枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる

清少納言の枕草子を読んでいます。自分なりに現代語訳したり、解説したり、感想を書いています。専門家ではないので間違っていたらすみません。ご指摘・ご教授いただけると幸いです。私自身が読む、という前提ですので、初心者向けであって、何よりもわかりやすい、ということを意識しているのですがいかがでしょうか。最初から読みたい!という奇特な方は「(PC版)リンク」から移動してください。また、検索窓に各段の冒頭部分や文中のワードを入れて検索していただくと、任意の段をご覧いただけると思います(たぶん)。

きよしと見ゆるもの

 きれいに見えるもの。土器。新しい金属製のお椀。畳にする薦(こも)。水を容器に入れるときに透けて見える光の影。


----------訳者の戯言---------

土器ですか。土器がキレイでしょうか、ちょっとよくわかりません。マイセンやヘレンドじゃないんですから。と一瞬思うんですが、当時は素焼きのものは使い捨てだったようで、つまり、いつもキレイだということなんでしょうか。素焼きの質感もいい感じに思えたんでしょう。

鋺(かなまり)というのは、金属製の椀のことだそうです、そのまんまですが。
真鍮にしろ、銅にしろ、銀にしろ、たしかにちょっと使ってると、表面が酸化して酸化銅や硫化銀などの皮膜ができて艶もなくなるし、汚れてもきますから、新しいものに限定してという話です。たしかにピカピカの銀食器とか、きれいですよね。ヨーロッパの貴族に似合いそうですが、日本の貴族も負けてはいません。

薦(こも)は、真菰(真薦/まこも)を粗く編んだむしろだそうです。
平安時代は、この薦に縁をつけたものを「畳」と言ったらしいです。当時の部屋は板張りで、必要に応じてそれを敷いて用いたらしいですね。というわけで、これもこれから使う新しいものはきれいだったんでしょう。

水の流れを透かして見える光というのも、なかなか絵画的。物質ではなく、光彩であるというところがポイントです。

というわけで、この段は、キレイなもの、それも清潔感、新鮮さのある綺麗さを4つ挙げています。
前の段もそうでしたが、最後に異質なものを持ってきて締める、あるいはオチをつけるというのが、清少納言のテクニックなのでしょう。


【原文】

 清しと見ゆるもの 土器(かはらけ)。あたらしき鋺(かなまり)。畳にさす薦(こも)。水を物に入るるすき影。

 

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

 

 

恐ろしげなるもの

 恐ろしげなもの。橡(つるばみ)のかさの部分。焼けちゃってる野老(ところ)。水蕗(みずふぶき)。菱(ひし)。髪の多い男が髪を洗って乾かしてるところ。


----------訳者の戯言---------

橡(つるばみ)というのは、クヌギの古名だそうです。また、その実であるどんぐりの古名なのだそうです。たしかにクヌギの実のかさの部分、殻斗(かくと)というらしいですが、その部分はにょろにょろしたものがいっぱい出ててかなり気持ち悪いです。恐ろしげといえばそうかもしれません。

ところ(野老)というのは、ヤマノイモ科の蔓性の多年草だそうです。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老(やろう)とよび、正月の飾りに用い長寿を祝ったとか。ヤマイモによく似てて食用にもなったそうです。ひげ根の部分か芋の部分かわからないんですが、焼いたりもしたんでしょうか。

水ふふきは、水蕗(みずふぶき)のことのようです。水蕗というのは、別名オニバス。花はトゲトゲしていて、葉っぱは円形で、ボコボコというかシワシワというか、けど光沢があるんですね。オニバス=鬼蓮というぐらいですから、ま、見た目これも怖い感じはありますよね。実は芡実(けんじつ)といって、食べられる、というか漢方薬になってるようです。

菱(ひし)というのは、ヒシ科の水生の一年草。池や沼に生え、茎は細長く、泥水中を伸びる。とあります。秋にトゲトゲのある固い実がなり、果肉は白くて食用、薬膳もになるそうです。

で、髪の多い男ってww

というわけで。
今回は怖そうなもの。なんかニョロニョロとか、ヒゲヒゲとか、トゲトゲとか、ボコボコとかが出ている植物で、しかしどれも食べられるものばかりです。そして最後に書いてる例外は、髪の多い男。しかし、これもまた、モジャモジャ感いっぱいです。
清少納言としては、こういう形状のものというか、いっぱい生えてる感じのものが怖いようですね。え? 違います?
いや、ワタクシ的には、かなりいい推察だと思うんですが。


【原文】

 恐ろしげなるもの つるばみのかさ。焼けたるところ。水ふぶき。菱。髪おほかる男の洗ひてほすほど。

 

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子

 

 

 

碁を、やむごとなき人のうつとて

 碁を身分の高い人が打つ時って、衣の紐を解いて無造作な感じで碁石を取って置くんだけど、身分の低い人は座り方からしてかしこまってる感じで、碁盤よりは少し離れて及び腰で、袖の下をもう片方の手で押さえたりなんかして打っているのも、おもしろいわね。


----------訳者の戯言---------

身分の高い人と低い人の対比。
さすがクラシスト。というか、階級差別主義者というには無自覚すぎます。むしろ、おもしろがってますね。
現代なら炎上もんです。


【原文】

 碁を、やむごとなき人のうつとて、紐うち解き、ないがしろなるけしきに拾ひ置くに、劣りたる人の、ゐづまひもかしこまりたるけしきにて、碁盤よりは少し遠くて、およびて、袖の下は今片手してひかへなどして、うちゐたるもをかし。

 

枕草子 いとめでたし! (朝日小学生新聞の学習読みもの)

枕草子 いとめでたし! (朝日小学生新聞の学習読みもの)

 

 

 

検:碁をやむごとなき人のうつとて 碁をやんごとなき人のうつとて

きよげなる男の

 清潔感のあるきれいな男子が双六を一日中やって、それでも飽き足らず、低い燈台に火を灯して、すごく明るく燈心をかきあげて、敵がサイコロに祈りをかけてすぐには入れないもんだから、筒を盤の上に立てて待ってるんだけど、狩衣の襟が顔にかかるから片手で押し込んで、堅くはない烏帽子の先を後ろに振りのけながら、「賽にそんなにおまじないをかけても、ハズレの目が出るもんだろうかな??」って、待ち遠しそうに見守ってる様子は、誇らしげに見えるわね。


----------訳者の戯言---------

清げなる男。千葉雄大とか、吉沢亮とかですか。EXILE系ではないですね、絶対。

双六(すごろく)は、「つれづれなぐさむもの」にも書いた通り、「盤双六」というもののようですね。バックギャモンに近いゲームだそうです。

かっこいい男子の様子を観察して悦に入ってるんでしょうか。やっぱ男前は何やってもええわ~、って感じですね。そういう段だと思います。


【原文】

 清げなる男(をのこ)の、双六を日一日うちて、なほあかぬにや、短かき灯台に火をともしていと明かうかかげて、かたきの賽を責め請ひて、とみにも入れねば、筒(どう)を盤の上に立てて待つに、狩衣のくびの顔にかかれば、片手しておし入れて、こはからぬ烏帽子ふりやりつつ、「賽いみじく呪ふとも、うちはづしてむや」と、心もとなげにうちまもりたるこそ、ほこりかに見ゆれ。

 

現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)

現代語訳 枕草子 (岩波現代文庫)

 

 

正月十余日のほど

 正月の10日を過ぎた頃、空がすごく黒くって、雲も厚く見えながら、でも陽の光は鮮やかに差し込んでたんだけれど、身分の低い者の家の荒畑とかって言う、土がきれいに整えられてないところに、桃の木が若々しくって、細い枝がいっぱい出てるの、片方はすごく青くて、もう片方は濃い色でつやつやしてて蘇芳色になってるのが日の光に照らされて見えてるんだけど、とてもほっそりしてて、狩衣はひっかけて破れたりしてるけど髪はきちんとした子どもが登ってるから、着物をたくし上げてる男の子や、それに、ふくらはぎを出して短い靴を履いた男の子なんかが木の下に立って、「ボクに毬打(ぎちょう)を切って」なんて頼んでたら、さらに、髪の毛がきれいで、袙(あこめ)は綻んでて、袴もよれよれなんだけど、立派な袿(うちぎ)を着ている女の子たちが3、4人来て、「卯槌(うづち)にする木の良いのを、切って落として! ご主人様に差し上げるから」なんて言って、木を落としたら、奪い合いをして、上を仰ぎ見ては「私に多めにね」なんて言ってるのはおもしろいわね。
 黒袴をはいた男が走って来て、頼むんだけど、「もっと、って?」なんて言ったら、木の幹を揺さぶるもんだから、怖がって猿みたいに木にしがみついてわめいてるのもおもしろいわ。梅の実がなる頃にも、こんな風なこと、してるみたいよね。


----------訳者の戯言---------

蘇芳色というのは、これまでにも何回か出てきてるんですが、蘇芳という植物で染めた黒味を帯びた赤色です。
小枝に日光があたって赤っぽく光ってる感じでしょうか?

毬打(ぎちょう)と出てきますが、毬杖(ぎちょう)とも書くようです。読み方はぎちょう、ぎっちょうとも言ったようですね。詳しくは下記リンクをご覧いただくとよくわかります。
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki7

というわけで、毬杖っていうのは、正月とかによくやった遊びというか、スポーツというか、フィールドホッケーみたいな感じのゲームです。
実は、この段でも出てきましたように毬杖の道具、というかスティック的なものもたぶん毬杖と言ったんでしょう、スノーボードにおけるスノーボードみたいなもんですね。
で、これに使ったそのスティック的道具を、お正月が終わった頃に3本立てて15日か18日かに焼いたのを左義長(三毬杖/さぎちょう)と言ったらしいです。で、この左義長が、庶民に広まったのが、今もあるとんど焼き、とか、どんど焼きとも言われる行事なんだそうです。
このことは「徒然草」に書いてありまして、拙ブログの「第百八十段 左義長(さぎちょう)は」もご覧いただけると幸いです。

袙(あこめ)というのは、「男性が束帯装束に着用するもの」で、「宮中に仕える少女が成人用の袿(うちき)の代用として用いた」着物だそうです。この段で書かれていることから推察すると、女の子たちは袙を着てるけど、袿も着ているようです。そういう着方もあったんでしょうか。年齢とか身長とか、その時のトレンドとかによっても違うのかもしれません。

卯槌(うづち)というのは、コトバンクによると「平安時代、正月初の卯の日に中務省の糸所(いとどころ)から邪気払いとして朝廷に奉った槌。桃の木を長さ3寸(約9センチ)、幅1寸四方の直方体に切ったもので、縦に穴をあけ、5色の飾り糸を5尺(約1.5メートル)ばかり垂らし、室内にかけた」というものらしいです。形としては四角い棒、ですね。
邪気払いのためのアイテム。役割としてはドラクエの聖水みたいなもんですね。違いますね。

今回は、お正月過ぎの日常のワンシーンです。
出だしは、非常に絵画的。で、子どもたちの戯れる様子へと描写が変わります。
のどかな感じです。おもしろいか?と言われれば、それほどはおもしろくありません。


【原文】

 正月十余日のほど、空いと黒う、雲もあつく見えながら、さすがに日はけざやかにさし出でたるに、えせ者の家の荒畠といふものの、土うるはしうも直からぬ、桃の木のわかだちて、いと細枝がちにさし出でたる、片つ方はいと青く今片つ方は濃くつややかにて蘇芳の色なるが日陰に見えたるを、いと細やかなる童の狩衣はかけ破りなどして髪うるはしきが、上りたれば、ひきはこえたる男児、また、小脛にて半靴(はうくわ)はきたるなど、木のもとに立ちて、「我に鞠打(ぎちやう)切りて」などこふに、また、髪をかしげなる童の、袙どもほころびがちにて、袴萎えたれど、よき袿着たる三四人来て、「卯槌の木のよからむ、切りておろせ。御前にも召す」などいひて、おろしたれば、うばひしらがひ取りて、さし仰ぎて、「我におほく」など言ひたるこそをかしけれ。

 黒袴着たる男(をのこ)の走り来て乞ふに、「まして」などいへば、木のもとを引きゆるがすに、あやふがりて猿のやうにかいつきてをめくもをかし。梅などのなりたる折も、さやうにぞするかし。

 

本日もいとをかし!! 枕草子

本日もいとをかし!! 枕草子

 

 

殿などのおはしまさで後④ ~御返り参らせて~

 ご返事をを差し上げて、少し日にちが経ってから参上したんだけど、どうなのかな?っていつもよりは気後れしちゃって、御几帳に半分隠れて侍ってたんだけど、
「あそこにいるのは新人さんなの?」
なんてお笑いになって、
「憎ったらしい歌だけど、こういう時には、こうやって言うのももっともだなって思われてね。だいたい、あなたの顔を見ないと、少しの間だって心が慰められることがないのよ」
なんておっしゃって、前と変わってるご様子はなかったの。

 子どもに教えられたことなんかを申し上げたら、すごくお笑いになって、
「そんなことがあるのね! あまりにもよく知ってて侮ってる古歌なんかは、逆にそういうことあるのよ」
なんておっしゃって、そのついでに、
「なぞなぞ合わせをしたんだけど、味方じゃなくて、相手側の、なぞなぞ通の人が『(こちら)左側の組の1番には私が出題しましょう。そう思っててくださいね』なんて請け負って、そう言うからにはダメダメな問題を出したりはしないだろうナって、みんな頼もしく思ってよろこんで。みんなが各々になぞなぞ問題を作り出して、それを選定する時にも、『1番の問題の出題だけは、私に任せて残しておいて。私が言うんだから、絶対悔しい思いはしないからって!』って言うの。なるほどそうかも、って思ってるうちに、その日が近くなってきたのね。『やっぱりなぞなぞ問題の言葉をおっしゃって。思いがけずに同じのが被っちゃうこともあるかもだし』って言ったら、『そんなら、私は知りません! もう期待しないで』なんて、ご機嫌が悪くなっちゃって、不安なままで、その日になって、みんな敵味方各々男女が分かれて座って、審判なんかもたくさん並んで座ってて、いざ勝負するんだけど、例の左の1番の人、めちゃくちゃもったいぶった自信たっぷりの様子は、いったいどんなコトを言い出すんだろ?って思われたから、左組の人も、右組の人も、みんな落ち着かない感じで見守ってたんだけど、『なぞ、なぞ』って言い出すあたり、憎いくらいなのよね。で、『天に張り弓』って言ったの(なんと簡単!!) 右の人は、これは(勝てるしぃ)すごく面白い!と思ったんだけど、左の人は頭真っ白になっちゃって、みんな、憎らしく、かわいげもなく、あっち側に味方してわざと負けさせようとしたんだ!なんて、一瞬思ったんだけど、右サイドの人が『全然つまんない、ばかげてる!』って笑っちゃって、『やあ、全然わかんない』って口を引き下げて、『知らないことー』って、ふざけたしぐさをしたら、勝ち点を入れられてしまったの。『それ、全然おかしいでしょ、このなぞなぞ知らない人って誰かいる? いないでしょ! 点を取られるいわれないでしょうに!』って抗議したんだけど、『知らない、って言ったからには、どうして負けにならないことがあるでしょ? 当然負けでしょ!』って、次のも、その次のも、この人がみんな論破して勝たせたの。よく人が知っていることなのに、思い出せないっていう時は、こんなものよね。『どうして知らないなんて言ったんでしょ!?』って、後で恨まれたそうよ」
なんていう、お話しなさったら、お側に侍ってる女房たちはみんな、
「そう思ったでしょうね。残念な答えでしたよね。左サイドの人の気持ちからしたら、最初にこのなぞなぞ問題(天に張り弓!)を聞いた時には、どんなに憎ったらしかったでしょうけど??」
とかって、笑うの。これは、忘れてたからじゃなくって、ただみんなが知ってることだからこそ起きたハプニングなんだけどね。


----------訳者の戯言---------

原文に「なぞなぞ合しける」とありますが、当時「謎謎合はせ」という遊びがありました。左右の二組に分かれて、「謎」をかけ合い、それを解き合う遊びだそうですが、何なんでしょう。暇な貴族がやって遊びなんでしょうか。

原文にある「方人」(かたひと/かたうど)は、味方の人のことだそうです。

「りょうりょうじかりける」という表現が出てきます。終止形は「りょうりょうじ」ですが、「心配りがゆきとどいている。知性的である。」といった意味だそうです。

見証(けんそ/けんぞ/けんじょ)という語が原文にありますが、これは通常、碁、双六、蹴鞠などに立ち会って勝負をジャッジすることだそうです。または、その人、つまり審判員ですね。場合によっては単に見物人、を指すこともあるらしいです。

で。
「天に張り弓」ってなんやねん。という話です。
「張り弓」というのは「弦を張った弓。また、その形のもの。」とコトバンクに書いてありましたが。
つまり、「天に張った弓ってなーんだ?」というなぞなぞ問題。答えは(たぶん)「七日の月」です。ま、誰でもわかる問題です。

旧暦7日の月を「弓張月」と言うんですね。
新月と満月のちょうど真ん中の月です。ほぼ半月ですから、「弦を張った弓」の月なんですね。

このように、月にまつわる和語はいろいろあります。

新月は朔(ついたち)、14日めの月は宵待月、十五夜はもちろん満月、望月。
十六夜は、いざよい、と読むのですが、これは「いざよう」という動詞から来ています。元々は「猶予う」で「いざよう」と読んだそうですね。ためらう、という意味です。
ただし実際の天体の活動と暦は微妙にずれることがあります。朔、つまり月と太陽が地球から見て同一方向に並ぶ瞬間が含まれる日を1日とすることから、旧暦の15日が満月ではないこともあるらしいんですね。

さて十六夜の月は、十五夜の満月よりいくぶん遅く昇ります。これを昔の人は、月がためらってる、と感じたんでしょうね。

実は先日、ある人に月のことを語った時、いざよい、っていう言葉好き、というようなことを話しました。
というか、「『いざよい』っていう言葉が好き」なんて異性に言って、その意味合いなんかを語ったりしたら、言われた人は見直すだろうね、好意アップ間違いないよね、と。

そんなことに使ってはいけませんか? いいですよね。

この段は、当時の政治的背景にはじまり、清少納言中宮・定子の百合系かと見まがうようなやりとり、そして、清少納言のど忘れ、さらに定子様が語りまくるという展開。いろいろあって結構おもしろかったです。長かったので疲れましたが。


【原文】

 御返り参らせて、少しほど経て参りたる、いかがと例よりはつつましくて、御几帳にはた隠れて候ふを、「あれは新参(いままゐり)か」など笑はせ給ひて、「にくき歌なれど、この折は言ひつべかりけりとなむ思ふを。おほかた見つけでは、しばしもえこそ慰<さむ>まじけれ」などのたまはせて、かはりたる御けしきもなし。

 童に教へられしことなどを啓すれば、いみじう笑はせ給ひて、「さることぞある。あまりあなづる故事(ふるごと)などは、さもありぬべし」など仰せらるる、ついでに、「なぞなぞ合しける、方人にはあらで、さやうのことにりやうりやうじかりけるが、『左の一はおのれ言はむ。さ思ひ給へ』など頼むるに、さりともわろきことは言ひ出でじかしと、たのもしくうれしうて、みな人々作り出だし、選り定むるに、『その詞(ことば)をただまかせて残し給へ。さ申しては、よも口惜しくはあらじ』といふ。げにとおしはかるに、日いと近くなりぬ。『なほこのことのたまへ。非常に、同じこともこそあれ』といふを、『さば、いさ知らず。な頼まれそ』などむつかりければ、おぼつかなながら、その日になりて、みな、方の人、男・女居わかれて、見証(けんそ)の人など、いとおほく居並みてあはするに、左の一、いみじく用意してもてなしたるさま、いかなることを言ひ出でむと見えたれば、こなたの人、あなたの人、みな心もとなくうちまもりて、『なぞ、なぞ』といふほど、心にくし。『天に張り弓』といひたり。右方の人は、いと興ありてと思ふに、こなたの人はものもおぼえず、みなにくく愛敬なくて、あなたによりてことさらに負けさせむとしけるを、など、片時のほどに思ふに、右の人、『いと口惜しく、をこなり』とうち笑ひて、『やや、さらにえ知らず』とて、口を引き垂れて、『知らぬことよ』とて、さるがうしかくるに、籌(かず)ささせつ。『いとあやしきこと。これ知らぬ人は誰かあらむ。さらにかずささるまじ』と論ずれど、『知らずと言ひてむには、などてか負くるにならざらむ』とて、次々のも、この人なむみな論じ勝たせける。いみじく人の知りたることなれども、おぼえぬ時はしかこそはあれ。『何しにかは、知らずとは言ひし』と、後にうらみられけること」など、語り出でさせ給へば、御前なる限り、「さ思ひつべし。口惜しういらへけむ。こなたの人の心地、うち聞きはじめけむ、いかがにくかりけむ」なんど笑ふ。これは忘れたることは、ただみな知りたることとかや。

 

新版 枕草子 上巻 現代語訳付き (角川ソフィア文庫 (SP32))
 

 

 

殿などのおはしまさで後③ ~例ならず仰せ言などもなくて~

 いつもとは違ってお手紙もいただかずに何日も経ったから、心細くてぼうっとしてたら、長女(おさめ)が手紙を持ってきたの。「定子さまから、宰相の君を通して、こっそりと賜ったものです」って言って、ここに来てさえ、人目を避けようとしてるのってあんまりだわ。人を使って書かせた手紙じゃないんだろうなって、胸をドキドキさせながら急いで開けたら、紙には何も書いていらっしゃらず、山吹の花びら、たった一片だけお包みになっていらっしゃるの。それに、「言はで思ふぞ(言わずに、思ってる)」ってお書きになってるの、すごく感激で、この何日間かご無沙汰で悲しかった気持ちも、全部慰められてうれしい私を、長女も見守って、「定子さまにあっては、どんなにか、何かにつけて思い出していらっしゃるそうですのに。女房のみなさんも誰もが何でこんなに長い間里帰りしてるのか、って思ってますよ。どうして参上なさらないんです??」って言って、「この近所にほんのちょっと行ってから、また伺いましょうかね」と言って帰った後、その間にお返事を書いて差し上げようって思ったんだけど、この「言はで思ふぞ」の歌の上の句をまったく忘れてしまってたのよね。「めちゃくちゃ不思議だわ。同じ古歌って言いながら、こんな有名なのを知らない人っている?? ここまで出て来てる感じなんだけど、口から出てこないのは、どうしてなのかしら!?」なんて私が言うのを聞いて、小っちゃい女の子が前にいたんだけど、「『下行く水』って申しますよ!」って言ったの、どうしてこんなに忘れてたんでしょう。こんな小さな子に教えられるのも、おもしろいことだわね。


----------訳者の戯言---------

長女(おさめ)というのは、宮中で雑用などにあたった下級の女官。専領(おさめ)とも書くようです。

宰相の君は、この段の①で出てきた、同僚女房、宰相の君ですね。

清少納言が忘れてしまって、ここまで出てきてるんだけどどうしても思い出せなかったっていうのは、「古今和歌六帖」の第五帖に撰入されてる下の歌だったようです。

心には 下行く水の わきかへり 言はで思ふぞ 言ふにまされる
(心の中には地下水がわき返ってる 言わないで思ってるけれど 言うよりもっと深い気持ちなんです)

例によって、清少納言中宮定子の相思相愛エピソードになってきましたね。
④に続きます。


【原文】

 例ならず仰せ言などもなくて日頃になれば、心細くてうちながむるほどに、長女文を持て来たり。「御前より、宰相の君して、忍びてたまはせたりつる」といひて、ここにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれてとく開けたれば、紙にはものも書かせたまはず、山吹の花びらただ一重をつつませ給へり。それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日頃の絶え間嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女もうちまもりて、「御前には、いかが、もののをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」といひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」といひて往ぬる後、御返りごと書きて参らせむとするに、この歌の本さらに忘れたり。「いとあやし。同じ故事(ふるごと)と言ひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」などいふを聞きて、小さき童の前にゐたるが、「『下ゆく水』とこそ申せ」といひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるるもをかし。

 

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)