。
乙巳の変とか、壬申の乱とか、戊辰戦争とか、甲子園球場とかありますね。これらはそれぞれ年をあらわしています。

余談ですが、乙巳の変は「いっしのへん」と読みます。645年、仲良し二人組の中大兄皇子中臣鎌足が共謀して蘇我入鹿を暗殺しちゃいました。そう、かの有名な「大化の改新」のはじまりです。ところで二人が仲良くなったのは蹴鞠だったと言われています。サッカーのリフティングみたいなやつですね。プライベートで共通の趣味があるというのは強いです。釣りバカ日誌みたいなものですか。違いますか。
しかし。この事件を契機として、それまで強権的な政治を行っていた蘇我氏が衰退し、日本が独立した中央集権国家として歩みはじめたわけですから、日本史の中でも特に重要な見逃すことのできない歴史的事件ではあります。
中臣鎌足が帝の側近として力を持ち、藤原氏の始祖となったのも大きかったですね。枕草子の登場人物の7割ぐらいは藤原氏の人ではないか?と思うぐらいですから。
ちなみに甲子園は球場がオープンした年から命名されています。

金神は元々は祟り神なんだそうです。甲および己の年は午・未・申・酉、乙と庚の年は辰・巳、丙と辛の年は子・丑・寅・卯・午・未、丁と壬の年は寅・卯・戌・亥、戊と癸の年は子・丑・申・酉の方角に在しています。すなわち忌むべき方角ということになるわけです。
ただし、年中この方角が塞がったままではなく、金神が動く(遊行する)数日間は遊行先の方角以外はセーフとなります。また年に4回(4日)、間日と言ってオールフリーになる日もあったそうです。
金光教という宗教がありますが、その元になったのが金神なのだそうですね。これまた余談ですが、近年は金光大阪という高校が甲子園に出ています。新興宗教系の学校ではかつてのPL学園とか天理高校とかスポーツの強い学校が時々ありありますね。

王相というのは、王神と相神のことです。それぞれに季節ごとに所在の方角が変わります。
五行思想では四季と方位が対応しているんですね。春は東、夏は南、といった具合です。たとえば春には木気が活性化して王になります。このため東に王が存在します。夏には火気が活性化、秋には金気が活性化で西に王が来ることになります。
相というのは次に活性化しつつある状態で、もう少ししたら王になるものを言います。なので、位置的には王の隣の方にいることになります。
季節ごとに避ける方角が変わる。つまり王相の場合、その方位は王相の神の勢いが強すぎるため避けるべき、とされたわけです。

というわけで、昔は行ってはいけない方角がめちゃくちゃたくさんあったんですね。上に書いた以外にも方角神はありますし、これら全てを考慮していたら、まじで行けるところなんてある? どっこも行けないんじゃね?って感じのように思います。日にちもかなり限定されるでしょうしね。だからそれをかいくぐるために「方違え」をしたのでしょうか。


さて、「方違へ」にずいぶん行数を取ってしまいましたが、ようやく「節分違へ」に戻ります。

節分というのは季節の移り変わる時、つまり立春立夏立秋立冬の前日のことです。特に立春の前日(2月3日であることが多い)を指して言うことが多いんですが、本来は1年に4回あるわけですね。この節分の夜に方違えをする習慣があったようで、この段は立春の前日の節分のことのようです。
節分を旧暦の大晦日である、と言う人もいますが、それは違います。
このブログをお読みいただいている方はおわかりだと思いますが、立春二十四節気の一つで太陽の動きに基づくものです。旧暦は月の満ち欠けに依るものですので、重なることや日の近いことはありますが全く別の暦に遵っています。

そこで「節分違へ」です。
平安時代には節分の日に恵方の方角にある家で宿泊するという風習がありました。むしろ「方塞がり」の逆バージョンと言ってよいでしょう。悪い方に行かないためのものではなく、良い方に行くというポジティブワークですね。

節分には豆まきをやりますが、これは平安時代のこの習慣も少し反映されています。
時代が下って室町時代ぐらいになると、この「節分違へ」の行事が簡略化され、恵方の家に行くのではなく家の中の恵方に当たる部屋に移動するという形になりました。節分の度に別の家に行くのは大変ですしね。知り合いとかがどこにでもいるとは限りませんし、ホテルとかもないですから。
で、その部屋の変更に際して、移る部屋に入る前に豆を撒いて厄払いをする、というのがあるにはあったようです。

「節分違へ」とは別に、追儺(ついな)や鬼遣(おにやらい)という宮中行事もありました。これらは当初、年越しの儀式として大晦日に実施されましたが、豆を撒くというものではなく、お祓いをする感じだったようですね。ただ、これらは時季的に近かったため混同され、次第にミックスされていったようです。

日本では昔から穀物や果実には「邪気を払う霊力」があると考えられていて、豆を撒くことで豆の霊力により邪気を払うということが行われました。また、京都・鞍馬に鬼が出た時、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目(魔目=まめ)に投げつけたところ鬼を退散させることができた(魔を滅する=魔滅=まめ)などの例もあり、邪気を払い、一年の無病息災を願う行為に繫がったという説もあります。
一見ダジャレのように思いますが、日本は言霊というものが信じられている国ですから、それもまたありなんということなのでしょう。


このように日本人は節分という行事がことのほか好きなようですね。厄を落としたいという気持ちがきっと古今老若男女誰にでも共通してあるのでしょう。廃れるどころかさまざまな習慣が生まれ、定着しています。これだけ古い行事であるのに、廃れることなく形を変えて生き続けているのは珍しいように思います。

恵方巻」などというのもかなり新参の習慣であって、全国的にやるようになったのは1980年代以降のものなんですね。盛んになったのはわずかここ20~30年くらいのものです。そもそも大阪で一部のお寿司屋さんやスーパーで「丸かぶり寿司」と言ってマイナーにやってたものにセブンイレブンが目をつけて「恵方巻」として全国展開した、コンビニのマーケティングブランディングに則ったもの。それがメジャーになったのですから、私などはイワシやヒイラギなんかのほうがまだ伝統行事っぽいと思うのです。

大阪ではセブンイレブンの全国展開よりも少し前、おそらく1970年前後だと思いますが、明治~大正頃から大阪の花街で行われてたらしいという俗習を元に、心斎橋か道頓堀だかで海苔屋さんの組合とお寿司屋さんの組合が合同で、丸かぶり寿司、つまり巻き寿司を節分に食べよう!という販売促進イベントをやりました。これがバレンタインデーにおけるチョコレートや土用丑の日における鰻と同様、セールスプロモーションの一環であったのは間違いありません。
個人的には1980年代の半ばに大阪のお寿司屋さんの店頭で「丸かぶり寿司ご予約承ります」のポスターを見かけ、「あ、そういう風習もあるのか」としか思いませんでしたから、その程度のものであったのは事実です。かなりローカルでマイナーなものだったと言えるでしょう。

そのプロモーションの元となったのは、大阪の花街、新町や堀江あたりの遊郭、お座敷かなにかで船場の旦那が芸妓さんか遊女さんに「この巻き寿司丸かぶりしてみ、ええことあるで、縁起ええんやで」とか言って食べさせ、チップをあげる、くらいの余興だったのではないかと推察されます。だとすると、棒状のものを丸被りさせるという、ビジュアル的にも卑猥で下品極まりないお遊びなわけです。(個人的には、卑猥なものや下品なものが必ずしも嫌いというわけではありません)
もちろん諸説ありますし、私の調べた中での推論ではあるのですが、出所からしてけっして上品とは言えない恵方巻なるものを「厄払い」などと言いながら、まるで古くからの由緒ある風習であるかのように全国の家庭で子どもたち共々ありがたがってやるのもなんだかなー、というのが私の気分なのです。いいのか?それで。
というかそもそも。巻き寿司を切らずに一方向を見ながら無言で食べて美味しいのか? 私なら食べやすいサイズに切ってリラックスして楽しく食べますよ。そのほうがずっと美味しいですから。
ま、言葉や文化というのは移ろい行くもの、というのも私の持論ではありますが。

節分について熱くなって語り過ぎました。悪い癖です。


「顎が落ちる」というと、食べたのがめちゃくちゃ美味しい!ってことを表す比喩表現です。慣用句ですね。「ほっぺたが落ちる」ともよく言います。
しかし当時は寒い時に顎が落ちそうになったそうです、清少納言が言うには。ほんまか? むしろ、寒い時は「耳がちぎれそう」だと思いますよ。昔の人の感じ方はよくわかりません。


当時から木炭はあったらしいです。よく火が熾って燃えてるのがいい、というのはわかります。不完全燃焼が無ければ一酸化炭素中毒もおこさないので安全ですしね。
しかしそれにしても清少納言、炭の置き方、火の熾し方に細かいです。どーでもええがな。と思いました。


今回はついつい横道にそれまくって長くなってしまいました。申し訳ありません。最後までお読みいただきありがとうございます。


【原文】

 節分(せちぶん)違(たが)へなどして夜深く帰る、寒きこといとわりなく、頤(おとがひ)などもみな落ちぬべきを、からうじて来着きて、火桶引き寄せたるに、火の大きにて、つゆ黒みたる所もなくめでたきを、こまかなる灰の中よりおこし出でたるこそ、いみじうをかしけれ。

 また、ものなど言ひて、火の消ゆらむも知らずゐたるに、こと人の来て、炭入れておこすこそいとにくけれ。されど、めぐりに置きて、中に火をあらせたるはよし。みなほかざまに火をかきやりて、炭を重ね置きたるいただきに火を置きたる、いとむつかし。